近代文明の超克と主体の再構築:夏目漱石とテオドール・W・アドルノにおける思想的アフィニティの批判的考察
序論:異質なる文脈における問題意識の相克と交差
明治期の日本において急激な西洋化と近代化の波に直面した文学者・思想家である夏目漱石(1867–1916)と、20世紀中葉の西洋近代文明の自己破壊的深淵を目撃し、フランクフルト学派の批判理論を主導した哲学者テオドール・W・アドルノ(1903–1969)の間には、生きた時代、言語圏、および直接的な思想的系譜の差異を超越した深遠な「思想的アフィニティ(Wahlverwandtschaft:選択的親和性)」が存在する。直接の流派的継承関係を持たない二人の思想家が、近代という歴史的位相において類似した構造的危機を穿ち、共通の言説的抵抗を試みた現象は、単なる偶然の一致ではなく、近代合理主義の本質的葛藤に根ざす普遍的応答として位置づけられる。
近代化とは、人間を宗教的・共同体的な呪縛から解放する「啓蒙」の過程であると同時に、合理性や効率性の過剰な追求によって人間性の空洞化、主体の没落、および社会関係の物象化(Verdinglichung)をもたらす両義的プロセスである1。漱石は、西洋の模倣に追われる周縁的近代としての日本において、この近代の病理を「外発的近代化」および「皮相上滑りの開化」として見抜いた5。他方、アドルノは、西欧近代の成熟と破局(ファシズムや高度大衆社会)の内部において、理性が自己保存のために自然支配の道具へと変質する「道具的理性(instrumentelle Vernunft)」の暴走と「文化産業(Kulturindustrie)」による大衆の均質化を告発した1。
本報告は、漱石とアドルノの思索を構成する主要概念―「外発的近代化」と「道具的理性批判」、「自己本位」と「主観の没落」、「疎外・物象化」と「非同一性」、ならびに「則天去私」と「否定弁証法」―を対置・交差させ、両者の思想的アフィニティを多角的に検証する。さらに、周縁的近代と中心部近代という異なる地点から導き出された両者の診断が、現代の情報化社会、高度消費社会、および人工知能(AI)社会に対して提示する高次的インプリケーションを解明することを目的とする。
夏目漱石の近代批判と「個」の変容
外発的近代化論と消極的開化の限界
夏目漱石の文明批判の到達点は、1911年(明治44年)の講演「現代日本の開化」に典型的に示されている6。漱石は、文明の開化(近代化)の本質を「人間活力の発現の経路」と定義し、それを「活力節約の行動(消極的開化)」と「活力消耗の趣向(積極的開化)」の二つの領域に分類した6。機械化や交通手段の発達(人力車から自動車、電車、飛行機への移行)に代表される「消極的開化」は、労力や時間の節約を目的とするが、その帰結として人間は利便性を追求するあまり過度の競争と多忙に追われ、精神的余裕を喪失していく6。
特に漱石が鋭く突いたのは、日本の近代化が内的な欲求や必然性から自発的に発展した「内発的」なものではなく、西洋という外部からの圧力によって強制された「外発的」な開化であるという点である5。鎖国という歴史的空白を経た日本は、内的な意識の推移の段階(AからBへ、BからCへ)を飛翔し、中間段階であるBを欠いたままAからCへと突然跳躍することを強いられた5。この「内発性の欠如」は、国民の精神に深刻な乖離を生み出し、外形的には進歩しながらも内面は空洞化する「皮相上滑りの開化」をもたらすこととなった5。
漱石は、この外発的近代化を拒絶・中断することは非現実的であり、「涙を呑んで上滑りに滑っていかなければならない」という苦渋の歴史的必然性を認めていた5。しかし同時に、この消極的開化が極限まで進行した未来に対する強烈な予見的危機感をも抱いていた。技術依存が人間から主体的行動や思考を奪い去り、人間がロボットに頼り切って自ら生きる意欲を失う極致(人間の全能力を機械が代替し、人間はベビーベッドに寝たまま生涯を終えるような「人間不在」の未来像)として批判される現代的課題は、漱石が指摘した消極的開化の自己目的化と深く重なり合っている5。外部からの形式的模倣が人間存在そのものの空洞化を招くというこの洞察は、近代化の構造的負債に対する鋭利な批評であった。
「自己本位」の倫理的構造と権威の否定
外発的近代化の圧迫に対する漱石の主体的な対抗軸として提示されたのが、1914年(大正3年)の講演「私の個人主義」における「自己本位」の概念である11。英国ロンドンへの留学時代、漱石は西洋の文芸批評や学問的権威の圧倒的な強圧の前に重度の神経衰弱と自己不信(「不適応状態」)に陥った5。自らの感性や評価軸を排し、西洋人の評価を鵜呑みにする「他者本位(他人本位)」の姿勢は、根のない浮き草のような根底的安息の欠如をもたらすこととなった14。
この危機を打開するために漱石が掘り当てた言説が「自己本位」である12。それは、「できあいの思想」「できあいの宗教」「できあいの学問」といった外部から与えられた既成の概念や権威に倚りかかることを拒絶し、自らの内部にある認識と感覚の立脚点(「自分の鶴嘴」)から思考し直す決意を意味する5。
ここで重要なのは、漱石の「自己本位」が単なる我執や唯我独尊的利己主義(エゴイズム)とは厳密に区別されている点である13。漱石は、自らの個性を発展させる権利を主張するならば、同時に「他人の個性も尊重しなければならない」という絶対的な相互性を条件とした13。さらに、自らが所有する「権力」や「金力」を他者の自我を屈服させる手段として悪用することを固く戒め、権力には「義務」、金力には「責任」が不可欠であると論じた12。したがって、「自己本位」とは、権威主義的集団主義や無責任な利己主義の双方に対する二重の批判であり、近代における真の自律的主体の条件を探索した倫理的個人主義の試みであった。
小説作品における精神的疎外と物象化の描写
漱石の思想的格闘は、評論や講演のみならず、彼の小説群において生々しい精神的ドラマとして形象化されている。『三四郎』における主人公・小川三四郎は、近代化の過渡期にある東京という大都市に身を置き、高速度で変化する都市空間(電車、汽車、無数の人波)の只中で「迷える子(Stray sheep)」としての孤独と心理的疎外感を痛感する20。『それから』の主人公・長井代助は、国家の借金と虚飾の上に成り立つ日本の近代化を冷徹に批判しながらも、高尚な有閑階級として消費社会の「物象化された生活」の内部に収監されており、自らの生を真の労働や関係性から疎外されたものとして意識している4。
また、『門』の野中宗助は、社会的罪業感と親族関係からの「家庭的・社会的疎外」ゆえに自己を支えきれなくなり、禅寺の門を叩くものの結局は救済を得られず、元の暗い日常へと引き返さざるを得ない20。『こころ』における「先生」は、近代的な「個」の覚醒が招いたエゴイズムによって他者(K)を裏切り、その結果として永続的な自己疎外と倫理的孤立に囚われ、最終的には死による自己処罰を選択する。これらの文学的形象は、近代化が促す個人の孤立化、都市化による人間関係の客体化(道具化)、そして共同体的紐帯の崩壊が個人内面に及ぼす破滅的な心理的影響を精密に描写している。
「則天去私」と「反動の原理」の統合力学
漱石の晩年の思想的境地として喧伝されてきた「則天去私(そくてんきょし)」は、小主観や小技巧(個人のエゴイズム)を去り、天地自然の不変の法則に従うという人生観・芸術観である21。従来の漱石研究では、これが「自己本位」を超克した東洋的・和解的な悟りの境地として理解される傾向が強かった21。しかし、近代哲学および文学論の観点から再評価すると、「則天去私」は単純な主観の放棄や前近代的な自然への没入ではなく、「自己本位」と極めて高度な論理的テンションを持って結びついていたことが判明する20。
この両者を媒介する動理が、漱石が初期の『文学論』(1907年)以来探求し続けた「反動の原理(反作用の原理)」である20。漱石は、ウィリアム・ジェームズ(William James)の心理学・宗教経験論やチャールズ・サンダース・パース(C.S. Peirce)の論理学・感情論を受容し、人間意識の推移における「漸次的変化(連続性)」と「突然の変容(断絶)」の力学を分析した20。外部からは「一朝に変じた突然の心変わり」に見える現象も、内部深層の潜在意識(当下意識)においては長年の微小な変化が蓄積された「漸次の推移(反動)」の結果である20。
「反動の原理」の解釈によれば、人間の真の自由な行為や決断は、意識的な「私心(意志)」の強制によってなされるのではなく、極度の受動性の果てに外的偶然と内的自発性が一瞬において合致する「反動」として成就する20。この動理を遺作『明暗』の執筆に適用した時、「則天去私」は宗教的安住の心境ではなく、作者という「私」の恣意的な道徳判断や小技巧(小主観)を徹底的に排し、登場人物たちのエゴイズムの相互作用を冷徹かつ即物的にありのまま描写するための「文体・叙述の技法(スタイル)」へと昇華される21。すなわち、能動的な「自己本位」の極限的な自己検証の果てに、作意を去った超個人主義的なリアリズムの表現様式としての「則天去私」が要請されたのである。
テオドール・W・アドルノの批判理論と高度近代社会論
『啓蒙の弁証法』と道具的理性の批判
テオドール・W・アドルノとマックス・ホルクハイマーの共著『啓蒙の弁証法』(1947年)は、西欧近代の進歩史観に対する最も根底的な自己批判の書である1。彼らは「人間から恐怖を取り除き、主人として確立する」ことを目指したはずの「啓蒙(Aufklärung)」が、なぜ人間性を解放するどころか、ファシズムやアウシュヴィッツの野蛮、さらには高度産業社会における新たな抑圧へと破局的に反転したのかを追及した1。
その核心に位置するのが「道具的理性(instrumentelle Vernunft)」批判である1。本来、人間の理性は事物の本質や真理を認識し、自律的思考を可能にする能力であった2。しかし、近代社会の発展過程において、理性は自己保存と「自然支配」のための技術的・操作的な計算能力(目的のための効率的手段を選別する手段的知性)へと著しく歪曲・縮減された1。この道具的理性は、概念を用いて思考対象の質量的な「質(個体性・相違性)」を殺ぎ落とし、すべてを数量的に交換可能かつ抽象的なものとして「同定(同一化)」する1。
自然を客体化して支配しようとするこの計算的知性は、最終的に自然の一部である人間自身をも客体化・道具化し、人間に対する人間の管理・支配へと帰着する1。理性が目的自体を見失い、自己保存の手段として社会過程に完全に組み込まれることで、啓蒙は自ら神話的な自己抑圧へと逆転したのである1。
「文化産業論」と主観の没落
『啓蒙の弁証法』の著名な章「文化産業:大衆欺瞞としての啓蒙」において、アドルノは独占資本主義とマス・メディアが合一した「文化産業(Kulturindustrie)」による人間性の均質化構造を告発した1。文化産業のもとでは、芸術や文化プロダクトは本来の自律性を削ぎ落とされ、大量生産・大量消費の交換価値のみに従う規格品(商品)へと変質する1。
文化産業の製品は、消費者(大衆)が自発的・主体的に思考や感情を分類・整理する隙を与えないよう、あらかじめプロデューサーの図式(スキーム)によって効果や反応が先取りされ、計算されている1。一見すると多様に見えるポップ・カルチャーや娯楽のバリエーションは、すべてシステム内部でコントロールされた「見せかけの差異(擬似個体化)」に過ぎない1。
その結果、消費者の自発性や批判的意識は著しく減退し、「近代の主体(主観)」は没落へと追いやられる1。娯楽はもはや精神の解放ではなく、「後期資本主義における労働の延長(労働再生のための管理された消費)」へと組み込まれることとなる1。人々は「完成された類似性とは絶対的差異である」という絶対的欺瞞の中で、均質化され、いつでも交換可能な「代品(純粋な無)」へと解体されていくのである1。
疎外と物象化の理論的拡張
アドルノの批判理論における人間の非人間化の分析は、カール・マルクスの「疎外(Entfremdung)」およびゲオルグ・ルカーチの「物象化(Verdinglichung)」の概念を継承し、高度産業社会の心理的・文化的な次元へと拡張したものである3。
アドルノにおいて、疎外とは「搾取と分業の心理的効果」であり、人間が自らの労働の生産物、労働過程、そして他者や人間本性から切断される現象である3。そして物象化とは、「人間や人間同士の社会的関係が、あたかも客観的な『物(Sache)』の如く扱われ、対立して現れるありさま」を指す3。
資本主義的生産様式の浸透に伴い、本来は人間相互の自由な活動の所産であるはずの社会的関係が、自律的な法則性を持った「第二の自然(Zweite Natur)」として硬化し、個々の人間を抑圧的な客体として威圧する1。人間は自らが作り出した社会システムに従属させられ、自他を機能や効率の観点からのみ捉える「物象化された意識」を受け入れざるを得なくなるのである3。
「否定弁証法」における非同一性の救済
アドルノの哲学の集大成である『否定弁証法(Negative Dialektik)』(1966年)は、ヘーゲル的な最高統合(絶対知やアウフヘーベン)を目指す「肯定的な弁証法」に対する根本的反論である1。アドルノは、全哲学史を主観の概念が対象を完全に把握・同一化できるという「同一性思考(Identitätsdenken)」の暴走として批判した1。概念は対象を捉えようとするが、現実は常に概念の枠組みから溢れ出る異質で個別の質を持っている1。概念が対象と一致するという絶対的妄想こそが「概念の傲慢(同定化思考)」であり、それが社会的な全体主義や画一化の根源をなしている1。
「否定弁証法」とは、概念が対象と不一致であることを認識し続けることで、既存の同一化の論理や概念の網の目によって排除・抑圧されてきた「非同一的なもの(Das Nichtidentische)」、すなわち個別の具体性、異質なもの、他者性、痛みの記憶を概念の暴力から救済しようとする試みである1。それは、肯定的な全体システムに安易に収拾されることを拒否し、システムの亀裂や摩擦を批判的に照らし続けようとする抵抗の思考様式であった1。
夏目漱石とアドルノにおける思想的アフィニティの構造的展開
夏目漱石とアドルノの思想を交叉させる時、歴史的・地理的コンテクストの異質性にもかかわらず、近代文明の病理に対する診断とそれに対する抵抗の論理において、著しい構造的共鳴(アフィニティ)が立ち現れる。
文明批判の同関性:皮相上滑りの開化と道具的理性
両者の文明批判の第一の共鳴点は、近代が掲げる「進歩」や「合理性」に対する根本的な懐疑と、その裏に潜む「本質の喪失・偽りの豊かさ」の告発である。
漱石の「外発的近代化」批判は、内発性を欠いた「皮相上滑りの開化」が、表面的な技術の導入や消費の増大とは裏腹に、国民に深刻な精神的空虚と不安をもたらすことを見抜いていた5。他方、アドルノの「道具的理性批判」および「文化産業論」は、啓蒙の言説が提供する「見せかけの多様性」と消費の快楽が、実は個人の批判的主体性を奪い、社会の管理格子を強化する「大衆欺瞞」であることを解明した1。
両者は共に、近代の技術主義的進歩が自己目的化する時、それは人間を解放するどころか、「人間不在」の空洞化へと追いやる危険性を即座に感知していた1。漱石が西洋追随の「他者本位」を排したように、アドルノは文化産業が提示する「既定の図式」を無批判に受け入れる姿勢を厳しく排撃したのである1。
主体概念の対置:「自己本位」の獲得と「主観の没落」
第二の共鳴点は、近代社会における個人の「自律的主体の解体」に対する危機意識と、その回復の試みにある。
アドルノは、高度集中資本主義と文化産業の浸透によって、個人が主体的に思考・分類・抵抗する能力を失い、「主観の没落」が不可避的に進行するプロセスを分析した1。社会的関係の「物象化」によって、人間はシステム内の交換可能な「物」へと退落する1。これに対し、漱石の「自己本位」の提唱は、まさしくこの「主観の没落」に対する周縁からの先駆的な抗いとして位置づけられる12。既成の学問や権威(「出来合い」のもの)に倚りかからず、自らの実感と経験から認識を再構築しようとする「自己本位」は、物象化された社会構造の中で「個の自律性」を死守しようとする論理的抗戦であった5。
また、漱石が小説作品を通じて描いた都市空間における「孤独・不安・疎外感」は、アドルノが「分業と搾取の心理的効果」として理論化した疎外の心理的・肉体的次元の文学的具象化であった3。
抵抗の様式:「則天去私」的リアリズムと「否定弁証法」
第三の、そして最も深化された共鳴点は、近代の全貌的なシステムに対する「抵抗と超越の思考様式」の類似性にある。
アドルノの「否定弁証法」は、概念が対象を同定・全括しようとする同一性思考を「概念の傲慢」として拒絶し、概念の網の目から漏れ出る「非同一的なもの」の救済を求めた1。一方、漱石の晩年の「則天去私」は、作者の道徳的作為や小技巧(主観による世界の同定化・統制)を棄て去り、世界のありのままの不調和やエゴイズムの相克(「ありのままの事態」)に身を晒すリアリズムの姿勢であった21。
一見すると「自己本位」の確立と「則天去私(自己の消去)」は背反するように思われるが、アドルノの「主観の自己放棄による対象への接近」の論理を介することで、両者は架橋される。真の主観性とは、対象を自己の都合に合わせて支配すること(同一化=小技巧)ではなく、主観の作為を滅却することによって初めて対象の持つ「非同一的な質」をありのままに受容すること(否定弁証法=則天去私)である。両者において、「私心(作意)」の去却は、システムによる均質化への抵抗であり、既存の枠組みに収まらない真の自由と個の具体性を回復するための高等な思考戦略であった1。
近代批判の現代的展開と高次的インプリケーション
夏目漱石とアドルノの思想的アフィニティを掘り下げることは、両者の歴史的テキストの対照にとどまらず、近代文明そのものが抱える構造的矛盾についてのより深い理論的視座をもたらす。
周縁的近代と中心部近代の構造的同期
第一の理論的展開は、「周縁における圧迫」と「中心における自己破壊」の構造的同期性である。漱石が描いた19世紀末から20世紀初頭の日本は、西洋近代の衝撃を外部から急速に受容した「周縁的近代(Peripheral Modernity)」の典型である5。一方、アドルノが分析した20世紀中葉の欧米は、近代の合理的発展が極限に達し自壊し始めた「中心部高度近代(Advanced High Modernity)」である1。
一見すると開発段階の異なる二つの社会状況において、なぜ驚くほど同一の「疎外・物象化・主体の没落」の病理が提示されたのか。それは、周縁的近代における「外発的・圧縮的近代化」が、西欧が数百年かけて緩やかに醸成した道具的合理性と市場原理の抑圧的側面を、短期間でむき出しの純粋形態として凝縮・露呈させるためである1。漱石の「外発的近代化」論は、近代の病理が西欧の特殊な現象ではなく、近代化というシステムそのものが本質的に内包する普遍的危機であることを、周縁の視点からいち早く証明していた5。アドルノの批判理論と漱石の文明批判の接続は、近代批判を西欧中心主義の枠組みから解き放ち、グローバルな構造問題として再定義することを可能にする。
表現形式(文学・美学)による非同一的抵抗
第二の理論的展開は、「システムによる回収に対する唯一の抵抗拠点としての芸術形式(フォーム)」の発見である。
アドルノは、概念的思考がすべてを道具化・商品化する管理社会において、唯一「交換価値」に完全に屈服せず、非同一的な真理を保持し得るのは「自律的な芸術作品(Autonome Kunst)」の形式的抵抗のみであると論じた(『美学理論』)1。実用性や社会的有用性(道具的理性)を拒絶する芸術の不透明性こそが、物象化された現実に対する否定の力を宿す1。
この議論は、漱石がなぜ自らの思想の最終的展開の場として哲学論文ではなく「小説(芸術形式)」を選択したのかという問いに鮮やかな解答を与える。漱石の未完の遺作『明暗』における「則天去私」的スタイルは、作者の道徳的教訓や思想的解決(小技巧)を作中に持ち込むことを拒否し、エゴイズムの相克という「未解決の現実」を形式の中に即物的に保持しようとする試みであった21。思想的・理論的な体系化(同一化)が破綻せざるを得ない近代において、両者ともに「芸術・文学の表現様式そのものの自律性」に、不可逆的な物象化に抗う最後の希望を託したのである1。
デジタル・AI社会における自律性の再否定と復権
第三の展開は、高度情報化、アルゴリズム統制、人工知能(AI)の台頭に直面する21世紀の現代社会に対する予言的洞察である。
現代社会は、アドルノの告発した「文化産業」がデジタル・プラットフォームやSNSのパーソナライズ・アルゴリズムとして高度化・緻密化し、漱石が懸念した「消極的開化(活力節約・利便性追求)」がテクノロジーによって極限まで達成された時代と言える1。
第一に、プラットフォームが提供するプロファイルと推奨システムは、人間の欲望や思考の選択肢を「あらかじめ先取り(図式化)」し、主体的判断能力を無効化する1。これはアドルノの文化産業論の完成形である1。
第二に、生成AIによる即座の答えや要約の提示は、人間が「自分の鶴嘴」で苦痛を伴いながら思考を掘り当てる機会を奪い、「できあいの思想・知識」への依存を極限まで高める5。
第三に、消極的開化の極致において、人間が単なる効率的システムの従属的消費者へと成り下がる時、漱石の「自己本位(他者の尊重と倫理的義務を伴う個の自律)」とアドルノの「否定弁証法(同定化を拒絶する批判的思考)」は、現代人がアルゴリズム的決定論に抵抗するための強力な思想的武具となる1。
結論
夏目漱石とテオドール・W・アドルノの間に存在する思想的アフィニティの批判的考察は、二つの全く異なる文化・歴史的コンテクストから発した思索が、近代文明の自己破壊的な病理に対し、いかに深く交差・共鳴し合っていたかを立証した。
漱石の「外発的近代化・皮相上滑りの開化」論とアドルノの「道具的理性・文化産業」論は、技術的・合理的進歩が内面的な空洞化と大衆欺瞞をもたらす構造を同等に告発した1。「他者本位」の盲従や「主観の没落」に対し、両者は「自己本位」の樹立や物象化への批判を通じて、倫理的責任を伴う自律的主体の救済を模索した1。さらに、「則天去私(反動の原理による作意の滅却)」と「否定弁証法(非同一性の救済)」は、全体主義的・画一的な同一化体系に対し、個体性と真実の姿を救い出すための相補的な美学的・思想的抵抗様式であった1。
今後の研究課題としては、第一に、漱石の美学概念である「余裕」や「草枕(非人情)」と、アドルノの美学理論における「観照(Kontemplation)」や「自律的芸術」との概念的比較を深め、両者の美学論的結実をより細密に解明することが挙げられる1。第二に、ウィリアム・ジェームズ哲学の受容過程における漱石とフランクフルト学派の比較思想史的整理を進行させ、実用主義(プラグマティズム)に対する両者の評価の相違を明瞭にすることが期待される20。
両思想家の残した批判的足跡は、効率性と最適化の美名のもとに人間の自律性が危機に晒されている現代において、安易な「出来合いの答え」を拒絶し、批判的自己認識を維持し続けるための不滅の灯火として、今なお鮮烈な示唆を与え続けている1。
引用文献
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第4回「開化」は文化である――「現代日本の開化」 - 国語教育 - 大修館書店, https://www.taishukan.co.jp/kokugo/media/blog/?act=detail&id=216
夏目漱石 現代日本の開化 - 青空文庫, https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/759_44901.html
補助教材 現代日本の開化 - Biglobe, http://www7b.biglobe.ne.jp/~koukoukokugo/1_gendaibunhen/2_hyouron/121gendainihonnokaika.htm
夏目漱石の講演「現代日本の開化」, http://sybrma.sakura.ne.jp/155gendainihonnokaika.html
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私の個人主義 - 要約文庫, https://sum.bunko.jp/books/772
夏目漱石 私の個人主義 - 青空文庫, https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html
令和6年度 前期終業式 - 校長室から - 千葉県立東葛飾高等学校Blog, https://cms1.chiba-c.ed.jp/tohkatsu/blogs/blog_entries/view/32/8e33d908ea3fbad756183d56fb694b0b?frame_id=403
他者に迎合せず、その個性を尊重して己を磨け!/夏目漱石「私の個人主義」 - 投資を楽しむ, https://pixy10.org/archives/post-7499.html
留学生である夏目漱石のイギリスでの苦悩と「変身」。-「嚢(ふくろ)を突き破る錐(キリ)」を追い求めて。, https://www.nakajimajun.com/blog/2018/1/4/-
自由、自分軸、多様性…スゴい人はだいたいみんな同じこと言ってる説/夏目漱石『私の個人主義』を読んで|mome - note, https://note.com/mome555/n/nd07133b42ae2
No.017【対話 日本の詩の原理】『戦後的抒情について―黒田三郎/茨木のり子篇』(三 全三回)池上晴之×鶴山裕司【H】 | 総合文学ウェブ情報誌 文学金魚 ― 小説・詩・批評・短歌・俳句・音楽・美術・骨董・, https://gold-fish-press.com/archives/98393
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