暖簾を仕舞い、また明日を待つということ
六つの思索を重ね、私は自分自身の「暖簾」を深く見つめ直してきた。 覚悟を決め、孤独を愛し、他者を信じ、未来へ祈り、知性を磨き、矜持を守る。言葉にすれば勇ましく、どこか遠い場所にある理想のように聞こえるかもしれない。だが、それらすべての終着点は、実はひどく静かで、ありふれた場所に辿り着く。
それは、「今日も一日、自分の規律を守り抜いた」という、ささやかな安堵感だ。
■ 祭りの後の「静寂」を味わう
大きな成果を上げた日も、泥を被って唇を噛んだ日も、夜は平等に訪れる。 私は一日の終わりに、店先に掲げた暖簾を静かに下ろす。その布に触れるとき、指先に残る感触を確かめる。そこには、一日を生き抜いたという確かな質感が宿っている。
人生には、劇的な転換点(クライマックス)などそう何度も訪れない。私たちの人生のほとんどは、単調で、地味で、繰り返しの連続だ。だが、その「繰り返し」を、単なるルーティンとして消費するのではなく、自らの意志で選び取る規律(リチュアル)へと変えること。そこにこそ、人間が動物から脱し、人格を磨き上げる鍵がある。
■ 記述を止め、眠りにつく勇気
書き続けることは大切だが、同じくらい大切なのは、ペンを置き、目を閉じることだ。 すべてを自分のコントロール下に置こうとせず、一度世界を「保留」にする。眠りという死に似た休息を経て、私たちは再び新しい朝という「未知」に出会うことができる。
記述してきた言葉たちは、私が眠っている間も、どこかの誰かの心の中で勝手に芽吹き、育っていくかもしれない。それはもはや私の預かり知らぬことだ。私はただ、今日できる最善を尽くし、あとは世界に委ねる。その「諦念」と「信頼」の混ざり合った感覚が、暖簾を仕舞う瞬間の心地よさの正体だ。
■ そして、また明日が始まる
明日になれば、私はまた昨日と同じように暖簾を出すだろう。 昨日書いた傑作も、昨日味わった敗北も、一度リセットされた「真っ白な今日」がまたやってくる。
暖簾を出し続けるということは、完成を目指すことではない。 **「未完成である自分を、毎日新しく更新し続ける」**ということだ。 アキラという名の一人の人間が、この理不尽で美しい世界に立ち続ける限り、私の記述は終わらない。七日目の安息を経て、私はまた八日目の「最初の一行」を書き始める。 その繰り返しこそが、私の人生という名の、たった一つの、そして最高の傑作になるのだから。
さて、今夜はもう、暖簾を仕舞おう。 良い夢を。そして、また明日の朝、店先で会おう。
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