断想続き

フーコー学者からすれば、例えば国勢調査などはまさに「生‐政治」の典型だろうけど、自分はこの類の「教科書的フーコー理解」は、結局国家の牧人的国民管理からの反逆、打倒政府、行政性悪説に辿り着くものでしかなく、また、フーコーの考える「生‐政治」の可能性を矮小化させてしまうものだと思う。フーコーの考えた「生‐政治」というのは、常に我々のすぐそばで起こっている現象だと考える。これは『キャラ』の牢獄に閉じ込められた我々に当てはまる。「生‐政治」というのは、「私」が「国家権力」によって常に監視されている、という妄想的発想ではなく、われわれ自身が、お互いを監視し、排除する当事者であるのではないか?というように考えるのです。そう考えれば、<キャラ>はすぐれて「生‐政治」の性質を帯びている。キャラという社会的仮面は、ある種の権力闘争の末に得られるものであり、あたかもゲームで得たポイントに応じて得られるものであり、本来的に素顔ではない。このように考えると、現代人が感じる「疎外」も、貨幣の暴力と本質を同じくすると言えるのでないか。

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