2026年7月18日土曜日

眼科に行ってきた。 (再掲)

  先月の初めに、網膜剥離の治療を受けて、その経過観察。

レーザー治療だったが、眼科医によると、「手術」ではなかったらしい。

急に蒸し暑くなったせいか、体にこたえる。

年齢とともに、肉体が衰えるのは、仕方がない。

でも、自分は、それも悪くない、と思っている。

なぜだろうか?

説明するのは難しい。

本当に身体の自由が利かなくなったら、そんなことは到底言えないだろう。

しかし、生身の身体の若々しさというのは、往々にして持て余してしまうものだ。

・・・って、相変わらず説教臭いオッサンだ。

それはともかく、一応日常生活を送るのに、困難は感じない。

体力がある内に、スキルを蓄えておくことも、必要だと、思う。

そこらへんは、個々人の事情ってもんがある。

俺は、恵まれていた。

いや、恵まれている。

それでも、いや、それだからこそ、つい頑張ってしまう。

ここ最近は、民法の勉強が捗って、そんなに無理している積もりもなかったが、中年になってから新しいことを勉強する、というのは、案外体力が要るようだ。

もう、そんなに何でもかんでも吸収できるというものでもない。

結局、この3学期のあいだに、1度も面接授業には行っていない。

あしたは、放送大学の単位認定試験だ。

択一式だし、分量も大したことないはずなので、すぐ終わるはずだが、それでもそれなりに気力体力を削られるだろう。

でも、それが終われば、今学期の放送大学関連の行事はすべて終了だ。

若いうちというのは、自分の気力体力を過信して、つい我慢しすぎてしまったりする。

そうせざるを得ない状況においては。

だから、ご老人が、時に迷惑なくらい我慢が利かなくて、傍若無人だったりすることも、気持としては理解できるようになってきた。

彼ら、彼女たちは、若い頃に、我慢に我慢を重ねてきたのだろう。

それが、気力体力の衰えとともに、抑えが効かなくなってくる、というのは、ある意味では当然の事かもしれない。

自分だって、若い頃のようには、自分を抑えつけることは、もう出来ないかも知れない。

しかし、そんな時、やはり自分も人並みの人間なのだ、と実感する。

それは、ある意味救いでもある。

どんなに心身を鍛えたって、我慢できなくなる時というのは、あっていいのだ。

なにより、人生というものについて、ある種の諦念を交えて語れること自体が、中年に至った人間の特権とは言えないだろうか?

もう、若いとはいえないが、それはそれで佳いことなのだと、思う。

だから、やはりご老人というのは、労ってあげるべき存在なのだ、と思う。

若い人には、わからないかも知れない。

自分だって、そうだった。

彼らには、自分たちが将来老人になる、ということが、往々にして理解できないのだ。

しかし、年齢を重ねるにつれ、自分の限界を知るたびに、人生を生きていくということの難しさを、ひとつひとつ認識するのだ。

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