BS-TBSで、昔の「渡る世間は鬼ばかり」の再放送をやっていて、母親が欠かさず視ている。
あれ見てて思うのは、あのクソTBSでも、昔はこんな良いドラマをやってたんだな、というのがまず第一。
そして、自分も大人になったと言うか、あのドラマの構成は、角野卓造さんが居るから物語として成立してるんだな、ということ。
子供の頃は、大衆食堂のブサイクなオッサン、としか思わなかったが、今では、角野卓造さん神じゃん!と思う。
角野卓造さんいなかったら、あの一族は崩壊している。
渡る世間は鬼ばかり、というけれど、そうやって、日々色んな立場の人たちのエゴが衝突しながら、それでもバランスを保って生きていくことこそが、人生なんだ、と思う。
そんな年齢に、自分もなった。
・・・何が言いたいかっていうとね、姉に言いたいんだよ、オレは。
この人は味方、この人は敵、と二項対立で捉えるのもね、構わないけど、もう50近いんだから、いい加減ネバーランドから出てこいや!ってことなのよ。
この人は味方だと思っても、甘え切ればウザがられるし、この人は敵だと思っても、情け容赦なく責め立てる、という訳でも必ずしもない。
俺自身は、姉から敵認定されていたほうが、言いたい放題言えるし、変に甘えて来ないから、そのほうが遥かにマシだけど、だからって、たまには情けをかけることだってあるんだから、いい加減子供みたいなこと考えてんじゃねえ!ってことよ。
・・・ちょっと大袈裟な話だけど、デービッド・ヒュームの保守主義から、フリードリヒ・ハイエクの自生的秩序に至る自由主義の系譜って、つまるところ「渡る世間は鬼ばかり」なんだと思うんだよ。
色んな立場のエゴがぶつかり合いながらも、うまくバランスを保って機能している。そして、そこには目立たないけどゲーム全体の基軸となるバランサーがうまく働いてくれている。本当に偉大なのは、そういう目立たないけれど、ピボットの役割を担ってくれている人なのだ。
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