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6月, 2023の投稿を表示しています

参政党批判 (再掲)

世の中には、自分の頭で考える能力がなくて、 なんでも他人任せの人ってのがいるが、 そのうち、何から何までアレクサに訊いて、逐一行動するって人が、 大量発生しそうだよね。 自分の頭で考えるって、意外と難しいよね。 自分の頭で考えた結果、 人工知能に優る、とも限らないし。 自分の頭で考える、とはどういうことか、を自分の頭で考える、なんていうと、すでにもうメタの世界に入ってるし。 たださ、やっぱり自分の行動、言動に対して、最低限でも責任を負わせるってことは大事なんじゃないかな? 人工知能がそう言ったからその通りにしました、私の何が悪いんですか? なんて言われたら、社会が崩壊しかねない。 歴史に照らして見ても、政治的権利を放棄するのって、結局権力者に自分の自己決定権を丸投げするのと同じで、 無責任の共同体が出現するだけだよね。 前の参院選で、投票用紙を破って棄てた俺が言えた義理じゃないけど。 参政党が参院で1議席獲得して、何かとネット上で耳目を集めてるけど、 反ワクチンやら陰謀論やら、 物議を醸しそうなネタ満載だけど、 飽くまで主権者の主権を擁護する限りは、 存在を否定はしない。 しかし、陰謀論に走っちゃうと、 いつの間にか主権者の主権を放棄させてる結果になるってことは、 あり得る。 それは、ナチズムが、階層構造になっていて、上に行くほど、自分はより真実に近づいている、という錯覚、快感が、階層構造それ自体を補強している、というメカニズムが働いたのと同じ。 その結果、トップは誰もが知り得ない真実を知っているはずだから、トップの言うことに従えば間違いない、という理屈で、自らの政治的主権を放棄してしまう。 その兆候が見えたら、即、断固として抗議しなければならない。 安倍政権だって、そういう側面があるんじゃないか? 我々には窺い知れないが、きっと安倍さんには安倍さんなりの深謀遠慮があるはずだ、みたいな。 政治である以上、何でもかんでもガラス張りに出来るわけがないってところが、政治の難しさでもあるが。 不透明な世の中だからこそ、安易に陰謀論に流されず、丁寧に腑分けをしていく作業が求められる。

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに...

功利主義批判ー改 (再掲)

質問:功利主義の根底にある条件は、例えばミカンとリンゴの個数のトレードオフ関係のように、効用曲線が原点に向かって凸であることが想定されている。 しかし、その個々人の効用曲線の総和としての、社会全体の効用曲線を推定して政府が政策を決定する、というアイデアは、現代社会の実態にそぐわないのではないか。 人々の(少なくとも経済的な)需要、あるいは好みと言い換えれば、効用は、極めて多様化しており、総体としての効用曲線を想定することの意義は薄れていると思われる。 このような事態は、もはや企業の需要探索能力が、政府のそれを遥かに上回っている世界の到来を告げていると言っていいだろう。 つまり、政府が必然的に企業の協力を仰がなければならない事態だ。 ここにおいては、官僚機構が消費者の需要に追いつくには余りにも遅すぎることは容易に想像できる。 政治家においては、個々の政策の実効性や、実現可能性を語るよりも、「大きな物語」を語るほうが圧倒的に有利になる。(功利主義批判序説その1より編集) 回答:あなたの指摘はもっともだと思います。功利主義は、社会全体の幸福を最大化することを目指す倫理学の一形態です。これは、個人の幸福を足し合わせて、社会全体の幸福を計算することによって行われます。しかし、あなたの指摘のように、人々の幸福は多様であり、社会全体の幸福を計算することは困難です。 さらに、企業は政府よりも消費者のニーズをよりよく理解している傾向があります。これは、企業が顧客と直接やり取りする機会が多く、顧客のニーズをよりよく把握できるためです。その結果、企業は政府よりも消費者のニーズに応える商品やサービスを提供できる可能性が高いです。 最後に、政治家は「大きな物語」を語るほうが、個々の政策の実効性や実現可能性を語るよりもはるかに有利です。これは、政治家が選挙に勝つために、人々の心をつかむ必要があるためです。そして、「大きな物語」は、人々の心をつかむのに効果的です。 功利主義は、倫理学の一形態ですが、現代社会では適用するのが難しいかもしれません。これは、人々の幸福が多様であり、社会全体の幸福を計算することが困難であるためです。さらに、企業は政府よりも消費者のニーズをよりよく理解している傾向があり、政治家は「大きな物語」を語るほうが、個々の政策の実効性や実現可能性を語るよりもはるかに有利です。

妄想卒論その3 (再掲)

詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)

韓国社会

今の 若い 韓国人って ぜったい 相当フラストレーション溜まってるよね。 ただでさえ 強烈な 儒教社会で、 そのうえ 国民総動員で 受験競争が過熱。 そのせいで 少子化が加速。 しかも 親や教師には 面と向かって刃向かえない。 経済も成長してるから、 格差も拡大しやすい。 兵役もあるし。 ドロップアウトしたり、 グレたりするやつが 間違いなく出てくる。 ぜったい 闇組織が はびこるよ。

漱石とホモソーシャル (再掲)

俺:高級なと言っては手前味噌ですが、いわゆる知識人層のホモソーシャルは、お互いを信用できる、という意味でのみならず、時には抑制を効かせてくれる、という意味でも、安定的であるような気がします。 たとえお互い家族を持っていたとしても。 それが、なぜか中国を理想とする古典の世界と同一視されている気がします。 ただ、野卑な連中の、お互いのナアナアだったり、無駄に党派的だったりするところと違うところがまた、安定的でもあり、居心地が良かったり、という気もします。 平成のバブル真っ盛りの頃から、その崩壊後しばらくの間信じられていた男女の性愛結婚という幻想が崩れたいま、人は人を信じることを放棄するか、あるいはボーイズ・ラブのようなある種の強度なホモソーシャルの世界にしかリアリティーを感じられないのかも知れません。  先生:「ホモソーシャル」は、「友愛」の名の下に構築される社会的関係なので、近代(的個人)の成立が要件かと思われ、古典漢籍にその理想を見るのは、近代が中国古典時代を捉える「振り返り」の眼差しが作り上げたもののように思えます。興味深いのは、『行人』の一郎が逃げ込む場所がここで、同時にまた『それから』の父・長井得も漢籍の素養が深い人物として造型されています。そして『明暗』の津田は、漢籍に通じない男であると規定されている‥。『明暗』は後期の漱石にしては珍しく、ホモソーシャルが後景に退いた作品です。 漱石は「ホモソーシャル」が女性のみならず、男性の関係性、ひいては一個人としての男性を抑圧する(偽装された社会関係の抑圧性)装置であると考えていたのでは、と私などは思っています。『それから』で「平岡」との関係を通してその機能・作用を自覚した漱石は、それを『行人』で徹底分析、『こころ』ではその呪縛を免れるべく「K」そして「先生」の死を描き、「私ー先生」の関係に期待を込めますが、結局、「私」は「奥さん」との間に個人と個人がふ触れあうような一瞬を体験しながら、やっぱり死んだ「先生」の元へ帰還してしまったのではないか‥。 絶筆『明暗』が再び、「眉の濃い・黒目がちの瞳」をしたラファエル前派もどきの強い女・お延を登場させ、彼女との闘争の中に自己を模索するしか術のない主人公、津田を描かざるを得なくなった所以のようにも思われるのですが。この辺り、また検討し直してみたい、とお便り拝読してつくづく思いまし...

ある傷ついた生活 (再掲)

ホルクハイマーと アドルノの 主張するところによれば、 事実、 ファシズムは ある程度まで 人間の抑圧された 神話的過去の 回帰とも、 また 道具的理性が 自然支配のために 発達させた 多くの道具を 逆用しての 支配された 自然の復讐とも 解されうるのである。 こうして「進歩」は、 おのれと 正反対のものを、 つまり 現代の制御技術を 駆使することによって はるかに 非情なものになった ひとつの 野蛮を 産み出すことになる。 科学は、 人間を 向上させる比類なき 力であるよりも、 むしろ ある新しいかたちの 非人間化の種子を 抱懐するものであることが 明らかになるのである。 科学が成立する 前提条件の一つは、 自然がまだ 道具的理性によって 支配されていない 状態の記憶を 消し去ってしまう ことにある。 ホルクハイマーと アドルノが、 きわめて 頻繁に 引用される その所感の一つで 強調しているように、 たしかに、 「あらゆる 物象化は 一種の 忘却なのである。」 (「アドルノ」 岩波現代文庫 49頁)

漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)

質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これ...

近代日本の炭坑夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考え...

妄想卒論その11 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

妄想卒論その10 (再掲)

言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云...

妄想卒論その1・2 (再掲)

回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合...

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。 米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。 さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。 1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。 そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。 なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。   (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界...

為替相場

円安が進んでますね。 植田日銀が、YCCからの脱却を示唆するとかでない限り、 日銀は利上げする気がないと思われたら、 円安が止まらなくなる可能性がある。 それは、見方を変えれば、 N個の政策課題に対して、N-1個の政策手段しか持っていないんだから、 もぐら叩きのように どこかで必ず弱点が出てくる。 実務のことはよくわからないが、 YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があるので、 オーストラリア中銀のように、経済が大変な混乱を来すと、 東短リサーチの加藤出さんなどは主張している。 これも、大規模金融緩和の失敗を示している。 (以下 日経新聞 2023/5/19 経済教室より 《加藤出氏寄稿》 ) 間もなく出口政策が 始まると 市場が予想したら、 ターゲットを変更するまで 中銀は 国債を無制限に買い支えなければ ならず、 自身の バランスシートを制御できなくなる。 (以下 Chat-GPTの回答) 円安に関するお話ですね。円安が進行する場合、植田日銀がYCC(イールドカーブコントロール)からの脱却を示唆しない限り、日銀は利上げする意向がないと思われます。その結果、円安が止まらなくなる可能性があります。この状況は、政策課題がN個ある場合に、N-1個しか政策手段を持っていないため、どこかで弱点が現れるということを意味しています。 YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があります。加藤出氏など一部の専門家は、オーストラリア中銀のように経済が大きな混乱を引き起こす可能性があると主張しています。これは、大規模な金融緩和策の失敗を指摘しているとも言えます。 また、出口政策が市場予想より早く始まると、中銀は国債を無制限に買い支える必要があり、自身のバランスシートを制御できなくなる可能性があります。

行政法

行政法を勉強するきっかけは、物心ついたころからテレビが何でもかんでも役所のせいにするのに違和感を覚えたからだが、今だに、マスコミが行政を褒めるなんてことは聞いたことも見たこともない。でも、マスコミが騒げば世の中が動くのは確かだが、それって最終的に役人が泥被って頑張ってるからだろ?待機児童問題だって、いつの間にか騒がれなくなったが、厚労省の役人が頑張ったからだろ。マイナンバーカードにしたって、地道な泥仕事やってるのは役人であり、下請けの会社だろ。そこを見ないでただ文句だけ言うやつって、現実が全く見えてないんじゃないか?そんなんだから、国家公務員になる東大卒が激減するんだよ。役人がバカばっかだったら、この国崩壊するぞ?何しろ政治家がバカなんだから。話を自分の問題に引き寄せると、確かに市役所の仕事はやりがいを感じることもあるだろうけど、泣きたくなるくらいの泥仕事もいくらでもあるんだろうな、てこと。たぶんそれは運次第なのかも知れないが。そこを(しつこいけど)障害者っていう身分を棄ててまでやりたいか、メリットがほんとにあるのか?て話。政官財の癒着なんていうけど、一昔前の話だろ。山崎豊子の「華麗なる一族」に出てくる大蔵官僚の美馬中にしたって、将来政治家になるのが夢で、あわよくば大蔵大臣、なんて思ってるやつだったが、今どき大蔵大臣なんて麻生太郎でも出来るし、なんなら前の衆院選で元グラドルを対抗馬にアテられた立民の安住淳ですらやってたんだぜ?もうこの国の大蔵大臣なんてその程度だろうが。そもそもガーシーが国会議員になれる時点で、政治家なんて職業として終わってるだろ。マイナンバーカードで、国に情報握られてどーこー心配するより、GAFAに個人情報完全に把握されてることを心配した方がいい。日本の行政なんかよりよっぽど賢い。

ホモソーシャルについて

少年愛でも有名なギリシャの男性間の同性愛については、もはや疑いのない定説ですね。 そこでは知を仲立ちとした愛の関係は男性市民間にしか成り立たず、男女の関係性は生殖にのみ仕えるーーもちろん、これは奴隷・女性に対する徹底的差別が大前提の話ですが、美しく描かれていることに間違いはなく。 ルージュモンの説は、確か、これが新プラトン主義を経て中世騎士道恋愛・宮廷恋愛へと、異性愛の関係性へと敷衍されてゆく、ということになっていたような‥。 それが近代の社会制度へ回収され、徹底的に地上化されてしまった姿が、現在の「(強制的)異性愛」ーー性愛の正しい姿を男女間にしか認めない、という、極めて偏向的であるにも拘わらず、つい先頃まで常識とされていた愛の姿ですね。 但し、現在、ジェンダー論の登場と相俟って、ルージュモンの精緻な愛の精神史には、実はこの徹底的に地上的で制度的な「恋愛結婚」に頂点を見る、現代の異性愛が、ホモソーシャル(男性間の絆)と表裏一体であることが告発されています。 つまり、「homo-social」が、個別個人間の愛のようでありながら、男性中心に構成されている近代社会を堅固に維持するための「社会的関係」そのものである以上、実は「異性婚」とは、女性を特定の男性に括り付け、男性間に女性をめぐる闘争が生じる危険性を忌避する装置として、ホモソーシャルを裏返したものである、と。 たぶん、こうして性愛をめぐる歴史をギリシャから現代まで辿り直してみると、それ自体が 「制度」でもある「ジェンダー」が消滅し、現在の「男ー女」「男ー男」「女ー女」の愛情関係に差異が認められなくなった時に、初めて純粋な「愛」が堂々、成立する、と言えるーーこれが現在時点の「模範回答」なのでしょうね。 ただ、文化の歴史とは恐ろしいもので、ある意味、理の当然でもあるのですが、近代小説が歌い上げてきた「ロマンチックラブ」、実は裏返せば「ホモソーシャル」の刷り込みの力は大きく、「社会」の要素が二人の間に葛藤や苦悩を引き起こしては、それがまた二人間の友情を鍛えあげ、濃密にしてゆく、といった「男の友情物語」に、ついつい美しさや感動を覚えてしまう自分がいます。ただ、どんどん自分より若くなってゆく女性の教え子たちや我が娘などの話を聞いていると、その美しさが内包している残酷さ、恐ろしさ、不気味さ等を私などより、ずっとリアルに生き...

ふと思った

海外の安い 労働力を求めて 企業が 出て行っちゃったのが 日本の 内需を冷やし、 労働市場も 貧困化させてる わけだけど、 日本人の 実質賃金も下がってるんだから、 企業も 国内回帰すればいいじゃん。 そうすれば 国内の雇用だって 生まれるのに。 (以下google bardより回答) 企業が海外に進出する理由は、主に以下のとおりです。 ・安い労働力 ・税制優遇 ・市場規模の拡大 ・規制の緩さ これらの理由により、企業は海外で生産コストを削減し、利益を拡大することができます。そのため、企業が海外に進出すると、日本の内需は冷え込み、労働市場は貧困化します。 しかし、企業が国内に帰国すれば、国内の雇用は創出され、内需は拡大します。そのため、企業の国内回帰は、日本の経済にとってプラスの影響を与えると考えられます。 ただし、企業の国内回帰には、以下の課題があります。 ・労働コストの高さ ・規制の厳しさ ・インフラの整備不足 これらの課題を解決しなければ、企業は国内に帰国するインセンティブを得られません。そのため、政府は企業の国内回帰を支援するための施策を講じることが重要です。

大規模金融緩和策の蹉跌 (再掲)

国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。

気になる記事 2023/6/7 日経新聞5面 (再掲)

「賃上げの効果の波及が 物価高に追いつかず、 実質賃金の 低下が続いている。」 とのこと。 その結果 「消費者の財布の ひもは固い。」 としている。 このまま また 消費が冷え込むのはまずい。 日銀がすぐ動けるとも 到底思えないし、 企業に無理にでも 賃上げを頑張ってもらう 以外ない。 (以下 google bard の 回答) はい、その通りです。 賃上げの効果の波及 が 物価高に追いつかず、 実質賃金の低下が続いています。 その結果、 消費者の財布のひもは固くなり、 消費が冷え込む傾向にあります。 このままでは、 経済成長が鈍化したり、 デフレに陥ったりする 可能性があります。 日銀が すぐに動けるかどうかはわかりませんが、 企業には 無理にでも賃上げ を 頑張ってもらうしかありません。 賃上げが進むことで、 消費者の購買力が増し、 消費が活性化する 可能性があります。 また、 賃上げは 企業の利益を押し上げる 効果もあるため、 企業の投資意欲を高め、 経済成長につながる 可能性があります。 政府は、 企業の賃上げ を 促進するための施策 を 検討する必要があります。 例えば、 企業が賃上げを行う際に、 税制面で優遇するなどの 施策が考えられます。 また、政府は、 消費を促進するための 施策も検討する必要があります。 例えば、 消費税の減税や、 家計への給付金の支給などの施策 が 考えられます。 政府と企業が協力して、 賃上げを促進し、 消費を活性化させることが重要です。

岸田内閣支持率急落 (再掲)

質問:少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。(無聊を託つ より) 回答(google bardより):少子高齢化が進むと、労働力人口が減少し、経済成長が鈍化する可能性があります。また、社会保障費の負担も増加し、将来の社会保障が不安になる人も増える可能性があります。このような状況では、人々は将来への不安から消費を控え、貯蓄を増やす傾向にあります。これは、デフレマインドにつながり、経済の悪循環に陥る可能性があります。 政府は、NISAを恒久化したり、減税を実施したりすることで、消費を喚起しようとしています。しかし、デフレマインドが根強いと、これらの施策の効果は限定的となる可能性があります。 日本でも、インフレ率が3%に達しているというニュースがありました。これは、世界的な原油価格の高騰や、円安の影響によるものです。しかし、フィッシャー効果が想定する合理的な消費者であれば、物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上昇するはずです。しかし、日本の家計はそこまで合理的ではなく、現預金を貯め込む方向に進んでいるようです。 これは、日本の家計が、将来の経済成長に不安を感じているためと考えられます。また、日本では、住宅ローンの金利が低く、借金の返済が楽になっている...

集団安全保障と集団的自衛権の違い (再掲)

①帝国クライスと国連の関係、 ②集団的自衛権と集団安全保障の違い、 について山梨大学の皆川卓先生にうかがいました。 (放送大学面接授業「神聖ローマ帝国の歴史」の先生です。) 第一の質問ですが、コトは少々複雑です。 神聖ローマ帝国の帝国クライスは、 帝国の解体と共に忘れられていました。 しかし帝国クライスがまだ健在だった18世紀初頭、 フランスのサン・ピエール (Charles-Irenee Castel de Saint-Pierrem 1658-1743) という聖職者・外交官・政治哲学者が、 帝国クライスの仕組みと活動を見て (サン・ピエールの主君であるフランス王ルイ14世は神聖ローマを侵略して帝国クライスに痛い目に遭っていました)、 これをお手本に、 ヨーロッパ各国が恒久的な同盟を結び、 共通の会議や裁判所を持てば、 戦争は防げるという 著書『ヨーロッパに永久平和を回復するための計画』 (Projet pour rendre la paix perpe'tuelle en Europe) という著書を著します。 この著書を褒めながら、 「平和を希求する君主の同盟では、 彼らの心変わりがあって心許ない。 国際安全保障は 人権の土台である 平和を守るという 人民の意思に基づかなければ」 という修正を加えたのが、 有名な政治哲学者ルソー (Jean Jacque Rousseau, 1712-78) が1761年に著した 『サン=ピエール師の永久平和論抜粋』 (これは日本語訳のルソー全集4巻に入っていて簡単に読めます) でした。 そして 彼の著作に触発されたのが、 これも有名なプロイセンの哲学者カント (Immanuel Kant, 1724-1804) で、彼はルソー論文の理論を発展させ、 国際安全保障に必要な条件を列挙した 『恒久平和のために』 (Zum ewigen Frieden) という論文を1795年に著します (これも岩波文庫に入っていて簡単に読めます)。 これが その後の国際安全保障構想の土台になる論文で、 19世紀に イギリスの国際法学者ロバート・フィリモア (Robert Phillimore, 1810-85) の多くの論文によって、 国...

ロシアはヨーロッパか

放送大学での いくつかの 面接授業を 聞いて思ったのは、 ロシアは ヨーロッパと 思われてないんじゃないか? ということ。 ロシアはロシアで ヨーロッパに 憧れを抱いてるし。 「ヨーロッパ」の人 からすれば、 ロシアなんて 半分アジアだと 思ってる フシがある。 「魔の山」でも、 ロシア人の美女が、 美しいけど 軽薄な女として 描かれてる(らしい)し。 そう考えると、 日露戦争で ロシアが負けたのも、 実は 「ヨーロッパ」からすれば、 驚きはしただろうが、 そんなに 衝撃的というほどでも なかったのではないか? 確かに 大陸での戦いは 壮絶だったが、 バルチック艦隊なんて、 遠路はるばる、 しかも (司馬遼太郎の 「坂の上の雲」の 記述を見ると) 日本と 日英同盟を組んだ イギリスの 徹底した いやがらせで、 可哀想になるくらい さんざんな 思いをして 日本まで やってきたわけだし。 日本が 経済的に安定してくるのは 第一次大戦の 好景気のおかげで、 それまでは まだまだ 経済的には 不安定だったと 言われている。 あんまり 日本が 戦前、経済的に 繁栄したのは 必然だったと 思うのは 間違いなのではないか。

結構ずっしりくる。

母親の見守り を やり通すとは 言ったが、 実際に 現実として 捉えると、 グゥ・・・ と 来るね。 放送大学 続けられるのは 素晴らしいけど。 犬の介護をやり、 父親の介護をやり、 母親も そろそろ 元気になって 来たかな? と 思ったら、 最後まで 見守ってなきゃ いけないらしい。 まさか こういう人生 が 待ってるとは 思わなかったよ。

サンジャポ

結局、テレビって、 視聴者を 本質が何も わからない 状態にしておくのが オイシイ 商売なんじゃないかと 思えてくる。 そうすれば 見続けてくれるから。 下手に 視聴者が 知恵つけると テレビ 見なくなる。 ・・・放送大学で 学ぼう!

マウムル モゴッソヨ。

母親の見守りは、 母親が あの世にいくまで やり通さなきゃ いけないんだな。 覚悟を決めたよ。 俺も 障害者って立場を 失ってまで 市役所で 働こうとは 思わないし。 障害者って いろいろ 優遇されてるし、 何しろ 障害年金もらえる からね。 母親も、 要介護3とはいえ、 ヘルパーさん 来てくれるし、 本人だって 日常生活送れる 程度には 動けるし、 あとは 体力がつけば、と 思ってたけど、 そういう もんでもないっぽい。 俺が、 雇われ仕事は イヤだから フリーで 英語塾やりたいと 言っても、 フリーズするし。 かといって、 障害者という立場を 放棄してまで 雇われ仕事したくないし。 とにかく、 母親の見守りは 最後までやらんと いけない。 そんな 大したことでもないけど。

さすがアメリカ製

2年前に 母親に アメリカ製のステッパー プレゼントしましたが、 こういうものは 中途半端なものを 買っても 粗大ごみに なるだけと 思って、 アマゾンのコメント 見ながら かなり 値の張る 買い物をしましたが、 さすがに 頑丈に出来ていて、 俺みたいなデブが使っても まったく問題ないようです。 母親は 体重が俺の半分くらいなので、 圧を調整する必要が ありますが、 それも ネジを回すだけなので、 簡単に出来ます。 これで 母親の健康寿命が 延びるなら、 安いもんだ。

ちなみに

フランス絶対王政の 象徴とも言える ルイ14世が、 アメリカ新大陸争奪戦や ヨーロッパの王位継承戦争に 首突っ込んだせいで、 カネ使いまくって、 あとあと 重税を科して 市民がブチキレて フランス革命が起きたわけですから、 国の借金を ナメてると 大変なことになりますよ。 国の借金が 増えれば増えるほど 国が 豊かになるとか ほざいてる 三橋貴明みたいなウソつきがいますが、 アイツのような 確信犯的ペテン師の 言ってることを 信じてると、 あとあと 痛い目に逢いますよ。 信じてる人だけが 痛い目みるならいいですけど、 国が 滅びて 痛い目みるのは みんなですからね。

ヨーロッパ史

日本の 歴史教育だと、 ヨーロッパ史を 大学受験のために 勉強するのに、 ソクラテスも アリストテレスも 名前だけ、 ホッブズやロックに至っては 政治・経済か倫理(?)に 丸投げ状態なので なかなか見えてこないですが、 一通り勉強すると、 ヨーロッパ世界の歴史というものが 自然と見えてきます。 ソクラテスの弟子がプラトンで、 プラトンの弟子がアリストテレスです。 プラトンやアリストテレスの教えが、 中世キリスト教の教義に 組み込まれていきます。 つまり、中世というのは、 アリストテレスの道徳観・自然観が 強力に浸透しており、 ローマ教皇の権威も、そこから来るわけです。 したがって、ルネッサンスというのは ある意味では アリストテレスの否定なわけです。 例えば、ピサの斜塔から 重さの異なる 鉄球を落として、同時に落ちるのが 当時の人々にとって 衝撃的だったのは、 アリストテレスが 重いもののほうが 早く落ちると (たぶん) 書いていたからです。 つまり、中世において 絶対の権威を誇った アリストテレスの考えが否定されたわけです。 それは とりもなおさず 中世キリスト教の否定でも あるわけです。 そうすると、政治の世界でも 先述した イギリスの例のように、 ローマ・カトリックの権威から 自由になる傾向が生まれると、 当然、 王様が偉い、ということになってきます。 それは、同時に 中央集権に傾くわけです。 なぜなら、 一国のなかでは 王様が一番偉いからです。 とはいえ、その王様の権威も キリスト教のバックアップがあるわけですが。 しかし、 王様が一番偉い、という ことになると、権力の歯止めが 効かず、王権が 暴走するので、 それに対する 歯止めの理論が生まれてきます。 それが ホッブズやジョン・ロックなどの 社会契約論などです。 そういう、権力の相互抑止という 発想が 生まれてくるところが ヨーロッパ史で 大事なところです。

かのように 森鴎外 

かのように 森鴎外  朝小間使の雪が火鉢ひばちに火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿ひでまろの部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。 「おや。さようでございましたか。先さっき瓦斯煖炉ガスだんろに火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって、お床の中で煙草たばこを召し上がっていらっしゃいました。」  雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入はいった時、大きい葉巻の火が、暗い部屋の、しんとしている中で、ぼうっと明るくなっては、又微かすかになっていた事を思い出して、折々あることではあるが、今朝もはっと思って、「おや」と口に出そうであったのを呑のみ込んだ、その瞬間の事を思い浮べていた。 「そうかい」と云って、奥さんは雪が火を活いけて、大きい枠わく火鉢の中の、真っ白い灰を綺麗きれいに、盛り上げたようにして置いて、起たって行くのを、やはり不安な顔をして、見送っていた。邸やしきでは瓦斯が勝手にまで使ってあるのに、奥さんは逆上のぼせると云って、炭火に当っているのである。  電燈は邸やしきではどの寝間にも夜どおし附いている。しかし秀麿は寝る時必ず消して寝る習慣を持っているので、それが附いていれば、又徹夜して本を読んでいたと云うことが分かる。それで奥さんは手水ちょうずに起きる度たびに、廊下から見て、秀麿のいる洋室の窓の隙すきから、火の光の漏れるのを気にしているのである。      ――――――――――――――――  秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。卒業論文には、国史は自分が畢生ひっせいの事業として研究する積りでいるのだから、苛いやしくも筆を著つけたくないと云って、古代印度インド史の中から、「迦膩色迦王かにしかおうと仏典結集ぶってんけつじゅう」と云う題を選んだ。これは阿輸迦王あそかおうの事はこれまで問題になっていて、この王の事がまだ研究してなかったからである。しかしこれまで特別にそう云う方面の研究をしていたのでないから、秀麿は一歩一歩非常な困難に撞著どうちゃくして、どうしてもこれはサンスクリットをまるで知らないでは、正確な判断は下されないと考えて、急に高楠博士たかくすはくしの所へ駈かけ附けて、梵語ぼんご研究の手ほどきをして貰った。しかしこう云う学問はなかなか急拵きゅうごしらえに出来る筈はずのものでないから、少しずつ分...

大君のモナルキ 過去ログより (再掲)

以下 『世界の名著45 ブルクハルト』 (中央公論社 1966年) 所収「イタリア・ルネサンス文化」より。 歴代の教皇とホーエンシュタウフェン家との戦いは、 ついにイタリアを、 他の西欧諸国とは もっとも重要な諸点において 異なるような、 一つの政治状態の中に取り残した。 フランス、スペイン、イギリスにおいては、 封建制度は、 その寿命が切れたのち、 必然的に 君主制の統一国家の中に 倒れるような性質のものであり、 ドイツにおいては、 それはすくなくとも 帝国の統一 を 外面的に保持する助けになったが、 イタリアは その制度から ほとんど完全に抜け出していた。 14世紀の皇帝たちは、 もっとも有利な場合でも、 もはや最高権者としてではなく、 既存の勢力の 首長や補強者に なるかもしれない者 として迎えられ、 尊重されていた。 しかし教皇権は、 もろもろの道具立てや支柱 を そなえているため、 将来起ころうとする どんな統一でも 妨げるだけの力は もっていたが、 みずからの統一を作り出すことはできなかった。 その両者のあいだには、 数々の政治的な形物 ―もろもろの都市と専制君主― が、一部はすでに存在し、 一部は新たに勃興したが、 その存在は 純然たる事実に基づいていた。 (*) それらにおいて、 近代のヨーロッパ的国家精神は、 はじめて自由に、 それ自身の衝動にゆだねられたように見える。 (p.64) (*)においてブルクハルトは、 「支配者と、それに付随するもの を いっしょにして、 lo statoと呼ぶ。 そしてこの名称はやがて不当にも、 一つの領土全体を意味することになる。」 と注釈を付けている。   以下、 篠原一 『ヨーロッパの政治―歴史政治学試論』 (東京大学出版会1986年) より。 しかし政治史的にみた場合、 16世紀が 中世の構造に与えた 最大のイムパクトは、 国家形成=中央機構という現象であろう。 この国家はのち、 市民革命の発生とともに 生まれた 国民国家と同一のものではな...

イギリスの政治

ヘンリー8世が 離婚したいがために ローマ・カトリックから 独立して エリザベス女王の時に 英国教会が 成立したのが 絶対王政の始まり、 なんて 世界史では 習うけど、 もちろん ローマ・カトリックからすれば グレート・ブリテン島が僻地ってのも あるだろうけど、 ローマ・カトリックの権威から 自由になれたら、そら 王様は 好き放題やろうとするのは 当然だよね。 権力を抑制するものがないんだから。 そこで トマス・ホッブズや ジョン・ロックみたいに 社会契約説を確立させる 偉人が 生まれたのが 凄いことなんだけど、 血みどろの闘争の果てに、 最後は 議会制民主主義を 確立させたのが イギリス人の偉いところ。 今から見れば イギリスの議会制民主主義が グローバル・スタンダードだと みんな 知ってるけど、 当時のイギリス人だって、 かなり 暗中模索状態だったと 思うよ。 それでも成功したのは、 イギリス経験主義の なせる業だと 思う。 一番 典型的な 絶対王政とみなされている フランスにしても、 本当に ”絶対”だったのかというと、 実は ヨーロッパ社会の中核を 担う 都市の権限を ある程度 掌握していたという 程度で、 そんなに言うほど ”絶対的”な 権力を保持していたという わけでも なかったみたいだけどね。 それでも 革命が起きて 最終的に 共和制になった わけだけど。 共和制ってのは 怖い政体で、 王様っていう 権威がないと、 それこそ 革命の時の フランスみたいに 「理性」が絶対みたいになっちゃうし、 アジアで 人民共和国なんて言ったら、 結局 地獄のような 独裁制になるしね。 たとえ 象徴でしかない としても、 王様みたいな 権威が存在しない 政体ってのは、 恐ろしく 不安定なものだ。 そう考えると、 天皇制があやうくなる、 というのは、 実は 日本にとって メチャクチャ危険な ことなのかも知れない。 皇室アルバムとか 見てる 母親みてると そう思うわ。

あ〜やだやだ

エアコンが 壊れたので 付け替え工事 してるんだが、 てっきり 路駐してるのかと 思って、 意外と 時間が掛かってるから 管理人に 言っておかなきゃ と 思って連絡したら、 急に 態度を硬化させて、 ボールペンをカチカチ 鳴らしながら、 私にそんなこと 言われても 捕まるものは 捕まりますよ! って まるで 教師か 頭の硬い 中間管理職 かのように ブツブツ言い始めて、 業者の車が どこにあるのか 確認し始めて、 ちゃんと コインパーキングに 停めてあったから ホッとしたけど、 ああいう 微塵も融通の効かない 人間ってのは、 嫌だね。 まあ 言ってることは 正論なんだろうけど、 言い方とか態度って もんが あるじゃん? こっちは住人だぞ? 俺だって、 親切心で言いに行ったのに、 久々に 緊張したよ。 公務員っていうのは ああいう 管理人みたいな奴を 強力にした タイプなのかな?と 思うと、 毎日あんなのと 関わるのは 絶対にイヤだと 確信したね。 そら 神経病むわ。 以前、と言っても ありとあらゆる手段を使って 慶応を卒業しようと してた頃だから、 かなり昔のことだが、 どうにかして ドイツ語の単位取ろうと 思って 公文式を 始めたんだが、 俺みたいなヤツが 公文式でドイツ語なんか 勉強できるはずもなく、 まったく 課題出さないで いたら、 ケータイに 直電掛かってきて、 学習計画表だせとか、 こんなのは 幼稚園児でも できるとか さんざん言われまくって、 辞めたけど、 あいつも 超有名な 半導体会社を 定年退職した 慶応卒だったね。 ああいう 社内官僚みたいなヤツが 上司だったら ほんとに 神経参っちゃうわ。

妄想卒論その13 痩せた現実とリアリズム (再掲)

読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485)

反・決定論 妄想卒論その4 (再掲)

私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、と論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店  私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店

妄想卒論その1・2 (再掲)

回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合...

妄想卒論その8 「世界の共同主観的存在構造」 岩波文庫 (再掲)

われわれは、現に、時計の音を「カチカチ」と聞き、鶏の啼く声を「コケコッコー」と聞く。英語の知識をもたぬ者が、それを「チックタック」とか「コッカドゥドゥルドゥー」とか聞きとるということは殆んど不可能であろう。この一事を以ってしても判る通り、音の聞こえかたといった次元においてすら、所与をetwasとして意識する仕方が共同主観化されており、この共同主観化されたetwas以外の相で所与を意識するということは、殆んど、不可能なほどになっているのが実態である。(59ページ) しかるに、このetwasは、しばしば、”物象化”されて意識される。われわれ自身、先には、このものの”肉化”を云々することによって、物象化的意識に半ば迎合したのであったが、この「形式」を純粋に取出そうと試みるとき、かの「イデアール」な存在性格を呈し、”経験的認識”に対するプリオリテートを要求する。このため、当のetwasは「本質直感」といった特別な直感の対象として思念されたり、純粋な知性によって認識される形而上学的な実在として思念されたりすることになる。(67ページ) 第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわけではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人たちは言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や”意識”が介入する!)この限りでは、音は、文化的環境、他人たちにも”属する”と云う方が至当である。(70ページ) 一般には、同一の語彙で表される対象(ないし観念)群は、わけても”概念語”の場合、同一の性質をもつと思念されている。この一対一的な対応性は、しかも、単なる並行現象ではなく、同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表現される(結果)という因果的な関係で考えられている。しかしながら、実際には、むしろそれと逆ではないであろうか?共同主観的に同一の語彙で呼ばれること(原因)から、同一の性質をもつ筈だという思念マイヌング(結果)が生じているのではないのか?(109ページ) 第二段は、共同主観的な価値意識、そしてそれの”物象化”ということが、一体...

文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答より (再掲)

質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。  フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。  「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家...

ベンヤミンと貧困 (再掲)

ベンヤミンは、「手」にもとづく認識の成果としての技術の巨大な発展が全く新しい貧困状態をもたらしたと指摘している。 「技術の巨大な発展とともに、まったく新しい貧困が人類に襲いかかってきたのである。」(「貧困と経験」『著作集』第1巻) 技術は不断の発明・発見によって次々に新しいものを作り出しては古いものを破壊していく「創造的破壊」(creative destruction)(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)をもたらす。 機械は急速に進化していき、不断に「倫理的摩滅」にさらされている。(『資本論』第1巻、P.528参照)それとともに人間の生活を支えている周囲の事物はことごとく変化してしまうならば、 人間はもはや自らの過去の経験を頼りにすることができず、つねに最初から新たにやり直すしかなくなってしまう。 「まだ鉄道馬車で学校へかよったことのあるひとつの世代が、いま、青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してしまった風景のなかに立っていた。破壊的な力と力がぶつかりあい、爆発をつづけているただなかに、ちっぽけなよわよわしい人間が立っていた。・・・これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。 野蛮?そのとおりである。・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかはない。あらたにはじめるのである。 」(「経験と貧困」)これは、1933年の「経験」状況である。 ベンヤミンは、人生における経験がゆっくりと時間をかけてつくられていくような「完成する時間」に対して、「永劫回帰」する時間を対置する。「・・・完成する時間・・・は、 着手したものを完成することを許されないひとびとが住む地獄の時間 と対をなしている。」(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」『著作集』第6巻)

詐欺と贈与の社会学 (再掲)

詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)

手に入らなくなる前に②

さっきの 本よりかは だいぶ 易しいけど、 大学受験レベル としては、 これ 一冊でも だいたい どこの大学も 大丈夫っていう レベル。 英語を学問として 勉強するってことが、 大事。 こんなこと言うと バカにされるだろうが、 学問として英語を 勉強するということは、 その後の 高等教育の過程で 学問的に 物事を考えることに 役立つ。 単に 英語を使えれば それでいい、では もったいない。

よくわからんが

台湾の TSMCっていう 世界最大規模の 半導体企業が 熊本に 工場を 作るってんで、 大喜びしてる らしいが、 今まで 日本が 他の 国に やってたことの 逆を やられてるだけじゃん。 時代が変わったな。

戦後ヨーロッパの政治と社会2@茨城大学

たしか 先生が チョロっと こんなことを 言っていた。 旧社会主義国 も、 すぐに経済が 立ち行かなくなったわけじゃなくて、 60年代くらいまでは 結構 順調に行っていたので、 西側諸国でも、 自分たち 資本主義社会が 本当に正しいのか 疑問視する 傾向が生まれ、 それが 60年代の 過激な 公民権運動や 反戦運動や 学生運動に 繋がった、みたいなこと。 確かに、そう言われると 合点がいく。 日本でも 60年 安保闘争とか あったしね。 今じゃ 信じられないけど。 あと、 日本の大学生が 勉強しなくなって 国際競争力が 低下したってのも、 ウソではないが、 旧ソ連が崩壊して 東欧の 優秀な若者が 安い賃金で 働くようになったから ってのも あるらしい。

危機の二十年 岩波文庫 (再掲)

「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。 米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。 私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。 19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。 さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。 1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。 そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。 なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。   (以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界...

ありそうな話

外国人労働者が 増えて (外国人の) 犯罪が増えた、 という 風潮が チラホラ 見えてきたが、 日本人の数が減って 外国人の数が (たぶん) 増えてるんだから 当たり前じゃねーか。 (年齢層別の増減は 関係あるかも知れないが。) 日本人だったら 犯罪冒さない とでも言うのか? つかえねー馬鹿のくせに プライドだけ高い 日本人より、 まともな 感覚持ってて 真面目に 働いてくれる 外国人のほうが 雇う側だって うれしいに 決まってるだろ。 それに、 ただでさえ 下の世代ほど 社会保障のツケ 回されてるのに、 このまま 人口減り続けたら、 社会保障どころか、 日本そのものが 崩壊するだろ。 もう、 外国人 特に 若年労働層 に来てもらわないと、 国そのものが 成り立たないんだよ。 一番ウゼえのは、 こういう ゼノフォビアを利用して 政治家に なろうとする奴ね。 ダニみたいな連中。

手に入らなくなる前に①

浪人中に これを やったはずなんだが、 全く 覚えてない。 自分は 翻訳家には 到底なれないが、 今の ご時世には これだけ内容の濃い 英語の 学習参考書は ほとんど 存在しないだろう。 なにしろ、桐原書店 とかでも 平気で 文法的に 間違ってたりするしね。 文法的に 正しくて しかも 文章に力がある 内容を 探すとなると、 自然と 過去の名著に 行き着く。 これを ネタ本にして 英語芸 できそうな 気がする。 ・・・今さら こんな古臭い 文章の英語 勉強して どうすんだ? と 我ながら思ったが、 やっぱり 引き込まれる くらいの 力が 文章に宿ってるんだよね。 それを 浪人生だった 20年前から 振り返って 眼前にすると、 その価値を ありありと 再認識する。 やはり 名著は名著だ。 フットサル仲間の 高校生に教えるために いま 売られてる参考書とか 使ったり、 あるいは 熊谷の塾で 難関大学を目指す 進学校の生徒を 教えたりしたけど、 やっぱり 教材としての モノが違う。 いくら 少子化って いっても 自分は 雇われ仕事はイヤだし、 これで 英語芸やって 生活できるなら サイコーだ。 ・・・旺文社の 英単語ターゲット1900も 買ったけど、 まー しょぼいね。 こんな単語帳 使って 英語 勉強させられたら、 誰だって 英語 嫌いになるわ。 良心を感じない。 これだったら TOEIC本で そんなに 高くないレベルの 単語集やったほうが 圧倒的に 頭に入るし、 安いし、 しかも 正確な意味がわかる。 受験産業は 怠慢だよ。

メンタルのスイッチ

メンタルのスイッチを オンにするのって、 案外簡単なんだよね。 俺も 高校受験で 1年間 スイッチをオンに しっぱなしで、 そのまま 高校生活に突入したから うつ状態になったことあるけど。 スイッチをオンにするよりも、 スイッチを切るほうが よっぽど 難しい。 自分の メンタルのスイッチの 切り方を 知ってることも、大事。

ふふ。ヤッタネ!

母親が 脳トレ本 解いて くれてるわ。 もともと 真面目で 努力家だからね。 観察してる 甲斐があるわ。 ・・・俺に 義理立てして やってるとかじゃなくて、 結構 ハマってるね。 さすが 都立 日比谷。 ・・・素晴らしい。 母親の表情も 知的な 雰囲気が 漂ってきたね。 いい感じだ。 あとは 体力をつけて もらえば。 2年前の誕生日に アメリカ製のしっかりした ステッパーを プレゼントしたので、 それを 使ってくれるように なれば、 しめたもの。

頼介伝 苦楽堂 松原隆一郎

来週の 面接授業までに 読んでおいて 欲しい、と シラバスに書いてあった ので、 読み始めた。 ご自身の 祖父の足跡を辿る、 という話なので、 てっきり 学歴が立派なかたの 自慢話かと 思ったら、 副題にある通り、 「無名の起業家が生きた もうひとつの 日本近現代史」だった。 あまり ご本人の 学歴がいかめしいと、 逆に 先入観持たれるから 大変だ。 内容も 日本近現代史が好きな 自分にとっては 非常に興をそそられる内容。 さすが 教育者。 来週までに 読まなければ。 とりあえず 一晩で 自分が興味ある 時代くらいまでは読んだ。 だいたい 支那事変あたりまで。 それ以降は あんまり興味ない。 しかし、 著者の祖父の足跡を 辿りながらも、 日本近現代史として うまく まとまっているのには 敬服する。 ・・・単なる 日本経済史としてでなく、 そこに 生きた 人間が 描かれていて、 非常に 面白い。 ・・・自分が 目指してたものって、 こういうこと なんじゃないか、と 思えてくる。 その お手本を 見せてもらった。 面接授業が楽しみだ。 ・・・本読むにしても、 勉強するにしても、 一区切りつく、あるいは 自分の中で 腑に落ちるまでは、 自分でも 自分のスイッチを 切れなくて、 ついつい 寝不足になってしまう、というのが 昔からの 習い性になってしまっている。

外国人労働者受け入れ問題

もう、国は 外国人労働者を もっと 受け入れる 方針で進んでる。 将来人口推計を 見れば わかる、と 大機小機 (日経新聞コラム) に書いてあった。 しかし、 外国人技能実習生に対する 非人道的処遇は 言うまでもなく、 今まで 他の アジア諸国に対して 真摯に 戦争中の旧日本軍の 戦争犯罪に 対して、 明確な 謝罪・反省の 態度を 示してこなかった ツケを 日本人は いつか 手痛いしっぺ返しとして 喰らうだろう。 今までは アメリカが、 日本ではなく 自国の利益のために 彼らを 黙らせていた。 そのタガが 外れたとき、 どんな 事態になるのか。 ノーテンキな日本人は 後ろから突然 ぶん殴られる ぐらいの 衝撃を受けるだろう。 俺が テレビを見ないというのは、 ノイズが 無駄に 多いのみならず、 NHK含めて、 こういうことを (特集は別として) 普段から 積極的に 報道しようという 姿勢が 全く見られないからだ。 もちろん、こんな センシティブな内容を 日常的に報道すれば、 反日左翼だの言われ、 政治からの 圧力もあるだろう。 しかし、だからこそ そこを 報道するのが 公共放送の存在意義なのではないか? なぜ 視聴者の人気取り、 政治家の ご機嫌取りを し続けるのか? それはもう 組織的 怠慢としか いいようがない。

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに...

茨城大学巡業終了

アリストテレスの倫理学@茨城大学。他の授業との兼ね合いもあり、3週連続茨城大学。貴重なお話しが聞けました。渡邉邦夫先生の授業は、これで3度目。古代ギリシャの道徳哲学を一通り勉強出来ました。こういう勉強のやり方は日本じゃ放送大学でしか出来ないだろうな。同じく今期、茨城大学で受けた 戦後ヨーロッパの政治と社会2 の先生によれば、EU域内は国を跨いで単位取れるらしいから、それも贅沢な話だけど、自分が慶応入った2002年頃は、東アジア共同体なんていう、今となっては忘れ去られた概念もあったね。暗黙のうちに盟主は日本だ、みたいなノリだった。ま、これも塞翁が馬だね。慶応で順当に単位取ってたら、間違っても放送大学に入るっていう選択肢はなかった。

東横イン

普通の部屋に プラスして、 ハイエンドな クラスの 部屋を 設定し始めた みたいね。 ハイエンドな部屋を 設定することで、 普通の 部屋を お手頃に感じさせる 手法ですな。 値段も そんなに変わらないけど。 「ビジネスと経済学@茨城大学」で オイスターバーの 手法を 聞いた。 オイスターバーを繁盛させる ために、 数量限定の 高価格の商品を 設定することで、 普通の 商品を 安く感じさせる。 あの授業は 思い返すと 色々 面白い話が 聞けた。 茨城大学すげえよ。

あんま思い出したくないけど

姉が、 妙なところで ケチるくせに 金遣い粗い と 思うのは、 枚挙に暇がないけど、 例えば、 使いこなせもしないのに ル・クルーゼの鍋 とか 買うくせに オサレに お米炊いて、 焦がして まっ黒焦げにして ダメにするところ。 そんなこと ばっかり やってる。 姉に 下手に 母親の 認知機能が どうとか 仄めかしたら、 大騒ぎして エラいことに なるだけだから、 とりあえず 認知症予防のドリル だけ 買って 様子を見る。 あいつは いくらカネが あっても 足りない。 下手にカネがあると 破滅するだけ。

母親観察

やっぱ 毎日いっしょに いるからこそ、 感じる変化って あると 思うんですよ。 あれ? ちょっと 物忘れしてない? とか。 買い物の 量 間違えてない? とか。 アマゾンで 認知症予防の 本 買いましたけど。 週明けに 届くので 楽しみです。

遊びの社会学

たしかに、 年齢重ねると 好き・嫌いで 物事を 判断するように なってくる 気がする。 結局それで 決めたほうが 楽だし、 案外 それで 痛い目にあわない。 若い頃から 好き・嫌いで 即断しちゃダメだと 思うけど。 若い頃は 考えに考えを 重ねる 経験を 積み重ねて、 年齢を重ねたら 最後は 勘で決める、というのも あながち 不合理ではない。

夢の途中

スーツケース いっぱいにつめこんだ 希望という名の 重い 荷物を 君は 軽々と きっと持ち上げて 笑顔見せるだろう 愛した 男たちを かがやきに替えて いつの日にか 僕のことを 思い出すがいい ただ 心の 片隅にでも 小さくメモして

頑張らない宣言

下手に 頑張ろうとするから 疲れる。 俺はもう 頑張らない。 頑張れない。 放送大学だけは 裏切らない。 あとは 何もかも アテにならない。 ・・・俺は 欲張りだったんだ。 何もかもを 欲しがっていた。 ちょっと 肩の荷をおろして 辺りを見回せば、 素敵な財産が いっぱいあるじゃないか。  https://www.youtube.com/watch?v=_tM5oB2y4-4  https://www.youtube.com/watch?v=EhUb3YleZDM

年金支給日

この国滅びるな。 こんなに手厚くされちゃ 敢えて 働いてまで 障害者やめる 気が失せる。 心は 潤うけどね。 確かに。 きっと 解散総選挙も近い。 政府与党が こんな 大盤振る舞いじゃ、 野党も それに負けじと バラマキの 大合唱だろうな。 ・・・岸田さん 今国会での 衆議院解散を否定したね。 今国会が いつまでとか 全然知らんけど、 まあ 年金支給額増やしたから チャンスとみて 解散、みたいなんじゃなくて、 好感もてるね。

わかっていらっしゃる。

今日は 朝から 疲れてるなー、と 言うときには これ。 不思議と 疲れが取れる。 完璧にではないにせよ。

疲れた・・・

俺は 何に 救いを 見出したら いいんだろう? 神か? まあ、 人間よりかは 信用できるかもな。 俺は スーパーナチュラルを 信じる タチじゃないが。 人間は 信用できない。 もっとさ、 褒めてくれよ。 北の将軍様じゃねーけどさ、 よく 頑張ったね、て ゆーてくれよ。 https://www.youtube.com/watch?v=WM8bTdBs-cw

アメリカのデモクラシー (再掲)

「私の目に浮かぶのは、 数え切れないほど 多くの 似通って 平等な人々が 矮小で 俗っぽい快楽 を 胸いっぱいに思い描き、 これを得ようと 休みなく動きまわる 光景である。 誰もが 自分にひきこもり、 他のすべての人々の 運命に ほとんど関わりをもたない。 彼にとっては 子供たちと 特別の友人だけが 人類のすべてである。 残りの同胞市民はというと、 彼はたしかにその側にいるが、 彼らを見ることはない。 人々と接触しても、 その存在を感じない。 自分自身の中だけ、 自分のためにのみ存在し、 家族はまだあるとしても、 祖国は もはやない と いってよい。」 (「アメリカのデモクラシー」 アレクシス・ド・トクヴィル 岩波文庫 第二巻 下 2596ページ)

なんかの天罰か?

俺、 前前前世で なんか 悪いことでも したのかな? なんで あんなヤツが きょうだい なんだろう? クソ野郎が!!!!! 思い出すだけで テンション急降下! これもう 働くとか そういう次元じゃねーよ。 そら 精神障害者にもなるわ。 道徳哲学もへったくれも ねえ! ・・・て、いつもの テンションに 逆戻りしただけ。 これでも 母親に感謝されてるんだから、 それで 勘弁してくれ。 これが俺の 日常生活。 ・・・錯乱して 警察に捕まって 病院送りにされてから 19年。 必死で頑張った結果が これか。 もうちょっとさ、 人の苦労とか わかれよ。 いい加減。 ガキじゃあるまいし。 テメーしか見えてねえ。

水うめー

台風が来たり 梅雨だったりして、 空もどんよりして 決して 気分のいい 季節ではないですが、 雨がたくさん 降るので、 水道水が普通に 美味いですね。 もちろん 簡単な 浄水器はつけてますけど。 それにしても、 5月までとは 全然違いますよ。 やたら水分を摂取するのが 習慣になっている 身としては、 助かる。 そうでないと コンビニとかで買う お茶とかの量が とんでもないことになる。 それにしても、 梅雨の時期って 昔は もっと 肌寒いものだった 気がしますけど、 もう そういうもんじゃないんですね。 カタツムリも 見なくなりました。

大機小機 2023/6/13

かつて日本は 生産用機械など 資本財の 輸出大国だった。 しかし、最近のデータを みると、 資本財の輸入が 急増している。 もう一つは、 国際収支で 「その他サービス収支」 の赤字が 急増している。 これには 知的財産権の使用料や、 情報サービス、経営コンサルティング などが 含まれており、 最先端のサービスでも 輸入依存が 強まっている。 とのこと。 経済のプロってのは こういうところを 見るのか。 わかったつもりでいたけど、 経済ってのは 奥が深いなー

スローラーナー

やっぱり 自分は 夜型人間だなー。 日付が変わる頃になると 活発になる。 暇だから 放送大学の 民法の 授業を 再び聴いています。 慶応大学の 武川幸嗣先生の 講義。 2回目だけど、 新しい発見があって、 民法が ようやく理解できた ような 気になります。 中大通教入ってから 10年以上経つけど、 まったく わからなかった 民法が、ようやく 掴めてきた。 君子危うきに近寄らずの 精神でいれば、 法律なんかの 世話にならずに いられるもんだ、と 思ってたけど、 そういうもんじゃないね。 あるいは、 旧民主党が マニフェストを掲げて 政権を獲ったときに マニフェストは国民との 約束だ、等々言ってて、 それにも 違和感を感じていたので、 余計に 民法というものに 違和感を抱いてたんだけど、 この 講義を聴いていると、 こんがらがった糸が 解けるように 得心がいきます。 夏休みに 繰り返し聴くことにしよう。 ようやく いつもの平常通りの 生活リズムに 戻ってきた。 ・・・自分にとって 最大の難関だった 民法が 攻略できれば、 なんか法律資格 取れるかも、と 邪念が湧くんだけど、 それを 抜きにしても 聴いていて 面白い。

ぶっちゃけて言えば

この間 気分が抑うつ状態になったのは 明治エッセルスーパーカップ。 今日 気分が抑うつ状態になったのは ロッテCoolish。 これから 需要が増える時期だけど、 安易に 手を出さないほうが良い。

安いアイスクリームにはご用心

この間とは 別のメーカーの アイスクリーム食べたけど、 やっぱり ちょっと 気分が 抑うつ状態になる 気がする。 この間のメーカー よりかは マシだけど。 やっぱ 安いもんには ウラがあると 思ったほうが いいのかな? もう強いて アイス食べたいなら、 それ相応の 値段のものを 買うしかない のではないか。 下手に 安さと旨さだけで 買うと、 QOLが かえって下がる。 その毒性にやられている 間 ウツウツとしているくらいなら、 高いアイス買ったほうが よっぽどマシ。 Googleバードに聞いたら こんなコメント(一部)が 返ってきた。 添加物が気分に影響を与えるかどうかについては、まだ研究が進んでいません。しかし、添加物の中に気分を落ち込ませたり、抑うつ状態にさせたりするものがあることはわかっています。例えば、トランス脂肪酸や人工甘味料は、気分に悪影響を及ぼす可能性があります。

応用ミクロ経済学 (再掲)

小山台高校の生徒が、シンドラー社製のエレベーターに挟まれて死亡した事件があったけど、あれは、マンションの管理組合がメンテナンス代をケチって、他の業者に委託したのが発端らしい。 あんまり詳しく書くと、面倒なことになりそうだから、これくらいにしとくけど、シンドラー社製のエレベーターに欠陥があったというより、エレベーター本体の価格は低く抑えて、メンテナンス代で儲ける仕組みが災いしたのかも。 本体価格を低く抑えて、付属品などで儲ける商品の典型が、プリンター。 プリンター本体の価格は低く抑えて、インク代で儲けてる。 しかし、ここにもシンドラー社製エレベーターと同じ構造があって、高いインク代に目をつけて、第三者企業が代替インクを低価格で販売し始めて、それに対してプリンター会社が対抗策を講じたりとか。

フィリップス ソニッケアー

本体を無料で 新品と交換してくれたけど、 最初 不具合が 先っちょの ノズルが 詰まってるせいだと 思って アマゾンで買ったら、 結構 お高かったね。 これって、プリンターの インク代が やたら高いのと 同じ ビジネスモデルで、 先っちょのノズルで 儲ける ビジネスモデルなのかな?

サンキュ。

数日前 年金に関する ハガキが届いて、 書いてある意味が よくわからんかったが、 つまり 年金生活者への 支給額を増やすって ことらしい。 まーなー、 嬉しいには違いないけど、 マクロ経済スライドが適用されたのか、 単なる 年金生活者への ご機嫌取りなのかは知らんが。 衆院選の可能性も 耳にするし。 現実に、物価高で 困ってる 年金生活者が たくさんいるのは事実だろうしね。 ってゆーか、 この国って、 〇〇者っていう 国の政策上の カテゴリーに入っちゃえば、 なんだかんだ 獲るものがある、つまり メリットを 享受できちゃう 社会なんだよね。 (飽くまでも、 〇〇者として 可視化された存在ならば、 の話だけど。 社会から無視《=非可視化》された存在の 運命は 悲惨だ。) たとえその行き着く先が 地獄だろうとね。 俺としても、 こんだけ色々サービスされると、 敢えて いま障害者雇用に挑戦して 健常者と同じ土俵で 働けるかって言うと、 万全の自信が あるわけでもないし。 相変わらず神経細かいし。 正直 いまのままで いっか?! って 気になっちゃうよね。 モラルハザードだけど。

違和感

もうすでに そうなってから 時間が少し 経っているが、 タレントMC、 っていうか ホラン千秋が ストレートニュース読み始めてるんだが、 局アナでない 人間が ストレートニュース読んじゃっていいのかな? ストレートニュースって、 そもそも 放送局の存在意義の根幹なんじゃないの? 報道ってものをナメてない? ここらへんがTBSの 意識を疑わざるを得ない。 ストレートニュースを 読むってことは、 ある程度は その局を代表してるって ことだと思うのよ。 タレントMCに それをやらせて いい訳? 頭もいいし 滑舌もいいから ストレートニュース読ませる っていう 発想にたまらない違和感を 覚える。 ストレートニュースってさ、 現場の記者が 泥水すすって 情報集めて、 制作サイドが 編集して 作り上げてるもんだと 思うのよ。 それをさ、 世間に公開するときに アナウンサーでもない 人間が ただ間違えないで 読めば良いってもんなの? ストレートニュースって そんなに 軽いもんなの? 一回現場の厳しさ 見てから 読めよ、って 言いたいわ。 そうじゃなかったら ただの人工知能と何も変わらない。 自分が読んでる原稿の裏に、 どれだけの人の 努力があるか 感じてるか? なんかあった時に 指弾されるのは 現場の記者なんだよ。 そんとき、お前は 私は ただ原稿読んだだけです、 で 済まされんのか?

(゚∀゚)

ひとつ 言えるのは、 以前だったら 市役所の障害者雇用なんて、 真面目に 考えただけで 悪夢見ちゃうか メンタルが しんどくなっちゃってたけど、 いまは 色々考えはするけど、 そういうことはないし、 現実的に 選択肢として 考えられるように なった。 ・・・うーん やっぱ 母親ほっとくと、 ボケるし 体力も衰えるな。

使ったアイテム

なかなか 贅沢だった。

帰宅

勉強もほぼやり尽くしたし、 気力・体力も ついて来たから、 市役所の障害者雇用とかなら 俺の 人生まだ どうにかなるんじゃないか?! と 思ったりしたけど、 母親の様子を見ると、 ちょっと ボーッとしてたし、たぶん 寝てばっかりだったし、 こりゃあ ほっとくと どんどん衰えるな、とは 感じた。 とにかく、自分の 肉体的・精神的な 体力が回復してきたのは 良いことだ。 今日が 新聞休刊日で 助かった。 新聞を消化しないと 他のことに 手が回らない。

レポート予備

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえば どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなか...

宿命

「アドルノ」岩波現代文庫の巻頭だったと思うが、「己自身を理解していない思想だけが、本物である。」て書いてあるんだよね。キザな言葉だと思うんだけど、いま痛感するのは、これは勉強にハマった人間の宿命のような気がする。それを俺が代弁するのは不遜なんだけど、俺こんなに勉強したぜ♪とか、自分の学識に酔っている、というのは一種のナルシシズムで、自分で自分の姿を見ている、ということになる。これが、精神病持ちの俺には堪えられないほどの苦痛。自分で自分を見ている、ということ自体が、苦痛。生きてる以上は、振り向かずに歩き続ける以外の選択肢は存在しない。これが俺の宿命なのかも知れない。あー、でも理性ってそういうもんなんかな。アドルノの思想からすればそうなるよね。理性に目覚めちゃったら、原始のまどろみにはもう戻れない。ファウストで、メフィストフェレスですら近寄れない領域があって、記憶では「母たちの国」とか書いてあるんだよね。少なくともドイツ語圏の理性の捉え方ってのは、そういうもんなんなのかも知れない。

アリストテレスの倫理学@茨城大学

昨日と今日で、全く違う内容なので、昨日のことが遠い過去のように感じられて、脳ミソがついていけるのか不安だったが、今日の先生も既に定年退職された大ベテランで、この先生の授業を受けるのも、もう3回目なので、疲れはしたけど、充実感あります。古代ギリシャの道徳哲学がどんなもんかは大体わかった、はず。先生の教え方が上手ってのもあるんだろうけど、現代の日本人には古代ギリシャの道徳哲学なんか関係ないかっていうと、全然そんなことないと思うけどね。普通に日本の学校で道徳として教えても、通用すると思う。

また一つ成功体験

障害年金もらってるレベルの精神障害者が、寝不足なのに朝から夕方まで授業受けて、レポートまで書くって、ちょっと奇跡だよね。我ながらびっくりするわ。ドイツのエネルギー環境政策がご専門の方なんだけど、物腰が柔らかくて優しい方だった。ドイツの専門家って、厳めしくて、高圧的な人多いんだけどね。茨城大学の先生は基本物腰が柔らかい。親しみ易い。

権力と知 「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 (再掲)

前二千年紀の終わりから 前千年紀の初めの 東地中海のヨーロッパ社会では、 政治権力は いつもある種のタイプの 知の保持者でした。 権力を保持するという 事実によって、 王と王を取り巻く者たちは、 他の社会グループに伝えられない、 あるいは伝えてはならない 知を所有していました。 知と権力とは 正確に対応する、 連関し、重なり合うものだったのです。 権力のない知は ありえませんでした。 そして ある種の特殊な知の所有なしの 政治権力というのも ありえなかったのです。(62ページ) ギリシア社会の起源に、 前五世紀のギリシアの時代の起源に、 つまりは われわれの文明の起源に 到来したのは、 権力であると同時に知でも あったような 政治権力の 大いなる一体性の分解でした。 アッシリアの大帝国に存在した 魔術的―宗教的権力の この一体性を、 東方の文明に浸っていた ギリシアの僭主たちは、 自分たちのために復興しようとし、 またそれを 前六世紀から前五世紀の ソフィストたちが、 金銭で払われる授業という形で 好きなように用いていました。 われわれが立ち会っているのは、 古代ギリシアで 前五、六世紀にわたって 進行した この長い崩壊過程なのです。 そして、 古典期ギリシアが出現するとき ―ソフォクレス (注:「オイディプス王」の作者) はその最初の時代、 孵化の時点を代表しています―、 この社会が 出現するために 消滅しなければならなかったのが、 権力と知の一体性なのです。 このときから、 権力者は無知の人となります。 結局、オイディプスに起こったのは、 知りすぎていて何も知らないということです。 このときから、 オイディプスは 盲目で何も知らない権力者、 そして力余るために 知らない権力者となるのです。(62ページ) 西洋は以後、 真理は政治権力には属さず、 政治権力は盲目で、 真の知とは、神々と接触するときや、 物事を想起するとき、 偉大な永遠の太陽を見つめるとき、 あるいは 起こったことに対して 目を見開くときに、 はじめてひとが 所有するものだという 神話に支配されるようになります。 プラトンとともに 西洋の大いな...

「知」の民主化と、道徳の相対化

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そ...

デブノサーガ

コンビニで売ってる 穂先メンマと 揚げ玉 混ぜて 食うと うみゃー!!! 塩分も 気にならないし、 油も 上品。 それを ブラック無糖の コーヒーで 流し込む。 うーん・・・ また デブ期突入か? ヤバいけど ハッピー♪

移民受け入れ

防衛費はともかく、 少子化対策で 国民負担を 増やして 消費を冷え込ませる リスク 考えたら、 もう 割り切って 移民受け入れを 本気で 議論したほうがいいと 思うけどな。 国民もこの問題から 目を背けちゃダメだよ。 韓国はとっくに そっちに 舵を切ってる。 移民受け入れを 遅らせれば 遅らせるほど、 優秀な 人材を確保するのが 難しく なるんだから。

間違いない!

サッポロ一番を 食べると 便秘になるんだが、 コンビニでも 売ってる ある 有名なメーカーの アイスクリームを 食べると、 気分が 抑うつ状態になる 気がする。 安くて美味しいんだけど。 なんか入ってんのかな? それにしても、 ハーゲンダッツが どんどん小さく なってくのを見ると、 日本て貧しくなってんだなー、と 思うわ。 サントリーのお茶飲むと 気持ち悪くなるし。

ジョン・デューイの政治思想 (再掲)

貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244)

オリラジ中田よ

お前以外の存在は、 すべて お前の 勝利の充足感のために 存在しているのか? お前の その 勝利の充足感のために どれだけの (社会的その他) 資源が 投入されたか、 考えたことあるか? 例えば、 世界的投資家として 有名な ウォーレン・バフェット氏は、 投資家への還元は もちろん、 自分のための利益ですら、 その99%を 慈善事業に 費やしてんだぞ? 本当の勝利者というのは こういう人のことだ。 お前は 犬畜生以下の ゲス野郎だ。 https://news.goo.ne.jp/article/jisin/entertainment/jisin-https_jisin.jp_p_2209813.html

ですって! (再掲)

質問:少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。(無聊を託つ より) 回答(google bardより):少子高齢化が進むと、労働力人口が減少し、経済成長が鈍化する可能性があります。また、社会保障費の負担も増加し、将来の社会保障が不安になる人も増える可能性があります。このような状況では、人々は将来への不安から消費を控え、貯蓄を増やす傾向にあります。これは、デフレマインドにつながり、経済の悪循環に陥る可能性があります。 政府は、NISAを恒久化したり、減税を実施したりすることで、消費を喚起しようとしています。しかし、デフレマインドが根強いと、これらの施策の効果は限定的となる可能性があります。 日本でも、インフレ率が3%に達しているというニュースがありました。これは、世界的な原油価格の高騰や、円安の影響によるものです。しかし、フィッシャー効果が想定する合理的な消費者であれば、物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上昇するはずです。しかし、日本の家計はそこまで合理的ではなく、現預金を貯め込む方向に進んでいるようです。 これは、日本の家計が、将来の経済成長に不安を感じているためと考えられます。また、日本では、住宅ローンの金利が低く、借金の返済が楽になっている...

気になる記事 2023/6/7 日経新聞5面

「賃上げの効果の波及が 物価高に追いつかず、 実質賃金の 低下が続いている。」 とのこと。 その結果 「消費者の財布の ひもは固い。」 としている。 このまま また 消費が冷え込むのはまずい。 日銀がすぐ動けるとも 到底思えないし、 企業に無理にでも 賃上げを頑張ってもらう 以外ない。 (以下 google bard の 回答) はい、その通りです。 賃上げの効果の波及 が 物価高に追いつかず、 実質賃金の低下が続いています。 その結果、 消費者の財布のひもは固くなり、 消費が冷え込む傾向にあります。 このままでは、 経済成長が鈍化したり、 デフレに陥ったりする 可能性があります。 日銀が すぐに動けるかどうかはわかりませんが、 企業には 無理にでも賃上げ を 頑張ってもらうしかありません。 賃上げが進むことで、 消費者の購買力が増し、 消費が活性化する 可能性があります。 また、 賃上げは 企業の利益を押し上げる 効果もあるため、 企業の投資意欲を高め、 経済成長につながる 可能性があります。 政府は、 企業の賃上げ を 促進するための施策 を 検討する必要があります。 例えば、 企業が賃上げを行う際に、 税制面で優遇するなどの 施策が考えられます。 また、政府は、 消費を促進するための 施策も検討する必要があります。 例えば、 消費税の減税や、 家計への給付金の支給などの施策 が 考えられます。 政府と企業が協力して、 賃上げを促進し、 消費を活性化させることが重要です。

戦後ヨーロッパの政治と社会2@茨城大学

東西冷戦の 構図とか イマイチわかんなかったんだけど、 リラックスした 語りで、 授業受けて 数日経ってみると、 ああ、そうか! と 思いますね。 いわゆる「戦後」が 見えてくる 素晴らしい講義だと 思います。 あー、勉強ってたのしーなー