2022年8月6日土曜日

それから (再掲)

代助は、 百合の花を眺めながら、 部屋を掩おおう強い香かの中に、 残りなく自己を放擲ほうてきした。 彼はこの嗅覚きゅうかくの刺激のうちに、 三千代の過去を分明ふんみょうに認めた。 その過去には離すべからざる、 わが昔の影が烟けむりの如く這はい纏まつわっていた。 彼はしばらくして、 「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云った。 こう云い得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。 何故なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。 始から何故自然に抵抗したのかと思った。 彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、 純一無雑に平和な生命を見出みいだした。 その生命の裏にも表にも、慾得よくとくはなかった、利害はなかった、自己を圧迫する道徳はなかった。 雲の様な自由と、水の如き自然とがあった。そうして凡すべてが幸ブリスであった。 だから凡てが美しかった。 やがて、夢から覚めた。 この一刻の幸ブリスから生ずる永久の苦痛がその時卒然として、 代助の頭を冒して来た。 彼の唇は色を失った。 彼は黙然もくねんとして、我と吾手わがてを眺めた。 爪つめの甲の底に流れている血潮が、 ぶるぶる顫ふるえる様に思われた。 彼は立って百合の花の傍へ行った。 唇が弁はなびらに着く程近く寄って、強い香を眼の眩まうまで嗅かいだ。 彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽むせて、失心して室へやの中に倒れたかった。(夏目漱石「それから」14章) もっとも、アドルノが主観と客観との絶対的な分離に敵対的であり、 ことにその分離が主観による客観のひそかな支配を秘匿しているような場合には いっそうそれに敵意を示したとは言っても、 それに替える彼の代案は、これら二つの概念の完全な統一だとか、 自然のなかでの原初のまどろみへの回帰だとかをもとめるものではなかった。(93ページ) ホーマー的ギリシャの雄大な全体性という若きルカーチの幻想であれ、 今や悲劇的にも忘却されてしまっている充実した<存在>というハイデガーの概念であれ、 あるいはまた、 人類の堕落に先立つ太古においては名前と物とが一致していたというベンヤミンの信念であれ、 反省以前の統一を回復しようといういかなる試みにも、 アドルノは深い疑念をいだいていた。 『主観‐客観』は、 完全な現前性の形而上学に対する原‐脱構築主義的と言っていいような軽蔑をこめて、 あらゆる遡行的な憧憬に攻撃をくわえている。(94ページ) 言いかえれば、人間の旅立ちは、自然との原初の統一を放棄するという犠牲を払いはしたけれど、 結局は進歩という性格をもっていたのである。 『主観‐客観』は、この点を指摘することによって、 ヘーゲル主義的マルクス主義をも含めて、 人間と世界との完全な一体性を希求するような哲学を弾劾してもいたのだ。 アドルノからすれば、 人類と世界との全体性という起源が失われたことを嘆いたり、 そうした全体性の将来における実現をユートピアと同一視したりするような哲学は、 それがいかなるものであれ、ただ誤っているというだけではなく、 きわめて有害なものになる可能性さえ秘めているのである。 というのも、 主観と客観の区別を抹殺することは、事実上、 反省の能力を失うことを意味しようからである。 たしかに、 主観と客観のこの区別は、 マルクス主義的ヒューマニストや その他の人びとを嘆かせた あの疎外を産み出しもしたが、 それにもかかわらず こうした反省能力を産み出しもしたのだ。(「アドルノ」岩波現代文庫95ページ) 理性とはもともとイデオロギー的なものなのだ、 とアドルノは主張する。 「社会全体が体系化され、諸個人が事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど、 それだけ人間そのものが精神のおかげで 創造的なものの属性である絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めをもとめるようになるのである。」 言いかえれば、 観念論者たちのメタ主観は、 マルクス主義的ヒューマニズムの説く 来たるべき集合的主観なるものの先取りとしてよりもむしろ、 管理された世界のもつ全体化する力の原像と解されるべきなのである。 ルカーチや他の西欧マルクス主義者たちによって 一つの規範的目標として称揚された 全体性というカテゴリーが、 アドルノにとっては 「肯定的なカテゴリーではなく、むしろ一つの批判的カテゴリー」であった というのも、こうした理由による。 「・・・解放された人類が、一つの全体性となることなど決してないであろう。」(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) こういう風に考えてみて下さい。主体化した人間は、主客未分化で混沌とした自然から離脱して自立しようとしながら、 その一方で、身体的欲望のレベルでは自然に引き付けられている。 自らの欲望を最大限に充足し、完全な快楽、不安のない状態に至ろうとしている。 それは、ある意味、自然ともう一度統合された状態と見ることができます。 母胎の中の胎児のように、主客の分離による不安を覚える必要がないわけですから。 そして、そうした完全な充足状態に到達すべく、 私たちは自らの現在の欲望を抑え、自己自身と生活環境を合理的に改造すべく、努力し続けている。 安心して寝て暮らせる状態に到達するために、 今はひたすら、勤勉に働き続け、自分を鍛え続けている。 しかし、 本当に「自己」が確立され、 各人が計算的合理性のみに従って思考し行動するだけの存在になってしまうと、 自己犠牲によって獲得しようとしてきた自然との再統合は、 最終的に不可能になってしまいます。 日本の会社人間の悲哀という形でよく聞く話ですが、 これは、ある意味、自己と環境の啓蒙を通して、「故郷」に帰還しようとする、 啓蒙化された人間全てが普遍的に抱えている問題です。 啓蒙は、そういう根源的自己矛盾を抱えているわけです。(「現代ドイツ思想講義」作品社 148ページ) かなり抽象的な説明になっていますが、エッセンスは、先ほどお話ししたように、 自然との再統合を目指す啓蒙の過程において、 人間自身の「自然」を抑圧することになる、ということです。 啓蒙は、自然を支配し、人間の思うように利用できるようにすることで、 自然と再統合する過程だと言えます。 自然を支配するために、私たちは社会を合理的に組織化します。 工場での生産体制、都市の交通網、エネルギー供給体制、ライフスタイル等を合理化し、 各人の欲求をそれに合わせるように仕向けます。 それは、人間に本来備わっている“自然な欲求”を抑圧し、人間の精神や意識を貶めることですが、 啓蒙と共にそうした事態が進展します。 後期資本主義社会になると、その傾向が極めて顕著になるわけです。 それが、疎外とか物象化と呼ばれる現象ですが、 アドルノたちはそれを、資本主義経済に固有の現象ではなく、「主体性の原史」に既に刻印されていると見ます。(「現代ドイツ思想講義 作品社」150ページ) アドルノについては、ポスト構造主義が大きくクローズアップされた80年代から しばらくの間、私たちでも手に取るような一般的理論書の引用、あるいは論文の 脚注で名前はよく知りながら、レポートを拝見して、初めてその具体的実像について アウトラインを教えて頂いたことになります。  理性と個人の誕生に重きを置きながらも、それが疎外を産み出さざるをえない 一種の必然に対して、それを批判しながらも反動的な主客合一論へは与しない、 むしろ代償を支払いながら手にする「反省能力」に信頼を置く……  こんな感じで理解しましたが、何より漱石との親近性に瞠目に近い思いを 抱きました。漱石の文明批評は、いうまでもなく「近代」批判なのですが、 しかしけっして、傷だらけになりながらも獲得した「個人」を手放そうとはしません でした、それが彼を果てしない葛藤に陥れたにも拘わらず。  レポートを拝見させて頂き、末尾の件り――アドルノの「疎外」批判が、 それを資本主義に固有の現象としてそこに帰させるのではなく、「主体性の歴史」 に「刻印」されたものとして把握しているとの括りに、漱石との類縁性を改めて実感 し直すと同時に、漱石論への大きな励ましのステップを頂戴する思いです。  本当に有り難う。  なお、教室でしばし議論した漱石の「母胎回帰」の話しですが、今回頂戴した レポートを拝読して、漱石の百合は、教室で伺った母胎回帰現象そのものよりも、 むしレポートに綴ってくれた文脈に解を得られるのではないかと考えます。 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望――、まずはそれが 出現します。しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆきます。この折り返しは、 まさにレポートに綴ってくれたアドルノの思想の展開に同じ、ですね。主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、しかしながら、再び「主観と客観の区別を抹殺することは、事実上(の) 反省能力を失うことを意味」するが故に、主客合一の全体性への道は採らない。 漱石の「個人主義」解読への大きな手掛かりを頂戴する思いです。  しかし、それでは刹那ではありながら、代助に生じた百合の香りに己を全的に放擲したという この主客一体感――「理性」の「放擲」とは何を意味するのか……。「姦通」へのスプリングボード だったのだろう、と、今、実感しています。  三千代とのあったはずの<過去(恋愛)>は、授業で話したように<捏造>されたもの です。しかし、この捏造に頼らなければ、姦通の正当性を彼は実感できようはずもない。 過去の記念・象徴である百合のーー最も身体を刺激してくるその香りに身を任せ、そこに ありうべくもなく、しかし熱意を傾けて捏造してきた「三千代の過去」に「離すべからざる 代助自身の昔の影」=恋愛=を「烟の如く這いまつわ」らせ、その<仮構された恋愛の一体感>を バネに、姦通への実体的一歩を代助は踏み出したのですね。  こうでもしなければ、姦通へ踏み出す覚悟はつかず(この「つかない覚悟」を「つける」までの時間の展開が、 そのまま小説『それから』の語りの時間、です)、それ故、このようにして、彼は決意を獲得する、というわけです。 ただしかし、前述したように、代助はすぐに「夢」から覚めるし、合一の瞬間においてさえ「烟の如く」と表して いるのでもあり、代助自身がずっと重きを置いてきた<自己―理性>を、けっして手放そうとはさせない漱石の <近代的個人>なるものへの拘りと、結局のところは信頼のようなものを実感します。 だから漱石には「恋愛ができない」--『行人』の主人公・一郎のセリフです。                            静岡大学 森本隆子先生より

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