2022年8月1日月曜日

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『こころ』は、1つの罪が全てを決定してしまう話、というよりも、その文脈でいうなら、全てを決定するほどにもない事項を全人生を決するものへと、みずから捏造し、それを後半生を生きる根拠にした男の物語、ではないのかな、と思いました。天皇の死=「K」の存在と死が意味を持ち得た時代の終焉を以て、その捏造がもはや重さを保ち得ないことが見えた時、つまりは生の根拠を喪失して「先生」は死んで行くのでは? 以上はおおむね、亡くなった評論家の山﨑正和氏が早くに提起したもので、漱石研究の中ではある程度の定説です。 こういう虚しい時代がーー自由と独立の〈個〉など、どこにも存在せず、求めて得られるはずだった生の根拠を、一足先に敗れて逝った畏敬する友に対する罪意識に求めるしかなかった〈空虚としての近代〉こそが漱石のテーマだったのでは、というものです。 (以下引用) 「負債」の観念を抱かせることが、社会全体を構成し、安定的に維持するための手段であるわけで、交換とか経済的利益は副次的な意味しかないわけです。先ほどお話ししたように、儀式に際して各自の欲望機械を一点集中的に活性化させますが、この強烈な体験を「負債」と記憶させて、大地に縛り付けることが社会の維持に必要なわけです。現代社会にも通過儀礼のようなものがありますし、教育の一環として意味の分からない、理不尽に感じることさえある躾を受けることがありますが、それは、この「負債」の刻印と同根だということのようです。「負債」の刻印が本質だとすると、むしろ下手に合理的な理由をつけずに、感覚が強制的に動員される、残酷劇の方がいい、ということになりそうですね。 <アンチ・オイディプス>入門講義 仲正昌樹 作品社 p.255 (以下、俺の返信) 比較文学系統の「ポジティブな意味での近代」というのが、どのようなものかは全くわからないのですが、「空虚な近代」というのも、実は案外、現代に通じるものがあるように思われます。 それはまさに内田隆三先生が「国土論」で記したように、我々は、昭和天皇、そしてその背後にあった悼まれる存在としての「死者」を喪失し、かえって重しの取れた、軽薄な「生」を生きている。 これはまさに三島由紀夫が危惧していた事態なのではないか。 そのような解釈も成り立つのではないか、微かな実感とともに、考える次第です。 (以下引用) 「敗戦にいたるまで国土に固有の曲率を与えていたのは天皇の存在であった。だが、天皇が『われ 神にあらず』と表明したときから、天皇の像は国土に曲率を与える重力の中心からゆっくりと落下していく。重い力は天皇から無言の死者たちに移動する。聖なるものはむしろ死者たちであり、天皇もこの死者たちの前に額ずかねはならない。この死者たちはその痛ましいまなざしによってしか力をもたないとしてもである。それゆえ戦後社会が天皇とともに超越的なものを失ってしまったというのは正しくない。そこには報われぬ死者たちというひそかな超越があり、天皇は皇祖神を祀るだけでなく、この無名の超越者を慰霊する司祭として、ゆるやかな超越性を帯びるからである。」137ページ 国土論 内田隆三 筑摩書房

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