2025年12月22日月曜日

漱石、アドルノと「自然」を巡る考察 (再掲)

 

倫理的自発性(おのずから)の構造と媒介された自然:夏目漱石の「自然」感とアドルノの『自然史』に関する比較考察

I. 序論:近代における自発性と人工性の弁証法

1.1. 研究目的と対象範囲の明確化

本研究は、夏目漱石の小説『それから』の主人公代助が追求した「自然」(じねん)の概念を、それが「青」の世界で構築された人工的な「造り物」であったのか、それとも本来的に人間が所有し得ない抽象的な倫理的理想であったのか、という二律背反的な問いを軸に分析する。さらに、この漱石的な「自然」の倫理的地位を、フランクフルト学派の主要人物であるテオドール・W・アドルノが展開した批判理論における「自然」(Natur)の概念と対比させることを目的とする。

中心的な概念の三点比較分析を行う。一つ目は、代助の美学的「自然」(「青の世界」)1。二つ目は、日本の倫理学的な概念としての「おのずから」(自発性・非強制性)。三つ目は、アドルノの『否定的弁証法』や『啓蒙の弁証法』における「自然」(Natur)、特に「自然史」(Naturgeschichte)および「非同一性」の概念である 2

代助の試みが、近代社会における自律性を確立しようとする主体的な抵抗であると同時に、彼の階級的な特権によって支えられた受動的な逃避であるという二重性を掘り下げ、この実存的な失敗が、アドルノが批判した道具的理性と概念による世界の捕捉という暴力とどのように構造的に響き合っているかを考察する。

1.2. 方法論的枠組み

本報告書では、比較批判理論のアプローチを採用し、明治期の日本文学が西洋近代と対峙する過程で生じた倫理的・美学的葛藤と、後期資本主義に対するフランクフルト学派の体系的な批判 2 との間に橋を架ける。

漱石文学における核心的な問題は、非強制的な世界との関係性(おのずから)の理想が、現実の社会的・経済的媒介(『それから』における「赤の世界」1 や、アドルノが指摘する「搾取的経済の優位」3)によっていかに浸食されるか、という緊張関係にある。代助の行動は、この緊張を乗り越えようとする美学的な試みだが、その試み自体が、究極的には経済構造と社会的欲望によって媒介されているということを、アドルノの理論的枠組みを用いて明らかにする。

1.3. 用語の確立と概念的分化

分析の精度を保つため、使用する用語を厳密に区別する。

  1. 自然(じねん): 漱石の文学的テーマとして、特に代助が目指す純粋で人工的な介入のない状態を指す。

  2. おのずから(自発性): 日本の倫理的伝統において、作為や意図的な努力を排し、自律的かつ非強制的に物事がそうなる状態を指す抽象的な規範概念。

  3. アドルノのNatur (自然): ロマン主義的な純粋な自然ではなく、歴史的苦痛と社会的関係によって媒介され、硬化した「第二の自然」としての歴史(Naturgeschichte)を指す 3。これは道具的理性の概念的暴力に抵抗する「非同一的なもの」である 3

II. 漱石の離脱の倫理学:「青の世界」という人工性の構築

2.1. 代助の存在論的抵抗

代助の生活は、明治後期の社会契約(労働、結婚、功利性)への関与を徹底的に拒否する、急進的な美学化された引きこもりの実験である。『それから』において、代助は社会の期待から離脱することで、一種の「自然」な状態、すなわち「青の世界」の実現を試みる。彼の存在自体が、社会的強制に対する非活動的な抗議として機能している。

代助の日常の儀式は、人工的な純粋さ、あるいは「自然さ」を達成しようとする高度に様式化されたパフォーマンスである。朝早く、まだ世界の半面が「赤い日に洗われていた」1 時に起き、すぐに風呂場へ行って水を浴びる行為は、彼が社会的な時間、つまり功利的な活動の「赤の世界」1 から自らを物理的に切り離し、浄化しようとする意図を象徴している。

2.2. 『それから』の象徴的地理:青と赤の対比

小説における色彩象徴主義は、代助の内的世界と外的現実の決定的な対立を示している 1

「赤の世界」(赤)は、『欲動』(yōdō、欲望、情熱、経済的必然、社会的義務)を体現する。これは、兄夫婦が向き合って話し合い、父が「用がある」と呼ぶ、家族と社会の要求が渦巻く領域である 1。代助の「青の世界」は、この赤い欲望や強制から離れた、冷たく、清澄で、美学的な離脱を意味する。彼は朝食をとらず、ただ紅茶を一杯飲み、新聞を読むが、「殆んど何が書いてあるか解(わか)ら」ないという 1

代助が朝の現実に目覚め、世界が赤い日に洗われているのを見て、すぐさま水浴びへと向かう場面は、現実から自らを隔離しようとする日常的な「汚染除去」の儀式であることを示唆している。彼は、世界の要求、すなわち経済と欲望という「歴史」から、自身を切り離し、固定化された美学的な純粋さを維持しようと試みている。

2.3. 「自然」の「造り物」化:美学主義の同一性思考

代助が追求した「自然」(じねん)は、ユーザーの指摘通り、必然的に「造り物」であると分析される。真の自発性(じねん)は、計画されたり、所有されたり、儀式化されたりすることによっては得られないからである。

代助の「青の世界」の維持は、彼の継承された経済的安定性、すなわち兄や父の社会活動によって稼ぎ出された富に完全に依存している。彼は、社会から受け取る特権的地位を利用して、その社会を拒否するという矛盾を抱えている。

この構造は、アドルノの批判理論における「同一性思考」の概念に構造的な類似性を示す。代助は、純粋さという主観的な概念を、客観的な生活の雑多さ、欲望、社会的現実(対象)に無理やり押し付け、自己を固定化しようと試みている 3。彼は、自らの概念(純粋なじねん)を用いて、現実(欲望や社会的な要求)を整理し、排除しようとする。このようなコントロールを伴う行為は、自発性(おのずから)の対極にある。彼の知的な離脱、すなわち新聞の内容を理解できない状態 1 は、彼の純粋さが知的な厳密さではなく、むしろ麻痺と受動的な消費の産物であることを示している。

代助が倫理的なコミットメントから逃れるための美学的な盾としてじねんを用いようとすることは、彼が抽象的な理想を所有可能な生活様式として扱ったことを意味する。彼の美学的な要塞は、美知代への欲望という根源的な人間的な欲動 1 が侵入した瞬間に崩壊する。これは、現実(非同一的なもの)が概念的な捕獲に抵抗するという、アドルノ的な洞察を文学的に先取りしている。

Table 2: 代助の世界:美学的人工性 vs. 社会的現実


代助の構築物(青の世界)

外部の現実(赤の世界)

アドルノ的批判(含意)

美学的な離脱(水浴び、紅茶) 1

社会的義務(労働、家族の要求、早朝の活動)

自然史(歴史的現実)の回避 3

純粋さとコントロール(厳格な日常)

欲望(欲動)と自発性(混沌)

失敗した同一性思考(自己を概念に強制的に従属させる) 3

受動的な消費(新聞の不理解) 1

搾取的経済(富と閑暇の源泉) 3

非批判的な主体性(文化産業の産物) 2

III. 倫理的抽象概念としての「おのずから」:非所有性の理想

3.1. 「おのずから」(自発性)の輪郭描写

「おのずから」という倫理的概念は、古典的な日本の倫理思想、特に外部からの道徳化以前の初期仏教哲学や神道的な非媒介的な自然の理想に起源を持つ。これは、作為的な努力なしに、物事が「自らそうある」状態を指す。

この概念は、近代の合理的かつ功利的な合理主義を批判するための反功利主義的な枠組みとして機能する。自己と世界との間に強制のない関係性、つまり非強制的な応答性を実現するための、達成不可能な抽象的理想として作用する。

3.2. 「おのずから」が非所有性でなければならない理由

もし「おのずから」が意図的な努力や意志的な選択によって獲得されるならば、それはもはや自発的ではなくなり、媒介され、意図された状態、すなわち代助が作り出した「造り物」へと変質してしまう。

したがって、「おのずから」は、カント的な意味での規定的理念として機能し、存在論的に達成可能な状態というよりも、倫理的な基準を維持するための概念として存在する。その倫理的価値は、それが主体の概念的捕捉に抵抗し続ける抽象性、つまり批判的なカウンター概念としての地位を保つことにある。

代助の決定的な誤りは、「おのずから」を非所有性の倫理的立場としてではなく、所有可能な美学的商品、一種のライフスタイルとして扱った点にある。抽象的な理想と、具体的な、意志によって作り出された同一性とを混同したことが、現実の欲望(美知代への感情)に直面した際の崩壊を不可避にしたのである 1

3.3. 非強制的な模倣(ミメーシス)としての「おのずから」

抽象的な「おのずから」の理想は、アドルノが追求した「ミメーシス」(Mimesis、非強制的な適応)の概念と構造的な類似点を共有している 2。アドルノは、道具的理性からミメーシスを取り戻そうとし、それは概念を押し付けることなく対象に「語らせる」ことを含意すると論じた。

「おのずから」もまた、意識的なカテゴリー化や道具的計画を超越した自発的な応答性を追求する。両概念は、世界に対する非暴力的な倫理的願望、すなわち、主体の意図や概念的強制が介入しない状態を志向するという点で一致する。

IV. アドルノの「自然」:非同一性、ミメーシス、そして自然史

4.1. 道具的理性と啓蒙の暴力

テオドール・W・アドルノはフランクフルト学派の主要なメンバーとして、マックス・ホルクハイマーらと共に批判理論を展開した 2。その核心は、近代における道具的理性の批判、すなわち、世界(自然)を測定可能で制御可能な資源へと変貌させ、最終的に「搾取的経済の優位」に奉仕するシステムへの批判である 3

アドルノにとっての「自然」は、牧歌的で良質な対象ではない。それは歴史と苦痛によって荷重された概念であり、フロイト、マルクス、ヘーゲルといった思想家たちの影響の下、近代社会の病理を批判する基盤となる 2

4.2. 媒介としての「自然史」(Naturgeschichte

アドルノの思想において、「自然史」(Naturgeschichte)の概念は極めて重要である 3。自然は、社会的な強制と経済的な媒介が、あたかも不変で超越的なものであるかのように硬化した「第二の自然」であり、歴史の苦痛がその中に刻み込まれている。

この概念は、代助が歴史や媒介から切り離された純粋なじねんを構築しようとする試みを根本的に拒絶する。アドルノによれば、自然は歴史の外側にあるものではなく、歴史そのものが自然へと沈殿した状態だからである。代助が無視しようとした社会的な現実と経済構造こそが、彼の「自然」観を既に規定していることになる。

4.3. 同一性思考の批判と非同一的なもの

アドルノの哲学的核心は、概念と対象、精神と物質、個人と社会の間にある「非同一性」の承認にある 3。哲学の使命は、主体の概念的統合に抵抗し、そのカテゴリーに収まらないものを認識することである。

アドルノにとっての「自然」(Natur)は、まさにこの非同一的な残余であり、主体(人間)の概念的強制(同一性思考)の下で苦しむ対象である。道具的理性は、世界を自らの概念の網に閉じ込めようとするが、自然は常にその網から漏れ出す。この漏れ出す非同一的なものを肯定することから、アドルノの倫理的要請は始まる。

4.4. アドルノの倫理的要請

アドルノは、真の倫理は対象の非同一性を認めること、すなわち世界を主体の概念に無理やり押し込まないという意志の抑制から始まると主張する。この態度は、批判理論の出発点であり、「根本的な解放」への道筋を示す 3

代助が作り出した静的でコントロールされた美的環境(「青の世界」1)は、歴史的世界からの避難所を求めるものだが、アドルノの「自然史」は、そのような避難所は不可能であり、歴史的・社会的なプロセスがすでに「自然」とされる領域を飽和させていることを主張する。代助の個人的な美的純粋さは、彼が無視している搾取的経済 3 によって補助されており、したがって、この「自然」はイデオロギー的に疑わしいものとなる。

V. 比較分析:非媒介的な経験の危機(「自然」対Natur

5.1. ブルジョワ的観念論への並行する批判

漱石とアドルノはともに、近代の主体が真の自律性や自由を達成することの失敗を診断している。漱石は、代助の美学的離脱を通じて、明治期のブルジョワジーが採用した西洋的な美学主義の倫理的な無益さを批判する。一方、アドルノは、後期資本主義が生み出した標準化され、同一性駆動型の主体を批判する 2

代助の閑暇を支える「搾取的経済」3 は、アドルノが批判するシステムと構造的に同一である 2。両者は、個人が社会的な媒介を無視して純粋な領域を求めることの不可能性を、それぞれの文化圏の文脈で示している。

5.2. テーゼA:代助の「自然」としての失敗した同一性思考

代助が美学的な浄化(「青の世界」の儀式 1)を通じてじねんを確立しようとする試みは、アドルノが「同一性思考」と呼ぶ哲学的な誤りを例証している。これは、対象(生命、欲望、社会)を主体の概念(純粋さ)に強制的に従属させる行為である 3

代助は、自己を社会「に対して」定義するために、概念的なカテゴリー(じねん)を使用する。このような完全な自己定義の試みは、アドルノによれば哲学的な暴力の一形態である。代助の試みが失敗に終わるのは、現実(美知代や欲望の回帰)が彼の概念的な捕獲に抵抗し、彼の美学的同一性が崩壊するからである。この崩壊は、現実が非同一的であることを示している 3

5.3. テーゼB:抽象的な「おのずから」は非同一性の前兆

倫理的な概念としての「おのずから」は、非所有性で、自発的に「自らそうなる」状態を意味する限りにおいて、アドルノの言う非同一的な残余に対する非西洋的な概念的等価物として機能する 3。これは、人間の意志や範疇化の押し付けに抵抗する、批判的な理想として存在する。

代助が試みた個人的な倫理的失敗は、アドルノの批判理論のレンズを通すと、媒介から逃れようとするより大きな歴史的、体系的な失敗の症状として露呈する。代助の美的な純粋さは、アドルノが批判した文化産業 2 が生み出す無批判で麻痺した受動的主体と、その根底で通じ合っている。

Table 1: 比較概念枠組み:漱石の「自然」とアドルノのNatur


概念カテゴリー

漱石の「自然」(自発性)

アドルノのNatur(自然/自然史)

主要な地位

倫理的/美学的な理想;抽象的な「おのずから」。

非同一的な残余;苦痛によって媒介される(Naturgeschichte3

代助の試み

美学的、意志的な分離(「青の世界」) 1

同一性思考への批判;純粋な分離は歴史的に不可能。

媒介との関係

社会的・経済的媒介からの逃避として求められる。

歴史的・経済的媒介によって刻印されている 3

倫理的基準

非強制的な自発性(「おのずから」)。

非強制的な模倣(ミメーシス)と対象の苦痛の承認。

失敗の核心

所有しようとした際に「造り物」へと変質すること。

道具的理性と搾取的経済による隷属 3

5.4. 失敗の必然性と弁証法的倫理

両体系の分析は、理想的な状態(じねん、または非強制的な自然との関係)が、具体的な現実に適用される際に必然的に破綻しなければならないことを示唆している。

もし代助がその純粋な美学的離脱を成功裏に維持していたならば、漱石は倫理的に不毛な解決策を是認したことになったであろう。アドルノは、完全な概念的服従(同一性思考の成功)は哲学的暴力の極致であると論じる。それゆえ、『それから』におけるじねん失敗は、現実の非同一性を証明するものであり、否定的弁証法と一致する倫理的な成功であると解釈される。代助の内部で抑圧されていた欲望(彼の主観的な自然 1)が美知代を通じて噴出し、彼の美学的な砦を打ち破ることは、アドルノがフロイトの知見を取り入れた上で 2、自然(主観的な内面性を含む)が概念的な幽閉に激しく抵抗するという視点を確認させる。

VI. 結論と倫理的統合:非強制性の倫理

6.1. 抽象的理想の再較正

本報告書の分析を通じて、「自然」(じねん)は、純粋な「おのずから」として、あくまでも非所有性の抽象的な概念としてのみ理解されなければならないことが再確認される。その価値は、主体の謙虚さを要求する、その持続的な非強制性に存する。代助の試みは、この抽象的な理想を具体的な生活様式として「所有」しようとした点に本質的な誤りがあった。

6.2. 自発性の否定的弁証法

アドルノの否定的弁証法を漱石のテキストに適用することで、次の結論が導かれる。真の自発性(倫理的な「おのずから」)は、捏造された自発性(代助の「青の世界」という造り物)が、欲望と歴史的現実の重みによって崩壊する瞬間にのみ、逆説的に露呈する 1。代助が、美知代との関係を通じて最終的に社会的な強制と対峙し、自己の安全を捨てたことは、彼の美学的な逃避が破綻した結果として、真の倫理的コミットメント、すなわち非同一的な現実への応答へと移行した瞬間と解釈される。

6.3. 近代に向けた倫理的提言

漱石もアドルノも、近代社会が抱く、自然や自発性を単純化し、制御し、あるいはロマンチックに描こうとする衝動に対して、根本的な挑戦を突きつける。倫理的な姿勢とは、美学的な逃避を試みることではなく、むしろすべての現実—自己の内面的な欲望を含め—に内在する苦痛、非同一性、そして歴史的媒介を認識し、それに批判的に向き合うことである。代助の「造り物」としての「自然」は、近代の主体が非強制的な生を求めたがゆえに陥った、概念的強制の罠を明確に示している。アドルノの批判理論は、その罠が後期資本主義の構造的暴力に根ざしていることを、より体系的に解明する枠組みを提供する 2

引用文献

  1. それから - Wikisource, 12月 14, 2025にアクセス、 https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%8B%E3%82%89

  2. Theodor W. Adorno - Wikipedia, 12月 14, 2025にアクセス、 https://en.wikipedia.org/wiki/Theodor_W._Adorno

  3. Theodor Adorno: Key Concepts - Notre Dame Philosophical Reviews, 12月 14, 2025にアクセス、 https://ndpr.nd.edu/reviews/theodor-adorno-key-concepts/

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若いなぁ・・・

 高市首相は、10代、20代からの支持が絶大らしく、確かにヤフコメ見てると、日本語が若いなあ、と感じる。 なんというか、オッサン臭さが微塵もなくて、それこそ物心ついた時にはもうSNSに触れてた、という、いわゆる「デジタル・ネイティブ」ってやつなのかな、と思う。 誰かをディスろうっ...