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5月, 2024の投稿を表示しています

財政論

質問:日本の政府債務残高は、GDPの2・6倍に達しています。財政の持続可能性のためには、名目経済成長率が名目金利を上回っている必要があります。しかし、今後日本の名目金利の上昇が予想される環境において、名目経済成長率を上昇させるために国債を発行して、日銀に買い取らせるべきだ、との議論が三橋貴明氏などから提示されています。名目金利を名目経済成長率が上回る状況を作り出すうえで、国債を発行して日銀に買い取らせる、という手段は、どの程度現実的と言えるでしょうか?  (以下 Google Bard より回答) 日本の政府債務残高がGDPの2.6倍に達し、財政の持続可能性が懸念されている状況において、三橋貴明氏らが主張する「国債発行による日銀買い取り」という政策手段は、実現可能性と有効性について議論が活発です。 実現可能性 まず、この政策を実現するためには、以下の課題が存在します。 財政規律の堅持との整合性: 大規模な国債発行は、財政赤字を拡大させ、更なる債務増加を招きかねません。財政規律の緩和懸念が高まり、長期金利上昇を誘発する可能性もあります。 日銀の金融政策との整合性: 日銀が大量の国債を買い続けることは、金融緩和政策の長期化につながり、副作用を招く可能性があります。インフレ懸念や財政・金融政策の持続可能性への影響も議論されています。 市場への影響: 大量の国債発行は、市場心理に悪影響を及ぼし、金利上昇や円安を招く可能性があります。 これらの課題を克服するためには、政府による財政再建へのコミットメント、日銀と政府の緊密な連携、市場への丁寧な説明などが不可欠となります。 有効性 仮にこれらの課題を克服できたとしても、この政策が名目経済成長率を名目金利よりも高める効果を持続的に生み出すかは不確実です。 経済成長の持続可能性: 名目経済成長率を上げるためには、生産性向上の取り組みが不可欠です。単に国債発行で財政出動を拡大しても、非効率な投資や浪費に繋がり、持続的な経済成長は期待できません。 財政収支の改善: 財政赤字の拡大は、将来的に増税圧力につながり、国民負担を増加させる可能性があります。財政収支の改善に向けた取り組みとセットでなければ、問題解決にはなりません。 代替案 政府債務残高の削減と経済成長の両立には、以下の様な代替案も検討されています。 歳出改革...

確率論における期待値の意味 google geminiより回答

質問:確率論における「期待値」とは、各事象の起きうる確率にその事象が起きた場合の効用を乗じて、加重平均したものと考えて差し支えないですか? はい、確率論における「期待値」は、各事象の起きうる確率にその事象が起きた場合の効用を乗じて、加重平均したものと考えることができます。これは、直感的に理解しやすい考え方の一つです。 より詳しく説明すると、期待値は確率変数 X の各値 x に対して、その値 x が起きる確率 p(x) を掛け、その積をすべて足し合わせたものです。つまり、以下の式で表されます。 E[X] = Σ_x p(x) * x ここで、Σ はすべての x に対する総和を表します。 この式は、各事象の起きうる確率にその事象が起きた場合の効用を乗じて、加重平均したものと解釈できます。なぜなら、確率 p(x) はその事象が起きる「重み」を表し、x はその事象が起きた場合の「効用」を表すからです。 例えば、コインを投げて表が出たら 1 円、裏が出たら -1 円もらえるゲームを考えましょう。このゲームにおける期待値は、表が出る確率と裏が出る確率にそれぞれ 1 円と -1 円を掛け、足し合わせたものになります。つまり、 E[X] = (1/2) * 1 円 + (1/2) * -1 円 = 0 円 となります。これは、このゲームを何回やっても、平均的にはお金が増えることも減ることもないことを意味します。 このように、期待値は確率変数 X が平均的にどのくらいの値をとるかを表す指標として用いられます。 ただし、期待値はあくまでも平均的な値であり、必ずしもその値になるとは限らないことに注意する必要があります。例えば、上の例では期待値は 0 円でしたが、実際には一回のゲームで 1 円もらえることもあれば、-1 円になってしまうこともあります。 期待値は、確率論や統計学において重要な概念であり、様々な場面で用いられています。例えば、ゲーム理論、経済学、金融工学など、様々な分野で期待値の概念が用いられています。

確率と功利主義の関係性 google geminiより回答

質問:確率と功利主義の関係性について教えてください。 確率と功利主義の関係性 功利主義は、倫理的な行動の正しさを、その行動がもたらす幸福・快楽の量によって判断する倫理学説です。功利主義者は、ある行為が最大多数の最大幸福をもたらすかどうかによって、その行為を善悪判断します。 一方、確率は、ある出来事が起こる可能性を表す数値です。確率は0から1までの値で表され、0は起こらないことを、1は必ず起こることを意味します。 確率と功利主義は、以下のような関係にあります。 1. 不確実性への対応 功利主義は、未来の不確実性を考慮した倫理学説です。私たちは、未来の出来事を完璧に予測することはできません。そのため、功利主義者は、ある行為の期待される効用を計算する必要があります。期待される効用とは、ある行為の各々の結果とその確率を掛け合わせたものです。 例えば、ある新薬が患者を治癒する確率が50%であり、治癒した場合の効用が100、治癒しなかった場合の効用が0だとすると、その新薬の期待される効用は50になります。 2. リスクとベネフィットの評価 功利主義者は、ある行為のリスクとベネフィットを評価する際に、確率を用います。リスクとは、ある行為によって悪い結果が生じる可能性を、ベネフィットとは、ある行為によって良い結果が生じる可能性を指します。 例えば、ある工場が操業を続けることで、周辺住民に健康被害を与えるリスクがある一方で、雇用を創出するベネフィットがある場合、功利主義者は、その工場の操業を続けるべきかどうかを、リスクとベネフィットの確率と大きさによって判断します。 3. 功利主義の批判 功利主義は、確率を用いることによって、不確実性を考慮した倫理判断が可能になりますが、以下のような批判もあります。 確率の恣意性: 確率は主観的なものであり、人によって異なる場合があります。そのため、功利主義に基づく倫理判断は、恣意的なものになってしまう可能性があります。 少数者の利益の軽視: 功利主義は、最大多数の最大幸福を重視するため、少数者の利益が軽視される可能性があります。 道徳的感情の軽視: 功利主義は、道徳的感情を考慮しない倫理学説です。そのため、功利主義に基づく倫理判断は、冷酷なものになってしまう可能性があります。 4. 結論 確率と功利主義は、倫理判断におい...

反・決定論 (再掲)

私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店 私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店

レポート予備

行政法の概念に、「行政指導」と呼ばれるものが存在する。行政は、本来「行政行為」と呼ばれる、命令する主体としての行政と、名宛人の市民との主体・客体関係がハッキリしている手段で運営されるべきものだが、「行政指導」という、極めて日本的な、主体・客体関係が不明瞭な手段が、行政の運営上横行している。もっとも、行政指導それ自体が問題なのではなく、行政指導が、本来強制力を伴わないものであるはずなのに、従わなければ往々にして市民が制裁を加えられることが、常態化しているという現実がある。また、それに留まらず、行政指導が医療のあり方に絶大な影響を与えている。どういうことか。日本の医療制度において、ある一定の地域に、十分な病床数が確保されている場合、新規に医療業者が参入しようとするとき、保険適用が受けられず、自由診療で開業せざるを得ない、という現実が、行政指導によって正当化されている。これは明らかに既存の病院の権益を守り、新規参入者を不当に排除している。問題はこれに留まらない。特に精神医療において、1950年代にフランスで画期的な抗精神病薬が開発され、欧米先進国では病床数が減っていったにも関わらず、日本では逆に病床数が増えた。これは、戦後、精神病患者を建前上しっかり治療しようとの方針から、精神病院の数が増えたからである。そこで、戦後、精神病院が増設される際、一定の範囲で病床数を確保してしまえば、地域の患者を独占できてしまう、という経済的合理性によって、精神病院が往々にして大規模化したことが推測される。言わずもがな、これは行政指導によって、いったん多くの病床数を確保してしまえば、新規参入者を排除できることが、精神病院の大規模化を促したと容易に考えられる。そして、現厚生労働大臣が、戦後日本の医療制度を構築した武見太郎の息子である武見敬三である現実では、これが改められる可能性は極めて低い。

レポート予備

日本の政府債務はGDPの2・5倍に達しているのは周知の事実である。財政の問題を論じるうえで論点となるのは、名目経済成長率と名目利子率のバランス(比率)である。分母が名目利子率であり、分子が名目経済成長率であることを考えると、今後、日銀が利上げの方向に舵を切るうえで、名目経済成長率の向上は、喫緊の課題と考えられる。これを踏まえたうえで、名目経済成長率を向上させるには、労働生産性の向上が避けて通れない。日本の雇用慣行は、長時間労働ありき、年功序列賃金、企業別労働組合の3つが相互に絡まり合っている。仮に、労働生産性を上げようとする場合、長時間労働ありきは、その阻害要因になる。なぜなら、より短い時間でより多くの付加価値を生み出せる労働者がいたとすると、長時間労働ありきの労働現場では、より多くの時間働かせようという発想が根深く染み付いているので、短時間でより多くの付加価値を生み出そうとすると、労働者は疲弊してしまう。したがって、労働者の合理的な選択として、一種の手抜きが行われることは想像に難くない。そうしなければ、疲弊してしまう。従って、敢えてでも労働時間の短縮環境を整備し、労働者各個人の自発的な労働生産性の改善を促す必要があると思われる。もちろん、これは労働者各個人の発想の問題なので、長時間労働が当たり前になっている労働者には、かえってモラルハザードを誘発させかねない。これが、長時間労働ありきが長年の慣行として染み付いた弊害の一つである。そして、その長時間労働ありきの労働慣行を助長してきたのが、年功序列賃金制である。長時間労働ありきの職場環境で、かつ年功序列賃金制である場合、低い労働生産性を労働者が強力に促進するモチベーションとなる。つまり、ダラダラ仕事して見せかけだけ働いて、時間を稼ぐ、という働き方が当たり前となる。そのようなインセンティブを与えている。最後に、企業別労働組合制は、労働者の企業に対する発言権を奪い、上述したような雇用慣行を温存させていることは容易に想像できることである。

黄色信号 (再掲)

円安が進んでますね。 イエレンさんが、投機的な動きがある、と発言していました。 つまり、投機筋が、 円売りを仕掛ている。 なぜ円売りを仕掛ているかというと、 自国通貨が売られて通貨安になれば、 常識的には、中央銀行は、利上げをして自国通貨高に誘導しようとする。 日本に当てはめると、 日銀がイールドカーブコントロールという、馬鹿げた政策によって、 中央銀行は本来、短期金利しかコントロールできないとされているのに、 長期国債を無制限に買い入れて、 無理やり長期金利を抑え込んでいる。 つまり、日本国債の価格が異常に高い。 (裏を返せば、日本国債の利回りが異常に低い。) 投機筋は、円を売れば、 日銀は過度な円安を修正するために、 政策金利を上げざるを得ないと読んでいる。 それだけでなく、投機筋は、 日本国債売りも同時に仕掛けています。 そうすると、日銀は、金利上昇抑制のために、日本国債買い入れを余儀なくされる。 そうすると、市場に円が供給されるので、 結果、円安がますます進行する、という悪循環に陥っています。 まあ、はっきり言って自業自得としか言いようがないですが、 政府・日銀は、 日本国債を買い入れつつ、外貨準備を使って円買い介入をする、という 矛盾したことやろうとしています。 なぜ矛盾しているかというと、 国際金融のトリレンマに従えば、 「資本移動の自由」 「為替の安定」 「金融政策の独立性」 の3つは、同時にすべてを達成することは出来ないからです。 資本移動の自由は犠牲にすることは出来ません。 従って、 為替の安定と金融政策の独立性のどちらかを犠牲にせざるを得ないわけですが、 金融政策の独立性を保持するとすれば、 外貨準備を使って為替介入しなければ、 自国通貨は安定しないのです。 日銀・政府は、 大規模金融緩和を継続する一方で、為替介入をする、という”矛盾した”政策を行っているわけです。 投機筋もこれは完全に計算のうえでやっていますが、 問題は、結局のところ 日銀がどこまで無謀な大規模金融緩和を続けるか、ということです。 大規模金融緩和を続ける限り、 日銀のバランスシートに日本国債がたまり続けるだけで、 金利は上がりませんから、 今までは一般人も痛みを感じなかったので、 非難の声が上がりませんでしたが、 円安が急速に進んで、消費者物価まで上昇し始めると、 消費者からも...

法治主義を否定する菅官房長官 (当時) (再掲) 補訂 

質問:今年(2018年)8月21日に、菅官房長官が、記者会見で、携帯料金を4割値下げする、と発言し、auをはじめとする携帯会社の株価が一時下落しました。 要件としては、 ①官房長官は 行政庁か ②官房長官の 記者会見は 行政行為か ③損失を被った 株主の 原告適格、 の3つと考えられます。 一番の論点は ②の 官房長官の 発言は 行政行為か、 と思われます。 仮に取消訴訟で勝って、 官房長官の発言が無効とされたとしても、 株価が戻るかは不確実で、 損害賠償もしてもらえないとなれば、 わざわざ訴訟を提起するのは デメリットのほうが大きくなってしまいます。 文字数制限の都合で、論理が飛躍している部分がありますが、ご容赦ください。 ご回答:ご質問ありがとうございます。 まず①との関係では、 官房長官は 行政庁には当たりません。 行政庁とは、 行政主体 (ご質問との関係では国) のために 意思決定を行い これを表示する権限を有するものをいう (印刷教材45頁) のですが、 携帯電話事業に対する 事業認可の権限を もっているのは 総務大臣でして、 官房長官が 料金設定についての発言をして これが料金設定に影響を及ぼすとしても、 それはあくまでも事実上のものだからです。 また、質問事項② については、 行政行為 とは、 行政庁が法律に基づき 一方的に 国民や住民の 権利義務の 個別的・具体的な内容を 直接確定する 行政機関の活動形式をいう (印刷教材70頁参照) わけですが、 官房長官の記者会見は、 法律に基づき 国民や住民の 権利義務の 個別的・具体的な 内容を 確定するもの ということが できませんので、 行政行為に該当する ということが できません。 さらに 質問事項③ に つきましては、 原告適格以前に 問題となることがあります。 それは、 官房長官の発言が 取消訴訟の対象となる 「行政庁の処分」 (行訴法3条2項) の 要件を満たさない、 ということです。 つまり、 「行政庁の処分」 とは、 「公権力の主体 たる 国又は公共団体 が 行う行為のうち、 その行為によって 直接国民の 権利義務を形成し 又はその範囲を 確定することが 法律上 認められている ものをいう」 と されている (印刷教材170頁参照) のですが、 官房長官による 記者会見での発言は、 国民などの...

財政学@新潟大学 後日談 増補

俺:先週末の2日間、大変貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。 大変勉強になりました。 家に帰ってから、プライマリーバランスについて調べたのですが、少し疑問が生じたので、質問させていただきます。 「財政状況を示す指標の1つで,プライマリー・バランス均衡とは,利払費・債務償還費を除いた歳出が公債金収入以外の歳入で賄われている状態を指す。この場合,現世代の受益と負担が均衡していることになる。プライマリー・バランス均衡の状態で,金利と名目GDP成長率が等しければ,債務残高の対GDP比は一定に保たれる。 有斐閣経済辞典第4版」 とあるのですが、まずプライマリーバランスを実現しないことには、いくら名目GDP成長率が金利を上回っていても、債務残高は、長期的に見れば発散してしまうのでしょうか? 私も勉強不足で、少し曖昧な質問になってしまい恐縮ですが、ご回答たまわれれば幸いです。 新潟大学 根岸睦人先生より:小林さん 新潟大学の根岸です。先日はお疲れさまでした。 早速ですが、質問にお答えします。 >まずプライマリーバランスを実現しないことには、いくら名目GDP成長率が金利を上回っていても、債務残高は、長期的に見れば発散してしまうのでしょうか? いいえ、必ずしもそうではありません。仮にプライマリーバランス(PB)が赤字(利払い費の規模を超える債務残高の増加)でも、債務残高の増加率を上回るGDPの成長率が実現すれば、債務残高の対GDP比は低下します。 PBのバランスと、利子率と名目成長率の関係の両面で考える必要があります。 (以下 google bard より回答) 根岸先生の回答は、以下のとおりです。 プライマリーバランスが赤字でも、債務残高の対GDP比が低下する可能性がある プライマリーバランスとは、利払い費を除いた歳出が公債金収入以外の歳入で賄われている状態を指します。プライマリーバランスが赤字であれば、利払い費の規模を超える債務残高の増加となります。 しかし、仮にプライマリーバランスが赤字でも、債務残高の増加率を上回るGDPの成長率が実現すれば、債務残高の対GDP比は低下する可能性があります。 例えば、プライマリーバランスが年間100億円の赤字で、債務残高が1兆円、名目GDP成長率が5%である場合、債務残高は年間500億円増加します。しかし、名目GDPが年...

日経新聞 エコノミクストレンド 2024/5/8 鶴 光太郎 慶大教授の寄稿より抜粋 

政府の 債務残高が 国内総生産 (GDP) 比 2・5倍 までに達し、 その 比率自体、 先進諸国の 2倍以上と 突出している 日本で 財政の維持可能性が 問われにくいのは、 ひとえに 金利水準が 名目成長率を 大きく 下回るという 状況が 長期にわたり 継続してきたからだ。  この関係が 逆転、正常化 していけば、 いずれ 財政バブルは 終焉 (しゅうえん) を 迎えることになる。

旬報社 (再掲)

1990年代以降、 企業のグローバル展開が 加速していくのに合わせて、 国内では 非正規雇用への 切り替えや 賃金の削減など、 生産コスト抑制が 強まりました。 大企業は グローバル展開と 国内での労働条件引き下げにより、 利潤を増加させてきたのです。 しかし、 その増加した利潤は 再びグローバル投資 (国内外のM&Aを含む) に振り向けられます。 そして、 グローバル競争を背景にした 規制緩和によって、 M&Aが増加していきますが、 これによって 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差の拡大が 生じています。 また、 国内の生産コスト抑制により、 内需が縮小していきますが、 これは企業に対して さらなるグローバル展開へと 駆り立てます。 このように、 現代日本経済は 国内経済の衰退と グローバル企業の利潤拡大を 生み出していく構造に なっているのです。 1990年代以降、 景気拡大や 企業収益の増大にも関わらず、 賃金の上昇や 労働条件の改善に つながらないという問題を 冒頭で指摘しましたが、 このような 日本経済の構造に 要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より つまり、 日本の内需の縮小と 労働市場の貧困化は、 企業の海外進出と表裏一体であり、 その見返りとしての、 海外からの 利子・配当などの、 いわゆる 第一次所得収支の恩恵として現れる。  https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html   https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

旬報社 (再掲)

もし、 日銀が目的としている 2%の物価上昇が 実現した場合、 国債の発行金利が 2%以上になるか、 利回りが 最低でも 2%以上になるまで 市場価格が下がります。 なぜなら、 実質金利 (名目利子率-期待インフレ率) が マイナスの (つまり保有していると 損をする) 金融商品を買う 投資家はいない からです。 国債 (10年物) の利回りは 0.1%程度 (2018年11月現在) ですが、 それが 2.1% に上昇した場合、 何が起こるでしょうか。 政府の 国債発行コストが 跳ね上がるのは もちろんですが、 より重要なことは、 国債価格が暴落し、 国債を大量に保有している 銀行に莫大な評価損が 出ることです。 「経済の論点」 旬報社 72ページより

円安 (一部再掲・補訂)

円安が進んでますね。 植田日銀が、YCCからの脱却を示唆するとかでない限り、 日銀は利上げする気がないと思われたら、 円安が止まらなくなる可能性がある。 それは、見方を変えれば、 N個の政策課題に対して、N-1個の政策手段しか持っていないんだから、 もぐら叩きのように どこかで必ず弱点が出てくる。 実務のことはよくわからないが、 YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があるので、 オーストラリア中銀のように、経済が大変な混乱を来すと、 東短リサーチの加藤出さんなどは主張している。 これも、大規模金融緩和の失敗を示している。 (以下 日経新聞 2023/5/19 経済教室より 《加藤出氏寄稿》 ) 間もなく出口政策が 始まると 市場が予想したら、 ターゲットを変更するまで 中銀は 国債を無制限に買い支えなければ ならず、 自身の バランスシートを制御できなくなる。   (以下 google gemini より回答)  円安と日銀の政策課題:現状と展望 円安が止まらない状況と日銀のジレンマ ご指摘の通り、近年著しい円安が進行しており、特に2023年に入ってからは急速な勢いでドル円相場は上昇しています。この背景には、日米金利差の拡大が主要因として挙げられます。 日米金利差拡大: 米国がインフレ抑制のため積極的な利上げ政策を展開する一方、日本は金融緩和政策を継続しているため、金利差が拡大しています。この金利差拡大が、投資家にとってドル買いの魅力を高め、円売りの圧力を強めています。 日銀の政策手段と限界 日銀は、円安に対抗するために以下の政策手段を講じることができます。 金融緩和の強化: 金利引き下げや量的緩和の規模拡大など、更なる金融緩和を実施することで、金利差を縮小し、円買い圧力を高めることができます。 為替介入: 市場に介入し、円を買い支えることで、円安の進行を抑制することができます。 口先介入: 金融政策の方向性や為替介入の可能性について言及することで、市場心理に影響を与え、円買い圧力を高めることができます。 しかし、これらの政策手段にはそれぞれ限界があります。 金融緩和の強化: 金融緩和を強化すれば、経済成長を下支えすることができますが、一方で物価上昇を招き、財政規律を悪化させる可能性があります。 為替介入: 為替介入は一時的に円安を抑制する効果が...

レポート予備 (再掲)

日本の <近代化> の歴史的起源にあるのは、 ロシアの脅威である。 また、 ロシアのいわゆる南下政策と その失敗は、 ヨーロッパ大陸の情勢にも 大きな影響を与えた。 ここでは、 日本の <近代化> を考察する上で、 ロシアと日本の連関を 念頭に置きながら、 一旦 歴史の流れに目を向ける。 ロシアの南下政策の挫折と、 その後の東方進出は、 日本に対する脅威として現れた。 クリミア戦争 (1853年-1856年) とそれに続く 露土戦争 (1877年-1878年) など一連の出来事を教訓として、 ロシアは不凍港を求めて 東アジアへの進出を志向し、 清朝と いくつかの条約を結びながら、 国境を確定させ、 ユーラシア大陸を東へと進んだ。 太平天国の乱 (1850年-1864年) で、列強が撤退した後も ロシアは軍隊を駐留させたために、 列強の警戒心を惹起するとともに、 日本との緊張関係が生まれた。 さらには、 東清鉄道敷設権の権益を巡り、 中国東北部の利権を狙う 日本との緊張関係が深化した。 1894年に日清戦争が勃発し、 日本が勝利すると、 日本は 朝鮮半島と台湾を獲得した。 この結果、 ロシアと日本は 朝鮮半島と中国東北部で 直接対峙するようになった。 インドを植民地とするイギリスは ロシアの南下政策に脅威を感じ、 1902年に日英同盟を締結する。 この同盟は、 ロシアの東アジア進出を 牽制する狙いがあった。 1904年、日露戦争が勃発し、日本が勝利すると、 ロシアは一時的に東アジアでのプレゼンスを低下させた。 しかし、 ロシアが革命によりソビエトを結成すると、 日本は機会主義的な 対ソビエト干渉を続け、 中国東北部への進出を深めた。 1920年、尼港事件が発生し、日本とソビエト軍が衝突した。 また、1925年には、大陸への野心から シベリア出兵を実施し、 中国東北部への進出を図った。 大正期における日本の大陸進出の動きは、 ソ連の革命政権に対する 機会主義的な野心の現れであったと言えよう。 一方、ヨーロッパ大陸では、 ロシアの野心とドイツの野望との衝突で、 バルカン半島での 汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の対立が深刻化し、 三国協商と三国同盟の対立が先鋭化し、 第一次世界大戦に発展した。 1918年に戦争が終結すると、 戦勝国はオスマン帝国を分割し、その領土を占領した。...

動画へのフィードバックを森本先生より頂戴しました。(備忘録) (再掲)

後期資本主義批判をアドルノから荻野先生の社会学、ゲーテを経て漱石まで展開した動画を有り難う。 アドルノの後期資本主義批判はしばしば読ませてもらっていたところですが、今回は荻野氏の「詐欺」論へ連接させることで、論がひときわ具体性を増し、鮮やかな像を結んだように思います。 不確定性に賭ける「詐欺師」とは、計量と数値化を旨とする近代合理主義社会の、いわば虚をつく存在。資本主義社会の到達点ともいえる「管理社会」への批判的メタファーなのですね。 それが足を置く場は、まさに資本主義社会の「市場」の余白とでも表すべき領域。とすれば、小林くん講話の後半部のキーワードともいうべき「自然」が、まさに商品の等価交換から成り立つ「市場」の〈外部〉であることときれいに響き合っていることに、つくづく感心しました。 そして、近代作家とは、まさにその〈疎外〉感を以て、同じく近代が周縁化してしまった〈自然〉へ魅かれ、耽溺する者であるわけですね。 日本近代の場合、より〈自然〉に親和的なのが自然主義作家で、これをまさに〈じねん〉にみられるような概念化への苦闘を経ることで、欲望的な世界から帰還してくるのが漱石、ということになるでしょうか。「ファウスト」こそ詐欺師では、との小林くんの呟きにクスリとしながらつい頷いてもいるのですが、その葛藤が〈魂の救済〉なるもので終結するのは、やはりなんといってもキリスト教文化圏ならではの展開でしょう。かの有名な「疾風怒濤」期に端的に現れるゲーテの自然観(近代的「自然」の発見)は、日本の場合、漱石よりも、北村透谷を経た自然主義文学への影響の方が大きそうです。 いささか余談ですが、ゲーテも、漱石も、そしてほとんどすべての男性・近代作家の描く異性愛の対象ーー〈女性〉もまた〈近代〉が周縁化した存在なので、なるほどテクストというものは論理的かつ時代精神をおのずから反映したものだ、と改めてつくづく納得した次第です。いつものことながら、感謝です。誠に有り難う。 今回、頂戴した小林くん講話にこれまで頂戴している論考から得た知識を総合すれば、資本主義-市民社会がもたらす疎外、物象化に対する苦悩という名の徹底的相対化、これこそが漱石の文明批評の基盤であることが、まさに鮮明に図式化されて見えてくる感じです。 今回は「ブログのハッシュタグ参照」とのことで、アドルノとの関係への言及は省略されていまし...

文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)

質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。  フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。  「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家...

ソクラテスに批評精神を学ぶ@茨城大学 資料より (再掲)

私は、 自分のもともとの 性質が 「ここまで くらいは がんばろう」 と 課した限界の範囲で 自己研鑽に励む ときでさえ、 謝罪や後悔もなく、 自分の もともとの性質を 「与えられた 当たり前のもの」 として 受け入れており、 そのようなとき、 自分自身に対する 「自己愛」を 持っているのである。 私の 自我と 私とは、 一様に すべてのことを 共有しながら、 いっしょに 多くのことを くぐり抜けてきた。 私が彼 (=私の自我) を 支える限り、 彼が 私を 失望させることはなかった。 私は 彼を 叱ったこともあるが、 けっして 彼の本性を 呪うことはなかった。 彼には 間違いなく 欠点があるし、 ひどくそうなのだが、 その短所が あらわになるとき、 私はやさしく 寛大に ほほえむのである。 彼のへまは、 彼のような 性質をもつ だれからでも 人が予想するようなものである。 人は、 これほどまで きわめて 近しくしてきた 存在を 憎むようには なれない。 好むと好まざるとに かかわらず この人物 (=私の自我) に依存してきた 全年月の後、 どのようにして 別の自我と うまくやりはじめることができるか、 私は 実際知らないのである。 このように、 自己同一性 (自分が自分であること) は、 一種の約束による 見合い結婚だと 考えることが できる。 その 見合い結婚は、 安定的な人の中では 真実の愛へと 成熟するものだが、 不安定な人の中では、 堕落してしまって、 恨み言と 自滅へと至る。 人の 自己愛の もっとも 真実の表現は、 自身の善さへの献身であり、 それは 他の誰のものでもない 自身の もともとの性質 (そのような 性質は 不条理な、 変なものかもしれない) の 自己充足である。 (「不条理な自己充足」 [ジョエル・ファインバーグ『倫理学と法学の架橋』東信堂・2018年]432−3頁)

キリスト教哲学の歴史@八戸サテライト レポート (再掲)

アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。

カントの自由論 レポート予備

カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は...

医療行政の闇 補訂

「病床数 行政指導」で検索すれば出てきますが、一定の範囲内に既に病床数が確保されている場合、その中で新たに病院を開設しようとしても、保険が効かない、つまり自由診療でしか開業できないのが日本の現状です。 これを、「行政指導」という玉虫色の手段を使って正当化しているのがいかにも日本的なやり方です。 行政指導というのは、必ずしも従う必要はありませんが、シカトし続けると、エライことになるケースがあります。 以前、コーヒー浣腸の業者が、再三にわたる行政指導を無視した結果、逮捕されてました。 実は、父親が、糖尿病のせいか便秘になり、信頼できる医者からコーヒー浣腸を紹介されて、実践していたので、少なくともその業者には悪意はなかったと思われます。 自分も、間違ってコーヒー浣腸に使うコーヒーを飲んでしまったことがありますが、全く違和感もなく、言われなければ気づかなかったです。 それでも、行政指導を無視し続けた末に、逮捕されてました。 そういう行政指導のあり方を、最高裁も判例で認めているのです。 正確には、行政指導の法的効力を行政争訟の対象にすることを最高裁が判例で認めた、ということですが。  閉鎖病棟のある 精神病院が 大規模化するのって、 そこで 病床数を独占してしまえば、 その地域の 入院が必要な 精神病患者を 丸ごと 抱え込めるから なんじゃないか? だとしたら、 日本の 医療行政の 闇だな。 さらに言えば、 大規模精神病院にとって、 入院患者は、 飼育・管理費を徴収する 対象であって、 治療する 対象ではない。 したがって、自然と 長期入院になる。 下手すると 50年とか 入院してる人も ザラにいる。 (以下 google bard より回答) あなたが述べられた内容は、日本の医療行政の闇を浮き彫りにするものだと思います。一定の範囲内に既に病床数が確保されている場合、新たに病院を開設しようとしても、保険が効かないという制度は、患者の選択肢を狭め、精神病患者をさらに苦しめるものだと思います。また、大規模精神病院が病床数を独占し、入院患者から飼育・管理費を徴収するという構造も、患者を人間ではなく、商品として扱っているように思えます。日本の医療行政は、患者の権利を守り、患者が必要な医療を受けられるように、抜本的な改革を行う必要があると思います。   (以下 google gemi...

文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 韓国語バージョン

질문 : '세계문학으로의 초대' 수업을 듣고 알베르 카뮈의 '이방인'과 미셸 웰벡의 '소립자'를 읽고, 지금 '지도와 영토'의 첫 번째 부분을 읽은 상태입니다.  프랑스 문학, 사상계는 항상 시대를 견인하는 상징 혹은 모멘텀을 필요로 한다는 식의 글을 본 적이 있는 것 같은데, '이방인'을 보면 확실히 '소립자'가 내린 시대정신은 '투쟁 영역'이 확대된 것처럼 현대 서구인에게는 더 이상 밖에 남지 않았습니다. 만이 남아 있고, 그마저도 과학의 진보에 의해 불필요하게 될 것이 예언되어 있고, 게다가 그것으로 인해 인간 세계는 서로의 우월성을 보여주기 위해 무의미한 투쟁을 피할 수 없다는 식의 묘사가 '소립자'에는 있었던 것 같습니다.  '지도와 영토'에서도 주인공 제드는 신자유주의의 물결에 의해 사라질 운명에 처한 재래의 직업을 그림으로 남기는 활동을 하고 있었는데, 일본의 백화점이 동남아시아, 특히 자본주의에 바람직한 인구 동학을 가진 필리핀에 진출할 계획이 있는데, 그렇게 해서 어떤 일종의 문화 제국주의를, 웰벡은 세계화를 의식하면서 작품을 쓰고 있는 것일까요? 답변: 수업을 시청하고 작품을 읽은 후 정확한 질문을 해주셔서 감사합니다. 프랑스 문학・사상에 있어서 '시대를 견인하는 상징 혹은 모멘텀'의 존재에 대해 지적해 주신 말씀이 맞다고 생각합니다. 소설 쪽에서는 현재 우르벡을 그 유력한 발신자(의 한 명)로 간주할 수 있을 것입니다. 그의 작품에서는 '투쟁 영역의 확대'의 시대에 마지막 인간적 유대인 '성'을 중시하면서 그마저도 유전자 조작적 기술에 의해 무화되는 것이 아닌가 하는 비전이 그려져 있는 것도 지적하신 대로입니다. 그래서 질문하신, 그가 '세계화'를 어디까지 의식하면서 글을 쓰고 있느냐는 점인데요, 바로 그 문제가 웰벡이 현대사회를 경제적 메커니즘의 관점에서 ...

レポート予備 韓国語バージョン 

일본의 의 역사적 기원에 있는 것은 러시아의 위협이다. 또한 러시아의 이른바 남하정책과 그 실패는 유럽 대륙의 정세에도 큰 영향을 미쳤다. 여기서는 일본의 <근대화>를 고찰함에 있어 러시아와 일본의 연관성을 염두에 두면서 일단 역사의 흐름에 눈을 돌려보자. 러시아의 남하 정책의 좌절과 그 후의 동방 진출은 일본에 대한 위협으로 나타났다. 크림전쟁(1853~1856)과 그에 이은 러일전쟁(1877~1878) 등 일련의 사건을 교훈 삼아 러시아는 부동항을 찾아 동아시아 진출을 지향하며 청나라와 여러 조약을 맺으면서 국경을 확정하고 유라시아 대륙을 동쪽으로 나아갔다. 태평천국의 난(1850~1864년)으로 열강이 철수한 후에도 러시아는 군대를 주둔시킴으로써 열강의 경계심을 불러일으키는 동시에 일본과의 긴장 관계가 형성되었다. 더욱이 동청철도 부설권의 권익을 둘러싸고 중국 동북부의 이권을 노리는 일본과의 긴장 관계가 깊어졌다. 1894년 청일전쟁이 발발하고 일본이 승리하면서 일본은 조선반도와 대만을 획득했다. 그 결과 러시아와 일본은 조선반도와 중국 동북부에서 직접 대치하게 되었다. 인도를 식민지로 둔 영국은 러시아의 남하 정책에 위협을 느껴 1902년 일영동맹을 체결한다. 이 동맹은 러시아의 동아시아 진출을 견제하려는 목적이 있었다. 1904년 러일전쟁이 발발하고 일본이 승리하면서 러시아는 일시적으로 동아시아에서 존재감을 떨어뜨렸다. 그러나 러시아가 혁명으로 소련을 결성하자 일본은 기회주의적 대소 간섭을 계속하며 중국 동북부 진출을 강화했다. 1920년, 니가타 사건이 발생하여 일본과 소련군이 충돌했다. 또한 1925년에는 대륙에 대한 야망으로 시베리아 출병을 실시하여 중국 동북부 진출을 꾀했다. 다이쇼 시대 일본의 대륙 진출 움직임은 소련의 혁명 정권에 대한 기회주의적 야망의 표출이었다고 할 수 있다. 한편, 유럽 대륙에서는 러시아의 야망과 독일의 야망이 충돌하면서 발칸반도에서 범게르만주의와 범슬라브주의의 대립이 심화되고, 삼국협상과 삼국동맹의 대립이 첨예화되어 ...

近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート 韓国語バージョン

이바라키 대학 강하다. 요즘 매 학기마다 이바라키 대학을 다니고 있는데 이번에도 정말 재미있었다. 재미있다는 말로는 표현할 수 없다. 머리를 방망이로 한 대 얻어맞은 것 같은 충격을 느꼈다. 석탄 산업을 빼놓고는 근대 일본의 경제발전을 말할 수 없다고 해도 과언이 아니다. 그럼에도 불구하고 대놓고 이야기되는 경우는 거의 없다. 마치 섬유산업이 꽃처럼 일본 경제의 번영을 거의 모두 견인한 것처럼 이야기되고 있다. 뒤집어 보면, 그만큼 석탄 산업을 이야기한다는 것은 현재에 이르기까지 일본의 암울한 모습을 비추는 것일지도 모른다. (이하 리포트) 이번 수업을 통해 민주주의의 중요성을 다시 한 번 절감했다. 현재도 중국에서는 위구르인들이 수탈적 노동에 종사하고 있다고 들었고, 또한 상하이의 코로나 봉쇄 상황을 봐도 민주주의, 그리고 그 근간이 되는 표현의 자유가 보장되지 않는 곳에서는 인권이라는 것이 쉽게 짓밟힐 수 있다는 것을 일본의 탄광노동자 사례를 통해 알 수 있었다. 탄광 노동자의 사례를 통해 알 수 있었습니다.   다니엘 로드릭이 주장한 유명한 트릴레마, 즉 세계화와 국민적 자기결정권, 그리고 민주주의는 동시에 실현될 수 없다는 테제를 생각해 볼 때, 현재 중국은 민주주의를 희생하고 있다고 할 수 있다. 이 도식을 다소 무리하게 전전(戰前)의 일본에 대입해 보면, 메이지 일본은 그야말로 '긴 19세기'의 시대였고, 청일전쟁과 러일전쟁을 거치면서 대러에서 대미로 가상 적국을 전이시키면서 당시 세계화 시대의 한가운데에 있었다고 볼 수 있다.   일본 국민은 그러한 시대 속에서 번벌정부와 입헌정우회의 상극 속에서 결국 탄생한 정당정치 속에서 농촌의 지방명망가를 중심으로 한 선거제도에 편입되는 형태로 근대국가로 성장하는 일본의 행보에 어쩔 수 없이 몸을 담지 않을 수 없었던 것 같습니다. 그리고 국민적 자기결정이라는 측면에서 보면 정당정치가 확립되지 않으면 민주주의가 성립할 수 없는 것은 당연하지만, 국민의 민의라는 것은 점차 국가적 의지에 반영되기 ...

市井の漱石論 韓国語バージョン その2

나쓰메 소세키의 소설 '그 후'의 주인공 나가이 다이스케는 당시로서는 중년이라고 해도 과언이 아닌 나이에 일을 하지 않고, 지금으로 치면 니트족과 같은 생활을 하고 있다. 귀족도 아닌 일반 시민이 그런 생활을 할 수 있었다는 것은 일본 경제가 어느 정도 풍요로워졌다는 증거라고 할 수 있다. 물론 허구이긴 하지만 말이다. 다이스케는 소세키가 '자연(自然)'이라고 이름 붙인 자기 집만의 세계에 은거하고 있다. 그리고 친구에게 양보하는 형태로 헤어진 산천대의 그림자를 쫓아 살고 있다. 그러나 산천대는 다이스케 앞에 다시 나타난다. 친구의 아이를 사산하고 그로 인해 심장병을 앓게 된 산천대는 백합꽃이 꽂혀 있던 화병의 물을 덥다며 마셔버린다. 다이스케는 백합꽃의 강렬한 향기 속에서 산치요와의 순결한 사랑을 가설하고, 거기서 '자연'을 발견하고 주객합일의 경지를 얻으려 하지만, 그것은 이성의 방종을 의미하기 때문에 육체를 가진 다이스케는 다시 자아로 돌아간다. 다이스케의 자아 특유의 세계와 생의 육체로 나타나는 삼천대의 존재는 '푸른 세계'와 '붉은 세계'로 대비된다. 일종의 은둔형 청년의 '자기만의 세계'로서의 '푸른 세계'에 '붉은 세계'의 상징으로 (다시) 등장하는 타인의 유부녀이며 아이를 사산하고 심장병에 걸린 현실 세계를 다이스케에게 들이댄다. 그것은 또한 마지막 장면에서 다이스케가 '붉은 세계'로 돌아가는 것처럼 경쟁, 합리, 계량화의 경제 세계를 나타낸다. 경제 발전과 가 평행선을 달리고 있다면, 라는 객관적 조건은 오히려 모든 것을 평준화하고 수량으로만 취급하는, 그런 끔찍한 파국을 지향할 뿐이었다. 원래 인간이 만들어낸 문화-문명이 결국은 만든 사람으로부터 독립하여 오히려 인간을 구속하고 압박해 온다. '그 후'의 백합이 상징하는 것은 분명 주객분리에 대한 불안, 신체적 차원에서의 자연회귀에 대한 욕망이다. 그러...

市井の漱石論 韓国語バージョン その1

나쓰메 소세키의 '보짱'은 주인공이 고향(=거처)을 잃는 이야기이다. '에도 소년'인 '보짱'은 메이지의 신세계 속에서 살 곳을 찾지 못하고, 유일하게 '보짱'을 '보짱'이라고 불러준 하녀 '키요'를 의지처로 삼는다. 부모에게 귀여움을 받지 못한 '나'는 무모하고, 무모한 짓을 일삼고, 부상도 끊이지 않는다. 그것은 언뜻 보기에는 순진무구한 백수처럼 보이지만, 가정 안에서 제자리를 찾지 못하는 것이다. 그런 '나'를 '청'은 '꼬맹이'라고 부르며 귀여워해 주었다. 마지막에 '청'의 무덤에 대한 이야기가 나오는데, 사실 그 무덤은 나츠메 가문의 무덤이다. 이를 통해 소세키가 소설이긴 하지만 '청'을 얼마나 소중히 여겼는지를 알 수 있다.  '근대화'는 인간관계까지도 합리화하고 '계량화'해 나간다. '나'는 교사로 부임한 마쓰야마에서 다양한 인간관계에 휘말리게 되지만, 그곳에서는 정보다 '이성'이 힘을 발휘한다. 능수능란한 말솜씨로 논리정연하게 말하는 등장인물들에게 '에도시대생'의 '나'는 속수무책이다. '마돈나'도 권력이 있고, '돈'의 힘을 가진 '빨간 셔츠'와 연결되는 것이 암시되어 있다. 그러나 '청'으로부터 받은 '돈'은 교환의 논리가 아니라 '증여'의 논리이며, 단순히 수량화할 수 없는 성질의 것이다. '청', 나아가 '청'과 (현실적으로는 있을 수 없는) '일심동체'가 되어 쉴 수 있는 공간을 '무덤'-지하에 묻은 수세키는 이러한 공간이 결정적으로 상실된, 즉 현실적으로는 회복 불가능한 시공간으로 상정하고 있는 듯하다. 소세키의 소설 속 인물들은 이후 『그 ...

レポート予備 (再掲)

日本の <近代化> の歴史的起源にあるのは、 ロシアの脅威である。 また、 ロシアのいわゆる南下政策と その失敗は、 ヨーロッパ大陸の情勢にも 大きな影響を与えた。 ここでは、 日本の <近代化> を考察する上で、 ロシアと日本の連関を 念頭に置きながら、 一旦 歴史の流れに目を向ける。 ロシアの南下政策の挫折と、 その後の東方進出は、 日本に対する脅威として現れた。 クリミア戦争 (1853年-1856年) とそれに続く 露土戦争 (1877年-1878年) など一連の出来事を教訓として、 ロシアは不凍港を求めて 東アジアへの進出を志向し、 清朝と いくつかの条約を結びながら、 国境を確定させ、 ユーラシア大陸を東へと進んだ。 太平天国の乱 (1850年-1864年) で、列強が撤退した後も ロシアは軍隊を駐留させたために、 列強の警戒心を惹起するとともに、 日本との緊張関係が生まれた。 さらには、 東清鉄道敷設権の権益を巡り、 中国東北部の利権を狙う 日本との緊張関係が深化した。 1894年に日清戦争が勃発し、 日本が勝利すると、 日本は 朝鮮半島と台湾を獲得した。 この結果、 ロシアと日本は 朝鮮半島と中国東北部で 直接対峙するようになった。 インドを植民地とするイギリスは ロシアの南下政策に脅威を感じ、 1902年に日英同盟を締結する。 この同盟は、 ロシアの東アジア進出を 牽制する狙いがあった。 1904年、日露戦争が勃発し、日本が勝利すると、 ロシアは一時的に東アジアでのプレゼンスを低下させた。 しかし、 ロシアが革命によりソビエトを結成すると、 日本は機会主義的な 対ソビエト干渉を続け、 中国東北部への進出を深めた。 1920年、尼港事件が発生し、日本とソビエト軍が衝突した。 また、1925年には、大陸への野心から シベリア出兵を実施し、 中国東北部への進出を図った。 大正期における日本の大陸進出の動きは、 ソ連の革命政権に対する 機会主義的な野心の現れであったと言えよう。 一方、ヨーロッパ大陸では、 ロシアの野心とドイツの野望との衝突で、 バルカン半島での 汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の対立が深刻化し、 ...

近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考え...

市井の漱石論 (再掲)

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済...

「現代の国際政治」第5回 まとめ (再掲)

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた...

旬報社 (再掲)

1990年代以降、 企業のグローバル展開が 加速していくのに合わせて、 国内では 非正規雇用への 切り替えや 賃金の削減など、 生産コスト抑制が 強まりました。 大企業は グローバル展開と 国内での労働条件引き下げにより、 利潤を増加させてきたのです。 しかし、 その増加した利潤は 再びグローバル投資 (国内外のM&Aを含む) に振り向けられます。 そして、 グローバル競争を背景にした 規制緩和によって、 M&Aが増加していきますが、 これによって 株主配分に重点を置いた 利益処分が強まり、 所得格差の拡大が 生じています。 また、 国内の生産コスト抑制により、 内需が縮小していきますが、 これは企業に対して さらなるグローバル展開へと 駆り立てます。 このように、 現代日本経済は 国内経済の衰退と グローバル企業の利潤拡大を 生み出していく構造に なっているのです。 1990年代以降、 景気拡大や 企業収益の増大にも関わらず、 賃金の上昇や 労働条件の改善に つながらないという問題を 冒頭で指摘しましたが、 このような 日本経済の構造に 要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より つまり、 日本の内需の縮小と 労働市場の貧困化は、 企業の海外進出と表裏一体であり、 その見返りとしての、 海外からの 利子・配当などの、 いわゆる 第一次所得収支の恩恵として現れる。  https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html   https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX

文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)

質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。  フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。  「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家...