社会福祉と「言葉の休日遊び」 (再掲)

 今回の旅行@さいたま新都心では、病後22年の区切りという意味でももちろん大きかったけど、あらためて、自分自身が、社会福祉とつねに背中合わせだという、一生切っても切れない関係にあることを、再認識する結果となった。

社会福祉といってもその言葉の意味するものは当然多岐にわたる訳だが、なにか、この日本という国では、誰もが当事者になりうる可能性があるにも関わらず、なるべく避けたいもの、関わりたくないもの、として認識されているような気がする。

それは、医療従事者も同様で、強いて「障害者」と言った場合、特に精神医療や、知的障害のことを指す場合、とかく、世間から隔離されているという性質も相俟ってか、「社会的スティグマ」という側面が強い。

言い換えるならば、なるべくお金をかけずに、とりあえず生かしておく、ということに重点が置かれている、ということだが、それのみならず、いったん「障害者」というラベリングをされた場合、その「ラベル」(=障害者)に、医療従事者も当事者も、その「ラベル」の「同一性」のなかに否応なく絡め取られてしまう、ということだ。

そうした場合、現時点の日本社会では、行政からの扱いはそれはそれとして、いったん実存的な意味で、自分を、いわゆる「社会福祉」という重力場から脱出させて、距離を置かないことには、「社会福祉」を批判的に見る、語ることすら、まず不可能である。

自分は、公的な身分としては「精神障害2級」だが、この「精神障害2級」という文字列から、多くの人が抱くイメージとは、おそらくかなりかけ離れた生活をしている。

それは、同時に福祉行政の目の粗さの問題であるかも知れないが、しかし、行政というのは、往々にしてそういうものである。

つまり、後期ウィトゲンシュタインが語った、「言葉の休日遊び」のようなもので、多くの人が、「障害者福祉」という文字列を想念した場合、往々にして画一的な「イメージ」(あるいは「像」)を抱き、そこには何かその画一性から抜け出せないような、固定化された観念を抱くことで満足してしまう、という現代日本の現実がある、と思われるのだ。

しかし、現実の日本社会で、生まれつき健康で、かつ高齢者ではなくとも、じっさいに「社会福祉」のお世話になる可能性というのは、誰にだってあるのだ。

決してそんなに稀なケースではない。

つまり、誰もが当事者になりうる、ということだ。

たとえば、この「管理された世界」(アドルノ)のなかで、競争を勝ち抜いてもっといい生活、もっと他人から称賛を獲ようと、自分を追い込めば追い込むほど、かえってそのレースから脱落して、舗装された道路から転落してしまった場合、その「社会的スティグマ」に、簡単にまみれてしまう、という現実があるのだ。

つまり、無理に無理を重ねて「上のほう」を目指すほど、かえって奈落の底に突き落とされるリスクは、高まる、ということだ。

そうしたとき、「障害者」というラベルは、非情なほどに当事者から個人としての「固有の質」を奪い去り、「障害者ラベル」の画一性に、問答無用に当事者を回収させてしまう。

ほとんど一切の抵抗を許さないほどに。

それが、現代日本の「社会福祉」の現実なのだ。

上述した通り、その「同一性」の暴力から逃れるには、そうとうなエネルギーを要する。

「社会保障費を削る」という一見正しい美辞麗句のために、社会保障の現実は往々にして社会そのものから不可視化され、「ないもの」とされ、ただただ当事者の生存を保障するための、徹底的な合理化がなされる。

しかし、繰り返し述べてきたことだが、アドルノが主張したように、合理化の極致には、野蛮が潜んでいる。

その徹底した「合理化」という暴力は、単に社会から「不可視化」された社会福祉のみならず、物象化という作用を通して、それこそ他人より少しでもマシに生きたい、と願って、日々レースをひた走る馬車馬のような、一見社会福祉から無縁であるかのように見える現代人を、不毛な生存競争へと押しやってしまうのである。

「さもなくば、お前は一生を負け組として台無しにするんだぞ。」という脅し文句とともに。

したがって、現代日本が抱える闇や息苦しさを相対化するには、一見面倒くさいだけのように見える、(障害者に限らず)市井に生きる個々人の「固有の質」を、ひとつひとつ丁寧によりわけ、決して何かしらの「ラベリング」によって、その「ラベル」ひとつですべてを語れるかのような、「言葉の休日遊び」(ウィトゲンシュタイン)からの脱却を、めんどくさくても個々人が誠実に実行していくことが肝要だと思われる。

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