なぜ漱石なのか? 簡単な概要
もともと
グローバリゼーション研究から
出発した私にとって、
近代化、
とりわけ定量的な
経済学的側面のみならず、
そこに生きる人々が、
どのような
内面の変化を
遂げていくのか?
というテーマは、
極めて重要な問いでした。
前回三島で行われた面接授業も、
タイトルに惹かれて受講したものですが、
今回は
更に明瞭に近代化、
というテーマに
見事に即した内容だったと思われます。
我々は、
坊っちゃんでありながら、
赤シャツとして生きざるを得ず、
また、マドンナは封建的慣習から脱し、
我の女として生きる藤尾に
半ば必然的に
変貌して行かざるを得ない。
しかしながら、
日本の<近代化>に伴って、
<商品>として
<発見>される
<女性>は、
藤尾のような我の女であっては、
都合が悪い。
従って、
女性は美禰子のように
画の中に収まる、
言い換えれば、大人しく家庭に収まり、
性的なサービスを含む
ケアワーカーとして生きることを要求される。
(授業初日を終えた時点での感想)
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