2022年3月6日日曜日

裁きと社会

現実には、人間は裁判で裁かれるわけだけど、あれは法が裁いてるんであって、人間が裁いてるんじゃないと思うんだよね。 では、法とは何なのか?人間は生まれつきすべての権利を有し、かつ自由である。しかし、そうであれば、人間はお互いを殺しあう「自然状態」に陥ってしまう、従って、唯一の解決策が、リヴァイアサンに、生存権以外のすべての権利を全員が一斉に預けてしまおう、というのが、ホッブズの考え方だ。しかし、リヴァイアサンは神なのか?というと、微妙なところで、ホッブズは無神論者を疑われて、しょっちゅう逃げ回っていたらしい。しかし、ホッブズは、近代市民社会が安定的に成り立つためには、このような論理以外は考えられない、としたのだ。 ある意味では、暴力を一元化することによって、社会秩序を維持する、というのは、現代においても同じだろう。 そういう意味では、法は、近代社会を秩序づける暴力そのものと言えるかもしれない。 このような社会契約論を受け継いだのが、ジョン・ロックで、彼は、人民は生まれつき神から自然権を賦与されているとしながらも、その権利の一部を、政府に委託する、という論理を採った。これは、当時の社会情勢に大きく左右されていて、王党派と議会派が、凄惨な争いを繰り広げていて、安易にどちらの味方かわかってしまうような論理は、命の危険があった。従って、神を肯定しつつも、議会も肯定する、という論理になる。 ジョン・ロックの論理の特質は、政府(議会)は、神から自然権を賦与されている人民から、権利の行使を委託されているという意味で、主権は人民にあるのだから、人民の信託を裏切る政府には抵抗する権利が人民にはある、という論理だ。 神を肯定しつつも、議会を否定するのではなく、かといって全面的に従うわけでもない、という高度なロジックだろう。 しかし、そうであるならば、神に賦与された自然権を、なぜ議会が作った法に縛られなければならないのか? 理屈としては、ジョン・ロックは、神と議会政府を完全に独立な存在としてでなく、議会政府もまた、神からある程度の権利を賦与されていた、と考えるしかないのではないか? 歴史的に、イギリスにおいて、立憲君主制度が確立した背景として、そのような論理は排除できないはずだ。

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