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「アドルノ」 岩波現代文庫より 抜書 (再掲)

もっとも、 アドルノが 主観と客観との 絶対的な分離に敵対的であり、 ことに その分離が 主観による 客観のひそかな 支配を秘匿している ような場合には いっそう それに敵意を 示したとは言っても、 それに替える彼の代案は、 これら 二つの概念の完全な統一だとか、 自然のなかでの 原初の まどろみへの回帰だとか を もとめるものではなかった。 (93ページ) ホーマー的ギリシャの 雄大な全体性という 若きルカーチの幻想であれ、 今や 悲劇的にも忘却されてしまっている 充実した <存在> というハイデガーの概念であれ、 あるいはまた、 人類の堕落に先立つ 太古においては 名前と物とが一致していたという ベンヤミンの信念であれ、 反省以前の統一を 回復しようという いかなる試みにも、 アドルノは 深い疑念をいだいていた。  『主観‐客観』は、 完全な現前性の 形而上学に対する 原‐脱構築主義的と 言っていいような軽蔑をこめて、 あらゆる 遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。 (94ページ) 言いかえれば、 人間の旅立ちは、 自然との原初の統一を 放棄するという 犠牲を払いはしたけれど、 結局は 進歩という性格を もっていたのである。 『主観‐客観』は、 この点を指摘することによって、 ヘーゲル主義的マルクス主義をも 含めて、 人間と世界との 完全な一体性を 希求するような哲学を 弾劾してもいたのだ。 アドルノからすれば、 人類と世界との全体性という 起源が失われたことを嘆いたり、 そうした全体性の 将来における実現を ユートピアと同一視したりするような哲学は、 それがいかなるものであれ、 ただ誤っているというだけではなく、 きわめて 有害なものになる可能性さえ 秘めているのである。 というのも、 主観と客観の区別を 抹殺することは、 事実上、 反省の能力を失うことを 意味しようからである。 たしかに、 主観と客観のこの区別は、 マルクス主義的ヒューマニストや その他の人びとを 嘆かせた あの 疎外を産み出しもしたが、 それにもかかわらず こうした反省能力を 産み出しもしたのだ。 (「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とは もともとイデオロギー的なものなのだ、 と アドルノは主張する。 「社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上 その関数に貶めれられるように なればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である 絶対的支配なるものを ともなった原理として 高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。」  言いかえれば、 観念論者たちの メタ主観は、 マルクス主義的ヒューマニズムの説く 来たるべき集合的主観なるものの 先取りとしてよりもむしろ、 管理された世界の もつ 全体化する力の原像と 解されるべきなのである。 ルカーチや 他の西欧マルクス主義者たちによって 一つの 規範的目標として 称揚された 全体性というカテゴリーが、 アドルノにとっては 「肯定的なカテゴリーではなく、 むしろ 一つの批判的カテゴリー」 であったというのも、 こうした理由による。 「・・・解放された人類が、 一つの全体性となることなど 決してないであろう。」 (「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  アドルノからすれば、 人類と世界との 全体性という 起源が 失われたことを嘆いたり、 そうした全体性の 将来における 実現を ユートピアと同一視したり するような哲学は、 それがいかなるものであれ、 ただ誤っているというだけではなく、 きわめて有害なものになる 可能性さえ秘めているのである。  というのも、 主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上、 反省の能力を失うことを 意味しようからである。 たしかに、 主観と客観のこの区別は、 マルクス主義的ヒューマニストや その他の人びとを 嘆かせた あの疎外を産み出しもしたが、 それにもかかわらず こうした反省能力を 産み出しもしたのだ。 (「アドルノ」岩波現代文庫95ページ)

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