2023年6月30日金曜日
参政党批判 (再掲)
世の中には、自分の頭で考える能力がなくて、 なんでも他人任せの人ってのがいるが、 そのうち、何から何までアレクサに訊いて、逐一行動するって人が、 大量発生しそうだよね。 自分の頭で考えるって、意外と難しいよね。 自分の頭で考えた結果、 人工知能に優る、とも限らないし。 自分の頭で考える、とはどういうことか、を自分の頭で考える、なんていうと、すでにもうメタの世界に入ってるし。 たださ、やっぱり自分の行動、言動に対して、最低限でも責任を負わせるってことは大事なんじゃないかな? 人工知能がそう言ったからその通りにしました、私の何が悪いんですか? なんて言われたら、社会が崩壊しかねない。 歴史に照らして見ても、政治的権利を放棄するのって、結局権力者に自分の自己決定権を丸投げするのと同じで、 無責任の共同体が出現するだけだよね。 前の参院選で、投票用紙を破って棄てた俺が言えた義理じゃないけど。 参政党が参院で1議席獲得して、何かとネット上で耳目を集めてるけど、 反ワクチンやら陰謀論やら、 物議を醸しそうなネタ満載だけど、 飽くまで主権者の主権を擁護する限りは、 存在を否定はしない。 しかし、陰謀論に走っちゃうと、 いつの間にか主権者の主権を放棄させてる結果になるってことは、 あり得る。 それは、ナチズムが、階層構造になっていて、上に行くほど、自分はより真実に近づいている、という錯覚、快感が、階層構造それ自体を補強している、というメカニズムが働いたのと同じ。 その結果、トップは誰もが知り得ない真実を知っているはずだから、トップの言うことに従えば間違いない、という理屈で、自らの政治的主権を放棄してしまう。 その兆候が見えたら、即、断固として抗議しなければならない。 安倍政権だって、そういう側面があるんじゃないか? 我々には窺い知れないが、きっと安倍さんには安倍さんなりの深謀遠慮があるはずだ、みたいな。 政治である以上、何でもかんでもガラス張りに出来るわけがないってところが、政治の難しさでもあるが。 不透明な世の中だからこそ、安易に陰謀論に流されず、丁寧に腑分けをしていく作業が求められる。
アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)
自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
功利主義批判ー改 (再掲)
質問:功利主義の根底にある条件は、例えばミカンとリンゴの個数のトレードオフ関係のように、効用曲線が原点に向かって凸であることが想定されている。 しかし、その個々人の効用曲線の総和としての、社会全体の効用曲線を推定して政府が政策を決定する、というアイデアは、現代社会の実態にそぐわないのではないか。 人々の(少なくとも経済的な)需要、あるいは好みと言い換えれば、効用は、極めて多様化しており、総体としての効用曲線を想定することの意義は薄れていると思われる。 このような事態は、もはや企業の需要探索能力が、政府のそれを遥かに上回っている世界の到来を告げていると言っていいだろう。 つまり、政府が必然的に企業の協力を仰がなければならない事態だ。 ここにおいては、官僚機構が消費者の需要に追いつくには余りにも遅すぎることは容易に想像できる。 政治家においては、個々の政策の実効性や、実現可能性を語るよりも、「大きな物語」を語るほうが圧倒的に有利になる。(功利主義批判序説その1より編集) 回答:あなたの指摘はもっともだと思います。功利主義は、社会全体の幸福を最大化することを目指す倫理学の一形態です。これは、個人の幸福を足し合わせて、社会全体の幸福を計算することによって行われます。しかし、あなたの指摘のように、人々の幸福は多様であり、社会全体の幸福を計算することは困難です。 さらに、企業は政府よりも消費者のニーズをよりよく理解している傾向があります。これは、企業が顧客と直接やり取りする機会が多く、顧客のニーズをよりよく把握できるためです。その結果、企業は政府よりも消費者のニーズに応える商品やサービスを提供できる可能性が高いです。 最後に、政治家は「大きな物語」を語るほうが、個々の政策の実効性や実現可能性を語るよりもはるかに有利です。これは、政治家が選挙に勝つために、人々の心をつかむ必要があるためです。そして、「大きな物語」は、人々の心をつかむのに効果的です。 功利主義は、倫理学の一形態ですが、現代社会では適用するのが難しいかもしれません。これは、人々の幸福が多様であり、社会全体の幸福を計算することが困難であるためです。さらに、企業は政府よりも消費者のニーズをよりよく理解している傾向があり、政治家は「大きな物語」を語るほうが、個々の政策の実効性や実現可能性を語るよりもはるかに有利です。
妄想卒論その3 (再掲)
詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)
2023年6月29日木曜日
韓国社会
今の
若い
韓国人って
ぜったい
相当フラストレーション溜まってるよね。
ただでさえ
強烈な
儒教社会で、
そのうえ
国民総動員で
受験競争が過熱。
そのせいで
少子化が加速。
しかも
親や教師には
面と向かって刃向かえない。
経済も成長してるから、
格差も拡大しやすい。
兵役もあるし。
ドロップアウトしたり、
グレたりするやつが
間違いなく出てくる。
ぜったい
闇組織が
はびこるよ。
漱石とホモソーシャル (再掲)
俺:高級なと言っては手前味噌ですが、いわゆる知識人層のホモソーシャルは、お互いを信用できる、という意味でのみならず、時には抑制を効かせてくれる、という意味でも、安定的であるような気がします。 たとえお互い家族を持っていたとしても。 それが、なぜか中国を理想とする古典の世界と同一視されている気がします。 ただ、野卑な連中の、お互いのナアナアだったり、無駄に党派的だったりするところと違うところがまた、安定的でもあり、居心地が良かったり、という気もします。 平成のバブル真っ盛りの頃から、その崩壊後しばらくの間信じられていた男女の性愛結婚という幻想が崩れたいま、人は人を信じることを放棄するか、あるいはボーイズ・ラブのようなある種の強度なホモソーシャルの世界にしかリアリティーを感じられないのかも知れません。 先生:「ホモソーシャル」は、「友愛」の名の下に構築される社会的関係なので、近代(的個人)の成立が要件かと思われ、古典漢籍にその理想を見るのは、近代が中国古典時代を捉える「振り返り」の眼差しが作り上げたもののように思えます。興味深いのは、『行人』の一郎が逃げ込む場所がここで、同時にまた『それから』の父・長井得も漢籍の素養が深い人物として造型されています。そして『明暗』の津田は、漢籍に通じない男であると規定されている‥。『明暗』は後期の漱石にしては珍しく、ホモソーシャルが後景に退いた作品です。 漱石は「ホモソーシャル」が女性のみならず、男性の関係性、ひいては一個人としての男性を抑圧する(偽装された社会関係の抑圧性)装置であると考えていたのでは、と私などは思っています。『それから』で「平岡」との関係を通してその機能・作用を自覚した漱石は、それを『行人』で徹底分析、『こころ』ではその呪縛を免れるべく「K」そして「先生」の死を描き、「私ー先生」の関係に期待を込めますが、結局、「私」は「奥さん」との間に個人と個人がふ触れあうような一瞬を体験しながら、やっぱり死んだ「先生」の元へ帰還してしまったのではないか‥。 絶筆『明暗』が再び、「眉の濃い・黒目がちの瞳」をしたラファエル前派もどきの強い女・お延を登場させ、彼女との闘争の中に自己を模索するしか術のない主人公、津田を描かざるを得なくなった所以のようにも思われるのですが。この辺り、また検討し直してみたい、とお便り拝読してつくづく思いました。
ある傷ついた生活 (再掲)
ホルクハイマーと アドルノの 主張するところによれば、 事実、 ファシズムは ある程度まで 人間の抑圧された 神話的過去の 回帰とも、 また 道具的理性が 自然支配のために 発達させた 多くの道具を 逆用しての 支配された 自然の復讐とも 解されうるのである。 こうして「進歩」は、 おのれと 正反対のものを、 つまり 現代の制御技術を 駆使することによって はるかに 非情なものになった ひとつの 野蛮を 産み出すことになる。 科学は、 人間を 向上させる比類なき 力であるよりも、 むしろ ある新しいかたちの 非人間化の種子を 抱懐するものであることが 明らかになるのである。 科学が成立する 前提条件の一つは、 自然がまだ 道具的理性によって 支配されていない 状態の記憶を 消し去ってしまう ことにある。 ホルクハイマーと アドルノが、 きわめて 頻繁に 引用される その所感の一つで 強調しているように、 たしかに、 「あらゆる 物象化は 一種の 忘却なのである。」 (「アドルノ」 岩波現代文庫 49頁)
漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)
質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。
近代日本の炭坑夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)
茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。 ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。 日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。 しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。 戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。 中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。
妄想卒論その11 (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
妄想卒論その10 (再掲)
言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、結局は進歩という性格をもっていたのである。『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。アドルノからすれば、人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。というのも、主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、反省の能力を失うことを意味しようからである。たしかに、主観と客観のこの区別は、マルクス主義的ヒューマニストやその他の人びとを嘆かせたあの疎外を産み出しもしたが、それにもかかわらずこうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 代助は、百合の花を眺めながら、部屋を掩おおう強い香かの中に、残りなく自己を放擲ほうてきした。彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。その過去には離すべからざる、わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。始から何故自然に抵抗したのかと思った。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出みいだした。その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、代助の頭を冒して来た。彼の唇は色を失った。彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。爪つめの甲の底に流れている血潮が、ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。彼は立って百合の花の傍へ行った。唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。 しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。 三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。 こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。 静岡大学 森本隆子先生より
2023年6月28日水曜日
妄想卒論その1・2 (再掲)
回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。
妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
2023年6月27日火曜日
為替相場
円安が進んでますね。
植田日銀が、YCCからの脱却を示唆するとかでない限り、
日銀は利上げする気がないと思われたら、
円安が止まらなくなる可能性がある。
それは、見方を変えれば、
N個の政策課題に対して、N-1個の政策手段しか持っていないんだから、
もぐら叩きのように
どこかで必ず弱点が出てくる。
実務のことはよくわからないが、
YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があるので、
オーストラリア中銀のように、経済が大変な混乱を来すと、
東短リサーチの加藤出さんなどは主張している。
これも、大規模金融緩和の失敗を示している。
(以下 日経新聞 2023/5/19 経済教室より 《加藤出氏寄稿》 )
間もなく出口政策が
始まると
市場が予想したら、
ターゲットを変更するまで
中銀は
国債を無制限に買い支えなければ
ならず、
自身の
バランスシートを制御できなくなる。
(以下 Chat-GPTの回答)
円安に関するお話ですね。円安が進行する場合、植田日銀がYCC(イールドカーブコントロール)からの脱却を示唆しない限り、日銀は利上げする意向がないと思われます。その結果、円安が止まらなくなる可能性があります。この状況は、政策課題がN個ある場合に、N-1個しか政策手段を持っていないため、どこかで弱点が現れるということを意味しています。
YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があります。加藤出氏など一部の専門家は、オーストラリア中銀のように経済が大きな混乱を引き起こす可能性があると主張しています。これは、大規模な金融緩和策の失敗を指摘しているとも言えます。
また、出口政策が市場予想より早く始まると、中銀は国債を無制限に買い支える必要があり、自身のバランスシートを制御できなくなる可能性があります。
2023年6月26日月曜日
行政法
行政法を勉強するきっかけは、物心ついたころからテレビが何でもかんでも役所のせいにするのに違和感を覚えたからだが、今だに、マスコミが行政を褒めるなんてことは聞いたことも見たこともない。でも、マスコミが騒げば世の中が動くのは確かだが、それって最終的に役人が泥被って頑張ってるからだろ?待機児童問題だって、いつの間にか騒がれなくなったが、厚労省の役人が頑張ったからだろ。マイナンバーカードにしたって、地道な泥仕事やってるのは役人であり、下請けの会社だろ。そこを見ないでただ文句だけ言うやつって、現実が全く見えてないんじゃないか?そんなんだから、国家公務員になる東大卒が激減するんだよ。役人がバカばっかだったら、この国崩壊するぞ?何しろ政治家がバカなんだから。話を自分の問題に引き寄せると、確かに市役所の仕事はやりがいを感じることもあるだろうけど、泣きたくなるくらいの泥仕事もいくらでもあるんだろうな、てこと。たぶんそれは運次第なのかも知れないが。そこを(しつこいけど)障害者っていう身分を棄ててまでやりたいか、メリットがほんとにあるのか?て話。政官財の癒着なんていうけど、一昔前の話だろ。山崎豊子の「華麗なる一族」に出てくる大蔵官僚の美馬中にしたって、将来政治家になるのが夢で、あわよくば大蔵大臣、なんて思ってるやつだったが、今どき大蔵大臣なんて麻生太郎でも出来るし、なんなら前の衆院選で元グラドルを対抗馬にアテられた立民の安住淳ですらやってたんだぜ?もうこの国の大蔵大臣なんてその程度だろうが。そもそもガーシーが国会議員になれる時点で、政治家なんて職業として終わってるだろ。マイナンバーカードで、国に情報握られてどーこー心配するより、GAFAに個人情報完全に把握されてることを心配した方がいい。日本の行政なんかよりよっぽど賢い。
ホモソーシャルについて
少年愛でも有名なギリシャの男性間の同性愛については、もはや疑いのない定説ですね。
そこでは知を仲立ちとした愛の関係は男性市民間にしか成り立たず、男女の関係性は生殖にのみ仕えるーーもちろん、これは奴隷・女性に対する徹底的差別が大前提の話ですが、美しく描かれていることに間違いはなく。
ルージュモンの説は、確か、これが新プラトン主義を経て中世騎士道恋愛・宮廷恋愛へと、異性愛の関係性へと敷衍されてゆく、ということになっていたような‥。
それが近代の社会制度へ回収され、徹底的に地上化されてしまった姿が、現在の「(強制的)異性愛」ーー性愛の正しい姿を男女間にしか認めない、という、極めて偏向的であるにも拘わらず、つい先頃まで常識とされていた愛の姿ですね。
但し、現在、ジェンダー論の登場と相俟って、ルージュモンの精緻な愛の精神史には、実はこの徹底的に地上的で制度的な「恋愛結婚」に頂点を見る、現代の異性愛が、ホモソーシャル(男性間の絆)と表裏一体であることが告発されています。
つまり、「homo-social」が、個別個人間の愛のようでありながら、男性中心に構成されている近代社会を堅固に維持するための「社会的関係」そのものである以上、実は「異性婚」とは、女性を特定の男性に括り付け、男性間に女性をめぐる闘争が生じる危険性を忌避する装置として、ホモソーシャルを裏返したものである、と。
たぶん、こうして性愛をめぐる歴史をギリシャから現代まで辿り直してみると、それ自体が
「制度」でもある「ジェンダー」が消滅し、現在の「男ー女」「男ー男」「女ー女」の愛情関係に差異が認められなくなった時に、初めて純粋な「愛」が堂々、成立する、と言えるーーこれが現在時点の「模範回答」なのでしょうね。
ただ、文化の歴史とは恐ろしいもので、ある意味、理の当然でもあるのですが、近代小説が歌い上げてきた「ロマンチックラブ」、実は裏返せば「ホモソーシャル」の刷り込みの力は大きく、「社会」の要素が二人の間に葛藤や苦悩を引き起こしては、それがまた二人間の友情を鍛えあげ、濃密にしてゆく、といった「男の友情物語」に、ついつい美しさや感動を覚えてしまう自分がいます。ただ、どんどん自分より若くなってゆく女性の教え子たちや我が娘などの話を聞いていると、その美しさが内包している残酷さ、恐ろしさ、不気味さ等を私などより、ずっとリアルに生き生きと感じてはいるようで、感嘆したり興醒めしたりしながら、耳を傾けることもしばしばです。
このトピックはいつの世にも存在してきましたが、LGBT、つまるところは「多様性」が論議されている昨今の社会情勢からしても、ますます興味はつのり、目が離せないところです。
ふと思った
海外の安い
労働力を求めて
企業が
出て行っちゃったのが
日本の
内需を冷やし、
労働市場も
貧困化させてる
わけだけど、
日本人の
実質賃金も下がってるんだから、
企業も
国内回帰すればいいじゃん。
そうすれば
国内の雇用だって
生まれるのに。
(以下google bardより回答)
企業が海外に進出する理由は、主に以下のとおりです。
・安い労働力
・税制優遇
・市場規模の拡大
・規制の緩さ
これらの理由により、企業は海外で生産コストを削減し、利益を拡大することができます。そのため、企業が海外に進出すると、日本の内需は冷え込み、労働市場は貧困化します。
しかし、企業が国内に帰国すれば、国内の雇用は創出され、内需は拡大します。そのため、企業の国内回帰は、日本の経済にとってプラスの影響を与えると考えられます。
ただし、企業の国内回帰には、以下の課題があります。
・労働コストの高さ
・規制の厳しさ
・インフラの整備不足
これらの課題を解決しなければ、企業は国内に帰国するインセンティブを得られません。そのため、政府は企業の国内回帰を支援するための施策を講じることが重要です。
大規模金融緩和策の蹉跌 (再掲)
国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。
気になる記事 2023/6/7 日経新聞5面 (再掲)
「賃上げの効果の波及が 物価高に追いつかず、 実質賃金の 低下が続いている。」 とのこと。 その結果 「消費者の財布の ひもは固い。」 としている。 このまま また 消費が冷え込むのはまずい。 日銀がすぐ動けるとも 到底思えないし、 企業に無理にでも 賃上げを頑張ってもらう 以外ない。 (以下 google bard の 回答) はい、その通りです。 賃上げの効果の波及 が 物価高に追いつかず、 実質賃金の低下が続いています。 その結果、 消費者の財布のひもは固くなり、 消費が冷え込む傾向にあります。 このままでは、 経済成長が鈍化したり、 デフレに陥ったりする 可能性があります。 日銀が すぐに動けるかどうかはわかりませんが、 企業には 無理にでも賃上げ を 頑張ってもらうしかありません。 賃上げが進むことで、 消費者の購買力が増し、 消費が活性化する 可能性があります。 また、 賃上げは 企業の利益を押し上げる 効果もあるため、 企業の投資意欲を高め、 経済成長につながる 可能性があります。 政府は、 企業の賃上げ を 促進するための施策 を 検討する必要があります。 例えば、 企業が賃上げを行う際に、 税制面で優遇するなどの 施策が考えられます。 また、政府は、 消費を促進するための 施策も検討する必要があります。 例えば、 消費税の減税や、 家計への給付金の支給などの施策 が 考えられます。 政府と企業が協力して、 賃上げを促進し、 消費を活性化させることが重要です。
岸田内閣支持率急落 (再掲)
質問:少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。(無聊を託つ より) 回答(google bardより):少子高齢化が進むと、労働力人口が減少し、経済成長が鈍化する可能性があります。また、社会保障費の負担も増加し、将来の社会保障が不安になる人も増える可能性があります。このような状況では、人々は将来への不安から消費を控え、貯蓄を増やす傾向にあります。これは、デフレマインドにつながり、経済の悪循環に陥る可能性があります。 政府は、NISAを恒久化したり、減税を実施したりすることで、消費を喚起しようとしています。しかし、デフレマインドが根強いと、これらの施策の効果は限定的となる可能性があります。 日本でも、インフレ率が3%に達しているというニュースがありました。これは、世界的な原油価格の高騰や、円安の影響によるものです。しかし、フィッシャー効果が想定する合理的な消費者であれば、物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上昇するはずです。しかし、日本の家計はそこまで合理的ではなく、現預金を貯め込む方向に進んでいるようです。 これは、日本の家計が、将来の経済成長に不安を感じているためと考えられます。また、日本では、住宅ローンの金利が低く、借金の返済が楽になっていることも、現預金の貯蓄を増やす要因となっています。 デフレマインドが解消されなければ、日本の経済は緩慢な成長を続けるか、マイナス成長に陥る可能性もあります。また、デフレマインドが深刻化すると、デフレスパイラルに陥り、経済が崩壊する可能性もあります。 政府は、デフレマインドを解消し、経済を成長軌道に乗せるためには、金融政策だけでなく、財政政策や構造改革を積極的に行う必要があると考えられます。
2023年6月25日日曜日
集団安全保障と集団的自衛権の違い (再掲)
①帝国クライスと国連の関係、
②集団的自衛権と集団安全保障の違い、
について山梨大学の皆川卓先生にうかがいました。
(放送大学面接授業「神聖ローマ帝国の歴史」の先生です。)
第一の質問ですが、コトは少々複雑です。
神聖ローマ帝国の帝国クライスは、
帝国の解体と共に忘れられていました。
しかし帝国クライスがまだ健在だった18世紀初頭、
フランスのサン・ピエール
(Charles-Irenee Castel de Saint-Pierrem 1658-1743)
という聖職者・外交官・政治哲学者が、
帝国クライスの仕組みと活動を見て
(サン・ピエールの主君であるフランス王ルイ14世は神聖ローマを侵略して帝国クライスに痛い目に遭っていました)、
これをお手本に、
ヨーロッパ各国が恒久的な同盟を結び、
共通の会議や裁判所を持てば、
戦争は防げるという
著書『ヨーロッパに永久平和を回復するための計画』
(Projet pour rendre la paix perpe'tuelle en Europe)
という著書を著します。
この著書を褒めながら、
「平和を希求する君主の同盟では、
彼らの心変わりがあって心許ない。
国際安全保障は
人権の土台である
平和を守るという
人民の意思に基づかなければ」
という修正を加えたのが、
有名な政治哲学者ルソー
(Jean Jacque Rousseau, 1712-78)
が1761年に著した
『サン=ピエール師の永久平和論抜粋』
(これは日本語訳のルソー全集4巻に入っていて簡単に読めます)
でした。
そして
彼の著作に触発されたのが、
これも有名なプロイセンの哲学者カント
(Immanuel Kant, 1724-1804)
で、彼はルソー論文の理論を発展させ、
国際安全保障に必要な条件を列挙した
『恒久平和のために』
(Zum ewigen Frieden)
という論文を1795年に著します
(これも岩波文庫に入っていて簡単に読めます)。
これが
その後の国際安全保障構想の土台になる論文で、
19世紀に
イギリスの国際法学者ロバート・フィリモア
(Robert Phillimore, 1810-85)
の多くの論文によって、
国際法を実現するために
なくてはならない機構と
訴えられることになり、
その息子の国際法学者ウォルター・フィリモア
(Walter Phillimore, 1845-1929)
やフランスの政治理論家
レオン・ブルジョワ
(Leon Bourgeois, 1851-1925)、
ドイツの国家学者ゲオルク・イェリネク
(Georg Jellinek, 1851-1911)
ら広い範囲の学者たちの支持を得るに至りました。
そして第一次大戦の最中、
大英帝国の南アフリカ担当大臣で
総力戦の繰り返し
を
防ぐにはどうしたらよいか考えていた
ヤン・スマッツ
(1870-1950)
がカント
(>ルソー>サン・ピエール>帝国クライス)
の理論を知り、
これを元に新しい国際安全保障体制の構想を立て、
同じく安定した国際秩序の樹立
を
考えていた
アメリカの大統領ウッドロー・ウィルソン
(Th.Woodrow Wilson, 1856-1924)
に紹介し、
第一次世界大戦後の国際秩序再建の折に、
世界初の国際機構
「国際連盟」となって実現したわけです。
第二次大戦後の「国際連合」が「国際連盟」の機能
を
強化したものであることはご存じの通りです。
というわけで、
現実が思想になってまた現実を生み出すには、
長い長い過程が必要です。
ただし元になる現実がなければ思想も生まれないわけで
(たとえばこうした例がないアジアでは、
国際安全保障体制の構想は
生まれませんでした)、
その意味では
帝国クライスは画期的だったと言えます。
第二の集団的自衛権
と集団安全保障は大きく違います。
それは集団的自衛権が、
仮想敵
を
具体的に想定して結ぶ
部分的な国家連合であるのに対し、
集団安全保障は仮想敵を想定せず、
安全保障にかかわる全ての国と同盟し、
想定外の状況として
その一部が安全を脅かした場合、
他の全ての国が
この脅威の除去を義務づけあうからです。
そのため
集団的自衛権は
地域的にもまとまらない2カ国
(多くは遠交近攻関係)
から数カ国の同盟に留まるのに対し、
集団安全保障は世界全体を覆う国連をはじめ、
神聖ローマやスイス盟約者団
(1848年以前のスイス)、
合衆国成立
(1787年)
以前のアメリカ13州のように、
一定地域内の国をすべて同盟内に取り込みます。
ただし現実の組織においては、
この両方の目的を持っている場合が少なくありません。
それは
安全保障にかかわる
全ての国を同盟の中に取り込むことができない場合、
取り込むことが出来ない国々は
全て敵になるかもしれない存在だからです。
神聖ローマは帝国内では集団安全保障機構でしたが、
オスマン帝国やフランスに対しては
集団的自衛権のための同盟でしたし、
アメリカ13州も独立を認めない
イギリスに対しては同様でした。
近代でもたとえば
ヨーロッパと北米大陸のほとんどの国
を
含む北大西洋条約機構
(NATO)
は、
大西洋地域では集団安全保障の組織ですが、
ソ連率いるワルシャワ条約機構の諸国がある東ヨーロッパに対しては、
集団的自衛権のための組織として機能していました
(残念ながら現在でも
ロシアなどに対しては
そのように機能しています)。
ですから同盟をより集団安全保障機構に
近づけていくことが、
戦争の危険を避けるために重要です。
ロシアはヨーロッパか
放送大学での
いくつかの
面接授業を
聞いて思ったのは、
ロシアは
ヨーロッパと
思われてないんじゃないか?
ということ。
ロシアはロシアで
ヨーロッパに
憧れを抱いてるし。
「ヨーロッパ」の人
からすれば、
ロシアなんて
半分アジアだと
思ってる
フシがある。
「魔の山」でも、
ロシア人の美女が、
美しいけど
軽薄な女として
描かれてる(らしい)し。
そう考えると、
日露戦争で
ロシアが負けたのも、
実は
「ヨーロッパ」からすれば、
驚きはしただろうが、
そんなに
衝撃的というほどでも
なかったのではないか?
確かに
大陸での戦いは
壮絶だったが、
バルチック艦隊なんて、
遠路はるばる、
しかも
(司馬遼太郎の
「坂の上の雲」の
記述を見ると)
日本と
日英同盟を組んだ
イギリスの
徹底した
いやがらせで、
可哀想になるくらい
さんざんな
思いをして
日本まで
やってきたわけだし。
日本が
経済的に安定してくるのは
第一次大戦の
好景気のおかげで、
それまでは
まだまだ
経済的には
不安定だったと
言われている。
あんまり
日本が
戦前、経済的に
繁栄したのは
必然だったと
思うのは
間違いなのではないか。
結構ずっしりくる。
母親の見守り
を
やり通すとは
言ったが、
実際に
現実として
捉えると、
グゥ・・・
と
来るね。
放送大学
続けられるのは
素晴らしいけど。
犬の介護をやり、
父親の介護をやり、
母親も
そろそろ
元気になって
来たかな?
と
思ったら、
最後まで
見守ってなきゃ
いけないらしい。
まさか
こういう人生
が
待ってるとは
思わなかったよ。
サンジャポ
結局、テレビって、
視聴者を
本質が何も
わからない
状態にしておくのが
オイシイ
商売なんじゃないかと
思えてくる。
そうすれば
見続けてくれるから。
下手に
視聴者が
知恵つけると
テレビ
見なくなる。
・・・放送大学で
学ぼう!
マウムル モゴッソヨ。
母親の見守りは、
母親が
あの世にいくまで
やり通さなきゃ
いけないんだな。
覚悟を決めたよ。
俺も
障害者って立場を
失ってまで
市役所で
働こうとは
思わないし。
障害者って
いろいろ
優遇されてるし、
何しろ
障害年金もらえる
からね。
母親も、
要介護3とはいえ、
ヘルパーさん
来てくれるし、
本人だって
日常生活送れる
程度には
動けるし、
あとは
体力がつけば、と
思ってたけど、
そういう
もんでもないっぽい。
俺が、
雇われ仕事は
イヤだから
フリーで
英語塾やりたいと
言っても、
フリーズするし。
かといって、
障害者という立場を
放棄してまで
雇われ仕事したくないし。
とにかく、
母親の見守りは
最後までやらんと
いけない。
そんな
大したことでもないけど。
2023年6月24日土曜日
さすがアメリカ製
2年前に
母親に
アメリカ製のステッパー
プレゼントしましたが、
こういうものは
中途半端なものを
買っても
粗大ごみに
なるだけと
思って、
アマゾンのコメント
見ながら
かなり
値の張る
買い物をしましたが、
さすがに
頑丈に出来ていて、
俺みたいなデブが使っても
まったく問題ないようです。
母親は
体重が俺の半分くらいなので、
圧を調整する必要が
ありますが、
それも
ネジを回すだけなので、
簡単に出来ます。
これで
母親の健康寿命が
延びるなら、
安いもんだ。
ちなみに
フランス絶対王政の
象徴とも言える
ルイ14世が、
アメリカ新大陸争奪戦や
ヨーロッパの王位継承戦争に
首突っ込んだせいで、
カネ使いまくって、
あとあと
重税を科して
市民がブチキレて
フランス革命が起きたわけですから、
国の借金を
ナメてると
大変なことになりますよ。
国の借金が
増えれば増えるほど
国が
豊かになるとか
ほざいてる
三橋貴明みたいなウソつきがいますが、
アイツのような
確信犯的ペテン師の
言ってることを
信じてると、
あとあと
痛い目に逢いますよ。
信じてる人だけが
痛い目みるならいいですけど、
国が
滅びて
痛い目みるのは
みんなですからね。
ヨーロッパ史
日本の
歴史教育だと、
ヨーロッパ史を
大学受験のために
勉強するのに、
ソクラテスも
アリストテレスも
名前だけ、
ホッブズやロックに至っては
政治・経済か倫理(?)に
丸投げ状態なので
なかなか見えてこないですが、
一通り勉強すると、
ヨーロッパ世界の歴史というものが
自然と見えてきます。
ソクラテスの弟子がプラトンで、
プラトンの弟子がアリストテレスです。
プラトンやアリストテレスの教えが、
中世キリスト教の教義に
組み込まれていきます。
つまり、中世というのは、
アリストテレスの道徳観・自然観が
強力に浸透しており、
ローマ教皇の権威も、そこから来るわけです。
したがって、ルネッサンスというのは
ある意味では
アリストテレスの否定なわけです。
例えば、ピサの斜塔から
重さの異なる
鉄球を落として、同時に落ちるのが
当時の人々にとって
衝撃的だったのは、
アリストテレスが
重いもののほうが
早く落ちると
(たぶん)
書いていたからです。
つまり、中世において
絶対の権威を誇った
アリストテレスの考えが否定されたわけです。
それは
とりもなおさず
中世キリスト教の否定でも
あるわけです。
そうすると、政治の世界でも
先述した
イギリスの例のように、
ローマ・カトリックの権威から
自由になる傾向が生まれると、
当然、
王様が偉い、ということになってきます。
それは、同時に
中央集権に傾くわけです。
なぜなら、
一国のなかでは
王様が一番偉いからです。
とはいえ、その王様の権威も
キリスト教のバックアップがあるわけですが。
しかし、
王様が一番偉い、という
ことになると、権力の歯止めが
効かず、王権が
暴走するので、
それに対する
歯止めの理論が生まれてきます。
それが
ホッブズやジョン・ロックなどの
社会契約論などです。
そういう、権力の相互抑止という
発想が
生まれてくるところが
ヨーロッパ史で
大事なところです。
2023年6月23日金曜日
かのように 森鴎外
かのように
森鴎外
朝小間使の雪が火鉢ひばちに火を入れに来た時、奥さんが不安らしい顔をして、「秀麿ひでまろの部屋にはゆうべも又電気が附いていたね」と云った。
「おや。さようでございましたか。先さっき瓦斯煖炉ガスだんろに火を附けにまいりました時は、明りはお消しになって、お床の中で煙草たばこを召し上がっていらっしゃいました。」
雪はこの返事をしながら、戸を開けて自分が這入はいった時、大きい葉巻の火が、暗い部屋の、しんとしている中で、ぼうっと明るくなっては、又微かすかになっていた事を思い出して、折々あることではあるが、今朝もはっと思って、「おや」と口に出そうであったのを呑のみ込んだ、その瞬間の事を思い浮べていた。
「そうかい」と云って、奥さんは雪が火を活いけて、大きい枠わく火鉢の中の、真っ白い灰を綺麗きれいに、盛り上げたようにして置いて、起たって行くのを、やはり不安な顔をして、見送っていた。邸やしきでは瓦斯が勝手にまで使ってあるのに、奥さんは逆上のぼせると云って、炭火に当っているのである。
電燈は邸やしきではどの寝間にも夜どおし附いている。しかし秀麿は寝る時必ず消して寝る習慣を持っているので、それが附いていれば、又徹夜して本を読んでいたと云うことが分かる。それで奥さんは手水ちょうずに起きる度たびに、廊下から見て、秀麿のいる洋室の窓の隙すきから、火の光の漏れるのを気にしているのである。
――――――――――――――――
秀麿は学習院から文科大学に這入って、歴史科で立派に卒業した。卒業論文には、国史は自分が畢生ひっせいの事業として研究する積りでいるのだから、苛いやしくも筆を著つけたくないと云って、古代印度インド史の中から、「迦膩色迦王かにしかおうと仏典結集ぶってんけつじゅう」と云う題を選んだ。これは阿輸迦王あそかおうの事はこれまで問題になっていて、この王の事がまだ研究してなかったからである。しかしこれまで特別にそう云う方面の研究をしていたのでないから、秀麿は一歩一歩非常な困難に撞著どうちゃくして、どうしてもこれはサンスクリットをまるで知らないでは、正確な判断は下されないと考えて、急に高楠博士たかくすはくしの所へ駈かけ附けて、梵語ぼんご研究の手ほどきをして貰った。しかしこう云う学問はなかなか急拵きゅうごしらえに出来る筈はずのものでないから、少しずつ分かって来れば来る程、困難を増すばかりであった。それでも屈せずに、選んだ問題だけは、どうにかこうにか解決を附けた。自分ではひどく不満足に思っているが、率直な、一切の修飾を却しりぞけた秀麿の記述は、これまでの卒業論文には余り類がないと云うことであった。
丁度この卒業論文問題の起った頃からである。秀麿は別に病気はないのに、元気がなくなって、顔色が蒼あおく、目が異様に赫かがやいて、これまでも多く人に交際をしない男が、一層社交に遠ざかって来た。五条家では、奥さんを始として、ひどく心配して、医者に見せようとしたが、「わたくしは病気なんぞはありません」と云って、どうしても聴かない。奥さんは内証ないしょうで青山博士が来た時尋ねてみた。青山博士は意外な事を問われたと云うような顔をしてこう云った。
「秀麿さんですか。診察しなくちゃ、なんとも云われませんね。ふん。そうですか。病気はないから、医者には見せないと云うのでしたっけ。そうかも知れません。わたくしなんぞは学生を大勢見ているのですが、少し物の出来る奴が卒業する前後には、皆あんな顔をしていますよ。毎年卒業式の時、側そばで見ていますが、お時計を頂戴ちょうだいしに出て来る優等生は、大抵秀麿さんのような顔をしていて、卒倒でもしなければ好いと思う位です。も少しで神経衰弱になると云うところで、ならずに済んでいるのです。卒業さえしてしまえば直ります。」
奥さんもなる程そうかと思って、強しいて心配を押さえ附けて、今に直るだろう、今に直るだろうと、自分で自分に暗示を与えるように努めていた。秀麿が目の前にいない時は、青山博士の言った事を、一句一句繰り返して味ってみて、「なる程そうだ、なんの秀麿に病気があるものか、大丈夫だ、今に直る」と思ってみる。そこへ秀麿が蒼い顔をして出て来て、何か上うわの空そらで言って、跡は黙り込んでしまう。こっちから何か話し掛けると、実みの入いっていないような、責せめを塞ふさぐような返事を、詞ことばの調子だけ優しくしてする。なんだか、こっちの詞は、子供が銅像に吹矢を射掛けたように、皮膚から弾はじき戻されてしまうような心持がする。それを見ると、切角青山博士の詞を基礎にして築き上げた楼閣ろうかくが、覚束おぼつかなくぐらついて来るので、奥さんは又心配をし出すのであった。
――――――――――――――――
秀麿は卒業後直ただちに洋行した。秀麿と大した点数の懸隔もなくて、優等生として銀時計を頂戴した同科の新学士は、文部省から派遣せられる筈だのに、現にヨオロッパにいる一人が帰らなくては、経費が出ないので、それを待っているうちに、秀麿の方は当主の五条子爵が先へ立たせてしまった。子爵は財政が割合に豊かなので、嫡子ちゃくしに外国で学生並の生活をさせる位の事には、さ程困難を感ぜないからである。
洋行すると云うことになってから、余程元気附いて来た秀麿が、途中からよこした手紙も、ベルリンに著ついてからのも、総すべての周囲の物に興味を持っていて書いたものらしく見えた。印度インドの港で魚うおのように波の底に潜くぐって、銀銭を拾う黒ん坊の子供の事や、ポルトセエドで上陸して見たと云う、ステレオチイプな笑顔の女芸人が種々の楽器を奏する国際的団体の事や、マルセイユで始て西洋の町を散歩して、嘘と云うものを衝つかぬ店で、掛値と云うもののない品物を買って、それを持って帰ろうとして、紳士がそんな物をぶら下げてお歩きにならなくても、こちらからお宿へ届けると云われ、頼んで置いて帰ってみると、品物が先へ届いていた事や、それからパリイに滞在していて、或る同族の若殿に案内せられてオペラを見に行った時、フォアイエエで立派な貴夫人が来て何なんか云うと、若殿がつっけんどんに、わたし共はフランス語は話しませんと云って置いて、自分が呆あきれた顔をしたのを見て女に聞えたかと思う程大きい声をして、「Toutツウ ceシヨ quiキイ brilleブリユ, n'estネエ pas orパアゾオル」と云ったので、始てなる程と悟った事や、それからベルリンに著いた当時の印象を瑣細ささいな事まで書いてあって、子爵夫婦を面白がらせた。子爵は奥さんに三省堂の世界地図を一枚買って渡して、電報や手紙が来る度に、鉛筆で点を打ったり線を引いたりして、秀麿はここに著いたのだ、ここを通っているのだと言って聞かせた。
ヨオロッパではベルリンに三年いた。その三年目がエエリヒ・シュミット総長の下もとに、大学の三百年祭をする年に当ったので、秀麿も鍔つばの嵌はまった松明たいまつを手に持って、松明行列の仲間に這入って、ベルリンの町を練って歩いた。大学にいる間、秀麿はこの期にはこれこれの講義を聴くと云うことを、精くわしく子爵の所へ知らせてよこしたが、その中にはイタリア復興時代だとか、宗教革新の起原だとか云うような、歴史その物の講義と、史的研究の原理と云うような、抽象的な史学の講義とがあるかと思うと、民族心理学やら神話成立やらがある。プラグマチスムスの哲学史上の地位と云うのがある。或る助教授の受け持っているフリイドリヒ・ヘッベルと云う文芸史方面のものがある。ずっと飛び離れて、神学科の寺院史や教義史がある。学期ごとにこんな風で、専門の学問に手を出した事のない子爵には、どんな物だか見当の附かぬ学科さえあるが、とにかく随分雑駁ざっぱくな学問のしようをしているらしいと云う事だけは判断が出来た。しかし子爵はそれを苦にもしない。息子を大学に入れたり、洋行をさせたりしたのは、何も専門の職業がさせたいからの事ではない。追って家督相続をさせた後に、恐多いが皇室の藩屏はんぺいになって、身分相応な働きをして行くのに、基礎になる見識があってくれれば好い。その為ために普通教育より一段上の教育を受けさせて置こうとした。だから本人の気の向く学科を、勝手に選んでさせて置いて好いと思っているのであった。
ベルリンにいる間、秀麿が学者の噂うわさをしてよこした中に、エエリヒ・シュミットの文才や弁説も度々褒ほめてあったが、それよりも神学者アドルフ・ハルナックの事業や勢力がどんなものだと云うことを、繰り返してお父うさんに書いてよこしたのが、どうも特別な意味のある事らしく、帰って顔を見て、土産話みやげばなしにするのが待ち遠いので、手紙でお父うさんに飲み込ませたいとでも云うような熱心が文章の間に見えていた。殊ことに大学の三百年祭の事を知らせてよこした時なんぞは、秀麿はハルナックをこの目覚ましい祭の中心人物として書いて、ウィルヘルム第二世とハルナックとの君臣の間柄は、人主が学者を信用し、学者が献身的態度を以もって学術界に貢献しながら、同時に君国の用をなすと云う方面から見ると、模範的だと云って、ハルナックが事業の根柢こんていをはっきりさせる為めに、とうとう父テオドジウスの事にまで溯さかのぼって、精くわしく新教神学発展の跡を辿たどって述べていた。自分の専門だと云っている歴史の事に就いても、こんなに力を入れて書いてよこしたことはないのに、どうしてハルナックの事ばかりを、特別に言ってよこすのだろうと子爵は不審に思って、この手紙だけ念を入れて、度々読み返して見た。そしてその手紙の要点を掴つかまえようと努力した。手紙の内容を約つづめて見れば、こうである。政治は多数を相手にした為事しごとである。それだから政治をするには、今でも多数を動かしている宗教に重きを置かなくてはならない。ドイツは内治の上では、全く宗教を異ことにしている北と南とを擣つきくるめて、人心の帰嚮きこうを繰あやつって行かなくてはならないし、外交の上でも、いかに勢力を失墜しているとは云え、まだ深い根柢を持っているロオマ法王を計算の外に置くことは出来ない。それだからドイツの政治は、旧教の南ドイツを逆さからわないように抑おさえていて、北ドイツの新教の精神で、文化の進歩を謀はかって行かなくてはならない。それには君主が宗教上の、しっかりした基礎を持っていなくてはならない。その基礎が新教神学に置いてある。その新教神学を現に代表している学者はハルナックである。そう云う意味のある地位に置かれたハルナックが、少しでも政治の都合の好いように、神学上の意見を曲げているかと云うに、そんな事はしていない。君主もそんな事をさせようとはしていない。そこにドイツの強みがある。それでドイツは世界に羽をのして、息張いばっていることが出来る。それで今のような、社会民政党の跋扈ばっこしている時代になっても、ウィルヘルム第二世は護衛兵も連れずに、侍従武官と自動車に相乗をして、ぷっぷと喇叭らっぱを吹かせてベルリン中を駈け歩いて、出し抜に展覧会を見物しに行ったり、店へ買物をしに行ったりすることが出来るのである。ロシアとでも比べて見るが好い。グレシア正教の寺院を沈滞のままに委まかせて、上辺うわべを真綿にくるむようにして、そっとして置いて、黔首けんしゅを愚ぐにするとでも云いたい政治をしている。その愚にせられた黔首が少しでも目を醒さますと、極端な無政府主義者になる。だからツアアルは平服を著きた警察官が垣を結ったように立っている間でなくては歩かれないのである。一体宗教を信ずるには神学はいらない。ドイツでも、神学を修めるのは、牧師になる為めで、ちょっと思うと、宗教界に籍を置かないものには神学は不用なように見える。しかし学問なぞをしない、智力の発展していない多数に不用なのである。学問をしたものには、それが有用になって来る。原来がんらい学問をしたものには、宗教家の謂いう「信仰」は無い。そう云う人、即すなわち教育があって、信仰のない人に、単に神を尊敬しろ、福音ふくいんを尊敬しろと云っても、それは出来ない。そこで信仰しないと同時に、宗教の必要をも認めなくなる。そう云う人は危険思想家である。中には実際は危険思想家になっていながら、信仰のないのに信仰のある真似をしたり、宗教の必要を認めないのに、認めている真似をしている。実際この真似をしている人は随分多い。そこでドイツの新教神学のような、教義や寺院の歴史をしっかり調べたものが出来ていると、教育のあるものは、志さえあれば、専門家の綺麗に洗い上げた、滓かすのこびり付いていない教義をも覗のぞいて見ることが出来る。それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるようになる。そこで穏健な思想家が出来る。ドイツにはこう云う立脚地を有している人の数がなかなか多い。ドイツの強みが神学に基づいていると云うのは、ここにある。秀麿はこう云う意味で、ハルナックの人物を称讃しょうさんしている。子爵にも手紙の趣意はおおよそ呑のみ込めた。
西洋事情や輿地誌略よちしりゃくの盛んに行われていた時代に人となって、翻訳書で当用を弁ずることが出来、華族仲間で口が利かれる程度に、自分を養成しただけの子爵は、精神上の事には、朱子しゅしの註ちゅうに拠よって論語を講釈するのを聞いたより外、なんの智識もないのだが、頭の好い人なので、これを読んだ後に内々ないない自ら省かえりみて見た。倅せがれの手紙にある宗教と云うのはクリスト教で、神と云うのはクリスト教の神である。そんな物は自分とは全く没交渉である。自分の家には昔から菩提所ぼだいしょに定さだまっている寺があった。それを維新の時、先代が殆ど縁を切ったようにして、家の葬祭を神官に任せてしまった。それからは仏と云うものとも、全く没交渉になって、今は祖先の神霊と云うものより外、認めていない。現に邸内ていないにも祖先を祭った神社だけはあって、鄭重ていちょうな祭をしている。ところが、その祖先の神霊が存在していると、自分は信じているだろうか。祭をする度に、祭るに在いますが如くすと云う論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在していられるように思って、お祭をしなくてはならないと云う意味で、自分を顧みて見るに、実際存在していられると思うのではないらしい。いられるように思うのでもないかも知れない。いられるように思おうと努力するに過ぎない位ではあるまいか。そうして見ると、倅の謂いう、信仰がなくて、宗教の必要だけを認めると云う人の部類に、自分は這入っているものと見える。いやいや。そうではない。倅の謂うのは、神学でも覗いて見て、これだけの教義は、信仰しないまでも、必要を認めなくてはならぬと、理性で判断した上で認めることである。自分は神道の書物なぞを覗いて見たことはない。又自分の覗いて見られるような書物があるか、どうだか、それさえ知らずにいる。そんならと云って、教育のない、信仰のある人が、直覚的に神霊の存在を信じて、その間になんの疑をも挿さしはさまないのとも違うから、自分の祭をしているのは形式だけで、内容がない。よしや、在いますが如く思おうと努力していても、それは空虚な努力である。いやいや。空虚な努力と云うものはありようがない。そんな事は不可能である。そうして見ると、教育のない人の信仰が遺伝して、微かすかに残っているとでも思わなくてはなるまい。しかしこれは倅の考えるように、教育が信仰を破壊すると云うことを認めた上の話である。果してそうであろうか。どうもそうかも知れない。今の教育を受けて神話と歴史とを一つにして考えていることは出来まい。世界がどうして出来て、どうして発展したか、人類がどうして出来て、どうして発展したかと云うことを、学問に手を出せば、どんな浅い学問の為方しかたをしても、何かの端々はしはしで考えさせられる。そしてその考える事は、神話を事実として見させては置かない。神話と歴史とをはっきり考え分けると同時に、先祖その外ほかの神霊の存在は疑問になって来るのである。そうなった前途には恐ろしい危険が横よこたわっていはすまいか。一体世間の人はこんな問題をどう考えているだろう。昔の人が真実だと思っていた、神霊の存在を、今の人が嘘だと思っているのを、世間の人は当り前だとして、平気でいるのではあるまいか。随したがってあらゆる祭やなんぞが皆内容のない形式になってしまっているのも、同じく当り前だとしているのではあるまいか。又子供に神話を歴史として教えるのも、同じく当り前だとしているのではあるまいか。そして誰たれも誰も、自分は神話と歴史とをはっきり別にして考えていながら、それをわざと擣つき交まぜて子供に教えて、怪まずにいるのではあるまいか。自分は神霊の存在なんぞは少しも信仰せずに、唯俗に従って聊復爾いささかまたしかり位の考で糊塗ことして遣やっていて、その風俗、即ち昔神霊の存在を信じた世に出来て、今神霊の存在を信ぜない世に残っている風俗が、いつまで現状を維持していようが、いつになったら滅亡してしまおうが、そんな事には頓著とんちゃくしないのではあるまいか。自分が信ぜない事を、信じているらしく行って、虚偽だと思って疚やましがりもせず、それを子供に教えて、子供の心理状態がどうなろうと云うことさえ考えてもみないのではあるまいか。倅は信仰はなくても、宗教の必要を認めると云うことを言っている。その必要を認めなくてはならないと云うこと、その必要を認める必要を、世間の人は思っても見ないから、どうしたら神話を歴史だと思わず、神霊の存在を信ぜずに、宗教の必要が現在に於おいて認めていられるか、未来に於いて認めて行かれるかと云うことなんぞを思って見ようもなく、一切無頓著でいるのではあるまいか。どうも世間の教育を受けた人の多数は、こんな物ではないかと推察せられる。無論この多数の外に立って、現今の頽勢たいせいを挽回ばんかいしようとしている人はある。そう云う人は、倅の謂う、単に神を信仰しろ、福音を信仰しろと云う類たぐいである。又それに雷同している人はある。それは倅の謂う、真似をしている人である。これが頼みになろうか。更に反対の方面を見ると、信仰もなくしてしまい、宗教の必要をも認めなくなってしまって、それを正直に告白している人のあることも、或る種類の人の言論に徴ちょうして知ることが出来る。倅はそう云う人は危険思想家だと云っているが、危険思想家を嗅かぎ出すことに骨を折っている人も、こっちでは存外そこまでは気が附いていないらしい。実際こっちでは、治安妨害とか、風俗壊乱とか云う名目みょうもくの下もとに、そんな人を羅致らちした実例を見たことがない。しかしこう云うことを洗立あらいだてをして見た所が、確しかとした結果を得ることはむずかしくはあるまいか。それは人間の力の及ばぬ事ではあるまいか。若もしそうだと、その洗立をするのが、世間の無頓著よりは危険ではあるまいか。倅もその危険な事に頭を衝つっ込んでいるのではあるまいか。倅は専門の学問をしているうちに、ふとそう云う問題に触れて、自分も不安になったので、己に手紙をよこしたかも知れぬ。それともこの問題にひどく重きを置いているのだろうか。
五条子爵は秀麿の手紙を読んでから、自己を反省したり、世間を見渡したりして、ざっとこれだけの事を考えた。しかしそれに就いて倅と往復を重ねた所で、自分の満足するだけの解決が出来そうにもなく、倅の帰って来る時期も近づいているので、それまで待っても好いと思って、返信は別に宗教問題なんぞに立ち入らずに、只委細承知した、どうぞなるべく穏健な思想を養って、国家の用に立つ人物になって帰ってくれとしか云って遣らなかった。そこで秀麿の方でも、お父うさんにどれだけ自分の言った事が分かったか知らずにいた。
秀麿は平生丁度その時思っている事を、人に話して見たり、手紙で言って遣って見たりするが、それをその人に是非十分飲み込ませようともせず、人を自説に転ぜさせよう、服させようともしない。それよりは話す間、手紙を書く間に、自分で自分の思想をはっきりさせて見て、そこに満足を感ずる。そして自分の思想は、又新しい刺戟しげきを受けて、別な方面へ移って行く。だからあの時子爵が精しい返事を遣ったところで、秀麿はもう同じ問題の上で、お父うさんの満足するような事を言ってはよこさなかったかも知れない。
――――――――――――――――
洋行をさせる時健康を気遣った秀麿が、旅に出ると元気になったらしく、筆まめに書いてよこす手紙にも生々した様子が見え、ドイツで秀麿と親しくしたと云って、帰ってから尋ねて来る同族の人も、秀麿は随分勉強をしているが、玉も衝けば氷滑こおりすべりもすると云う風で、上流の人を相手にして開いている、某夫人のパンジオナアトでは、若い男女の寄宿人が、芝居の初興行をでも見に行くとき、ヴィコント五条が一しょでなくては面白くないと云う程だと話して聞せるので、子爵夫婦は喜んで、早く丈夫な男になって帰って来るのを見たいと思っていた。
秀麿は去年の暮に、書物をむやみに沢山持って、帰って来た。洋行前にはまだどこやら少年らしい所のあったのが、三年の間にすっかり男らしくなって、血色も好くなり、肉も少し附いている。しかし待ち構えていた奥さんが気を附けて様子を見ると、どうも物の言振いいぶりが面白くないように思われた。それは大学を卒業した頃から、西洋へ立つ時までの、何か物を案じていて、好い加減に人に応対していると云うような、沈黙勝な会話振が、定めてすっかり直って帰ったことと思っていたのに、帰った今もやはり立つ前と同じように思われたのである。
新橋へ著ついた日の事であった。出迎をした親類や心安い人の中うちには、邸まで附いて来たのもあって、五条家ではそう云う人達に、一寸ちょっとした肴さかなで酒を出した。それが済んだ跡で、子爵と秀麿との間に、こんな対話があった。
子爵は袴はかまを着けて据わって、刻煙草きざみたばこを煙管きせるで飲んでいたが、痩やせた顔の目の縁に、皺しわを沢山寄せて、嬉しげに息子をじっと見て、只一言「どうだ」と云った。
「はい」と父の顔を見返しながら秀麿は云ったが、傍そばで見ている奥さんには、その立派な洋服姿が、どうも先さっき客の前で勤めていた時と変らないように、少しも寛くつろいだ様子がないように思われて、それが気に掛かった。
子爵は息子がまだ何か云うだろうと思って、暫しばらく黙っていたが、それきりなんとも云わないので、詞ことばを続ついだ。「書物を沢山持って帰ったそうだね。」
「こっちで為事しごとをするのに差支えないようにと思って、中には読んで見る方の本でない、物を捜し出す方の本も買って帰ったものですから、嵩かさが大きくなりました。」
「ふん。早く為事に掛かりたかろうなあ。」
秀麿は少し返事に躊躇ちゅうちょするらしく見えた。「それは舟の中でも色々考えてみましたが、どうも当分手が著つけられそうもないのです。」こう云って、何か考えるような顔をしている。
「急ぐ事はない。お前のは売らなくてはならんと云うのでもなし、学位が欲しいと云うのでもないからな。」一旦いったんこうは云ったが、子爵は更に、「学位は貰っても悪くはないが」と言い足して笑った。
ここまで傍聴していた奥さんが、待ち兼ねたように、いろいろな話をし掛けると、秀麿は優しく受答をしていた。この時奥さんは、どうも秀麿の話は気乗がしていない、附合つきあいに物を言っているようだと云う第一印象を受けたのであった。
それで秀麿が座を立った跡で、奥さんが子爵に言った。「体は大層好くなりましたが、なんだかこう控え目に、考え考え物を言うようではございませんか。」
「それは大人おとなになったからだ。男と云うものは、奥さんのように口から出任せに物を言ってはいけないのだ。」
「まあ。」奥さんは目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。四十代が半分過ぎているのに、まだぱっちりした、可哀かわいらしい目をしている女である。
「おこってはいけない。」
「おこりなんかしませんわ。」と云って、奥さんはちょいと笑ったが、秀麿の返事より、この笑の方が附合らしかった。
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その時からもう一年近く立っている。久し振の新年も迎えた。秀麿は位階があるので、お父う様程忙しくはないが、幾分か儀式らしい事もしなくてはならない。新調させた礼服を著て、不精らしい顔をせずに、それを済ませた。「西洋のお正月はどんなだったえ」とお母あ様が問うと、秀麿は愛想好く笑う。「一向駄目ですね。学生は料理屋へ大晦日おおみそかの晩から行っていまして、ボオレと云って、シャンパンに葡萄酒ぶどうしゅに砂糖に炭酸水と云うように、いろいろ交ぜて温めて、レモンを輪切にして入れた酒を拵こしらえて夜なかになるのを待っています。そして十二時の時計が鳴り始めると同時に、さあ新年だと云うので、その酒を注ついだ杯さかずきをてんでんに持って、こつこつ打ち附けて、プロジット・ノイヤアルと大声で呼んで飲むのです。それからふざけながら町を歩いて帰ると、元日には寝ていて、午ひるまで起きはしません。町でも家うちは大抵戸を締めて、ひっそりしています。まあ、クリスマスにお祭らしい事はしてしまって、新年の方はお留守になっているようなわけです」と云う。「でもお上かみのお儀式はあるだろうね。」「それはございますそうです。拝賀が午後二時だとか云うことでした。」こんな風に、何事につけても人が問えば、ヨオロッパの話もするが、自分から進んで話すことはない。
二三月の一番寒い頃も過ぎた。お母あ様が「向うはこんな事ではあるまいね」と尋ねて見た。「それはグラットアイスと云って、寒い盛りに一寸ちょっと温かい晩があって、積った雪が上融うわどけをして、それが朝氷っていることがあります。木の枝は硝子ガラスで包んだようになっています。ベルリンのウンテル・デン・リンデンと云う大通りの人道が、少し凸凹でこぼこのある鏡のようになっていて、滑って歩くことが出来ないので、人足が沙すなを入れた籠かごを腋わきに抱えて、蒔まいて歩いています。そう云う時が一番寒いのですが、それでもロシアのように、町を歩いていて鼻が腐るような事はありません。煖炉のない家もないし、毛皮を著ない人もない位ですから、寒さが体には徹こたえません。こちらでは夏座敷に住んで、夏の支度をして、寒がっているようなものですね。」秀麿はこんな話をした。
桜の咲く春も過ぎた。お母あ様に桜の事を問われて、秀麿は云った。「ドイツのような寒い国では、春が一どきに来て、どの花も一しょに咲きます。美しい五月と云う詞があります。桜の花もないことはありませんが、あっちの人は桜と云う木は桜ん坊のなる木だとばかり思っていますから、花見はいたしません。ベルリンから半道はんみちばかりの、ストララウと云う村に、スプレエ川の岸で、桜の沢山植えてある所があります。そこへ日本から行っている学生が揃そろって、花見に行ったことがありましたよ。絨緞じゅうたんを織る工場の女工なんぞが通り掛かって、あの人達は木の下で何をしているのだろうと云って、驚いて見ていました。」
暑い夏も過ぎた。秀麿はお母あ様に、「ベルリンではこんな日にどうしているの」と問われて、暫く頭を傾けていたが、とうとう笑いながら、こう云った。「一番つまらない季節ですね。誰も彼も旅行してしまいます。若い娘なんぞがスウィッツルに行って、高い山に登ります。跡に残っている人は為方しかたがないので、公園内の飲食店で催す演奏会へでも往いって、夜なかまで涼みます。だいぶ北極が近くなっている国ですから、そんなにして遊んで帰って、夜なかを過ぎて寝ようとすると、もう窓が明るくなり掛かっています。」
かれこれするうちに秋になった。「ヨオロッパでは寒さが早く来ますから、こんな秋日和あきびよりの味は味うことが出来ませんね」と、秀麿は云って、お母あ様に対して、ちょっと愉快げな笑顔をして見せる。大抵こんな話をするのは食事の時位で、その外の時間には、秀麿は自分の居間になっている洋室に籠こもっている。西洋から持って来た書物が多いので、本箱なんぞでは間に合わなくなって、この一間だけ壁に悉ことごとく棚たなを取り附けさせて、それへ一ぱい書物を詰め込んだ。棚の前には薄い緑色の幕を引かせたので、一種の装飾にはなったが、壁がこれまでの倍以上の厚さになったと同じわけだから、室内が余程暗くなって、それと同時に、一間が外より物音の聞えない、しんとした所になってしまった。小春の空が快く晴れて、誰も彼も出歩く頃になっても、秀麿はこのしんとした所に籠って、卓テエブルの傍を離れずに本を読んでいる。窓の明りが左手から斜ななめに差し込んで、緑の羅紗らしゃの張ってある上を半分明るくしている卓である。
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この秋は暖い暖いと云っているうちに、稀まれに降る雨がいつか時雨しぐれめいて来て、もう二三日前から、秀麿の部屋のフウベン形の瓦斯煖炉ガスだんろにも、小間使の雪が来て点火することになっている。
朝起きて、庭の方へ築つき出してある小さいヴェランダへ出て見ると、庭には一面に、大きい黄いろい梧桐ごとうの葉と、小さい赤い山もみじの葉とが散らばって、ヴェランダから庭へ降りる石段の上まで、殆ど隙間もなく彩いろどっている。石垣に沿うて、露に濡ぬれた、老緑ろうりょくの広葉を茂らせている八角全盛やつでが、所々に白い茎を、枝のある燭台しょくだいのように抽ぬき出して、白い花を咲かせている上に、薄曇の空から日光が少し漏れて、雀すずめが二三羽鳴きながら飛び交わしている。
秀麿は暫く眺めていて、両手を力なく垂れたままで、背を反そらせて伸びをして、深い息を衝いた。それから部屋に這入はいって、洗面卓たくの傍そばへ行って、雪が取って置いた湯を使って、背広の服を引っ掛けた。洋行して帰ってからは、いつも洋服を著きているのである。
そこへお母あ様が這入って来た。「きょうは日曜だから、お父う様は少しゆっくりしていらっしゃるのだが、わたしはもう御飯を戴いただくから、お前もおいででないか。」こう云って、息子の顔を横から覗のぞくように見て、詞を続けた。「ゆうべも大層遅くまで起きていましたね。いつも同じ事を言うようですが、西洋から帰ってお出いでの時は、あんなに体が好かったのに、余り勉強ばかりして、段々顔色を悪くしておしまいなのね。」
「なに。体はどうもありません。外へ出ないでいるから、日に焼けないのでしょう。」笑いながら云って、一しょに洋室を出た。
しかし奥さんにはその笑声が胸を刺すように感ぜられた。秀麿が心からでなく、人に目潰めつぶしに何か投げ附けるように笑声をあびせ掛ける習癖を、自分も意識せずに、いつの間にか養成しているのを、奥さんは本能的に知っているのである。
食事をしまって帰った時は、明方に薄曇のしていた空がすっかり晴れて、日光が色々に邪魔をする物のある秀麿の室へやを、物見高い心から、依怙地えこじに覗こうとするように、窓帷まどかけのへりや書棚のふちを彩って、卓テエブルの上に幅の広い、明るい帯をなして、インク壺つぼを光らせたり、床に敷いてある絨氈じゅうたんの空想的な花模様に、刹那せつなの性命を与えたりしている。そんな風に、日光の差し込んでいる処ところの空気は、黄いろに染まり掛かった青葉のような色をして、その中には細かい塵ちりが躍っている。
室内の温度の余り高いのを喜ばない秀麿は、煖炉のコックを三分一程閉じて、葉巻を銜くわえて、運動椅子に身を投げ掛けた。
秀麿の心理状態を簡単に説明すれば、無聊ぶりょうに苦んでいると云うより外はない。それも何事もすることの出来ない、低い刺戟に饑うえている人の感ずる退屈とは違う。内に眠っている事業に圧迫せられるような心持である。潜勢力の苦痛である。三国時代の英雄は髀ひに肉を生じたのを見て歎たんじた。それと同じように、余所目よそめには痩せて血色の悪い秀麿が、自己の力を知覚していて、脳髄が医者の謂いう無動作性萎縮いしゅくに陥いらねば好いがと憂えている。そして思量の体操をする積りで、哲学の本なんぞを読み耽ふけっているのである。お母あ様程には、秀麿の健康状態に就いて悲観していない父の子爵が、いつだったか食事の時息子を顧みて、「一肚皮いちとひ時宜じぎに合わずかな」と云って、意味ありげに笑った。秀麿は例の笑を顔に湛たたえて、「僕は不平家ではありません」と答えた。どうもお父う様はこっちが極端な自由思想をでも持っていはしないかと疑っているらしい。それは誤解である。しかしさすが男親だけにお母あ様よりは、切実に少くもこっちの心理状態の一面を解していてくれるようだと、秀麿は思った。
秀麿は父の詞ことばを一つ思い出したのが機縁になって、今一つの父の詞を思い出した。それは又或る日食事をしている時の事で「どうも人間が猿から出来たなんぞと思っていられては困るからな」と云った。秀麿はぎくりとした。秀麿だって、ヘッケルのアントロポゲニイに連署して、それを自分の告白にしても好いとは思っていない。しかしお父う様のこの詞の奥には、こっちの思想と相容あいいれない何物かが潜んでいるらしい。まさかお父う様だって、草昧そうまいの世に一国民の造った神話を、そのまま歴史だと信じてはいられまいが、うかと神話が歴史でないと云うことを言明しては、人生の重大な物の一角が崩れ始めて、船底の穴から水の這入るように物質的思想が這入って来て、船を沈没させずには置かないと思っていられるのではあるまいか。そう思って知らず識しらず、頑冥がんめいな人物や、仮面を被かむった思想家と同じ穴に陥いっていられるのではあるまいかと、秀麿は思った。
こう思うので、秀麿は父の誤解を打ち破ろうとして進むことを躊躇している。秀麿が為めには、神話が歴史でないと云うことを言明することは、良心の命ずるところである。それを言明しても、果物が堅実な核さねを蔵しているように、神話の包んでいる人生の重要な物は、保護して行かれると思っている。彼を承認して置いて、此これを維持して行くのが、学者の務つとめだと云うばかりではなく、人間の務だと思っている。
そこで秀麿は父と自分との間に、狭くて深い谷があるように感ずる。それと同時に、父が自分と話をする時、危険な物の這入っている疑のある箱の蓋ふたを、そっと開けて見ようとしては、その手を又引っ込めてしまうような態度に出るのを見て、歯痒はがゆいようにも思い、又気の毒だから、いたわって、手を出させずに置かなくてはならないようにも思う。父が箱の蓋を取って見て、白昼に鬼を見て、毒でもなんでもない物を毒だと思って怖おそれるよりは、箱の内容を疑わせて置くのが、まだしもの事かと思う。
秀麿のこう思うのも無理は無い。明敏な父の子爵は秀麿がハルナックの事を書いた手紙を見て、それに対する返信を控えて置いた後に、寝られぬ夜よなどには度々宗教問題を頭の中で繰り返して見た。そして思えば思う程、この問題は手の附けられぬものだと云う意見に傾いて、随したがってそれに手を著けるのを危険だとみるようになった。そこでとにかく倅せがれにそんな問題に深入をさせたくない。なろう事なら、倅の思想が他の方面に向くようにしたい。そう思うので、自分からは宗教問題の事などは決して言い出さない。そしてこの問題が倅の頭にどれだけの根を卸しているかとあやぶんで、窃ひそかに様子を覗うかがうようにしているのである。
秀麿と父との対話が、ヨオロッパから帰って、もう一年にもなるのに、とかく対陣している両軍が、双方から斥候せっこうを出して、その斥候が敵の影を認める度に、遠方から射撃して還かえるように、はかばかしい衝突もせぬ代りに、平和に打ち明けることもなくているのは、こう云うわけである。
秀麿の銜くわえている葉巻の白い灰が、だいぶ長くなって持っていたのが、とうとう折れて、運動椅子に倚より掛かっている秀麿のチョッキの上に、細い鱗うろこのような破片を留とめて、絨緞じゅうたんの上に落ちて砕けた。今のように何もせずにいると、秀麿はいつも内には事業の圧迫と云うような物を受け、外には家庭の空気の或る緊張を覚えて、不快である。
秀麿は「又本を読むかな」と思った。兼ねて生涯の事業にしようと企てた本国の歴史を書くことは、どうも神話と歴史との限界をはっきりさせずには手が著けられない。寧むしろ先まず神話の結成を学問上に綺麗に洗い上げて、それに伴う信仰を、教義史体にはっきり書き、その信仰を司祭的に取り扱った機関を寺院史体にはっきり書く方が好さそうだ。そうしたってプロテスタント教がその教義史と寺院史とで毀損きそんせられないと同じ事で、祖先崇拝の教義や機関も、特にそのために危害を受ける筈はずはない。これだけの事を完成するのは、極きわめて容易だと思うと、もうその平明な、小ざっぱりした記載を目の前に見るような気がする。それが済んだら、安心して歴史に取り掛られるだろう。しかしそれを敢あえてする事、その目に見えている物を手に取る事を、どうしても周囲の事情が許しそうにないと云う認識は、ベルリンでそろそろ故郷へ帰る支度に手を著け始めた頃から、段々に、或る液体の中に浮んだ一点の塵ちりを中心にして、結晶が出来て、それが大きくなるように、秀麿の意識の上に形づくられた。これが秀麿の脳髄の中に蟠結はんけつしている暗黒な塊で、秀麿の企てている事業は、この塊に礙さまたげられて、どうしても発展させるわけにいかないのである。それで秀麿は製作的方面の脈管を総て塞ふさいで、思量の体操として本だけ読んでいる。本を読み出すと、秀麿は不思議に精神をそこに集注することが出来て、事業の圧迫を感ぜず、家庭の空気の緊張をも感ぜないでいる。それで本ばかり読んでいることになるのである。
「又本を読むかな」と秀麿は思った。そして運動椅子から身を起した。
丁度その時こつこつと戸を叩いて、秀麿の返事をするのを待って、雪が這入って来た。小さい顔に、くりくりした、漆のように黒い目を光らして、小さくて鋭く高い鼻が少し仰向あおむいているのが、ひどく可哀らしい。秀麿が帰った当座、雪はまだ西洋室で用をしたことがなかったので、開けた戸を、内からしゃがんで締めて、絨緞の上に手を衝いて物を言った。秀麿は驚いて、笑顔をして西洋室での行儀を教えて遣った。なんでも一度言って聞せると、しっかり覚えて、その次の度たびからは慣れたもののようにするのである。
煖炉を背にして立って、戸口を這入った雪を見た秀麿の顔は晴やかになった。エロチックの方面の生活のまるで瞑ねむっている秀麿が、平和ではあっても陰気なこの家で、心から爽快そうかいを覚えるのは、この小さい小間使を見る時ばかりだと云っても好い位である。
「綾小路あやこうじさんがいらっしゃいました」と、雪は籠かごの中の小鳥が人を見るように、くりくりした目の瞳ひとみを秀麿の顔に向けて云った。雪は若檀那わかだんな様に物を言う機会が生ずる度に、胸の中で凱歌がいかの声が起る程、無意味に、何の欲望もなく、秀麿を崇拝しているのである。
この時雪の締めて置いた戸を、廊下の方からあらあらしく開けて、茶の天鵞絨びろうどの服を着た、秀麿と同年位の男が、駆け込むように這入って来て、いきなり雪の肩を、太った赤い手で押えた。「おい、雪。若檀那の顔ばかり見ていて、取次をするのを忘れては困るじゃないか。」
雪の顔は真っ赤になった。そして逃げるように、黙って部屋を出て行った。綾小路の方は振り返ってもみなかったのである。
秀麿の眉間みけんには、注意して見なくては見えない程の皺しわが寄ったが、それが又注意して見ても見えない程早く消えて、顔の表情は極真面目ごくまじめになっている。「君つまらない笑談じょうだんは、僕の所でだけはよしてくれ給え。」
「劈頭へきとう第一に小言を食わせるなんぞは驚いたね。気持の好い天気だぜ。君の内の親玉なんぞは、秋晴しゅうせいとかなんとか云うのだろう。尤もっともセゾンはもう冬かも知れないが、過渡時代には、冬の日になったり、秋の日になったりするのだ。きょうはまだ秋だとして置くね。どこか底の方に、ぴりっとした冬の分子が潜んでいて、夕日が沈み掛かって、かっと照るような、悲哀を帯びて爽快な処がある。まあ、年増としまの美人のようなものだね。こんな日に※(「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1-94-84)鼠もぐらもちのようになって、内に引っ込んで、本を読んでいるのは、世界は広いが、先ず君位なものだろう。それでも机の上に俯ふさっていなかっただけを、僕は褒ほめて置くね。」
秀麿は真面目ではあるが、厭いやがりもしないらしい顔をして、盛んに饒舌しゃべり立てている綾小路の様子を見ている。簡単に言えば、この男には餓鬼がき大将と云う表情がある。額際ひたいぎわから顱頂ろちょうへ掛けて、少し長めに刈った髪を真っ直に背後うしろへ向けて掻かき上げたのが、日本画にかく野猪いのししの毛のように逆立っている。細い目のちょいと下がった目尻めじりに、嘲笑ちょうしょう的な微笑を湛えて、幅広く広げた口を囲むように、左右の頬に大きい括弧かっこに似た、深い皺を寄せている。
綾小路はまだ饒舌る。「そんなに僕の顔ばかし見給うな。心中大いに僕を軽侮しているのだろう。好いじゃないか。君がロアで、僕がブッフォンか。ドイツ語でホオフナルと云うのだ。陛下の倡優しょうゆうを以もって遇する所か。」
秀麿は覚えず噴き出した。「僕がそんな侮辱的な考をするものか。」
「そんなら頭からけんつくなんぞを食わせないが好い。」
「うん。僕が悪かった。」秀麿は葉巻の箱の蓋を開けて勧めながら、独語ひとりごとのようにつぶやいた。「僕は人の空想に毒を注つぎ込むように感じるものだから。」
「それがサンチマンタルなのだよ」と云いながら、綾小路は葉巻を取った。秀麿はマッチを摩すった。
「メルシイ」と云って綾小路が吸い附けた。
「暖かい所が好かろう」と云って、秀麿は椅子を一つ煖炉の前に押し遣った。
綾小路は椅背きはいに手を掛けたが、すぐに据わらずに、あたりを見廻して、卓テエブルの上にゆうべから開けたままになっている、厚い、仮綴かりとじの洋書に目を着けた。傍かたわらには幅の広い篦へらのような形をした、鼈甲べっこうの紙切小刀かみきりこがたなが置いてある。「又何か大きな物にかじり附いているね。」こう云って秀麿の顔を見ながら、腰を卸した。
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綾小路は学習院を秀麿と同期で通過した男である。秀麿は大学に行くのに、綾小路は画かきになると云って、溜池ためいけの洋画研究所へ通い始めた。それから秀麿がまだ文科にいるうちに、綾小路は先へ洋行して、パリイにいた。秀麿がマルセイユから上陸して、ベルリンへ行く途中で、二三日パリイに滞在していた時には、親切に世話を焼いて、シャン・ゼリゼェの散歩やら、テアアトル・フランセェとジムナアズ・ドラマチックとの芝居見物やら、時間を吝おしまずに案内をして歩いて、ベルリンへ行ってから著きる服まで誂あつらえさせてくれた。
綾小路は目と耳とばかりで生活しているような男で、芸術をさえ余り真面目には取り扱っていないが、明敏な頭脳がいつも何物にか饑うえている。それで故郷へ帰って以来引き籠り勝にしている秀麿の方からは、尋ねても行かぬのに、折々遊びに来て、秀麿の読んでいる本の話を、口ではちゃかしながら、真面目に聞いて考えても見るのである。
綾小路は卓の所へ歩いて行って、開けてある本の表紙を引っ繰り返して見た。「ジイ・フィロゾフィイ・デス・アルス・オップか。妙な標題だなあ。」
そこへ雪が橢円形だえんけいのニッケル盆に香茶こうちゃの道具を載せて持って来た。そして小さい卓を煖炉の前へ運んで、その上に盆を置いて、綾小路の方を見ぬようにしてちょいと見て、そっと部屋を出て行った。何か言われはしないだろうか。言えば又恥かしいような事を言うだろう。どんな事を言うだろう。言わせて聞いても見たいと云うような心持で雪はいたが、こん度は綾小路が黙っていた。
秀麿は伏せてあるタッスを起して茶を注いだ。そして「牛乳を入れるのだろうな」と云って、綾小路を顧みた。
「こないだのように沢山入れないでくれ給え。一体アルス・オップとはなんだい。」こう云いながら、綾小路は煖炉の前の椅子に掛けた。
「コム・シィさ。かのようにとでも云ったら好いのだろう。妙な所を押さえて、考を押し広めて行ったものだが、不思議に僕の立場そのままを説明してくれるようで、愉快でたまらないから、とうとうゆうべは三時まで読んでいた。」
「三時まで。」綾小路は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。「どうして、どこが君の立場そのままなのだ。」
「そう」と云って、秀麿は暫く考えていた。千ペエジ近い本を六七分通り読んだのだから、どんな風に要点を撮つまんで話したものかと考えたのである。「先ず本当だと云う詞ことばからして考えて掛からなくてはならないね。裁判所で証拠立てをして拵こしらえた判決文を事実だと云って、それを本当だとするのが、普通の意味の本当だろう。ところが、そう云う意味の事実と云うものは存在しない。事実だと云っても、人間の写象を通過した以上は、物質論者のランゲの謂いう湊合そうごうが加わっている。意識せずに詩にしている。嘘になっている。そこで今一つの意味の本当と云うものを立てなくてはならなくなる。小説は事実を本当とする意味に於おいては嘘だ。しかしこれは最初から事実がらないで、嘘と意識して作って、通用させている。そしてその中うちに性命がある。価値がある。尊い神話も同じように出来て、通用して来たのだが、あれは最初事実がっただけ違う。君のかく画も、どれ程写生したところで、実物ではない。嘘の積りでかいている。人生の性命あり、価値あるものは、皆この意識した嘘だ。第二の意味の本当はこれより外には求められない。こう云う風に本当を二つに見ることは、カントが元祖で、近頃プラグマチスムなんぞで、余程卑俗にして繰り返しているのも同じ事だ。これだけの事は一寸ちょっと云って置かなくては、話が出来ないのだがね。」
「宜よろしい。詞はどうでも好い。その位な事は僕にも分かっている。僕のかく画だって、実物ではないが、今年も展覧会で一枚売れたから、慥たしかに多少の価値がある。だから僕の画を本当だとするには、異議はない。そこでコム・シィはどうなるのだ。」
「まあ待ち給え。そこで人間のあらゆる智識、あらゆる学問の根本を調べてみるのだね。一番正確だとしてある数学方面で、点だの線だのと云うものがある。どんなに細かくぽつんと打ったって点にはならない。どんなに細くすうっと引いたって線にはならない。どんなに好く削った板の縁ふちも線にはなっていない。角かども点にはなっていない。点と線は存在しない。例の意識した嘘だ。しかし点と線があるかのように考えなくては、幾何学は成り立たない。あるかのようにだね。コム・シィだね。自然科学はどうだ。物質と云うものでからが存在はしない。物質が元子から組み立てられていると云う。その元子も存在はしない。しかし物質があって、元子から組み立ててあるかのように考えなくては、元子量の勘定が出来ないから、化学は成り立たない。精神学の方面はどうだ。自由だの、霊魂不滅だの、義務だのは存在しない。その無いものを有るかのように考えなくては、倫理は成り立たない。理想と云っているものはそれだ。法律の自由意志と云うものの存在しないのも、疾とっくに分かっている。しかし自由意志があるかのように考えなくては、刑法が全部無意味になる。どんな哲学者も、近世になっては大低世界を相待そうたいに見て、絶待ぜったいの存在しないことを認めてはいるが、それでも絶待があるかのように考えている。宗教でも、もうだいぶ古くシュライエルマッヘルが神を父であるかのように考えると云っている。孔子こうしもずっと古く祭るに在いますが如くすと云っている。先祖の霊があるかのように祭るのだ。そうして見ると、人間の智識、学問はさて置き、宗教でもなんでも、その根本を調べて見ると、事実として証拠立てられない或る物を建立こんりゅうしている。即ちかのようにが土台に横よこたわっているのだね。」
「まあ一寸待ってくれ給え。君は僕の事を饒舌しゃべる饒舌ると云うが、君が饒舌り出して来ると、駆足になるから、附いて行かれない。その、かのようにと云う怪物の正体も、少し見え掛っては来たが、まあ、茶でももう一杯飲んで考えて見なくては、はっきりしないね。」
「もうぬるくなっただろう。」
「なに。好いよ。雪と云う、証拠立てられる事実が間へ這入はいって来ると、考えがこんがらかって来るからね。そうすると、つまり事実と事実がごろごろ転がっていてもしようがない。それを結び附けて考えようとすると、厭いやでも或る物を土台にしなくてはならない。その土台が例のかのようにだと云うのだね。宜しい。ところが、僕はそんな怪物の事は考えずに置く。考えても言わずに置く。」綾小路は生温なまぬるい香茶をぐっと飲んで、決然と言い放った。
秀麿は顔を蹙しかめた。「それは僕も言わずにいる。しかし君は画だけかいて、言わずにいられようが、僕は言う為めに学問をしたのだ。考えずには無論いられない。考えてそれを真直ぐに言わずにいるには、黙ってしまうか、別に嘘を拵こしらえて言わなくてはならない。それでは僕の立場がなくなってしまうのだ。」
「しかしね、君、その君が言う為めに学問したと云うのは、歴史を書くことだろう。僕が画をかくように、怪物が土台になっていても好いから、構わずにずんずん書けば好いじゃないか。」
「そうはいかないよ。書き始めるには、どうしても神話を別にしなくてはならないのだ。別にすると、なぜ別にする、なぜごちゃごちゃにして置かないかと云う疑問が起る。どうしても歴史は、画のように一刹那を捉とらえて遣っているわけにはいかないのだ。」
「それでは僕のかく画には怪物が隠れているから好い。君の書く歴史には怪物が現れて来るからいけないと云うのだね。」
「まあ、そうだ。」
「意気地がないねえ。現れたら、どうなるのだ。」
「危険思想だと云われる。それも世間がかれこれ云うだけなら、奮闘もしよう。第一父が承知しないだろうと思うのだ。」
「いよいよ意気地がないねえ。そんな葛藤かっとうなら、僕はもう疾とっくに解決してしまっている。僕は画かきになる時、親爺おやじが見限ってしまって、現に高等遊民として取扱っているのだ。君は歴史家になると云うのをお父うさんが喜んで承知した。そこで大学も卒業した。洋行も僕のように無理をしないで、気楽にした。君は今まで葛藤の繰延くりのべをしていたのだ。僕の五六年前に解決した事を、君は今解決して、好きなように歴史を書くが好いじゃないか。已やむを得んじゃないか。」
「しかし僕はそんな葛藤を起さずに遣っていかれる筈だと思っている。平和な解決がつい目の前に見えている。手に取られるように見えている。それを下手へたに手に取ろうとして失敗をすることなんぞは、避けたいと思っている。それでぐずぐずしていて、君にまで意気地がないと云われるのだ。」秀麿は溜息ためいきを衝いた。
「ふん、どうしてお父うさんを納得させようと云うのだ。」
「僕の思想が危険思想でもなんでもないと云うことを言って聞せさえすれば好いのだが。」
「どう言って聞せるね。僕がお父うさんだと思って、そこで一つ言って見給え。」
「困るなあ」と云って、秀麿は立って、室内をあちこち歩き出した。
※(「日/(「咎」の「人」に代えて「卜」)」、第3水準1-85-32)ひかげはもうヴェランダの檐のきを越して、屋根の上に移ってしまった。真まっ蒼さおに澄み切った、まだ秋らしい空の色がヴェランダの硝子戸を青玉せいぎょくのように染めたのが、窓越しに少し翳かすんで見えている。山の手の日曜日の寂しさが、だいぶ広いこの邸やしきの庭に、田舎の別荘めいた感じを与える。突然自動車が一台煉瓦塀れんがべいの外をけたたましく過ぎて、跡は又元の寂しさに戻った。
秀麿は語を続ついだ。「まあ、こうだ。君がさっきから怪物々々と云っている、その、かのようにだがね。あれは決して怪物ではない。かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている。昔の人が人格のある単数の神や、複数の神の存在を信じて、その前に頭を屈かがめたように、僕はかのようにの前に敬虔けいけんに頭を屈める。その尊敬の情は熱烈ではないが、澄み切った、純潔な感情なのだ。道徳だってそうだ。義務が事実として証拠立てられるものでないと云うことだけ分かって、怪物扱い、幽霊扱いにするイブセンの芝居なんぞを見る度に、僕は憤懣ふんまんに堪えない。破壊は免るべからざる破壊かも知れない。しかしその跡には果してなんにもないのか。手に取られない、微かすかなような外観のものではあるが、底にはかのようにが儼乎げんことして存立している。人間は飽くまでも義務があるかのように行わなくてはならない。僕はそう行って行く積りだ。人間が猿から出来たと云うのは、あれは事実問題で、事実として証明しようと掛かっているのだから、ヒポテジスであって、かのようにではないが、進化の根本思想はやはりかのようにだ。生類は進化するかのようにしか考えられない。僕は人間の前途に光明を見て進んで行く。祖先の霊があるかのように背後うしろを顧みて、祖先崇拝をして、義務があるかのように、徳義の道を踏んで、前途に光明を見て進んで行く。そうして見れば、僕は事実上極蒙昧ごくもうまいなな、極従順な、山の中の百姓と、なんの択えらぶ所もない。只頭がぼんやりしていないだけだ。極頑固な、極篤実な、敬神家や道学先生と、なんの択ぶところもない。只頭がごつごつしていないだけだ。ねえ、君、この位安全な、危険でない思想はないじゃないか。神が事実でない。義務が事実でない。これはどうしても今日になって認めずにはいられないが、それを認めたのを手柄にして、神を涜けがす。義務を蹂躙じゅうりんする。そこに危険は始て生じる。行為は勿論もちろん、思想まで、そう云う危険な事は十分撲滅しようとするが好い。しかしそんな奴の出て来たのを見て、天国を信ずる昔に戻そう、地球が動かずにいて、太陽が巡回していると思う昔に戻そうとしたって、それは不可能だ。そうするには大学も何も潰つぶしてしまって、世間をくら闇にしなくてはならない。黔首けんしゅを愚ぐにしなくてはならない。それは不可能だ。どうしても、かのようにを尊敬する、僕の立場より外に、立場はない。」
これまで例の口の端はたの括弧かっこを二重三重ふたえみえにして、妙な微笑を顔に湛たたえて、葉巻の烟けむりを吹きながら聞いていた綾小路は、煙草の灰を灰皿に叩き落して、身を起しながら、「駄目だ」と、簡単に一言云って、煖炉を背にして立った。そしてめまぐろしく歩き廻りながら饒舌っている秀麿を、冷やかに見ている。
秀麿は綾小路の正面に立ち止まって相手の顔を見詰めた。蒼い顔の目の縁がぽっと赤くなって、その目の奥にはファナチスムの火に似た、一種の光がある。「なぜ。なぜ駄目だ。」
「なぜって知れているじゃないか。人に君のような考になれと云ったって、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ当てて、先祖の幽霊が盆にのこのこ歩いて来ると思っている。道学先生は義務の発電所のようなものが、天の上かどこかにあって、自分の教おすわった師匠がその電気を取り続ついで、自分に掛けてくれて、そのお蔭かげで自分が生涯ぴりぴりと動いているように思っている。みんな手応てごたえのあるものを向うに見ているから、崇拝も出来れば、遵奉じゅんぽうも出来るのだ。人に僕のかいた裸体画を一枚遣って、女房を持たずにいろ、けしからん所へ往いかずにいろ、これを生きた女であるかのように思えと云ったって、聴くものか。君のかのようにはそれだ。」
「そんなら君はどうしている。幽霊がのこのこ歩いて来ると思うのか。電気を掛けられていると思うのか。」
「そんな事はない。」
「そんならどう思う。」
「どうも思わずにいる。」
「思わずにいられるか。」
「そうさね。まるで思わない事もない。しかしなるたけ思わないようにしている。極きめずに置く。画をかくには極めなくても好いからね。」
「そんなら君が仮に僕の地位に立って、歴史を書かなくてはならないとなったら、どうする。」
「僕は歴史を書かなくてはならないような地位には立たない。御免を蒙こうむる。」綾小路の顔からは微笑の影がいつか消えて、平気な、殆ほとんど不愛想な表情になっている。
秀麿は気抜けがしたように、両手を力なく垂れて、こん度は自分が寂しく微笑ほほえんだ。「そうだね。てんでに自分の職業を遣って、そんな問題はそっとして置くのだろう。僕は職業の選びようが悪かった。ぼんやりして遣ったり、嘘を衝いてやれば造做ぞうさはないが、正直に、真面目に遣ろうとすると、八方塞ふさがりになる職業を、僕は不幸にして選んだのだ。」
綾小路の目は一刹那せつな鋼鉄の様に光った。「八方塞がりになったら、突貫して行く積りで、なぜ遣らない。」
秀麿は又目の縁を赤くした。そして殆ど大人の前に出た子供のような口吻こうふんで、声低く云った。「所詮しょせん父と妥協して遣る望はあるまいかね。」
「駄目、駄目」と綾小路は云った。
綾小路は背をあぶるように、煖炉に太った体を近づけて、両手を腰のうしろに廻して、少し前屈みになって立ち、秀麿はその二三歩前に、痩せた、しなやかな体を、まだこれから延びようとする今年竹ことしだけのように、真っ直にして立ち、二人は目と目を見合わせて、良やや久しく黙っている。山の手の日曜日の寂しさが、二人の周囲を依然支配している。
底本:「阿部一族・舞姫」新潮文庫、新潮社
1968(昭和43)年4月20日発行
1985(昭和60)年5月20日36刷改版
入力:高橋真也
校正:湯地光弘
1999年9月23日公開
2006年4月27日修正
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大君のモナルキ 過去ログより (再掲)
以下
『世界の名著45 ブルクハルト』
(中央公論社 1966年)
所収「イタリア・ルネサンス文化」より。
歴代の教皇とホーエンシュタウフェン家との戦いは、
ついにイタリアを、
他の西欧諸国とは
もっとも重要な諸点において
異なるような、
一つの政治状態の中に取り残した。
フランス、スペイン、イギリスにおいては、
封建制度は、
その寿命が切れたのち、
必然的に
君主制の統一国家の中に
倒れるような性質のものであり、
ドイツにおいては、
それはすくなくとも
帝国の統一
を
外面的に保持する助けになったが、
イタリアは
その制度から
ほとんど完全に抜け出していた。
14世紀の皇帝たちは、
もっとも有利な場合でも、
もはや最高権者としてではなく、
既存の勢力の
首長や補強者に
なるかもしれない者
として迎えられ、
尊重されていた。
しかし教皇権は、
もろもろの道具立てや支柱
を
そなえているため、
将来起ころうとする
どんな統一でも
妨げるだけの力は
もっていたが、
みずからの統一を作り出すことはできなかった。
その両者のあいだには、
数々の政治的な形物
―もろもろの都市と専制君主―
が、一部はすでに存在し、
一部は新たに勃興したが、
その存在は
純然たる事実に基づいていた。
(*)それらにおいて、
近代のヨーロッパ的国家精神は、
はじめて自由に、
それ自身の衝動にゆだねられたように見える。
(p.64)
(*)においてブルクハルトは、
「支配者と、それに付随するもの
を
いっしょにして、
lo statoと呼ぶ。
そしてこの名称はやがて不当にも、
一つの領土全体を意味することになる。」
と注釈を付けている。
以下、
篠原一
『ヨーロッパの政治―歴史政治学試論』
(東京大学出版会1986年)
より。
しかし政治史的にみた場合、
16世紀が
中世の構造に与えた
最大のイムパクトは、
国家形成=中央機構という現象であろう。
この国家はのち、
市民革命の発生とともに
生まれた
国民国家と同一のものではなく、
国王を中心とした
中央機構の成立を
意味するにすぎないが、
中世の世界と比較した場合、
ともかく
国としてのアイデンティティが
成立した点で大きな意味をもっている。
では、
一般的にいって
それはどのような構造を有していたであろうか。
(p.31)
まず第一に、
そこでは国王が恒常的に
自己に従属する
官僚集団をもつようになった。
官僚を採用するためには
国王は
それだけの収入をもっていなければならないが、
しかし
ひとたび官僚制を導入すれば、
国家機構が成立することによって、
国民から効率的に租税を徴収する
ことができるのみでなく、
さらに16世紀のフランスのように、
国債を発行するだけの力をもちうるようになった。
第二に、
常設の軍隊が創設され、
国家が武力を独占した。
当時の軍隊は主として傭兵からなり、
この物理的強制力は、
農村の叛乱に対する
対抗力としての
国家の効用
を
具現化するものであったが、
同時にそれは、
国家機構を維持するための
租税の徴収のためにも
欠くことのできない存在であった。
第三に、
このようにして成立した国家は、
自己の正当性を主張するために、
そのイデオロギーを創出した。
(p.32)
丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。
しかしながら
天皇制が
近代日本の思想的「機軸」として負った
役割は
単にいわゆる國體観念の教化
と
浸透という面に尽くされるのではない。
それは政治構造としても、
また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、
機構的側面を欠くことはできない。
そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。
(・・・)
むしろ問題は
どこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、
制度の具体的な作用のし方
と
どのように内面的に結びつき、
それが制度自体と制度にたいする
人々の考え方をどのように規定しているか、
という、
いわば日本国家の認識論的構造にある。
これに関し、
仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。
「國體」が融通無碍だという言い方をすると、
観念的なもののように聞こえるが、
そうではなく、その観念に対応するように、
「経済・交通・教育・文化」の
各領域における「制度」も徐々に形成されていった。
「國體」観念をはっきり教義化しないので、
制度との対応関係も
最初のうちは
はっきりと分かりにくかったけれど、
国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、
目に見える効果をあげるようになった。
ということだ。
後期のフーコー(1926-84)に、
「統治性」という概念がある。
統治のための機構や制度が、
人々に具体的行動を取るよう指示したり、
禁止したりするだけでなく、
そうした操作を通して、
人々の振舞い方、考え方を規定し、
それを当たり前のことにしていく作用を意味する。
人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、
今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。
(P.111~112ページより引用)
このように、
国家は、支配者とそれに付随するもの、
つまり国王と官僚制による
徴税のシステムとしてスタートした。
つまり、
国民は政府によって作られるのである。
大久保利通は、
天皇の勅命が天下万民ご尤もと思われてこそ勅命である、
という趣旨の言葉を述べたが、
小野修三先生は、
「大君のモナルキ」において次のように記す。
「大名同盟論」とは異なる「大君之モナルキ」が
どのような政治制度なのかは、
同書簡では説明されていないが、
同じ慶應2年に出版された
『西洋事情初篇巻之一』の備考の個所で
福沢は
「立君の政治に二様の区別あり」との説明を行っている。
すなわち、「立君独裁」と「立君定律」である。
後者は福沢も
「コンスティテューショナル・モナルキ」
とルビを振っているように、
今日言う立憲君主制のことであった。
それは
「国に二王なしと雖も
一定の国律ありて
君の権威を抑制する者」
であり、
「現今欧羅巴の諸国此制度
を
用ゆるもの多し」、と。
モナルキには立憲独裁の場合もあるわけだが、
独裁によって「文明開化」が進むとは考えられない以上、
福沢の言う「大君のモナルキ」とは、
当時の立君定律、
今日の立憲君主制のことだったと言えよう。
これは、
法治主義を前提とした政治制度であり、
封建契約の頂上に位置し、
「王命を以て国内に号令する」
大君であっても
憲法による拘束を受け、
その限りにおいて
人治主義
(大名同士カジリヤイ)
たる封建制度を打破するものであった。
立憲制においては、
地方行政が法に基づいて
運営されることが肝心である。
以下、一木喜徳郎・大森鐘一著『市町村制史稿』(明治40年)より。
地方村制は
当時帝国の状況において
行わるべき程度において
自治
(ゼルプストフェルワルツング)
と分権
(デツェントラリザチヲン)
の二原則を行わんとせるものにして
しかも
初めより
にわかに完備なる立法を望む
べからざるをもって
まずその端緒をなさんとするにあり
この二原則
を
実行せんとするには
その地方の共同団体なるものは
国家の分子にして
しかして自らを特別の組織を有し定限の職権を有し
一個人と同一の権利
すなわち法人たるの権を有し
且これが
理事者たる機関
を
存するものたらざるべからず
その機関は共同団体の組織
を
整理するところの法律に
依って生じ
その共同団体は
この機関によりて
国体自己の意思
を
発表し
且
施工し得るものなり
故に
財産を所有し
これを授受売買し
他人と契約して
権利を領得し義務を負担し
また
その区域内においては
主裁権を以て
自らこれを統括するものなり
要するに
共同団体なるものは
行政上便宜のために設けたる区画
にあらずして
国家と
雖も
これを侵し能わざる
ところの権力
を
有するものとす
然れども
一方より論するときは
共同団体は国家の隷属にして
その主裁権に服従し
国家を賛助して
その任務を
遂行せしめざるべからず
(p.34)
イギリスの政治
ヘンリー8世が
離婚したいがために
ローマ・カトリックから
独立して
エリザベス女王の時に
英国教会が
成立したのが
絶対王政の始まり、
なんて
世界史では
習うけど、
もちろん
ローマ・カトリックからすれば
グレート・ブリテン島が僻地ってのも
あるだろうけど、
ローマ・カトリックの権威から
自由になれたら、そら
王様は
好き放題やろうとするのは
当然だよね。
権力を抑制するものがないんだから。
そこで
トマス・ホッブズや
ジョン・ロックみたいに
社会契約説を確立させる
偉人が
生まれたのが
凄いことなんだけど、
血みどろの闘争の果てに、
最後は
議会制民主主義を
確立させたのが
イギリス人の偉いところ。
今から見れば
イギリスの議会制民主主義が
グローバル・スタンダードだと
みんな
知ってるけど、
当時のイギリス人だって、
かなり
暗中模索状態だったと
思うよ。
それでも成功したのは、
イギリス経験主義の
なせる業だと
思う。
一番
典型的な
絶対王政とみなされている
フランスにしても、
本当に
”絶対”だったのかというと、
実は
ヨーロッパ社会の中核を
担う
都市の権限を
ある程度
掌握していたという
程度で、
そんなに言うほど
”絶対的”な
権力を保持していたという
わけでも
なかったみたいだけどね。
それでも
革命が起きて
最終的に
共和制になった
わけだけど。
共和制ってのは
怖い政体で、
王様っていう
権威がないと、
それこそ
革命の時の
フランスみたいに
「理性」が絶対みたいになっちゃうし、
アジアで
人民共和国なんて言ったら、
結局
地獄のような
独裁制になるしね。
たとえ
象徴でしかない
としても、
王様みたいな
権威が存在しない
政体ってのは、
恐ろしく
不安定なものだ。
そう考えると、
天皇制があやうくなる、
というのは、
実は
日本にとって
メチャクチャ危険な
ことなのかも知れない。
皇室アルバムとか
見てる
母親みてると
そう思うわ。
あ〜やだやだ
エアコンが
壊れたので
付け替え工事
してるんだが、
てっきり
路駐してるのかと
思って、
意外と
時間が掛かってるから
管理人に
言っておかなきゃ
と
思って連絡したら、
急に
態度を硬化させて、
ボールペンをカチカチ
鳴らしながら、
私にそんなこと
言われても
捕まるものは
捕まりますよ!
って
まるで
教師か
頭の硬い
中間管理職
かのように
ブツブツ言い始めて、
業者の車が
どこにあるのか
確認し始めて、
ちゃんと
コインパーキングに
停めてあったから
ホッとしたけど、
ああいう
微塵も融通の効かない
人間ってのは、
嫌だね。
まあ
言ってることは
正論なんだろうけど、
言い方とか態度って
もんが
あるじゃん?
こっちは住人だぞ?
俺だって、
親切心で言いに行ったのに、
久々に
緊張したよ。
公務員っていうのは
ああいう
管理人みたいな奴を
強力にした
タイプなのかな?と
思うと、
毎日あんなのと
関わるのは
絶対にイヤだと
確信したね。
そら
神経病むわ。
以前、と言っても
ありとあらゆる手段を使って
慶応を卒業しようと
してた頃だから、
かなり昔のことだが、
どうにかして
ドイツ語の単位取ろうと
思って
公文式を
始めたんだが、
俺みたいなヤツが
公文式でドイツ語なんか
勉強できるはずもなく、
まったく
課題出さないで
いたら、
ケータイに
直電掛かってきて、
学習計画表だせとか、
こんなのは
幼稚園児でも
できるとか
さんざん言われまくって、
辞めたけど、
あいつも
超有名な
半導体会社を
定年退職した
慶応卒だったね。
ああいう
社内官僚みたいなヤツが
上司だったら
ほんとに
神経参っちゃうわ。
妄想卒論その13 痩せた現実とリアリズム (再掲)
読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485)
反・決定論 妄想卒論その4 (再掲)
私はここまで、決定論という見方は過去の確定性・決定性を全時間へと誤って適用してしまった一種の錯覚だ、と論じてきた。しかるに実は、この「過去の確定性」という出発点をなす捉え方自体、厳密には申し立て難いのである。「過去」という概念自体に関わる、超一級の哲学的困難が存在するからである。ほかでもない、「過去」は過ぎ去っており、いまはないので、本当に確定しているかどうか確かめようがなく、不確実であって、よって過去それ自体もまた偶然性によって浸潤されてゆくという、このことである。 「確率と曖昧性の哲学」p.114 一ノ瀬正樹 岩波書店 私は、そもそも「決定論」という概念それ自体、字義通りに受け取った場合、意味をなさないナンセンスな主張だと考えている。私が決定論を斥ける根拠ははっきりしている。決定論とは、平均的に言って、「すべては因果的に決定されている」とする考え方であると言ってよいであろう。しかるに、「すべては」という以上、未来に生じる事象も含めて丸ごと「決定されている」と言いたいはずである。しかし、生身の身体を持つ私たち人間が、一体どんな資格で、未来の事象すべてについて、そのありようを断言できるというのか。私には、そのように断言できると述べる人たちの心境が到底理解できない。こうした理解不能の断定を含意する限り、「決定論」を受け入れることは哲学的良心に反する、と私は思うのである。ここにはおそらく、過去の事象がすでに「確定/決定されてしまった」という過去理解(これは、おおむねは健全だと言える)から、すべてが「決定されている」という無時制的な主張へと、不注意かつ無自覚的にジャンプしてしまうという事態が潜んでいるのではなかろうか。 「確率と曖昧性の哲学」p.257~258 一ノ瀬正樹 岩波書店
妄想卒論その1・2 (再掲)
回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更生するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。
妄想卒論その8 「世界の共同主観的存在構造」 岩波文庫 (再掲)
われわれは、現に、時計の音を「カチカチ」と聞き、鶏の啼く声を「コケコッコー」と聞く。英語の知識をもたぬ者が、それを「チックタック」とか「コッカドゥドゥルドゥー」とか聞きとるということは殆んど不可能であろう。この一事を以ってしても判る通り、音の聞こえかたといった次元においてすら、所与をetwasとして意識する仕方が共同主観化されており、この共同主観化されたetwas以外の相で所与を意識するということは、殆んど、不可能なほどになっているのが実態である。(59ページ) しかるに、このetwasは、しばしば、”物象化”されて意識される。われわれ自身、先には、このものの”肉化”を云々することによって、物象化的意識に半ば迎合したのであったが、この「形式」を純粋に取出そうと試みるとき、かの「イデアール」な存在性格を呈し、”経験的認識”に対するプリオリテートを要求する。このため、当のetwasは「本質直感」といった特別な直感の対象として思念されたり、純粋な知性によって認識される形而上学的な実在として思念されたりすることになる。(67ページ) 第三に、この音は「カチカチ」と聞こえるが、チックタックetc.ならざるこの聞こえかたは、一定の文化的環境のなかで、他人たちとの言語的交通を経験することによって確立したものである。それゆえ、現在共存する他人というわけではないにせよ、ともあれ文化的環境、他人たちによってもこの音は規制される。(いま時計が人工の所産だという点は措くが、この他人たちは言語的交通という聯関で問題になるのであり、彼らの生理的過程や”意識”が介入する!)この限りでは、音は、文化的環境、他人たちにも”属する”と云う方が至当である。(70ページ) 一般には、同一の語彙で表される対象(ないし観念)群は、わけても”概念語”の場合、同一の性質をもつと思念されている。この一対一的な対応性は、しかも、単なる並行現象ではなく、同一の性質をもつ(原因)が故に同一の語彙で表現される(結果)という因果的な関係で考えられている。しかしながら、実際には、むしろそれと逆ではないであろうか?共同主観的に同一の語彙で呼ばれること(原因)から、同一の性質をもつ筈だという思念マイヌング(結果)が生じているのではないのか?(109ページ) 第二段は、共同主観的な価値意識、そしてそれの”物象化”ということが、一体いかにして成立するか?この問題の解明に懸る。因みに、貨幣のもつ価値(経済価値)は、人びとが共同主観的に一致してそれに価値を認めることにおいて存立するのだ、と言ってみたところで(これはわれわれの第一段落の議論に類するわけだが)、このことそれ自体がいかに真実であるにせよ、まだ何事をも説明したことにはならない。問題は、当の価値の内実を究明してみせることであり、また、何故如何にしてそのような共同主観的な一致が成立するかを説明してみせることである。この第二段の作業課題は、個々の価値形象について、歴史的・具体的に、実証的に試みる必要がある。(164~165ページ) (以下熊野純彦氏による解説より) 『資本論』のマルクスは、「抽象的人間労働」などというものがこの地上のどこにも存在しないことを知っている。存在しないものがゼリーのように「凝結」して価値を形成するはずがないことも知っていた。要するに『資本論』のマルクスはもはや疎外論者ではすこしもないのだ、と廣松はみる。 労働生産物は交換の内部においてはじめて価値となる。とすれば、交換という社会的関係そのものにこそ商品のフェティシズムの秘密があることになるだろう。関係が、謎の背後にある。つまり、関係がものとしてあらわれてしまうところに謎を解くカギがある。商品の「価値性格」がただ「他の商品にたいする固有の関係をつうじて」あらわれることに注目しなければならない。商品として交換されることそれ自体によって、「労働の社会的性格」が「労働生産物そのものの対象的性格」としてあらわれ、つまりは「社会的な関係」、ひととひとのあいだの関係が「物と物との関係」としてあらわれる(『資本論』第1巻)。ものは<他者との関係>において、したがって人間と人間との関係にあって価値をもち、商品となる。(533~534ページ)
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答より (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
ベンヤミンと貧困 (再掲)
ベンヤミンは、「手」にもとづく認識の成果としての技術の巨大な発展が全く新しい貧困状態をもたらしたと指摘している。 「技術の巨大な発展とともに、まったく新しい貧困が人類に襲いかかってきたのである。」(「貧困と経験」『著作集』第1巻) 技術は不断の発明・発見によって次々に新しいものを作り出しては古いものを破壊していく「創造的破壊」(creative destruction)(シュムペーター『資本主義・社会主義・民主主義』)をもたらす。 機械は急速に進化していき、不断に「倫理的摩滅」にさらされている。(『資本論』第1巻、P.528参照)それとともに人間の生活を支えている周囲の事物はことごとく変化してしまうならば、人間はもはや自らの過去の経験を頼りにすることができず、つねに最初から新たにやり直すしかなくなってしまう。 「まだ鉄道馬車で学校へかよったことのあるひとつの世代が、いま、青空に浮かぶ雲のほかは何もかも変貌してしまった風景のなかに立っていた。破壊的な力と力がぶつかりあい、爆発をつづけているただなかに、ちっぽけなよわよわしい人間が立っていた。・・・これはそのまま、一種の新しい野蛮状態を意味する。野蛮?そのとおりである。・・・経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかはない。あらたにはじめるのである。」(「経験と貧困」)これは、1933年の「経験」状況である。 ベンヤミンは、人生における経験がゆっくりと時間をかけてつくられていくような「完成する時間」に対して、「永劫回帰」する時間を対置する。「・・・完成する時間・・・は、着手したものを完成することを許されないひとびとが住む地獄の時間と対をなしている。」(「ボードレールのいくつかのモチーフについて」『著作集』第6巻)
詐欺と贈与の社会学 (再掲)
詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)
2023年6月22日木曜日
手に入らなくなる前に②
さっきの
本よりかは
だいぶ
易しいけど、
大学受験レベル
としては、
これ
一冊でも
だいたい
どこの大学も
大丈夫っていう
レベル。
英語を学問として
勉強するってことが、
大事。
こんなこと言うと
バカにされるだろうが、
学問として英語を
勉強するということは、
その後の
高等教育の過程で
学問的に
物事を考えることに
役立つ。
単に
英語を使えれば
それでいい、では
もったいない。
よくわからんが
台湾の
TSMCっていう
世界最大規模の
半導体企業が
熊本に
工場を
作るってんで、
大喜びしてる
らしいが、
今まで
日本が
他の
国に
やってたことの
逆を
やられてるだけじゃん。
時代が変わったな。
戦後ヨーロッパの政治と社会2@茨城大学
たしか
先生が
チョロっと
こんなことを
言っていた。
旧社会主義国
も、
すぐに経済が
立ち行かなくなったわけじゃなくて、
60年代くらいまでは
結構
順調に行っていたので、
西側諸国でも、
自分たち
資本主義社会が
本当に正しいのか
疑問視する
傾向が生まれ、
それが
60年代の
過激な
公民権運動や
反戦運動や
学生運動に
繋がった、みたいなこと。
確かに、そう言われると
合点がいく。
日本でも
60年
安保闘争とか
あったしね。
今じゃ
信じられないけど。
あと、
日本の大学生が
勉強しなくなって
国際競争力が
低下したってのも、
ウソではないが、
旧ソ連が崩壊して
東欧の
優秀な若者が
安い賃金で
働くようになったから
ってのも
あるらしい。
危機の二十年 岩波文庫 (再掲)
「ホッブハウスは、『最も原始的な種族』の特徴として、『ある見解が正しいということを証明することと、その見解通りの状態になって欲しいと期待することとがいまだ区別できないこと』を挙げている。」 E.H.カー「危機の二十年」(岩波文庫)より
妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」を合言葉に米国で反格差のデモが広がったのは2011年。怒りが新興国に伝播し、米国では富の集中がさらに進んだ。
米国の所得10%の人々が得た所得は21年に全体の46%に達した。40年で11ポイント高まり、並んだのが1920年前後。そのころ吹き荒れた革命運動の恐怖は今も資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う究極の反格差運動ともいえる共産主義。17年のロシア革命の2年後に国際的な労働者組織である第3インターナショナルが誕生し、反資本主義の機運が世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは当時のロシアにも急速な経済成長をもたらした。しかし人口の大半を占める農民や労働者に恩恵はとどかず、格差のひずみが生じる。
さらに日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。内戦を経て22年にソ連が建国されると、富の集中度は20%強まで下がった。
1921年には「半封建、半植民地」脱却を掲げる中国共産党が発足。スペインやフランス、日本でも20年代に共産党が結党した。
そして現代。怒りの受け皿になっているのがポピュリズムだ。21世紀の世界も分断をあおるポピュリズムに脅かされている。米国のトランプ前大統領やハンガリーのオルバン首相は国際協調に背を向ける姿勢で世論の支持を集める。
なぜ人々は刹那的な主張と政策になびくのか。世界価値観調査で「他者(周囲)を信頼できるか」の問いに北欧諸国は6〜7割がイエスと答えた。北欧より富が偏る米国や日本でイエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より) 私たちはしばしば、合理的判断によってではなく、直観や好き嫌いによって信・不信を決める。だが、信用とは本来そうしたものではないのか。客観的ないし合理的な裏づけをこえて存在しうるところに、信用の信用たるゆえんがある。そして信用がそのようなものであるかぎり、信用には常にリスクがともなう。信じるからこそ裏切られ、信じるからこそ欺かれる。それゆえ、裏切りや詐欺の存在は、ある意味で、私たちが人を信じる能力をもっていることの証明である。 (略) しかしむろん、欺かれ裏切られる側からいえば、信用にともなうリスクはできるだけ少ないほうが望ましい。とくに、資本主義が発達して、血縁や地縁のきずなに結ばれた共同体がくずれ、広い世界で見知らぬ人びとと接触し関係をとり結ぶ機会が増えてくると、リスクはますます大きくなるので、リスク軽減の必要性が高まる。そこで、一方では〈契約〉というものが発達し、他方では信用の〈合理化〉が進む。 (略) リスク軽減のもうひとつの方向は、信用の〈合理化〉としてあらわれる。信用の合理化とは、直観とか好悪の感情といった主観的・非合理的なものに頼らず、より客観的・合理的な基準で信用を測ろうとする傾向のことである。こうして、財産や社会的地位という基準が重視されるようになる。つまり、個人的基準から社会的基準へと重点が移動するのである。信用は、個人の人格にかかわるものというより、その人の所有物や社会的属性にかかわるものとなり、そのかぎりにおいて合理化され客観化される。 (略) しかし、資本主義の高度化にともなって信用経済が発展し、〈キャッシュレス時代〉などというキャッチフレーズが普及する世の中になってくると、とくに経済生活の領域で、信用を合理的・客観的に計測する必要性はますます高まってくる。その結果、信用の〈合理化〉はさらに進み、さまざまの指標を組み合わせて信用を量的に算定する方式が発達する。と同時に、そのようにして算定された〈信用〉こそが、まさしくその人の信用にほかならないのだという一種の逆転がおこる。 p.90~93
「エリートに対する人々の違和感の広がり、 すなわちエリートと大衆の『断絶』こそが、 ポピュリズム政党の出現とその躍進を可能とする。 ポピュリズム政党は、既成政治を既得権にまみれた一部の人々の占有物として描き、 これに『特権』と無縁の市民を対置し、 その声を代表する存在として自らを提示するからである。」 (「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降進んできた、産業構造の転換と経済のグローバル化は、 一方では多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの発展を促し、 グローバル都市に大企業や高所得者が集中する結果をもたらした。 他方で経済のサービス化、ソフト化は、規制緩和政策とあいまって 『柔軟な労働力』としてのパートタイム労働や派遣労働などの 不安定雇用を増大させており、低成長時代における 長期失業者の出現とあわせ、 『新しい下層階級』(野田昇吾)を生み出している。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど他者への信頼が下がり、「フェアネス(公正さ)指数」(日経新聞作成)が低くなる。同時にポピュリズムの場当たり政策に翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集うグローバル・エリートの対極に位置し、 主要政党や労組から『置き去り』にされた人々と、 アメリカの東海岸や西海岸の都市部に本拠を置く 政治経済エリートや有力メディアから、 突き放された人々。 労働党や民主党といった、 労働者保護を重視するはずの政党が グローバル化やヨーロッパ統合の 推進者と化し、 既成政党への失望が広がるなかで、 既存の政治を正面から批判し、 自国優先を打ち出して EUやTPP,NAFTAなど 国際的な枠組みを否定する急進的な主張が、 強く支持されたといえる。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満をあおるだけで解を示せないのがポピュリズム。不満のはけ口を外に求めた愚かさはナチスドイツの例を振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。(放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、経済的に恵まれない層は、ワーキングプアとも言われる状況のなかで、自らのアイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を参考にして考えれば、旧来の中間層が、自分たちより下に見ていた貧困層と同じ境遇に置かれるのは屈辱であるし、生活も苦しくなってくると、ドイツの場合は、プロテスタンティズムのマゾ的心性が、ナチズムのサディスティックなプロパガンダとの親和性により、まるでサド=マゾ関係を結んだ結果、強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が日本人の間には存在することは、ほぼ共通認識だが、それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、そうでなければ、社会から強要される画一性への服従となって、負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが後期資本主義における物象化という側面を持っているとすれば、グローバリゼーションによる均質化、画一化が進行するにつれ、反動として民族の本来性といった民族主義的、右翼的、排外主義的な傾向が現れるのは、日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、アドルノの言明を素直に読めば、資本主義が高度に発展して、物象化が進み、疎外が深刻になるほど、本来性というものを追求するのは不可避の傾向だ、とさえ言える。 さらには、資本主義社会が浸透し、人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、人々は、自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、理性を超えた領域に求めるようになる。 社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」という言葉が何を表しているか、自分の考えでは、「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、(疑似)宗教のように、この世の全体を精神的な色彩で説明し、現実生活では一個の歯車でしかない自分が、それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、救いを感じるようになる、という感覚だろうか。
「デモクラシーという品のよいパーティに出現した、 ポピュリズムという泥酔客。 パーティ客の多くは、この泥酔客を歓迎しないだろう。 ましてや手を取って、ディナーへと導こうとはしないだろう。 しかしポピュリズムの出現を通じて、 現代のデモクラシーというパーティは、 その抱える本質的な矛盾をあらわにしたとはいえないだろうか。 そして困ったような表情を浮かべつつも、 内心では泥酔客の重大な指摘に 密かにうなづいている客は、 実は多いのではないか。」(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
ありそうな話
外国人労働者が
増えて
(外国人の)
犯罪が増えた、
という
風潮が
チラホラ
見えてきたが、
日本人の数が減って
外国人の数が
(たぶん)
増えてるんだから
当たり前じゃねーか。
(年齢層別の増減は
関係あるかも知れないが。)
日本人だったら
犯罪冒さない
とでも言うのか?
つかえねー馬鹿のくせに
プライドだけ高い
日本人より、
まともな
感覚持ってて
真面目に
働いてくれる
外国人のほうが
雇う側だって
うれしいに
決まってるだろ。
それに、
ただでさえ
下の世代ほど
社会保障のツケ
回されてるのに、
このまま
人口減り続けたら、
社会保障どころか、
日本そのものが
崩壊するだろ。
もう、
外国人
特に
若年労働層
に来てもらわないと、
国そのものが
成り立たないんだよ。
一番ウゼえのは、
こういう
ゼノフォビアを利用して
政治家に
なろうとする奴ね。
ダニみたいな連中。
手に入らなくなる前に①
浪人中に
これを
やったはずなんだが、
全く
覚えてない。
自分は
翻訳家には
到底なれないが、
今の
ご時世には
これだけ内容の濃い
英語の
学習参考書は
ほとんど
存在しないだろう。
なにしろ、桐原書店
とかでも
平気で
文法的に
間違ってたりするしね。
文法的に
正しくて
しかも
文章に力がある
内容を
探すとなると、
自然と
過去の名著に
行き着く。
これを
ネタ本にして
英語芸
できそうな
気がする。
・・・今さら
こんな古臭い
文章の英語
勉強して
どうすんだ?
と
我ながら思ったが、
やっぱり
引き込まれる
くらいの
力が
文章に宿ってるんだよね。
それを
浪人生だった
20年前から
振り返って
眼前にすると、
その価値を
ありありと
再認識する。
やはり
名著は名著だ。
フットサル仲間の
高校生に教えるために
いま
売られてる参考書とか
使ったり、
あるいは
熊谷の塾で
難関大学を目指す
進学校の生徒を
教えたりしたけど、
やっぱり
教材としての
モノが違う。
いくら
少子化って
いっても
自分は
雇われ仕事はイヤだし、
これで
英語芸やって
生活できるなら
サイコーだ。
・・・旺文社の
英単語ターゲット1900も
買ったけど、
まー
しょぼいね。
こんな単語帳
使って
英語
勉強させられたら、
誰だって
英語
嫌いになるわ。
良心を感じない。
これだったら
TOEIC本で
そんなに
高くないレベルの
単語集やったほうが
圧倒的に
頭に入るし、
安いし、
しかも
正確な意味がわかる。
受験産業は
怠慢だよ。
メンタルのスイッチ
メンタルのスイッチを
オンにするのって、
案外簡単なんだよね。
俺も
高校受験で
1年間
スイッチをオンに
しっぱなしで、
そのまま
高校生活に突入したから
うつ状態になったことあるけど。
スイッチをオンにするよりも、
スイッチを切るほうが
よっぽど
難しい。
自分の
メンタルのスイッチの
切り方を
知ってることも、大事。
2023年6月20日火曜日
ふふ。ヤッタネ!
母親が
脳トレ本
解いて
くれてるわ。
もともと
真面目で
努力家だからね。
観察してる
甲斐があるわ。
・・・俺に
義理立てして
やってるとかじゃなくて、
結構
ハマってるね。
さすが
都立
日比谷。
・・・素晴らしい。
母親の表情も
知的な
雰囲気が
漂ってきたね。
いい感じだ。
あとは
体力をつけて
もらえば。
2年前の誕生日に
アメリカ製のしっかりした
ステッパーを
プレゼントしたので、
それを
使ってくれるように
なれば、
しめたもの。
頼介伝 苦楽堂 松原隆一郎
来週の
面接授業までに
読んでおいて
欲しい、と
シラバスに書いてあった
ので、
読み始めた。
ご自身の
祖父の足跡を辿る、
という話なので、
てっきり
学歴が立派なかたの
自慢話かと
思ったら、
副題にある通り、
「無名の起業家が生きた
もうひとつの
日本近現代史」だった。
あまり
ご本人の
学歴がいかめしいと、
逆に
先入観持たれるから
大変だ。
内容も
日本近現代史が好きな
自分にとっては
非常に興をそそられる内容。
さすが
教育者。
来週までに
読まなければ。
とりあえず
一晩で
自分が興味ある
時代くらいまでは読んだ。
だいたい
支那事変あたりまで。
それ以降は
あんまり興味ない。
しかし、
著者の祖父の足跡を
辿りながらも、
日本近現代史として
うまく
まとまっているのには
敬服する。
・・・単なる
日本経済史としてでなく、
そこに
生きた
人間が
描かれていて、
非常に
面白い。
・・・自分が
目指してたものって、
こういうこと
なんじゃないか、と
思えてくる。
その
お手本を
見せてもらった。
面接授業が楽しみだ。
・・・本読むにしても、
勉強するにしても、
一区切りつく、あるいは
自分の中で
腑に落ちるまでは、
自分でも
自分のスイッチを
切れなくて、
ついつい
寝不足になってしまう、というのが
昔からの
習い性になってしまっている。
2023年6月19日月曜日
外国人労働者受け入れ問題
もう、国は
外国人労働者を
もっと
受け入れる
方針で進んでる。
将来人口推計を
見れば
わかる、と
大機小機
(日経新聞コラム)
に書いてあった。
しかし、
外国人技能実習生に対する
非人道的処遇は
言うまでもなく、
今まで
他の
アジア諸国に対して
真摯に
戦争中の旧日本軍の
戦争犯罪に
対して、
明確な
謝罪・反省の
態度を
示してこなかった
ツケを
日本人は
いつか
手痛いしっぺ返しとして
喰らうだろう。
今までは
アメリカが、
日本ではなく
自国の利益のために
彼らを
黙らせていた。
そのタガが
外れたとき、
どんな
事態になるのか。
ノーテンキな日本人は
後ろから突然
ぶん殴られる
ぐらいの
衝撃を受けるだろう。
俺が
テレビを見ないというのは、
ノイズが
無駄に
多いのみならず、
NHK含めて、
こういうことを
(特集は別として)
普段から
積極的に
報道しようという
姿勢が
全く見られないからだ。
もちろん、こんな
センシティブな内容を
日常的に報道すれば、
反日左翼だの言われ、
政治からの
圧力もあるだろう。
しかし、だからこそ
そこを
報道するのが
公共放送の存在意義なのではないか?
なぜ
視聴者の人気取り、
政治家の
ご機嫌取りを
し続けるのか?
それはもう
組織的
怠慢としか
いいようがない。
アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)
自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
2023年6月18日日曜日
茨城大学巡業終了
アリストテレスの倫理学@茨城大学。他の授業との兼ね合いもあり、3週連続茨城大学。貴重なお話しが聞けました。渡邉邦夫先生の授業は、これで3度目。古代ギリシャの道徳哲学を一通り勉強出来ました。こういう勉強のやり方は日本じゃ放送大学でしか出来ないだろうな。同じく今期、茨城大学で受けた
戦後ヨーロッパの政治と社会2
の先生によれば、EU域内は国を跨いで単位取れるらしいから、それも贅沢な話だけど、自分が慶応入った2002年頃は、東アジア共同体なんていう、今となっては忘れ去られた概念もあったね。暗黙のうちに盟主は日本だ、みたいなノリだった。ま、これも塞翁が馬だね。慶応で順当に単位取ってたら、間違っても放送大学に入るっていう選択肢はなかった。
東横イン
普通の部屋に
プラスして、
ハイエンドな
クラスの
部屋を
設定し始めた
みたいね。
ハイエンドな部屋を
設定することで、
普通の
部屋を
お手頃に感じさせる
手法ですな。
値段も
そんなに変わらないけど。
「ビジネスと経済学@茨城大学」で
オイスターバーの
手法を
聞いた。
オイスターバーを繁盛させる
ために、
数量限定の
高価格の商品を
設定することで、
普通の
商品を
安く感じさせる。
あの授業は
思い返すと
色々
面白い話が
聞けた。
茨城大学すげえよ。
2023年6月17日土曜日
あんま思い出したくないけど
姉が、
妙なところで
ケチるくせに
金遣い粗い
と
思うのは、
枚挙に暇がないけど、
例えば、
使いこなせもしないのに
ル・クルーゼの鍋
とか
買うくせに
オサレに
お米炊いて、
焦がして
まっ黒焦げにして
ダメにするところ。
そんなこと
ばっかり
やってる。
姉に
下手に
母親の
認知機能が
どうとか
仄めかしたら、
大騒ぎして
エラいことに
なるだけだから、
とりあえず
認知症予防のドリル
だけ
買って
様子を見る。
あいつは
いくらカネが
あっても
足りない。
下手にカネがあると
破滅するだけ。
母親観察
やっぱ
毎日いっしょに
いるからこそ、
感じる変化って
あると
思うんですよ。
あれ?
ちょっと
物忘れしてない?
とか。
買い物の
量
間違えてない?
とか。
アマゾンで
認知症予防の
本
買いましたけど。
週明けに
届くので
楽しみです。
2023年6月16日金曜日
遊びの社会学
たしかに、
年齢重ねると
好き・嫌いで
物事を
判断するように
なってくる
気がする。
結局それで
決めたほうが
楽だし、
案外
それで
痛い目にあわない。
若い頃から
好き・嫌いで
即断しちゃダメだと
思うけど。
若い頃は
考えに考えを
重ねる
経験を
積み重ねて、
年齢を重ねたら
最後は
勘で決める、というのも
あながち
不合理ではない。
夢の途中
スーツケース
いっぱいにつめこんだ
希望という名の
重い
荷物を
君は
軽々と
きっと持ち上げて
笑顔見せるだろう
愛した
男たちを
かがやきに替えて
いつの日にか
僕のことを
思い出すがいい
ただ
心の
片隅にでも
小さくメモして
頑張らない宣言
下手に
頑張ろうとするから
疲れる。
俺はもう
頑張らない。
頑張れない。
放送大学だけは
裏切らない。
あとは
何もかも
アテにならない。
・・・俺は
欲張りだったんだ。
何もかもを
欲しがっていた。
ちょっと
肩の荷をおろして
辺りを見回せば、
素敵な財産が
いっぱいあるじゃないか。
https://www.youtube.com/watch?v=_tM5oB2y4-4
https://www.youtube.com/watch?v=EhUb3YleZDM
2023年6月15日木曜日
年金支給日
この国滅びるな。
こんなに手厚くされちゃ
敢えて
働いてまで
障害者やめる
気が失せる。
心は
潤うけどね。
確かに。
きっと
解散総選挙も近い。
政府与党が
こんな
大盤振る舞いじゃ、
野党も
それに負けじと
バラマキの
大合唱だろうな。
・・・岸田さん
今国会での
衆議院解散を否定したね。
今国会が
いつまでとか
全然知らんけど、
まあ
年金支給額増やしたから
チャンスとみて
解散、みたいなんじゃなくて、
好感もてるね。
ちょっと頑張りすぎたな
先週末は
土・日で
別の授業だったし、
だんだん
トシとともに
体力も
衰えてきてるし、
脳も身体も
ちょっと
無理してたな。
その反動が来たか?
面接授業は
心の栄養だけど。
2023年6月14日水曜日
疲れた・・・
俺は
何に
救いを
見出したら
いいんだろう?
神か?
まあ、
人間よりかは
信用できるかもな。
俺は
スーパーナチュラルを
信じる
タチじゃないが。
人間は
信用できない。
もっとさ、
褒めてくれよ。
北の将軍様じゃねーけどさ、
よく
頑張ったね、て
ゆーてくれよ。
https://www.youtube.com/watch?v=WM8bTdBs-cw
アメリカのデモクラシー (再掲)
「私の目に浮かぶのは、
数え切れないほど
多くの
似通って
平等な人々が
矮小で
俗っぽい快楽
を
胸いっぱいに思い描き、
これを得ようと
休みなく動きまわる
光景である。
誰もが
自分にひきこもり、
他のすべての人々の
運命に
ほとんど関わりをもたない。
彼にとっては
子供たちと
特別の友人だけが
人類のすべてである。
残りの同胞市民はというと、
彼はたしかにその側にいるが、
彼らを見ることはない。
人々と接触しても、
その存在を感じない。
自分自身の中だけ、
自分のためにのみ存在し、
家族はまだあるとしても、
祖国は
もはやない
と
いってよい。」
(「アメリカのデモクラシー」 アレクシス・ド・トクヴィル 岩波文庫 第二巻 下 2596ページ)
なんかの天罰か?
俺、
前前前世で
なんか
悪いことでも
したのかな?
なんで
あんなヤツが
きょうだい
なんだろう?
クソ野郎が!!!!!
思い出すだけで
テンション急降下!
これもう
働くとか
そういう次元じゃねーよ。
そら
精神障害者にもなるわ。
道徳哲学もへったくれも
ねえ!
・・・て、いつもの
テンションに
逆戻りしただけ。
これでも
母親に感謝されてるんだから、
それで
勘弁してくれ。
これが俺の
日常生活。
・・・錯乱して
警察に捕まって
病院送りにされてから
19年。
必死で頑張った結果が
これか。
もうちょっとさ、
人の苦労とか
わかれよ。
いい加減。
ガキじゃあるまいし。
テメーしか見えてねえ。
水うめー
台風が来たり
梅雨だったりして、
空もどんよりして
決して
気分のいい
季節ではないですが、
雨がたくさん
降るので、
水道水が普通に
美味いですね。
もちろん
簡単な
浄水器はつけてますけど。
それにしても、
5月までとは
全然違いますよ。
やたら水分を摂取するのが
習慣になっている
身としては、
助かる。
そうでないと
コンビニとかで買う
お茶とかの量が
とんでもないことになる。
それにしても、
梅雨の時期って
昔は
もっと
肌寒いものだった
気がしますけど、
もう
そういうもんじゃないんですね。
カタツムリも
見なくなりました。
大機小機 2023/6/13
かつて日本は
生産用機械など
資本財の
輸出大国だった。
しかし、最近のデータを
みると、
資本財の輸入が
急増している。
もう一つは、
国際収支で
「その他サービス収支」
の赤字が
急増している。
これには
知的財産権の使用料や、
情報サービス、経営コンサルティング
などが
含まれており、
最先端のサービスでも
輸入依存が
強まっている。
とのこと。
経済のプロってのは
こういうところを
見るのか。
わかったつもりでいたけど、
経済ってのは
奥が深いなー
スローラーナー
やっぱり
自分は
夜型人間だなー。
日付が変わる頃になると
活発になる。
暇だから
放送大学の
民法の
授業を
再び聴いています。
慶応大学の
武川幸嗣先生の
講義。
2回目だけど、
新しい発見があって、
民法が
ようやく理解できた
ような
気になります。
中大通教入ってから
10年以上経つけど、
まったく
わからなかった
民法が、ようやく
掴めてきた。
君子危うきに近寄らずの
精神でいれば、
法律なんかの
世話にならずに
いられるもんだ、と
思ってたけど、
そういうもんじゃないね。
あるいは、
旧民主党が
マニフェストを掲げて
政権を獲ったときに
マニフェストは国民との
約束だ、等々言ってて、
それにも
違和感を感じていたので、
余計に
民法というものに
違和感を抱いてたんだけど、
この
講義を聴いていると、
こんがらがった糸が
解けるように
得心がいきます。
夏休みに
繰り返し聴くことにしよう。
ようやく
いつもの平常通りの
生活リズムに
戻ってきた。
・・・自分にとって
最大の難関だった
民法が
攻略できれば、
なんか法律資格
取れるかも、と
邪念が湧くんだけど、
それを
抜きにしても
聴いていて
面白い。
2023年6月13日火曜日
ぶっちゃけて言えば
この間
気分が抑うつ状態になったのは
明治エッセルスーパーカップ。
今日
気分が抑うつ状態になったのは
ロッテCoolish。
これから
需要が増える時期だけど、
安易に
手を出さないほうが良い。
安いアイスクリームにはご用心
この間とは
別のメーカーの
アイスクリーム食べたけど、
やっぱり
ちょっと
気分が
抑うつ状態になる
気がする。
この間のメーカー
よりかは
マシだけど。
やっぱ
安いもんには
ウラがあると
思ったほうが
いいのかな?
もう強いて
アイス食べたいなら、
それ相応の
値段のものを
買うしかない
のではないか。
下手に
安さと旨さだけで
買うと、
QOLが
かえって下がる。
その毒性にやられている
間
ウツウツとしているくらいなら、
高いアイス買ったほうが
よっぽどマシ。
Googleバードに聞いたら
こんなコメント(一部)が
返ってきた。
添加物が気分に影響を与えるかどうかについては、まだ研究が進んでいません。しかし、添加物の中に気分を落ち込ませたり、抑うつ状態にさせたりするものがあることはわかっています。例えば、トランス脂肪酸や人工甘味料は、気分に悪影響を及ぼす可能性があります。
時事通信
ふふ。
平沼翔太の良さが
認識されてきたな。
https://news.yahoo.co.jp/articles/5a37af7dc81ecf20f5c165210f00743be50b28a7
応用ミクロ経済学 (再掲)
小山台高校の生徒が、シンドラー社製のエレベーターに挟まれて死亡した事件があったけど、あれは、マンションの管理組合がメンテナンス代をケチって、他の業者に委託したのが発端らしい。 あんまり詳しく書くと、面倒なことになりそうだから、これくらいにしとくけど、シンドラー社製のエレベーターに欠陥があったというより、エレベーター本体の価格は低く抑えて、メンテナンス代で儲ける仕組みが災いしたのかも。 本体価格を低く抑えて、付属品などで儲ける商品の典型が、プリンター。 プリンター本体の価格は低く抑えて、インク代で儲けてる。 しかし、ここにもシンドラー社製エレベーターと同じ構造があって、高いインク代に目をつけて、第三者企業が代替インクを低価格で販売し始めて、それに対してプリンター会社が対抗策を講じたりとか。
フィリップス ソニッケアー
本体を無料で
新品と交換してくれたけど、
最初
不具合が
先っちょの
ノズルが
詰まってるせいだと
思って
アマゾンで買ったら、
結構
お高かったね。
これって、プリンターの
インク代が
やたら高いのと
同じ
ビジネスモデルで、
先っちょのノズルで
儲ける
ビジネスモデルなのかな?
サンキュ。
数日前
年金に関する
ハガキが届いて、
書いてある意味が
よくわからんかったが、
つまり
年金生活者への
支給額を増やすって
ことらしい。
まーなー、
嬉しいには違いないけど、
マクロ経済スライドが適用されたのか、
単なる
年金生活者への
ご機嫌取りなのかは知らんが。
衆院選の可能性も
耳にするし。
現実に、物価高で
困ってる
年金生活者が
たくさんいるのは事実だろうしね。
ってゆーか、
この国って、
〇〇者っていう
国の政策上の
カテゴリーに入っちゃえば、
なんだかんだ
獲るものがある、つまり
メリットを
享受できちゃう
社会なんだよね。
(飽くまでも、
〇〇者として
可視化された存在ならば、
の話だけど。
社会から無視《=非可視化》された存在の
運命は
悲惨だ。)
たとえその行き着く先が
地獄だろうとね。
俺としても、
こんだけ色々サービスされると、
敢えて
いま障害者雇用に挑戦して
健常者と同じ土俵で
働けるかって言うと、
万全の自信が
あるわけでもないし。
相変わらず神経細かいし。
正直
いまのままで
いっか?!
って
気になっちゃうよね。
モラルハザードだけど。
違和感
もうすでに
そうなってから
時間が少し
経っているが、
タレントMC、
っていうか
ホラン千秋が
ストレートニュース読み始めてるんだが、
局アナでない
人間が
ストレートニュース読んじゃっていいのかな?
ストレートニュースって、
そもそも
放送局の存在意義の根幹なんじゃないの?
報道ってものをナメてない?
ここらへんがTBSの
意識を疑わざるを得ない。
ストレートニュースを
読むってことは、
ある程度は
その局を代表してるって
ことだと思うのよ。
タレントMCに
それをやらせて
いい訳?
頭もいいし
滑舌もいいから
ストレートニュース読ませる
っていう
発想にたまらない違和感を
覚える。
ストレートニュースってさ、
現場の記者が
泥水すすって
情報集めて、
制作サイドが
編集して
作り上げてるもんだと
思うのよ。
それをさ、
世間に公開するときに
アナウンサーでもない
人間が
ただ間違えないで
読めば良いってもんなの?
ストレートニュースって
そんなに
軽いもんなの?
一回現場の厳しさ
見てから
読めよ、って
言いたいわ。
そうじゃなかったら
ただの人工知能と何も変わらない。
自分が読んでる原稿の裏に、
どれだけの人の
努力があるか
感じてるか?
なんかあった時に
指弾されるのは
現場の記者なんだよ。
そんとき、お前は
私は
ただ原稿読んだだけです、
で
済まされんのか?
(゚∀゚)
ひとつ
言えるのは、
以前だったら
市役所の障害者雇用なんて、
真面目に
考えただけで
悪夢見ちゃうか
メンタルが
しんどくなっちゃってたけど、
いまは
色々考えはするけど、
そういうことはないし、
現実的に
選択肢として
考えられるように
なった。
・・・うーん
やっぱ
母親ほっとくと、
ボケるし
体力も衰えるな。
2023年6月12日月曜日
帰宅
勉強もほぼやり尽くしたし、
気力・体力も
ついて来たから、
市役所の障害者雇用とかなら
俺の
人生まだ
どうにかなるんじゃないか?!
と
思ったりしたけど、
母親の様子を見ると、
ちょっと
ボーッとしてたし、たぶん
寝てばっかりだったし、
こりゃあ
ほっとくと
どんどん衰えるな、とは
感じた。
とにかく、自分の
肉体的・精神的な
体力が回復してきたのは
良いことだ。
今日が
新聞休刊日で
助かった。
新聞を消化しないと
他のことに
手が回らない。
レポート予備
自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえば どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76)
しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか?
そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。
人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。
ならば、
逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか?
他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
2023年6月11日日曜日
宿命
「アドルノ」岩波現代文庫の巻頭だったと思うが、「己自身を理解していない思想だけが、本物である。」て書いてあるんだよね。キザな言葉だと思うんだけど、いま痛感するのは、これは勉強にハマった人間の宿命のような気がする。それを俺が代弁するのは不遜なんだけど、俺こんなに勉強したぜ♪とか、自分の学識に酔っている、というのは一種のナルシシズムで、自分で自分の姿を見ている、ということになる。これが、精神病持ちの俺には堪えられないほどの苦痛。自分で自分を見ている、ということ自体が、苦痛。生きてる以上は、振り向かずに歩き続ける以外の選択肢は存在しない。これが俺の宿命なのかも知れない。あー、でも理性ってそういうもんなんかな。アドルノの思想からすればそうなるよね。理性に目覚めちゃったら、原始のまどろみにはもう戻れない。ファウストで、メフィストフェレスですら近寄れない領域があって、記憶では「母たちの国」とか書いてあるんだよね。少なくともドイツ語圏の理性の捉え方ってのは、そういうもんなんなのかも知れない。
アリストテレスの倫理学@茨城大学
昨日と今日で、全く違う内容なので、昨日のことが遠い過去のように感じられて、脳ミソがついていけるのか不安だったが、今日の先生も既に定年退職された大ベテランで、この先生の授業を受けるのも、もう3回目なので、疲れはしたけど、充実感あります。古代ギリシャの道徳哲学がどんなもんかは大体わかった、はず。先生の教え方が上手ってのもあるんだろうけど、現代の日本人には古代ギリシャの道徳哲学なんか関係ないかっていうと、全然そんなことないと思うけどね。普通に日本の学校で道徳として教えても、通用すると思う。
2023年6月10日土曜日
また一つ成功体験
障害年金もらってるレベルの精神障害者が、寝不足なのに朝から夕方まで授業受けて、レポートまで書くって、ちょっと奇跡だよね。我ながらびっくりするわ。ドイツのエネルギー環境政策がご専門の方なんだけど、物腰が柔らかくて優しい方だった。ドイツの専門家って、厳めしくて、高圧的な人多いんだけどね。茨城大学の先生は基本物腰が柔らかい。親しみ易い。
2023年6月8日木曜日
権力と知 「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 (再掲)
前二千年紀の終わりから
前千年紀の初めの
東地中海のヨーロッパ社会では、
政治権力は
いつもある種のタイプの
知の保持者でした。
権力を保持するという
事実によって、
王と王を取り巻く者たちは、
他の社会グループに伝えられない、
あるいは伝えてはならない
知を所有していました。
知と権力とは
正確に対応する、
連関し、重なり合うものだったのです。
権力のない知は
ありえませんでした。
そして
ある種の特殊な知の所有なしの
政治権力というのも
ありえなかったのです。(62ページ)
ギリシア社会の起源に、
前五世紀のギリシアの時代の起源に、
つまりは
われわれの文明の起源に
到来したのは、
権力であると同時に知でも
あったような
政治権力の
大いなる一体性の分解でした。
アッシリアの大帝国に存在した
魔術的―宗教的権力の
この一体性を、
東方の文明に浸っていた
ギリシアの僭主たちは、
自分たちのために復興しようとし、
またそれを
前六世紀から前五世紀の
ソフィストたちが、
金銭で払われる授業という形で
好きなように用いていました。
われわれが立ち会っているのは、
古代ギリシアで
前五、六世紀にわたって
進行した
この長い崩壊過程なのです。
そして、
古典期ギリシアが出現するとき
―ソフォクレス
(注:「オイディプス王」の作者)
はその最初の時代、
孵化の時点を代表しています―、
この社会が
出現するために
消滅しなければならなかったのが、
権力と知の一体性なのです。
このときから、
権力者は無知の人となります。
結局、オイディプスに起こったのは、
知りすぎていて何も知らないということです。
このときから、
オイディプスは
盲目で何も知らない権力者、
そして力余るために
知らない権力者となるのです。(62ページ)
西洋は以後、
真理は政治権力には属さず、
政治権力は盲目で、
真の知とは、神々と接触するときや、
物事を想起するとき、
偉大な永遠の太陽を見つめるとき、
あるいは
起こったことに対して
目を見開くときに、
はじめてひとが
所有するものだという
神話に支配されるようになります。
プラトンとともに
西洋の大いなる神話が始まります。
知と権力とは相容れないという神話です。
知があれば、
それは権力を諦めねばならない、と。
知と学識が
純粋な真理としてあるところには、
政治権力は
もはやあってはならないのです。
この大いなる神話は清算されました。
ニーチェが、先に引いた多くのテクストで、
あらゆる知の背後、
あらゆる認識の背後で
問題になっているのは
権力闘争なのだ、
ということをを示しながら、
打ち壊し始めたのは
この神話なのです。
政治権力は
知を欠いているのではなく、
権力は
知とともに織り上げられているのです。(63ページ)
「知」の民主化と、道徳の相対化
自分の実感でも、
知的権威が
昔より
相対化されたというか、
俺は
大学教授だぞとか、
どこそこの
研究者ですごい
研究してるんだぞ!
っていう
ノリでは
通じなくなってきたよね。
良くも悪くも。
アカウンタビリティーという
言葉が象徴するように、
いくら
知的権威があっても、
それを
素人の一般市民に
説明できなければ
いけない、という
風潮を感じる。
それは
「知」の民主化、という
意味では
良い側面だと
思うんだけど、
悪い側面としては、
一般市民が、
知的オーソリティーを
信用しなくなった、
つまり、
より
陰謀論じみた話や、
そもそも
およそ
学術的に間違った話を
臆面もなく
信じ込む、という
現象が現れてきた。
そこに
政治が漬け込むと、
いわゆる
ポピュリズム政治が生まれ、
政治が
極端な方向へと進む
傾向が
見られるようになってきた。
これは、
構造主義による
「知」の権威の
相対化の
功績とも言えるのではないか。
ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、
こう書いている。
「形而上学者たちの
根本信仰は
諸価値の
反対物を
信仰する
ことである」。
ある哲学者が
「善」を信じているとすれば、
その哲学者は
「善」を
信じているというより、
「善」の価値を
正当化するために、
その
「反対物」にあたる
「悪」をひそかに
(おそれながら?)
信じている、という
わけである。
「不思議の国のアリス」の世界で、
価値の問題を文字通り
体現していたのは、
トランプのすがたをした
登場者たちだった。
なぜなら
彼らの存在は、
トランプの序列における
差異を基準にして、
その「価値」を
決められていたからである。
ここには、ソシュールが言語について
考えていたことに
通じる大切なポイントが
含まれている。
それは、カードの「価値」とは
役割であること、
言い換えれば、カードの
「価値」は、
それぞれのカードの差異の関係と、
トランプ全体の
体系内における
各カードの
位置関係から
生まれてくるという
ことである。
つまり「王」や「女王」も、
他のカードがなければ、
そして
トランプと呼ばれる
カードの体系がなければ、
「王」や「女王」として
君臨できなかった。
それゆえ
「王」や「女王」の
権力は、
たとえば
どれほど周囲の者たちに
脅威を与えたとしても、
彼らのなかに
存在しているものではなく、
トランプのゲームを
構成している
多くの要素の
関係から生まれた幻想としての
効果にすぎない。
「カード」の体系を
現実世界に当てはめれば、
現代人のあらゆる
「権威」や「道徳」への
忠誠心は、
それが飽くまでも
「ゲームの体系」の
中でしか効果を
持ち得ない、という
意味において
著しく相対化
されているのである。
(参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76)
デブノサーガ
コンビニで売ってる
穂先メンマと
揚げ玉
混ぜて
食うと
うみゃー!!!
塩分も
気にならないし、
油も
上品。
それを
ブラック無糖の
コーヒーで
流し込む。
うーん・・・
また
デブ期突入か?
ヤバいけど
ハッピー♪
移民受け入れ
防衛費はともかく、
少子化対策で
国民負担を
増やして
消費を冷え込ませる
リスク
考えたら、
もう
割り切って
移民受け入れを
本気で
議論したほうがいいと
思うけどな。
国民もこの問題から
目を背けちゃダメだよ。
韓国はとっくに
そっちに
舵を切ってる。
移民受け入れを
遅らせれば
遅らせるほど、
優秀な
人材を確保するのが
難しく
なるんだから。
2023年6月7日水曜日
間違いない!
サッポロ一番を
食べると
便秘になるんだが、
コンビニでも
売ってる
ある
有名なメーカーの
アイスクリームを
食べると、
気分が
抑うつ状態になる
気がする。
安くて美味しいんだけど。
なんか入ってんのかな?
それにしても、
ハーゲンダッツが
どんどん小さく
なってくのを見ると、
日本て貧しくなってんだなー、と
思うわ。
サントリーのお茶飲むと
気持ち悪くなるし。
ジョン・デューイの政治思想 (再掲)
貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244)
オリラジ中田よ
お前以外の存在は、
すべて
お前の
勝利の充足感のために
存在しているのか?
お前の
その
勝利の充足感のために
どれだけの
(社会的その他)
資源が
投入されたか、
考えたことあるか?
例えば、
世界的投資家として
有名な
ウォーレン・バフェット氏は、
投資家への還元は
もちろん、
自分のための利益ですら、
その99%を
慈善事業に
費やしてんだぞ?
本当の勝利者というのは
こういう人のことだ。
お前は
犬畜生以下の
ゲス野郎だ。
https://news.goo.ne.jp/article/jisin/entertainment/jisin-https_jisin.jp_p_2209813.html
ですって! (再掲)
質問:少子高齢化が進めば、 老人の支出が減るのは当たり前だし、 働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、 消費を控えるのは当然だろう。 それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。 政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。 デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、 家計が現預金を貯め込むことで、 結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。 尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、 財政の規律が緩むことは目に見えているが。 目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、 フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、 物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、 日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、 その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、 日本の家計はそこまで合理的ではなく、 現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。 それはそれでいいだろう。 緩慢な死を迎えるだけだ。(無聊を託つ より) 回答(google bardより):少子高齢化が進むと、労働力人口が減少し、経済成長が鈍化する可能性があります。また、社会保障費の負担も増加し、将来の社会保障が不安になる人も増える可能性があります。このような状況では、人々は将来への不安から消費を控え、貯蓄を増やす傾向にあります。これは、デフレマインドにつながり、経済の悪循環に陥る可能性があります。 政府は、NISAを恒久化したり、減税を実施したりすることで、消費を喚起しようとしています。しかし、デフレマインドが根強いと、これらの施策の効果は限定的となる可能性があります。 日本でも、インフレ率が3%に達しているというニュースがありました。これは、世界的な原油価格の高騰や、円安の影響によるものです。しかし、フィッシャー効果が想定する合理的な消費者であれば、物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上昇するはずです。しかし、日本の家計はそこまで合理的ではなく、現預金を貯め込む方向に進んでいるようです。 これは、日本の家計が、将来の経済成長に不安を感じているためと考えられます。また、日本では、住宅ローンの金利が低く、借金の返済が楽になっていることも、現預金の貯蓄を増やす要因となっています。 デフレマインドが解消されなければ、日本の経済は緩慢な成長を続けるか、マイナス成長に陥る可能性もあります。また、デフレマインドが深刻化すると、デフレスパイラルに陥り、経済が崩壊する可能性もあります。 政府は、デフレマインドを解消し、経済を成長軌道に乗せるためには、金融政策だけでなく、財政政策や構造改革を積極的に行う必要があると考えられます。
気になる記事 2023/6/7 日経新聞5面
「賃上げの効果の波及が
物価高に追いつかず、
実質賃金の
低下が続いている。」
とのこと。
その結果
「消費者の財布の
ひもは固い。」
としている。
このまま
また
消費が冷え込むのはまずい。
日銀がすぐ動けるとも
到底思えないし、
企業に無理にでも
賃上げを頑張ってもらう
以外ない。
(以下
google bard
の
回答)
はい、その通りです。
賃上げの効果の波及
が
物価高に追いつかず、
実質賃金の低下が続いています。
その結果、
消費者の財布のひもは固くなり、
消費が冷え込む傾向にあります。
このままでは、
経済成長が鈍化したり、
デフレに陥ったりする
可能性があります。
日銀が
すぐに動けるかどうかはわかりませんが、
企業には
無理にでも賃上げ
を
頑張ってもらうしかありません。
賃上げが進むことで、
消費者の購買力が増し、
消費が活性化する
可能性があります。
また、
賃上げは
企業の利益を押し上げる
効果もあるため、
企業の投資意欲を高め、
経済成長につながる
可能性があります。
政府は、
企業の賃上げ
を
促進するための施策
を
検討する必要があります。
例えば、
企業が賃上げを行う際に、
税制面で優遇するなどの
施策が考えられます。
また、政府は、
消費を促進するための
施策も検討する必要があります。
例えば、
消費税の減税や、
家計への給付金の支給などの施策
が
考えられます。
政府と企業が協力して、
賃上げを促進し、
消費を活性化させることが重要です。
2023年6月6日火曜日
戦後ヨーロッパの政治と社会2@茨城大学
東西冷戦の
構図とか
イマイチわかんなかったんだけど、
リラックスした
語りで、
授業受けて
数日経ってみると、
ああ、そうか!
と
思いますね。
いわゆる「戦後」が
見えてくる
素晴らしい講義だと
思います。
あー、勉強ってたのしーなー
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