スマホのニュースかなにかで読んだ話だが、豊臣秀吉が、偉くなってからの話だが、昔の御用達の娼婦が、どこぞの男と結婚して、豊臣秀吉に挨拶に来たところ、豊臣秀吉が激怒して、夫婦もろとも虐殺した、という話があったらしい。
これをどう解釈するか、は諸説あるだろうが、自分が思うに、豊臣秀吉は、自分の卑賤の過去を公然と晒しに来た娼婦が、許せなかったのではないだろうか。
あるいは、松本清張の「砂の器」は、犯人が、父親がハンセン病で、親子ともども各地を放浪していた過去を(意図せずして)暴きかねない(過去の)恩人を殺害する、という話だ。
それは、「明るい」戦後高度成長期の、いわば「陰」を反映している。
このように、社会というのは、理屈では説明し切れない、あるいは、説明を拒否するような、マグマのようなエネルギーを、理屈の底の下に宿している気がする。
今の日本社会も、どうも、理屈を超えたエネルギーが、国家権力の統制の及ばないレベルで、暴発しかねないレベルまで来ている気がする。
そういう時に、いくら理屈で説明しても、かえってリアルに身を滅ぼすだけのような気がするのだが、しかし、それをしないで身を隠すように生きるのは、いやだ。
(参照:「後期ハイデガー入門講義」 仲正昌樹 作品社)
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