欲 (再掲)

 

高校受験のころ、私はまるで「栄光の電車」に乗っているような気分の中にいた。

あらかじめ敷かれたレールの上を、ただひたすら走っているだけに過ぎなかったというのに。線路の先に約束されていると信じて疑わなかった光に向かって、加速していく車窓の風景を眺めながら、私はどこまでも登り続けられるような全能感に満たされていた。

その自惚れは、進学してからも尾を引いていた。誰かが次のレールさえ用意してくれれば、私はどこまでも「栄光の階段」を登り続けられると思い込んでいたのだ。もしそれが可能であったなら、海外の名門大学にだって辿り着けていたかもしれない。

しかし、人間の欲にはキリがない。

人間の幸福というものは、対数関数的な性質を持っている。幸福度という「効用」をほんのわずか引き上げるために、要求される成果や刺激は指数関数的に跳ね上がっていく。

一度その「加速度」の重力に身体が慣れてしまうと、人間は恐ろしいことに、さらなる加速度を求めずにはいられなくなる。同じ速度の巡航は「停滞」と感じられ、より強いGを求めてアクセルを踏み続けなければ、かつての高揚感を維持することすらできなくなるのだ。

だが、常識的に考えて、そんな加速度を体現し続けることなど、生身の人間には土台無理な話であった。

大谷翔平のような存在は、まさにその極限の加速度を生きているのだろう。仮に私にどこまでも続くレールが与えられていたとしても、その想像絶するGに耐えきれず、いつかは心が破綻していたに違いない。当時の私には、そのあまりにも当たり前の限界が見えていなかった。

やがて訪れたのは、出口のない停滞だった。

周りの景色が止まり、「こんなはずじゃなかった」という焦燥ばかりが胸を苛んだ。やがてその激しい拒絶の果てに、平凡な日常の中で私の感覚は次第に鈍麻していった。色彩を失った世界、透明になっていく己の存在感――言葉を選ばずに言えば、それはある種のウツであった。

過剰な加速度と期待に晒され続けた心がオーバーヒートを起こし、自らを守るために緊急ブレーキをかけたのだと思う。

今振り返れば、あの激しい停滞と暗い静寂の季節こそが、他人が敷いたレールから完全に降り立つために必要な時間だった。

無限の欲と加速度のレースから解放されたいま、私は己の足で土を踏みしめ、身の丈に合った歩幅で生きている。あの狂乱のような速度を離れたからこそ、ささやかな日常の輪郭や、一つひとつの言葉の手触りが、静かに、そして確実に胸へと響いている。





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