2026年6月30日火曜日

最高の贅沢

 俺だって、嫌われるのは、嫌だ。

言いたいこと、言わなきゃいけないと俺が思うこと、は、これからも言い続けるだろう。

そうしなければ、自分の生存領域ですら、侵略される。

だから、言い続ける。

だが、嫌われるのも、嫌だ。

もう、嫌われようがなんだろうが、言いたいことを言う、というほどの元気がない。

でも、やっぱり言い続けるだろう。

それは、自分がそういうタチの人間だからだ。

黙っていられないんだ。

たとえ嫌われても。

それで離れていく人もいた。

非常識だ、と。

しかし、陳腐な物言いだが、なんでもかんでも「常識」で片付けていたら、世の中の何事もさも「当たり前のこと」としか見えない。

そんな生き方、面白いか?

せっかく大学まで通わせてもらうからには、常識を疑って、自分の頭で考えるのが、「学ぶ」ということではないのか?

単に就職のために大学に行くことが、ほんとうに「コスパ」に適うことなのか?それが「タイパ」とやらに適しているのか?

俺はそうは思わない。

高等教育を受ける、ということは、単にメシのタネを稼ぐこと以上の、知的な極めて贅沢な体験であるはずのものだ。

「常識」を疑い、自分の頭で考える。

これが、現代人にとって最高の贅沢でなくて、なんなのか?

今だったら、放送大学という、入試もなければ、学費も激安で、しかも超クオリティーの高い教育機関が、誰に対しても開かれている。

これを利用しない手があるだろうか?

繰り返すが、現代人にとって最高に贅沢な生き方とは、「常識」を疑い、自分の頭で考える、ということだ。

そういう鍛錬を積んで、発言することは、往々にして「非常識」と受け止められ、そして、疎まれる。

だが、俺は黙っていられないタチだ。

それは、せっかくメシを喰ったのに、ウンコをしないようなものだ。

そんなのは無理だ。

だから、俺はこれからも言い続けるだろう。

それが最高の贅沢だから。

でも、もう嫌われることにも疲れた。

つまり、とても虫の良い話なのだ。

これ以上都合のいい話があるだろうか?

(いや、ない。)

しかし、ネットでなんでも言える時代に、自分が言いたいことを敢えて黙っているのは、あまりに勿体ないとは思わないか?

せっかく学びの機会も用意されているというのに。

これが贅沢でなくて、なんなのか?

不自由だ不自由だ、と言うが、それはヨノナカのせいなのか?

学ぶ機会もある。そして、学んで考えたことを発信することも出来る。

最高の世界じゃないか?

別に今のところ日常的にミサイルが翔んで来るわけでもない。

ダラダラするのも、いいだろう。

そうでもしなければ、神経が参ってしまう。

だが、タイパタイパと言いながら、それが本当に充実した生のあり方だろうか?

確かに、いかに放送大学でも、学ぶ時間を確保したり、面接授業の原資を確保したり、なにより、学んだことを消化して、自分の血肉に変える作業は、思っている以上にリソースが必要だ。

しかし、新興政治勢力のセミナーに高いカネを払うくらいなら、放送大学で学んで、発信すればいいじゃないか?

それが出来ないのは、結局嫌われるのが怖いからだ。

こんなこと一人じゃ言えない、だけど、周りがみんな同じことを言っているから、こんな「非常識な真実」を叫んでるワタシかっこいい、とでも言うのか?

全くもって、カッコよくない。

完全に、ダサい。

結局、手軽に優越感を得ながら、しかも嫌われたくない、というだけのことだ。

・・・と、こんなことを言ってしまうから、俺も相変わらず嫌われるのだが、さすがに俺も、嫌われることに、疲れてきた。

結構長いことネットで言いたいことを言いまくって来たから、おそらく相当な数の人に、恨まれている。

(俺から言わせれば、ただの逆恨みだが。)

でも、俺に黙っていろ、というのは、土台無理な話だ。

それは、学び、発信することが、現代人に許された最高の贅沢だからだ。

でも、俺はもう言いたいこと、言うべきだと(勝手に)思っていることはほとんど言ってしまったし、悔いはない。

それなのに、嫌われることにも疲れた。

嫌われたくない。

極めて都合の良い話だ。

でも、もうお疲れ気味なのだ。

せめて、生活圏域のなかでくらいは、俺のことを露骨に嫌わないでいてくれたら、オジサン嬉しい。

極めて贅沢で身勝手な話だが。


パール

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