運 (再掲)
「運が良かった」とか「運悪く……」と口にするとき、私たちは自らの立つ足場が、思っている以上に脆く不確実な地盤の上にあることを認めている。
「自分らしさ」と呼ぶ価値観も日々の選択も、あらかじめ決められた必然ではない。ただ「たまたま」この時代に生まれ、「たまたま」その街の風を吸い、出会った言葉や人々によって織り上げられた偶然の織物に過ぎないのだ。自らの根底にある言葉や自己像すら偶然の産物だと気づくとき、人はかすかな眩暈を覚える。どれほど周念に論理を組み立てようと、不意に吹く風一つでその前提はい易く揺らぐからだ。
だからといって、人は運を否定し、すべてを自己責任の力に還元することはできない。理不尽な世界の重みに押し潰されてしまうからだ。かといって「すべては巡り合わせだ」と達観してみせることにも、思考を麻痺させる危険がある。運の肯定と否定の間――その鋭く切り立った尾根の上を、倒れそうになりながらも歩み続けることこそが、生の輪郭を保つ道筋なのだろう。
効率という濁流が過ぎ去ったプラットホームで、四十を過ぎてなお、人は迷いを抱えた初心者のまま佇んでいる。だが、生きる中で否応なく滲む汗や涙のしょっぱさ、不意に背負わされた情けなさや傷痕をすべて綺麗に拭い去ってしまえば、人生は一滴の色彩も持たない空っぽの器に成り下がってしまう。どれほど遠くへ行こうと自分自身からは逃げられない以上、私たちはこの不条理な自我とともに生きていくしかない。棄てられない欠点に苦笑いを浮かべながら、時間をかけて信頼を育む「見合い結婚」のように。
吹く風を制御することはできず、過ぎ去った傷痕を消すこともできない。けれど、外をあてもなく探し回るのをやめ、胸の奥にある体温を確かめること。どこへも行かないその場所で、泥臭い自我という鏡に向き合いながら、消え入りそうだが確かな「標」を足元に刻み続けていくこと。
私は、私。それでいい。
その静かな腹括りのうちに残る、しょっぱい苦みとぬくもりこそが、不確実な世界を歩み抜くための、真に深いしなやかさなのだと思う。
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