2023年11月22日水曜日

政治のイデオロギー化

日本の経済が 強かった頃は、 人間を動かすのは 経済的利益、あるいは 功利的な動機だけだ、と みんな 思ってたが、 いま日本の(だけじゃないかも)政治は、 イデオロギー色 全開だよね。 右にしても左にしても。 右は百田尚樹から 左は斎藤幸平さんまで。 中央大学の中北浩爾さんが 確かこのテーマについて本出してたはず。 これも完全に言い古されたことだが、 リオタールが 「『大きな物語』の終焉」 を 説いてから久しいが、 日本に限らず、そこそこ 包括的な政治的イデオロギー(物語)は 復活してきているように 感じられる。 特に 2000年代の いわゆる グローバリゼーションが喧しく言われだした頃から。 まさに 人はパンのみにて生くるにあらず、て とこだね。 怖いのは、経済的破局が 国家社会主義のリバイバルを生み出してしまうこと。 欧米では 先進国でも 移民排斥運動なんかは 大きな問題だが、 日本もまた、 経済的破局が 全体主義を再来させてしまうのではないか、という 懸念がある。   日本においても、丸山眞男が論じたように、天皇制のもとで、統治心性とフーコーが名付けたような、被統治的概念が、現実の制度に反映され、概念と制度、人々の心性が、相互に補完し合い、統治を強化し合う、という現象が起こる。 丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる國體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。(・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、それが制度自体と制度にたいする人々の考え方をどのように規定しているか、という、いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、観念的なもののように聞こえるが、そうではなく、その観念に対応するように、「経済・交通・教育・文化」の各領域における「制度」も徐々に形成されていった。「國體」観念をはっきり教義化しないので、制度との対応関係も最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、目に見える効果をあげるようになった。ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、「統治性」という概念がある。統治のための機構や制度が、人々に具体的行動を取るよう指示したり、禁止したりするだけでなく、そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、それを当たり前のことにしていく作用を意味する。人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用)

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