アドルノと漱石の非同一性考察 (試論) ―Googleの生成AIによる作成―
『明暗』における「則天去私」とアドルノの「非同一性」――同一化思考への抵抗と否定弁証法的美学の比較考察
序論:問題の所在と東洋的悟り神話の解体
夏目漱石の遺作『明暗』および最晩年の人生観・文学観を象徴する概念「則天去私」は、長らく小宮豊隆ら弟子筋による評伝的解釈を通じて、病患や精神的苦悶を超克した末に到達した「東洋的悟り」や、自己のエゴイズムを解体した倫理的・宗教的最高境地として理解されてきた1。しかし、この通俗的な悟り神話は、人間のドロドロとしたエゴイズムの相克と不透明な関係性を冷徹なまでに描き出した『明暗』というテキストそのものの劇的構造と決定的な不整合を抱えている1。江藤淳による批評的転換や近年の一次史料の照合が実証したように、「則天去私」の真義とは道徳的・宗教的解脱などではなく、作者の恣意や小主観(小技巧)を作品世界から排し、作中人物を自律的なロジックによって動かすための「創作技法(スタイル/レトリック)」として定義されるべきものである1。
「作者の主観的支配を排除し、対象固有の自律性と不透明性をそのまま開示する」という漱石の創作規律は、20世紀フランクフルト学派を代表する哲学者テオドール・W・アドルノ(Theodor W. Adorno)が主著『否定弁証法』や『美の理論』で展開した「非同一性(Das Nichtidentische)」および「同一化思考(Identitätsdenken)批判」の美学的・認識論的思考と極めて深い思想的伏流を共有している2。
アドルノによれば、近代の概念的理性は、異質な対象を自己の思考枠組みへと収斂させようとする「同一化思考」の暴力を本質としている3。これに対してアドルノが提示した「非同一性」とは、概念による把握を拒絶し、そこから常にこぼれ落ちる対象固有の特異性や差異、不透明性である2。
本論の目的は、漱石の「則天去私」を単なる文学技法にとどめず、アドルノの同一化思考批判および否定弁証法と架橋させることで、近代小説の到達点としての『明暗』を批判的認識論の観点から再構築することにある。作者の主観(小技巧)を去る「則天去私」の技法は、アドルノにおける「主観の概念的支配に対する抵抗」および「非同一的なものへの忠実さ」と構造的に等価であり、『明暗』における登場人物のエゴイズムの錯綜と未完の構造は、肯定的な和解を拒絶する「否定弁証法」の表現的具現化として位置づけられる1。
主観の消滅点としての「則天去私」と同一化思考批判の位相
近代日本における個の確立を模索した『私の個人主義』時代の「自己本位」と、晩年の「則天去私」は、対立する概念ではなく、ひとつの思想的探求の極限的な発展形態である1。英国留学中の経験を経て漱石が提示した「自己本位」とは、他者の評価や既成概念に没入せず、自己の内面的確信に基づいて世界を認識する立場であった1。しかし、この「自己本位」を小説制作において徹底的に突き詰めると、作中人物のひとりひとりが固有のロジックと不透明なエゴイズムを抱えて相克し合うという現実に突き当たる1。
この際、作者が自らの「自己本位」(個人的な道徳観や物語のハッピーエンドへの願望)を作中世界に強制するならば、登場人物の自律的ロジックは歪められ、虚偽の物語へと陥ってしまう1。したがって、人物たちの生々しい「自己本位」を精密に描き出すためには、作者は己の主観を殺し、作品から撤退しなければならない1。この「主観の消滅点」において到達される描写技法こそが「物我一如(oneness)」であり、「則天去私」の真義であった1。
この漱石の思想的到達点は、アドルノが展開した同一化思考批判と直結する。アドルノは、近代の主観性が自己保存のために対象を概念で捕捉し、異質なものを排除して同一のものとして把握しようとする作用を「同一化思考」と呼んだ3。同一化思考においては、対象の概念化不可能な部分(非同一的なもの)は切り捨てられ、支配可能な像へと改変される3。
小説制作における「作者の主観的介入(小技巧)」とは、まさに文芸における同一化思考の行使にほかならない。トルストイやドストエフスキーが自己の観念や心理的煩悶を作品内にそのまま投影した手法を漱石が「私がある」として退け、シェイクスピアやオーステンの客観的叙述を評価した背景には、作中世界に対する主観の同一化暴力を回避しようとする強い創作上の規律が存在していた1。
アドルノにおいて、同一化の呪縛からの解放は単なる思考の放棄ではなく、同一化の徹底とその限界自覚を通じて「非同一的なもの」を否定的に浮き彫りにすることによって可能とされる2。漱石の「則天去私」もまた、作家が世界や人間を客観的に観察し描写する試みを極限まで推し進めた結果、人物の不透明なエゴ(非同一的なもの)が作中に自律的に立ち現れるという、認識の弁証法的反転の構造を保持しているのである1。
『明暗』における同一化の力学と「非同一的なもの」としての他者
『明暗』は、「則天去私」という技法によって記述されたテキストであると同時に、作中人物たちが互いに相手を自己の望む枠組みへと還元しようと企てる「同一化思考」の相克を描き出した作品である1。
近代的小市民である津田由雄、その妻お延、吉川夫人らの関係性は、相手を自らの承認欲求や体面、自己像を維持するための道具として操作しようとするエゴイズムの戦場として構築されている1。
津田は自尊心と体面への執着からお延に対して優位に立とうと画策し、お延は「純粋に愛し合う夫婦」という自らの空想的自己像(同一性)を津田に強要し、初夜の記憶を聖化することで自己防衛を図る1。さらに吉川夫人は、上流階級的余裕に基づく他者支配の欲求から、津田夫婦の過去を解体して自らの演出する筋書きへと巻き込み、津田を湯河原温泉へと誘導する1。彼らはいずれも、自らの概念や欲望によって他者を「同一化」しようとする近代的主観の病理を体現している1。
人物相互の同一化作用の連鎖は、吉川夫人から津田へ、津田からお延へと波及し、最終的に誰の意図でもなかった湯河原温泉場での過去の女性・清子との対峙という局面へ至る1。この交錯する力学の推移こそが、漱石の言う「天(あるがままの事態)」にほかならない1。
物語のクライマックスである湯河原温泉場における津田と清子の対峙は、同一化思考の破綻と「非同一性」の出現を決定的に象徴している1。
津田は「なぜ自分を捨てて別の男と結婚したのか」「自分をどう思っているのか」という自己本位な問いを携えて清子に接近する1。これは、過去の傷を自らの納得のいく意味づけへと落とし込み、清子を自分の物語内に「同一化」しようとする試みである1。
しかし、清子は津田の期待する拒絶も哀しみも動揺も見せず、ただ超然とした存在感をもってそこに佇んでいる1。清子は津田のあらゆる意味づけや物語化の要求を、その透き通った無関心によって無効化する1。アドルノの思想に照らせば、清子とはまさに主観(津田)の概念的支配を受け入れない「非同一的なもの(Das Nichtidentische)」そのものの表象である1。
津田は清子という「解釈を拒絶する不透明な他者」に直面することで、自らの同一化思考が完膚なまでに破綻する体験を余儀なくされる1。清子は津田の傷を癒やす「悟りの聖女」でもなければ「冷酷な裏切り者」でもなく、ただ津田の概念的包摂から滑り落ちる「絶対的他者」としてそこに存在する1。
否定弁証法と「和解の拒否」:『明暗』の未完性が提示する美学的倫理
ヘーゲル的な正反合の弁証法(肯定的弁証法)においては、主観と客観、自己と他者の対立は最終的に高次の統一(アウフヘーベン)へと導かれ、全調和的な「和解(Versöhnung)」へと至る3。しかし、アドルノはこのような和解を「同一化思考の最終的勝利」であり、現実に存在する苦しみや差異、矛盾を削ぎ落として隠蔽する概念的暴力であるとして激しく批判した3。アドルノの「否定弁証法」とは、矛盾を肯定的な和解によって解消するのではなく、解消されえない亀裂としてそのまま保持し続ける思考の原理である3。
漱石の『明暗』における表現規律もまた、この否定弁証法と完全に共鳴している。小宮豊隆的な旧来の「悟り説」の読解では、津田が湯河原で清子と対話することでエゴイズムの浅薄さに目覚め、改心を経てお延との円満な和解や道徳的救済へと至る結末が予測されがちであった1。
しかし、作法としての「則天去私」を貫くならば、そのような安易な道徳的覚醒や夫婦関係の通俗的な和解へと回収される結末は構造的にあり得ない1。作中人物の屈折したエゴイズムを作者の都合で改心させることは、作者の「小主観・小技巧(同一化思考)」の侵入であり、漱石が最も禁忌とした「私」の表出にほかならないからである1。
『明暗』は188回をもって作者の病没により中断され、未完に終わった1。しかし、この未完性は単なる肉体的死という外在的事情にとどまらない、美学的な誠実さの体現でもある1。
アドルノにおいて、未来の理想像や和解の姿を肯定的に描くことは、それ自体が新たな同一化であり、現実の苦しみを覆い隠す危険を孕むため拒否される3。思考の倫理とは、概念化に抵抗する現実の裂け目や矛盾を、解消不能なものとして引き受ける姿勢に求められる3。
漱石の『明暗』が188回で見せたのは、登場人物たちの相克するエゴイズムを、安易な救済や改心へと回収することを徹底的に拒み続けた「表現上の壮絶な自己規律」の姿であった1。『明暗』の未完性は、現実の人間関係における不透明さと非同一性を、何の偽りもなく客観的に記述し続けようとしたことの論理的帰結であり、否定弁証法的な「和解の拒否」の文学的達成分野であったと言える1。
また、アドルノは『美の理論』等において、理性が概念によって他者を暴力的に支配・同一化するのに対し、芸術のみが「ミメーシス(模倣・寄り添い)」を通じて非同一性(他者)を殺さずに表現し得ると主張した5。漱石の「則天去私」という技法もまた、作中人物や現象を自らの道徳観念で審判するのではなく、人物の心の動きやエゴの屈折をそのままになぞり、紙上に定着させる美学的ミメーシスにほかならない1。作者が「私」を去り、客観的な「事態(天)」に身を委ねることによってのみ、概念化を逃れる生のリアリティ(非同一性)が救済されるのである1。
結論:近代批判としての文学と哲学の交差
夏目漱石の『明暗』とアドルノの「非同一性」の哲学との交差は、近代という時代が生み出した「主観の自己保存」と「他者支配(同一化)」の暴力に対する、東西の知の極北における同調的な抵抗の記録である1。
「則天去私」の「天」とは、超越的な神や超自然的な秩序ではなく、自律的な個々のエゴイズムが複雑に干渉し合うことによって必然的に立ち現れる「あるがままの事態」であった1。そして「私」を去るとは、作者がその事態に対して主観的解釈や道徳的裁定(同一化)を下すことを放棄し、現実の持つ不透明さや亀裂をそのまま提示することであった1。
この倫理的・美学的姿勢は、アドルノが啓蒙の暴力に対する批判として提示した「非同一的なものへの忠実さ」および「否定弁証法」と正確に一致している2。
小説制作の規律としての「則天去私(去私=同一化思考の放棄)」を徹底した結果、漱石は作中人物のエゴイズムを安易な改心や調和へと回収することを拒絶した1。津田がお延や清子に対して行使しようとした同一化思考は湯河原の空間で打ち砕かれ、清子という「非同一的な他者」の存在が浮き彫りになる1。そして、188回で中断された『明暗』の構造は、肯定的な和解を拒絶し、不透明な現実の葛藤をそのまま保持し続ける「否定弁証法」の劇的表現として不朽の異彩を放っている1。
漱石は『明暗』において、作者の主観的支配を慎重に排除する表現上の規律を介し、近代人が抱えるエゴイズムの錯綜と、概念化し尽くせない「他者(非同一性)」の厳然たる存在を紙上に定着させた1。『明暗』とアドルノ哲学の接続は、近代文学と批判理论が到達した「主観支配からの解放」という共通の認識論的地平を極めて鮮明に照射している1。
引用文献
『明暗』と則天去私の解釈 (1).docx
〈非同一的なもの〉としての文化 - 立命館大学, https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no113_02.pdf
細見和之『アドルノ 非同一性の哲学』から始める|寿わかば - note, https://note.com/rudefowers/n/n624a500e55cb
テオドール・W・アドルノにおける 形而上学の希望としての身体, https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/bitstreams/f8194065-cd8a-4345-8c83-1f5af099914b/download
木本 伸 先生(経営学部) | 教員お薦め本 | 学生支援 - 立命館大学, https://www.ritsumei.ac.jp/lib/d05/010/oic/kimoto/
アドルノの否定弁証法 : r/askphilosophy - Reddit, https://www.reddit.com/r/askphilosophy/comments/nr4bys/adornos_negative_dialectics/?tl=ja
女達の影、女という影, https://opac.ryukoku.ac.jp/iwjs0005opc/bdyview.do?bodyid=TD32038520&elmid=Body&fname=r-ky_039_01_006.pdf
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