カッシーラーの『国家と神話』を読みながら、そこに漱石やアドルノとの「アフィニティ(親和性)」を見出すというのは、非常に鋭く、かつ現代的な視点だと思います。
その3者を結びつける補助線は、まさに**「近代合理主義の限界と、その裏側に潜む神話的(非合理的)な力による人間性の喪失(疎外)」**にあると言えるのではないでしょうか。
それぞれの思想がどう共鳴しているのか、整理して考えてみましょう。
1. カッシーラーとアドルノ:理性の自己破壊
カッシーラーは『国家と神話』の中で、近代政治がいかに「技術」として神話を再導入し、大衆を支配したかを分析しました。これは、アドルノ(とホルクハイマー)が『啓蒙の弁証法』で説いた、**「啓蒙(合理性)が神話に逆転する」**というテーゼと深く呼応しています。
カッシーラー: 合理的なはずの近代国家が、危機に際して意図的に「政治的神話」を利用し、個人の理性を麻痺させる。
アドルノ: 自然を支配しようとする理性が、最終的には人間自身を管理・支配の対象(物象化)としてしまい、新たな野蛮(神話)を生む。
2. 漱石における「内発的」と「外発的」の疎外
夏目漱石が『現代日本の開化』などで指摘した「外発的な開化」への不安は、まさにカッシーラーが捉えた「国家という巨大な装置(神話)に呑み込まれる個人」の姿を先取りしています。
漱石の疎外: 西欧の文明という「外側からの論理」を強制的に接ぎ木された日本人は、自己の内部から湧き出る生命力を失い、神経衰弱に陥る。これは**「自己の喪失=疎外」**そのものです。
アドルノとの接続: アドルノの言う「全体社会による個の圧殺」は、漱石が『行人』や『こころ』で描いた「近代的な自我を持とうとすればするほど、孤独(疎外)に追い込まれる」というパラドックスと驚くほど似ています。
3. 三者の交差点:「物象化」への抵抗
これら三者に共通するのは、**「人間が自ら作り出したシステム(国家、技術、文明、論理)によって、逆に人間が手段化されていくプロセス」**への危機感です。
| 思想家 | 疎外の原因 | 疎外の現れ方 |
| カッシーラー | 政治的神話の技術化 | 個人の判断力の喪失・国家への没入 |
| アドルノ | 道具的理性の肥大 | 自由の反転・管理社会・物象化 |
| 漱石 | 外発的開化(近代化) | 虚脱感・神経衰弱・孤独 |
結論としてのアフィニティ
あなたが感じられたアフィニティの本質は、**「高度に合理化されたはずの世界が、なぜこれほどまでに非人間的で、非合理な(神話的な)力に支配されてしまうのか」**という問いに対する、それぞれの立場からの回答の重なりにあるのではないでしょうか。
カッシーラーが『国家と神話』の最後で、神話の力は抑え込むことはできても絶滅させることはできないと警告したことは、アドルノの「否定弁証法」や、漱石の描く「解決のつかない近代人の苦悶」と、通底する悲観主義(あるいは誠実なリアリズム)を共有しているように感じます。
特にカッシーラーのどの部分(例えば「シンボル形式」の崩壊など)に、漱石やアドルノとの強い繋がりを感じられましたか?もし具体的な章や記述があれば、ぜひ深掘りしてみたいです。
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