2022年11月15日火曜日
中年の発想
若い頃は、
楽しんでる時が楽しい、
って
思うけど、
中年になると、
そのとき楽しかった、
というより、
思い出して
ああ、
楽しかったな、
という
感覚のほうが強くなる気がする。
脳がボケてきて、
記憶があまり鮮明でなく、
むしろ
過去の出来事を
自分に都合よく
編集・加工して
思い出すからかも知れない。
若い頃は、
刺激をそのままイメージ化して、
記憶に留めることができるけど、
中年になると、
刺激を
ストーリーに仕立てたり、
物語化しないと、
記憶に留めておくことが
出来なくなってくる。
つまり、
刺激そのものを消費するよりも、
物語を味わう、
という変化が生まれてくる。
うなぎ料理にしても、
単純に美味しかった、
というより、
あの時は
地方に面接授業に行って、
こんな内容で、
その時に友達が紹介してくれた、
あの店で、
疎遠になりかけた
親類に
結構値の張る贈り物をした、
等。
つまり、モノ消費から、コト消費へと、
消費の意味づけが変わってくる。
選択行動を発する当の本人でさえ、自分が選んだのはモノではなく、背後のコトだということを意識しているとはかぎらない。経済学者たちに「xとyのうちいずれを選ぶか」と問われたとき、「わたしはそのモノがほしい」ということで選んでしまったが、本当は「わたしがそのモノをもつ」というコトの意味を十分考えるべきだったと後悔するかもしれない。本人でさえも、背後にあるコトの選択は無意識に行ってしまうのだから、社会が人々の選択したモノから、人々の背後にある選択されたコトを抽出するのは容易ではない。たとえ選択行動は同一でも、選んだ人にはいろいろな「思惑」があり、それを、行動が一致しているということから、社会が「万人は同意見だ」とするのは明らかにおかしい。わたしたちが本当に選んだり、訴えたり、要求したりしているコトは、訴えている一つの事例の中で要求している内容の即時的満足ではないのである。わたしたちは選ぶという行為を通して、自分が正しいと思うコトや、自分が良いと思うコトを、他人の正しいと思っているコトや、良いと思っているコトとつきあわせてみようとしているのである。
〈私が選ぶ〉という行為は、私の志向と他者の志向を突き合わせ、つまりはコミットしようとする対話性を内包している。 まさに人はパンのみにて生くるものにあらずーー他者との関係性の上に展開するストーリー(人生の物語)抜きに生きるということはあり得ない。
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