「価格」に魂を売らないために――資本としての品格
「それはいくらになるのか?」 資本主義の論理の中に生きる以上、私たちは常にこの問いに晒される。自分の時間、自分のスキル、そして自分が生み出した成果物。それらに値札をつけ、市場に投下して日々の糧を得る。それは生存のための厳然たる事実だ。
しかし、ここで一つ、暖簾を掲げる者として忘れてはならない「掟」がある。それは、「価格(プライス)」と「価値(バリュー)」を混同しないということだ。
■ 「値切らせない」という規律
市場は常に、あなたを「安く買い叩こう」と誘惑してくる。 効率化という名のもとに質を下げさせ、最大公約数に受けるような安易な表現を求め、あなたの「固有の味」を薄めさせようとする。その誘惑に負けて一度でも暖簾の質を落とせば、手元にカネは残るかもしれないが、二度と取り戻せない「品格」という名の資本を失うことになる。
「カネが取れるレベル」の仕事をすることはプロとして当然だ。だが、それ以上に大切なのは、「どれほどの金を積まれても、この一線だけは譲らない」という聖域を持つことである。その頑固さ、その不器用な矜持こそが、結果として市場におけるあなたの「希少性」を決定づける。
■ 資本としての「信用」を運用する
本当の意味で「稼ぐ」とは、単に預金通帳の数字を増やすことではない。 自分の記述や振る舞いを通じて、他者の心の中に「この人の言葉なら信じられる」という無形の信用を蓄積していくことだ。
金銭的な資本はインフレや恐慌で目減りすることがあるが、積み上げられた「人格的信用」は誰にも奪うことができない。暖簾を出し続けるということは、この最も堅実な資産を日々運用していることに他ならない。目先の利益のために信用の元本を削るような生き方は、長期的には最も「損」な選択なのだ。
■ 矜持が、カネを「価値」に変える
カネそのものには色がない。だが、それを手に入れるまでの「プロセス」は、そのカネに消えない色をつける。 魂を削り、規律を守り抜き、納得のいく「灰」を残した結果として得られた対価には、誇りが宿る。その誇りがあるからこそ、私たちは再び背筋を伸ばして、次の日の暖簾を掲げることができるのだ。
もし、あなたが自分の仕事に値段をつけることに迷いを感じるなら、鏡の中の自分に問いかけてみてほしい。 「その価格は、あなたの暖簾の重みに見合っているか?」と。
私たちは、カネのために生きるのではない。 自らの品格を保ち、納得のいく「私」であり続けるために、正当な対価を求めるのだ。 高く掲げた暖簾を、安売りしてはならない。
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