2023年4月18日火曜日

ハイエクとアドルノ (再掲)

経済活動を 完全に 中央主導にする という 発想には、 やはり たじろぐ人が多い。 単に それが 途方もなく 困難だから ではなく、 たった一つの 中央当局なるものが 万事を 指示する ことに恐怖を 覚えるからだ。 それでも なお 私たちが そこへ向かって 急速に進んでいるのは、 完全な個人の競争 と 中央管理との間 に 「中庸」 が あるだろうと、 大半の人が いまだに 信じている せいである。 めざす目標は 自由競争による 極端な分権化でもなければ、 単一の計画に基づく 完全な中央集権化でもなく、 両者の いいとこどりをした 体制だと 考えるのは、 合理的な 人々にとって 実に魅力的であり、 さも実現可能にも見える。 だが このような問題に関しては、 常識は当てにならない。 「隷従への道」日経BP p.190~191   理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、とアドルノは主張する。「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである。」言いかえれば、観念論者たちのメタ主観は、マルクス主義的ヒューマニズムの説く来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって一つの規範的目標として称揚された全体性というカテゴリーが、アドルノにとっては「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であったというのも、こうした理由による。「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)  ハイエクは 極端な 自由主義者かっていうと、 そういう わけでもない。 ただ、 一見 素晴らしいように 見える 規制も、 ついには 自由を 圧殺してしまう、 ということを 述べている に過ぎない。 例えば、 今年の 武蔵の 入学式の 杉山校長の 式辞も、 大変素晴らしい ものだが、 若者の 精神に 枷を嵌めるような 言辞は、 そう 長くない 時を経て、 自由を 圧殺する 危険性を 孕んでいる。 しかし、 だからといって、 ハイエクは ひたすら 自由放任を 称揚しているのではなく、 ヨノナカが 自然に 作り出した 自生的秩序には 従わなければ ならない、 と 説く。 自生的秩序については 仲正昌樹が 「いまこそハイエクに学べ」 (春秋社) の なかで デービッド・ヒュームに なぞらえて 論じている。 ヒュームの コンベンション(慣習)に 引き寄せて 考えれば、 理解しやすい。 しかし、 ハイエクの主張は、 決して 数理的に証明された 真理などではない。 これは 我々が 人類の歴史から 学ぶ 教訓のようなものだ。 過去のケーススタディを 網羅するのと、 歴史から学ぶのは、 似ているようで 根本的に違う。 一定の 時間の経過と その中の 一連の出来事から、 物語を紡ぎ出すのは、 歴史家の仕事である。 だから、 それを蓄積して ケーススタディとして 当てはめて なんでも解決できると 考えるのは、 危険だ。 過去のケーススタディに 含まれた バイアスが そのまま 反映されてしまう 可能性が あるからだ。 我々が 歴史を学ぶとき、 その材料には、 歴史家が 作り出した 空隙、スキマ、論理の飛躍がある。 しかし、 それを抜きにしては 歴史を語り得ないし、 そこから 現実を 照らし出す 光を見出すのは、 やはり 現在を生きる 我々の 仕事なのだ。 どんなに 凄い能力を 持っていても、 天下一品のロゴと 交通標識を、 いちいち 教えられなければ 識別できないような キカイに、 政治の大事な 意思決定を 委ねるのは、 やはり 怖い。 同様に、 歴史に学ばない 政治家も、 危険だ。 https://www.musashi.ed.jp/blog/lal9br00000011gw-att/lal9br00000011j9.pdf  ここで、管理された世界のもつ全体化する力 というキーワード を導きとして、 以下の丸山眞男の論考を 考えてみたい。 丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。 しかしながら天皇制が 近代日本の思想的「機軸」として 負った役割は 単にいわゆる 國體観念の教化と浸透という面に 尽くされるのではない。 それは政治構造としても、 また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、 機構的側面を欠くことはできない。そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。 (・・・)むしろ問題はどこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、 制度の具体的な作用のし方とどのように内面的に結びつき、 それが 制度自体と制度にたいする 人々の考え方をどのように規定しているか、 という、 いわば日本国家の認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は 「日本の思想講義」(作品社)において、 つぎのように述べている。 「國體」が融通無碍だという言い方をすると、 観念的なもののように聞こえるが、 そうではなく、 その観念に対応するように、 「経済・交通・教育・文化」の各領域における 「制度」も徐々に形成されていった。 「國體」観念をはっきり教義化しないので、 制度との対応関係も 最初のうちははっきりと分かりにくかったけど、 国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、 目に見える効果をあげるようになった。 ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、 「統治性」という概念がある。 統治のための機構や制度が、 人々に具体的行動を取るよう指示したり、 禁止したりするだけでなく、 そうした操作を通して、人々の振舞い方、考え方を規定し、 それを当たり前のことにしていく作用を意味する。 人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、 今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。(P.111~112ページより引用) 社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に貶めれられるようになればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ人間そのものが精神のおかげで創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として高められることに、慰めをもとめるようになるのである」 という言葉が何を表しているか、 自分の考えでは、 「社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に 貶めれられるようになればなるほど」、 (疑似)宗教のように、 この世の全体を精神的な色彩で説明し、 現実生活では一個の歯車でしかない自分が、 それとは独立した精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、 そのヒエラルキーの階層を登っていくことに、 救いを感じるようになる、という感じでしょうか。

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