質問:ガーシェンクロンによる「キャッチアップ型工業化論」から、夏目漱石への連接についてですが、この脈絡は、何か先行研究があるのでしょうか?
回答:先行研究ではなく、漱石自身が自己分析をしています。
「私の個人主義」(大正4年、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫 緑11-10)によると、「私のここに他人本位というのは、・・・人真似を指すのです」(p.112)、「わたしはこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました・・そのとき私の不安は全く消えました」(115)。
また「現代日本の開化」(明治44年、同所収)によると、開化すなわち近代化には「外発的」な欧米の人真似と、「内発的」なものとがあります。
漱石は「外発的」で「他人本位」から「内発的」で「自己本位」へ転じることで不安を逃れることが出来たとしていますが、それを松原はガーシェンクロンの「模倣」から共有資本の「自生」への転換、と理解しています。
追加でご回答いただきました。:先行研究ではなく、漱石自身が自己分析した文章を私なりに解釈したものです。
「私の個人主義」(大正4年、三好行雄編『漱石文明論集』岩波文庫 緑11-10)によると、漱石の「不安」は自分が英文学を果たして本当に理解できているのかにかかわっていました。
「いくら人に賞められたって、元々人の借着をして威張っているのだから、内心は不安です」(p.113)。では何を借りて威張っているのかというと、「私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似を指すのです」(p.112)。
「私は英文学を専攻する。その本場の批評家のいう所と私の考えと矛盾・・が果たして何処から出るかという事を考えなければならなくなる。風俗、人情、習慣、遡っては国民の性格皆この矛盾の原因になっているに相違ない」(p.114)。
文学が対象とするのは自然や人情(人間関係にかかわる感情)、習慣、国民性です。漱石は英国で自生したそれらの共有資本を日本人が心から味わえているのか、英国人批評家の尻馬に乗って人真似しているだけではないか、と煩悶し不安になり、最終的に「わたしはこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました・・そのとき私の不安は全く消えました」(p.115)という心境に至りました。自然や人情、習慣、国民性は、自己本位に自生したものでないと、自信を持って論評できないと考えたのです。
ガーシェンクロンは、途上国は先進国の模倣をすることにより、経済的には早足で成長しうることを発見しました。英米の帝国主義に怯えた明治政府が目指したのはこれです。しかし先進国の共有資本を模倣した、すなわち漢籍に心落ち着いていた幕末日本人の文学的感性に英文学を押しつけた、同様に5音階でしかない音楽に西洋音楽の7音階をはめ込み、日本的美意識に西洋絵画の構成を持ち込んだ結果、漱石は自分では心から英文学を理解することができないという「不安」に巻き込まれてしまったというのです。漱石の不安は「ガーシェンクロンの模倣」の副産物と言うべきでしょう。
また「現代日本の開化」(明治44年、同所収)によると、開化すなわち近代化には「外発的」な欧米の人真似と、「内発的」なものとがあります。漱石はガーシェンクロンの「外発的」で「他人本位」な開化から「内発的」で「自己本位」の開化へ転じることで不安を逃れることが出来たというのです。これは共有資本が浸食を受けた状態から「自生」を回復することへの転換により、不安が解消されるということでしょう。
1. 序論:『それから』に映し出される明治期の近代化 本稿は、夏目漱石の小説『それから』を題材に、日本の近代化がもたらした状況と、それが個人の経験に与えた影響について考察するものである。特に、経済的豊かさが生み出す「自家特有の世界」への耽溺と、それが最終的に経済の論理に絡め取られていく過程、そしてテオドール・W・アドルノが指摘する、社会の合理化と精神世界における非合理への慰めを求める人々の傾向を、作品を通して分析する。 日本の明治時代(1868-1912年)は、長きにわたる鎖国状態を経て、1853年の黒船来航を契機に世界と対峙し、驚くべき速度で西洋の制度や文化を取り入れ、「近代国家」への道を歩んだ画期的な時代である 。この時期には、鉄道、郵便局、小学校、電気、博物館、図書館、銀行、病院、ホテルといった現代の基盤となるインフラや制度が次々と整備された 。政府は「富国強兵」や「殖産興業」といった政策を推進し、工場、兵舎、鉄道駅舎などの建設を奨励した。また、廃藩置県や憲法制定といった統治制度の変更に伴い、官庁舎や裁判所、監獄などが建設され、教育制度の導入は学校や博物館の整備を促した 。 西洋化の影響は日常生活にも深く浸透した。住宅様式においては、外国人居留地を起点に西洋館が普及し、やがて庶民の住宅にも椅子式の生活スタイルが段階的に浸透した 。食文化においても、仏教の影響で長らく禁じられていた肉食が解禁され、西洋列強との競争意識から日本人の体格向上と体力増強が期待された 。洋食は都市部の富裕層を中心に広まり、カレーライスやオムライス、ハヤシライスといった日本独自の洋食が定着した 。大正ロマン期(1912-1926年)には、西洋文化と日本独自の文化が融合し、「モガ」や「モボ」と呼ばれる若者たちが洋装に身を包み、カフェで音楽や映画を楽しむ「自由でおしゃれな空気」が醸成された 。経済面では、明治後期から軽工業が発展し、日露戦争前後には鉄鋼や船舶などの重工業が急速に発展し、日本の近代化を加速させた 。第一次世界大戦期には工業生産が飛躍的に増大し、輸出が輸入を上回る好景気を享受した 。 『それから』(1909年発表)は、夏目漱石の「前期三部作」の二作目にあたり、急速な近代化が進む日本を背景に、個人の欲望と社会規範の...
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