2022年5月24日火曜日
再掲(編集)
渋沢栄一始まったねー。城山三郎の小説読んだな。 JR岡部駅で降りて、生家とか資料館見に行ったりとか、あるいは王子の飛鳥山の旧邸宅とか見に行きましたよ。 ところで、蚕を飼って桑の葉を食べさせてるシーンがあったけど、蚕を飼うってことは、最終的に絹を作って、輸出するってことだから、既に世界的な市場と繋がっていて、本を辿れば、あの時代に既に農家も貨幣経済に部分的に組み入れられてるってことらしいです。 つまり、生活するのにカネが必要になるということ。 それ以前は、綿花を作っていたそうです。その時代は、塩と綿の苗だけはカネで買ったけど、それ以外はカネを使わなかったとか。 つまり、養蚕業が日本の原風景というイメージは、違う。 それはともかく、綿花を作っていた頃は、綿を作って、紡績業者に委託して織物にしてもらって、それを藍染にしていたとか。 桐生などが代表的ですが、綿花を紡績する織機産業が日本のプロト工業化の役割を担ったと聞きました。 大河の描写では、渋沢家は養蚕と藍染を両方やってましたね。
横浜が開港して、八王子との間に交通が整備されると、山梨や長野からの絹が八王子に集積され、横浜港から世界に輸出され、第二次大戦まで、日本の外貨獲得の最大の資金源となり、横浜と八王子を結ぶラインは、シルクロードと呼ばれた。 戦後は、横浜からの舶来文化の流入で、在日米軍への、音楽などの文化的サービスが生まれ、花街も賑わった。 八王子を代表するシンガーソングライターに、松任谷由実がいるが、彼女も、八王子の絹呉服店に生まれ、子供のころから、米軍関係者に歌を披露していたそうだ。
松方デフレも、西南戦争で戦費調達の為に紙幣を乱発したために、インフレが起きて、米価が高騰して地主が潤う反面、地租改正で小作農は困窮し、また不平士族の残党が、自由民権運動に走って、米価が高騰した為に金がある豪農の資金が、自由党を中心とする自由民権運動の資金源になっていたために、そういう豪農から資金を巻き上げる為に、敢えてデフレ政策を断行したってことらしい。 実際、松方デフレの後に、追い詰められた自由党員が、加波山事件や、秩父事件を起こしている。
「近代」化によって、地方とは統治し経営する対象ではあっても、自治を体現するための場ではなくなった。「地方経営」のため中間支配者を官僚化するには、地域の自立性が障害となる。それゆえ、地方経営は「いかに地方を自立させないようにするか」を制度化するものになる。村と国の関係としては、村が府県や国を支えているのではなく、村や府県が国にぶら下がっている(依存している)状態をイメージすればわかりやすい。そして、現場から事実を積み上げていくのではなく、結論から逆算して物事が決まるということが一般化する時代になった。村々は、形の上では「自治権」を与えられ、自治体と位置づけられたが、自治の余地はほとんどなくなった。(村の日本近代史 ちくま新書)
ところで、現実の問題として、自立した個人から成る世界がすぐに出現するわけではない。他者は、他者を認知する者にとって異質な存在である。これは他者を「差異」であるということが同定された限りにおいてである。差異は同一性の下でしか正当性を持ちえない。同一性に吸収されない差異=他者は、排除される。それを可能にしていたのが、祖先の存在であり、また神であった。たとえ、異なる地位にあって、通常は口を聞くことも、顔を見ることさえ許されなくとも、共通の神を持っているという認識の下に、異なる地位にある者同士が共同体を維持する。地位を与えるのは神であり、それに対してほとんどの者は疑問さえ抱かなかったのである。(p.177~178) (中略) カースト制は、総体として、閉鎖的で完結的な世界を築く。そこでは、ウェーバーが「デミウルギー」と呼んだ、手工業者が村に定住し、無報酬で奉仕する代わりに、土地や収穫の分け前を受け取る制度が敷かれている。このような制度では、商品経済が発達する可能性はほとんどない。したがって、他者としての商人が、共同体内によそものとして現れる可能性は低い。 これに対して、市場論理が浸透した世界では、他者が他者として認知される。それは、複数の世界に属することを可能にする包含の論理によって律せられている世界である。このような世界が可能であるためには、共同体の外部に位置する他者の明確なイメージが築かれる。その推進者となるのが、商人であり、貨幣である。 それでは、なぜ貨幣が推進者となるのか。それは、貨幣を通じて、共同体の外部に存在するモノを手に入れ、みずから生産するモノを売却することが可能になるからである。共同体の外部が忌避すべき闇の空間でしかない状態から、共同体の内と外に明確な境界が引かれ、ある特定の共同体に属しながらも、その外部にも同時に存在することを可能にするのが、貨幣なのである。他者が、貨幣と交換可能なモノ、つまり商品を売買したいという希望を掲げていれば、それによって他者のイメージは固定され、他者の不透明性を払拭できる。こうして、貨幣は、共同体外部への関心を誘発していく。そして、カースト制のような閉鎖的な社会とは大きく異なり、ふたつの異なる世界において、同一性を築こうとするのである。 もちろん、誰もが商人になるこのような世界がすぐに出現するわけではない。そのためには、まず貨幣が複数の共同体のあいだで認知されなければならない。そして、マルクスが注視したように、多くの者が賃金労働者として「労働力」を売るような状況が必要である。そして、そうした状況が実際に現れてくるのが、マルクス自身が観察した通り、一九世紀のイギリスなのである。単独の世界に帰属することも、複数の世界に関わることも認める世界は、労働が労働力として商品になり、賃労働が普及する資本主義の世界においてである。(p.180~181) 「零度の社会」荻野昌弘著 世界思想社
ある共同体において、共通の神を信じているということが、その成員を共通の成員として成り立たしめるのであれば、その共同体の外部に存在する異質な存在と、その共同体を繋ぐのが、貨幣である。なぜなら、貨幣はある共同体においても、その外部においても通用する、包含関係における共通要素だからである。(荻野昌弘)だからこそ、貨幣は経済の相互依存を通して平和をもたらす可能性を秘めている。(デービッド・ヒューム)しかし、貨幣は、ある社会における間主観性(フッサール)を、他の社会にも押し付ける、侵食するような暴力性も秘めている。ある社会における間主観性とは、例えばミカンをある集合とみなせば、その要素、つまりその集合の要素としての一つ一つのミカンは、何千個、何万個あっても、すべて一つずつミカンとして数えることになる。これは、物心のついていない子供や、狂人以外ならば、その社会の決まりごととして受け入れられるからだ。その一つ一つの計量可能性が、理性の暴力的な側面として現れる。(アドルノ)理性の働きを物心のついていない子供や、狂人と対比させるならば、「オデュッセイア」において、ポリュペーモスの問いに対しウーティス(何者でもない)と答えるのは、自らの自己同一性を偽る狡知であり、セイレーンの性的誘惑から逃れるのも、また理性の狡知である。つまり、人間の理性の狡知は、複数のアイデンティティーを使い分けたり、性的欲望をコントロールする、といった、現代人が社会において暮らすうえで、必要な能力なのである。しかし、アドルノはその理性の狡知に、自己同一性の揺らぎや性的欲動といった、ニーチェ的欲動との相克を見て取るのである。
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