アドルノのニーチェ批判

アドルノが「啓蒙の弁証法」で、延々とオデュッセイアを語るのは、実はニーチェ批判でもあるのかもしれない。 セイレーンの誘惑は、もちろん性的な欲動だろうし、ポリュペーモスに、名前を尋ねられて、「ウーティス(誰でもない)」と答えて、難を逃れるのも、自己同一性(アイデンティティー)という、まさに近代社会が人間に要求する理性そのものだろう。 ニーチェは、言語化以前の欲動への回帰を志向していたと解釈すれば、アドルノは、主体性の原史に既に刻印されている理性を放棄することは、そういった欲動へ回帰することよりも、はるかに危険だ、と説いたのだろう。

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