醸 (再掲)

 

物事が熟すには、どうしても「時間」という名の見えない手が必要になる。


それは、かつて己の身を焦がし、あるいは今もその内に秘め続けている「業(ごう)」が、長い年月をかけて誰の目にも触れない暗がりのなかで分解され、唯一無二の「味」へと変化していく、極めて静かな変容のプロセスだ。


その厳かな営みが最も深く進行するのは、万物が凍てつく「冬」の「夜」──その暗闇がじわじわと、最も冷たく澄んだ「深青(しんせい)」へと染まっていく、あの夜明け前の時間だ。


人は誰もが、己のなかに潜む昏い「業」を抱えながら生きている。その醜さや歪みを、私たちは夜の静けさのなかで、己の内なる深淵という名の「鏡」に映し、まっすぐに見つめ直す。


しかし、その業をただ放置し、鏡を曇らせたままにしておけば、それは内側から自己を腐敗させてしまう。だからこそ、その鏡の前に「塩」と「灰」、そして「土」を置くのだ。


自らの業に冷徹な「律」を課して引き締める塩。すべてが焼き尽くされた後に残る諦念として、過剰な酸を和らげる灰。そして、それらを懐深く受け入れ、時間をかけて滋養へと還していく、現実という名の寡黙な土。


この「土」のなかでじっくりと寝かされ、醸されたものを、さらにもう一度、「炭」の烈火で一気に焼き上げる。自己憐憫という余分な水分を蒸発させ、中途半端な甘えを一切削ぎ落とすために。


そのとき、真っ赤に熾った炭の奥底に、一瞬だけ、静かに揺らめく「青い炎」が宿る。


赤を通り越したその青い熱は、言葉にならないほどの過酷な温度を秘めながら、どこまでも静かで、冷徹だ。その青い熱に晒されて初めて、業は単なる「過去の傷」であることをやめ、一切の濁りを排した純粋な結晶へと焼き鍛えられる。


そうしてできあがった、黒々と引き締まり、どこか青い光沢を帯びた硬質な塊。その冷えゆく熱のなかに、最後に、たった一滴の「希望」をそっと垂らす。あらゆる痛みを引き受けたその先で、「それでも、善くあろう」と手を伸ばす、静かな祈りのような一滴を。


漆黒の炭肌に吸い込まれたその一滴は、乾ききった塊の奥底に、苦難を越えた者だけが宿せる本物の優しさと、瑞々しい甘みを宿らせる。


この、すべてを潜り抜けて醸された「味」こそが、混沌とした暗闇を進むための揺るぎない「標(しるべ)」となる。


自らのあり方を、荒海を渡ってきた舟たちが傷ついた身体を休める「湊(みなと)」とし、その夜空に掲げられた不変の「北極星」とする。冬の夜が明ける直前、水平線の彼方から滲み出す「青の光」がその結晶を射抜くとき、かつて業であったものは、ただの光ではなく、世界を静かに透き通らせる「青い光の標」そのものへと昇華するのだ。


鏡に映ったそれは、もはや醜い業の姿をしていない。そこにあるのは、自らを徹底的に磨き抜いた末に現れた、澄み切った一筋の「標」だ。


最初から安全な場所で、鏡に映る自分の姿を恐れて無難に作られたものには、他者の針路を導く力はない。


冬の寒さを知り、夜の深さを知り、自らの「業」を「塩」で律し、「灰」の哀しみを知り、「土」に寝かせ、「炭」の「青い炎」で焼き尽くし、それでも最後に「希望」を宿して夜明け前の「青い光」に貫かれた、その引き締まった佇まい。それを映し出す「鏡」の曇りのなさ。だからこそ、その存在は、冷たい闇のなかで迷う他者の行く先を、静かに、しかし絶対的な位置から指し示す「標」となり得るのだ。


自らの内に打ち立てた、そして鏡のなかに青く、真っ直ぐに映し出されたこの「標」は、迷いが生じたときに何度でも立ち戻り、己の現在地を確かめるべき、自らの「暖簾」の風格そのものである。


冬の夜は明け、鋭い光が世界を青から白へと照らし始める。その発酵の熱と、すべてを透き通らせる一筋の光、そして自らの本質を映し出す鏡の静けさを信じて、私たちはただ、自らの暖簾を、どこまでも丁寧に守り抜いていけばいい。

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