2023年5月24日水曜日
夏目漱石 <近代>への問い レポート (再掲) 「人間にとって貧困とは何か」 (放送大学印刷教材) 抜書 より
作田啓一は、R・ベネディクトの『菊と刀』を批判的に読み解きながら、自らの良心に照らして内面的に自覚される罪とともに、所属集団への不充分な帰属がもたらす恥もまた、普遍的な規範意識のあり方であり行為を方向づける意識状態であるとした(作田 1972)。 やはり、西洋は罪が、日本では恥が、人々を内面から律しているなどといった対比はあまりにも単純に過ぎる。だが、それはそれとして、恥の感情は、近代以降の日本において、「世間」あるいは国家を前にした人々の統制メカニズムにおける構成要素として特別の意味をもったと考えられる。作田は、ベネディクトの観察を引きつつ、家族主義的といわれながらも日本の家族の防衛機能がヨーロッパの家族よりもはるかに脆弱であると述べている。子供が「世間」から非難されたとしても、日本の家庭は子どもにとっての防御壁とはならない。日本の家族は、たちまち「世間」に同化して、「世間」とともに子どもを責めるのである。つまり、日本の家族は、独自性や自律性が弱い。 (84,85ページ) 戸籍において、人は、あくまでも戸という集団の一員として把握される。だが、家の家父長主義は戸籍制度においても温存され、男性戸主の権威性と国家に対する責任は強化された。こうした戸籍制度における家族と個人のあり方は、すでに述べてきた日本の近代家族の特質ともよく合致している(つまり、日本の近代家族は、明治政府の掌中において成立した家族の様式ということになる)。家族成員の「不始末」に対して戸主が「申し訳ない」と謝る、国家に対し無抵抗で「世間」からの落差を恥とするこの集団は、国家的な動員に実に適合しているといわねばならない。 (85,86ページ) 戸籍制度が内包する国家観・社会観は、子どもの不始末を「世間」に対して詫びる親や入籍をもって結婚とみなす結婚観のように、個人化が徹底しつつあるように見える今日にあっても、「そうすることになっているからそうする」強固な準拠枠として機能し続けている。 (86ページ)
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