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財政論

質問:日本の政府債務残高は、GDPの2・6倍に達しています。財政の持続可能性のためには、名目経済成長率が名目金利を上回っている必要があります。しかし、今後日本の名目金利の上昇が予想される環境において、名目経済成長率を上昇させるために国債を発行して、日銀に買い取らせるべきだ、との議論が三橋貴明氏などから提示されています。名目金利を名目経済成長率が上回る状況を作り出すうえで、国債を発行して日銀に買い取らせる、という手段は、どの程度現実的と言えるでしょうか?  (以下 Google Bard より回答) 日本の政府債務残高がGDPの2.6倍に達し、財政の持続可能性が懸念されている状況において、三橋貴明氏らが主張する「国債発行による日銀買い取り」という政策手段は、実現可能性と有効性について議論が活発です。 実現可能性 まず、この政策を実現するためには、以下の課題が存在します。 財政規律の堅持との整合性: 大規模な国債発行は、財政赤字を拡大させ、更なる債務増加を招きかねません。財政規律の緩和懸念が高まり、長期金利上昇を誘発する可能性もあります。 日銀の金融政策との整合性: 日銀が大量の国債を買い続けることは、金融緩和政策の長期化につながり、副作用を招く可能性があります。インフレ懸念や財政・金融政策の持続可能性への影響も議論されています。 市場への影響: 大量の国債発行は、市場心理に悪影響を及ぼし、金利上昇や円安を招く可能性があります。 これらの課題を克服するためには、政府による財政再建へのコミットメント、日銀と政府の緊密な連携、市場への丁寧な説明などが不可欠となります。 有効性 仮にこれらの課題を克服できたとしても、この政策が名目経済成長率を名目金利よりも高める効果を持続的に生み出すかは不確実です。 経済成長の持続可能性: 名目経済成長率を上げるためには、生産性向上の取り組みが不可欠です。単に国債発行で財政出動を拡大しても、非効率な投資や浪費に繋がり、持続的な経済成長は期待できません。 財政収支の改善: 財政赤字の拡大は、将来的に増税圧力につながり、国民負担を増加させる可能性があります。財政収支の改善に向けた取り組みとセットでなければ、問題解決にはなりません。 代替案 政府債務残高の削減と経済成長の両立には、以下の様な代替案も検討されています。 歳出改革...

レポート予備

行政法の概念に、「行政指導」と呼ばれるものが存在する。行政は、本来「行政行為」と呼ばれる、命令する主体としての行政と、名宛人の市民との主体・客体関係がハッキリしている手段で運営されるべきものだが、「行政指導」という、極めて日本的な、主体・客体関係が不明瞭な手段が、行政の運営上横行している。もっとも、行政指導それ自体が問題なのではなく、行政指導が、本来強制力を伴わないものであるはずなのに、従わなければ往々にして市民が制裁を加えられることが、常態化しているという現実がある。また、それに留まらず、行政指導が医療のあり方に絶大な影響を与えている。どういうことか。日本の医療制度において、ある一定の地域に、十分な病床数が確保されている場合、新規に医療業者が参入しようとするとき、保険適用が受けられず、自由診療で開業せざるを得ない、という現実が、行政指導によって正当化されている。これは明らかに既存の病院の権益を守り、新規参入者を不当に排除している。問題はこれに留まらない。特に精神医療において、1950年代にフランスで画期的な抗精神病薬が開発され、欧米先進国では病床数が減っていったにも関わらず、日本では逆に病床数が増えた。これは、戦後、精神病患者を建前上しっかり治療しようとの方針から、精神病院の数が増えたからである。そこで、戦後、精神病院が増設される際、一定の範囲で病床数を確保してしまえば、地域の患者を独占できてしまう、という経済的合理性によって、精神病院が往々にして大規模化したことが推測される。言わずもがな、これは行政指導によって、いったん多くの病床数を確保してしまえば、新規参入者を排除できることが、精神病院の大規模化を促したと容易に考えられる。そして、現厚生労働大臣が、戦後日本の医療制度を構築した武見太郎の息子である武見敬三である現実では、これが改められる可能性は極めて低い。

日経新聞 エコノミクストレンド 2024/5/8 鶴 光太郎 慶大教授の寄稿より抜粋 

政府の 債務残高が 国内総生産 (GDP) 比 2・5倍 までに達し、 その 比率自体、 先進諸国の 2倍以上と 突出している 日本で 財政の維持可能性が 問われにくいのは、 ひとえに 金利水準が 名目成長率を 大きく 下回るという 状況が 長期にわたり 継続してきたからだ。  この関係が 逆転、正常化 していけば、 いずれ 財政バブルは 終焉 (しゅうえん) を 迎えることになる。

カントの自由論 レポート予備

カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は...