2023年12月27日水曜日

知ったかぶり

政治権力としての 天皇制の持続可能性が 問題というより、 「報われぬ死者たちのまなざし」と それに対する 負債観念が 喪失されていることが 問題なのではないか。 なぜなら、戦後日本の 重力の中心は、 天皇よりも むしろ 「報われぬ死者たち」 だったのだから。 彼らの「視線」が 消え去り、それとともに 彼らへの 負債観念が消失するとき、 日本という国土は 重力の中心を失っていく。 それは 日本が民主主義国家かどうか、というより、 日本が 強度にツリー状の 近代社会だということである。 つまり、 重力の中心としての 「顔」が 強固として存在し、それを 頂点として ガチガチに組織化された 社会だということだろう。 言い換えれば、 日本社会は 強度にツリー状の社会であるために、 重力の中心としての 「顔」を 失ってしまうと、 組織全体が 崩壊の危機に瀕する。 そこで、 重力の中心としての 「顔」による 支配体制を より 強くしようという発想になると、 極右のように 天皇制がどうのこうの という 話になる。 しかし、日本の歴史の大部分において、 天皇制は 少なくとも政治的には 脇役でしかなかった。 それは 鎌倉時代から明治維新まで そうだった。 キリスト教社会では キリストの「顔」が ジョージ・オーウェルの 「1984」のように 社会の構成員を監視する 役割を担った、という議論が あるようだ。 近代国家がツリー状という点からの 対比として、 遊牧国家がリゾーム状だという コントラストが想定される。 日本は 専制的シニフィアン体制社会である、 つまり、 社会の隅々の末端組織まで、 シニフィアンによって 「意味づけ」が された 社会であるが、 その頂点にいた 「天皇」という存在は、 キリスト教社会における キリストの「顔」であるというより、 「報われない死者たち」を 祀る祭祀であった、という 「国土論」の 議論を踏まえれば、 実は 戦後日本社会において 我々を 『監視』していたのは、 彼らだったのであり、 それは 彼ら (「報われない死者たち」) こそが、 重力の中心だったのである。 したがって、彼らが 忘却されることで、日本の社会は 「精神的基軸」を 失ってしまう、という 危機感が芽生えるのである。 それを 取り戻すために 右翼は 天皇制を唱えるのであるが、 あまり 現実的とは思えない。 かといって、社会が 一望監視装置 (パノプティコン) のように 「顔」からの「視線」に 『監視』されていなければ、 社会として 成り立ち得ないとは 限らない。 すくなくとも、安倍が 政治的実権を握っていた間に 重力の中心だったのは 安倍であって、 天皇ではなかった。 つまり、 日本社会の重力の中心は、 天皇(制)である必要は 必ずしもないのだ。 『天皇ー報われぬ死者たち』の 関係性のように、 政治権力の二重性は むしろ 日本社会に馴染むものである。 そういう意味での 「分権性」は 模索されるべき 選択肢として あり得るだろう。 それは、誰かを 祀り上げるまでもなく、 自ら 国土に固有の曲率を 与えたがる存在は 澎湃として 生まれてくる。 ツリー状の社会と リゾーム状の社会とは、 必ずしも 二律背反ではないのである。 しかし、そういった 国土に固有の曲率を 与えようとするものの 多くは、 荻野昌弘がいうところの 「詐欺師」であるだろう。 しかし、「詐欺師」でなければ、 この閉塞感漂う 日本社会に暮らすひとびとに 夢を与えることは 難しい。 「詐欺師」は、 ツリー状の社会を リゾーム状の社会へと 誘う 役割を持っている。

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