シルクロードの中国で 南北朝対峙の状況から 隋による統一へと 向かっている過程で、 西方でも 大きな動きが現れる。 東ローマは ササン朝を 介在させずに、 シルクロードの利権(特に中国商品) を 掌握するために、 内陸・海洋の バイパスルートの開拓を企図。 ◎内陸ルート→ 当時、 突厥は ササン朝との関係が悪化しており、 東ローマと同盟。 東ローマは、 突厥支配下にあった 遊牧国家ハザール経由での 交易が計画される。 ◎海洋ルート→ 576年の ササン朝のホスロー1世 による イエメン占領によって、 東ローマの インド洋進出は阻まれる。 西突厥は 588~589年の 第一次ペルシア・突厥戦争 で敗北し、 ササン朝の優位は揺るがず。 ⇒しかし、 アラビア半島西岸経由の バイパスルートは依然として 機能しており、 メッカなどの 商業都市が 交易活動によって台頭し、 イスラーム勃興の呼び水となる。 自分なりのまとめ: 東ローマ帝国は、 西突厥と手を組んで、 ササン朝を経由しない、 中国商品を手に入れるルートを開拓した結果、 アラビア半島のメッカなどの 諸都市が台頭し、 イスラームの勃興に繋がった。
宋の時代になると、 江南の開発が進み、 米作が盛んになるとともに、 菜種油が 使われるようになり、 烏龍茶や 肥満に関する 健康書や 日用書が 出回るように なったそうです。 宋の時代には 銅銭が流通し、 日本の 鎌倉幕府との 交流も進み、 交易船の重しとして 銅銭が使われたことから、 日本にも 宋銭(銅銭)が 流通し、 さらに 元(モンゴル帝国)によって 宋が滅ぼされると、 元は 紙幣を強制的に流通させた ために 大量の 銅銭が 鎌倉時代の 日本に 流入したと 言われています。 余談ですが、 米はもともと 温暖な地域が原産なので、 地球温暖化でも 病気の蔓延は別として 基本的に大丈夫です。 新潟、秋田や北海道といった 寒冷な地域で 栽培されている イメージが強いですが、 むしろ 品種改良した結果 冷涼な地域でも 栽培できるようになった、 と 言われています。 東北地方では しばしば 米の 凶作に見舞われましたが、 戦前の昭和で 米の大凶作が 起きて 農民が疲弊しなければ、 戦争は 避けられたのではないか、 という 説もあると 聞いたことがある気がします。
隋帝国、それに続く 唐帝国の時代に 北方で 栄えたのが、 突厥です。 (ちなみに、 突厥は 現在の トルコの 源流とされ、 突厥が 柔然から 独立した年が 現在でも トルコの 建国日とされている そうです。) 唐の時代の 「西遊記」で有名な 玄奘も 陸路で インドを目指しますが、 突厥の長 (可汗) から 歓待を享けています。 陸路で行けた、 ということは、 突厥の支配のおかげで 安全だった、ということです。 隋唐に続く 宋の時代、 北方で 栄えたのが、 契丹族です。 契丹は 英語で キャセイと言いますが、 香港の航空会社 キャセイ航空は これです。 ロシア語では いまでも 中国のことを キャセイと 呼んでいるらしいです。 それくらい 強大な力を誇りました。 英語の辞書で Cathay を 調べれば、 中国のことを指す ことが 確認できます。 さて、 契丹と、南では宋が 栄えた 10世紀、 周辺国家では 次々と あるものが発明 されます。 文字です。 契丹文字もそうですが、 日本でも ひらがな が 発明されています。
北魏は 漢民族の文化と 同化しようと、 名前を 漢民族風にしたりと、 いわゆる 漢化政策を 行います。 これは 特に 孝文帝の治世に 行われました。 また、 仏教を保護することで、 帝国の 正当性を強調したりしました。 雲崗・大同石窟が有名です。 また、 南の 隋、それに続く唐帝国も、 もはや 純粋な 漢民族帝国ではなく、 北方の騎馬民族の 血が入っています。
項羽と劉邦の 戦いの果に 漢帝国が 成立するわけですが、 現実には それで 終わりではなく、 その後 漢帝国は 北方の 匈奴との 戦乱を経験します。 で、 実のところ、 負けてます。 秦の始皇帝が 築いた 万里の長城で、 北方の騎馬民族は その南には 入ってこれないのかと 自分も 思ってましたが、 そんなことは ありません。 (ちなみに 現在の万里の長城は 主に 明の時代に 修繕されたものです。) 漢帝国は、 匈奴と和睦するために、 皇族を匈奴に 嫁がせていたりします。 それが 後々、 五胡十六国時代といって、 さまざまな 北方民族が 東部ユーラシアで さまざまな 国を建国したときに、 我々は 漢帝国の末裔だ、と 名乗って、 漢を名乗る 国が現れるらしいです。 そして、 その戦乱の中から 鮮卑族拓跋氏が 平原を統一し、 北魏が 建国されます。 こうして、 中国大陸の 北では 北魏、 南では (さまざまな 王朝が栄えた後) 隋帝国が 統一・成立するのが、 南北朝時代です。
魏呉蜀は 知らなくても、 さすがに 孔明は 聞いたこと ある方は 多いと思います。 ただ、 世界史を 勉強すると、 魏晋南北朝時代といって、 呉も蜀もシカト、 魏だけ。 孔明のコの字も出てこない、 しかも 孔明のライバル 司馬懿仲達の子孫が 建国した 晋が出てきて、 それもその後続く 南北朝の動乱と 一緒くたにされてしまうのが 悲しい現実です。 さて、 あの戦乱の時代は、 地球が寒冷化したために、 海水が蒸発せずに、 雨がふらない、 したがって 作物が実らない、 (南米チリ沖に 寒流が流れてて、 砂漠が広がっているのと 同じですね。) という 気候変動が 戦乱の原因という説 が あるそうです。 暑すぎてもダメ、 寒すぎてもダメ なんですね。 失礼しました。
1. 序論:『それから』に映し出される明治期の近代化 本稿は、夏目漱石の小説『それから』を題材に、日本の近代化がもたらした状況と、それが個人の経験に与えた影響について考察するものである。特に、経済的豊かさが生み出す「自家特有の世界」への耽溺と、それが最終的に経済の論理に絡め取られていく過程、そしてテオドール・W・アドルノが指摘する、社会の合理化と精神世界における非合理への慰めを求める人々の傾向を、作品を通して分析する。 日本の明治時代(1868-1912年)は、長きにわたる鎖国状態を経て、1853年の黒船来航を契機に世界と対峙し、驚くべき速度で西洋の制度や文化を取り入れ、「近代国家」への道を歩んだ画期的な時代である 。この時期には、鉄道、郵便局、小学校、電気、博物館、図書館、銀行、病院、ホテルといった現代の基盤となるインフラや制度が次々と整備された 。政府は「富国強兵」や「殖産興業」といった政策を推進し、工場、兵舎、鉄道駅舎などの建設を奨励した。また、廃藩置県や憲法制定といった統治制度の変更に伴い、官庁舎や裁判所、監獄などが建設され、教育制度の導入は学校や博物館の整備を促した 。 西洋化の影響は日常生活にも深く浸透した。住宅様式においては、外国人居留地を起点に西洋館が普及し、やがて庶民の住宅にも椅子式の生活スタイルが段階的に浸透した 。食文化においても、仏教の影響で長らく禁じられていた肉食が解禁され、西洋列強との競争意識から日本人の体格向上と体力増強が期待された 。洋食は都市部の富裕層を中心に広まり、カレーライスやオムライス、ハヤシライスといった日本独自の洋食が定着した 。大正ロマン期(1912-1926年)には、西洋文化と日本独自の文化が融合し、「モガ」や「モボ」と呼ばれる若者たちが洋装に身を包み、カフェで音楽や映画を楽しむ「自由でおしゃれな空気」が醸成された 。経済面では、明治後期から軽工業が発展し、日露戦争前後には鉄鋼や船舶などの重工業が急速に発展し、日本の近代化を加速させた 。第一次世界大戦期には工業生産が飛躍的に増大し、輸出が輸入を上回る好景気を享受した 。 『それから』(1909年発表)は、夏目漱石の「前期三部作」の二作目にあたり、急速な近代化が進む日本を背景に、個人の欲望と社会規範の...
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