メモ

「大坂堂島米市場」講談社現代新書 を 読んだところによれば、 堂島米市場においては、 参加できる メンバーは限られていたらしい。 (少数という意味ではない。) 具体的には、「札」という ある種の 参加資格を得た 商人だけが、参加でき、 また、 詐瞞行為に対しては、 グループ内から厳しい 制裁を加えられたそうだ。  人間社会の歴史というのは、ある意味では 不特定多数の人間集団を、どう ガバナンスするか、の 試行錯誤の歴史だったとも言えるだろう。 「先物取引」の世界では、 グループの規模が 大きくなりすぎないからこそ、 秩序が成り立っていた、とも言える。 逆説的に言えば、 「先物取引」における 金融工学の革命的な 進歩により、 「先物取引」に参加できる プレーヤーの数そのものが それこそ 地球規模に拡大した。 しかし、サブプライム・ローン ショックを見れば 分かるように、この どれほどの人が参加しているのか、 把握できない状況は、 リスク分散の把握や、モラルハザードの危険性を 完全に 把握することを 困難にし、システミックリスクを内包するものだった、と 言えるだろう。 しかし、人工知能が加速度的に 発達する現在、飽くまで 技術的に言えば 地球規模での 「グローバル・ガバナンス」が 実現出来てしまう 可能性は否定できない。 それは果たして ユートピアだろうか? 現実に、今の 中国は 人工知能を使った 「超管理社会」と言われている。 そのような状態が、果たして 「ユートピア」と 呼べるものなのか? しかし、肝心なことは、 ある政治グループを完全に コントロールすることではなく、 政治的な文脈における 「多元主義」が 確保されていることではないか。 ひとつの方向性に、ある 社会集団が収斂してしまうことは、 古今東西 悲劇的な結末を産む、というのが 人間社会の歴史からの 教訓と言えるのではないか。 この「多元主義」は、ハンナ・アーレントの 「多数性」にも通じる。 公的領域において さまざまな価値観やビジョンを持った人たちが、 お互い 議論を交わすことが、 アーレントにいわせれば 人間の最高の行為としての 「活動」であり、 そこにおいて、自分とは 異なる意見を 認めることに、 (人間が)人間を 「赦す」 可能性がある、と 見ていたとも言えるだろう。

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