2025年12月18日木曜日

生糸経済と日本近代化の変遷 (再掲)

 

日本経済の構造転換期における繊維産業の役割:綿花経済から生糸(絹)経済への移行と農村の貨幣経済化

I. 序論:構造転換の背景と分析枠組み

1.1. 開国ショック(1859年)と国際比較優位の論理:産業選択の必要性

江戸時代末期から明治時代にかけての日本経済は、安政6年(1859年)の開国という国際的な衝撃により、内向きで完結していた従来の経済システムから、グローバルな価格メカニズムと競争圧力に直接晒される劇的な構造転換を経験しました 1。この転換は、それまでの伝統的な経済慣習の崩壊をもたらし、国際的な比較優位の論理に基づいた新しい産業構造への急速な移行を強制しました 1

開国という外部からの衝撃は、強力な「プッシュ要因」として機能し、国内資源の非効率な配置、特に収益性の低い綿花産業を市場原理に基づいて強制的に淘汰させました 1。この結果、資源は国際的に競争力のある産業へと再配分されることとなり、日本の近代国家建設の基盤が、初期段階から厳しい国際市場の論理に立脚することが決定づけられました。

1.2. 繊維産業の二元的役割:綿花(内需型)から生糸(輸出型)への運命の分岐

この構造転換期において、繊維産業、特に生糸(養蚕業)と綿花栽培の運命の分岐は、日本の農村経済が国際市場と不可逆的な貨幣経済に組み込まれる過程を象徴的に示しています 1。綿花経済がローカルな市場と自家消費に強く依存していたのに対し、養蚕業は輸出市場と直結した高収益産業として勃興しました 1

大河ドラマなどで描かれる渋沢栄一が、伝統的な在来産業である藍染と、輸出市場に対応できる高収益産業である養蚕業を兼業していた事実は、当時の農村エリートの合理的な経営戦略を反映しています 1。彼らは、伝統的な在来産業が提供する安定的なローカル信用基盤を維持しつつ、革新的な輸出産業でグローバルな収益を上げ、資本蓄積を図るという、巧みなリスク分散戦略を採用していたことがわかります 1

1.3. 報告書の分析視角:プロト工業化論、国際貿易による産業転換、貨幣経済の深度(Monetary Deepening)

本報告書の分析目標は、生糸輸出ブームが農村の商品化率と貨幣経済の深度をどのように向上させたかを、江戸時代の綿花経済との対比を通じて明確にすることです 1

生糸経済への移行は、単に現金取引の頻度が増したという現象論的な変化に留まりません。それは、農家が国際市場のリスクとリターンに直接晒されるようになり、その結果、金融的・信用的な依存構造が質的に変化したという、経済システムの根本的な転換点として捉える必要があります 1。貨幣経済の深度化(Monetary Deepening)とは、農家の生産活動および生活の再生産過程全体が、現物交換ではなく現金収入と現金支出に依存するようになることを意味します。この過程が進行することで、農家の経済的意思決定は市場価格に完全に連動し、近代的な金融取引や担保設定が成立するための土壌が整備されました 1。この構造的要因こそが、日本の近代化のための資本と金融システムを確立する上で不可欠であったと評価されます 1

II. 江戸期綿花経済の構造的限界:内向きな経済システムと限定的貨幣利用

2.1. 在来綿花生産の特性:地域完結型経済サイクルと家内工業の形態

江戸時代の繊維産業の主流であった綿花生産は、主に温暖な西日本(近畿、東海)を中心に行われていました 1。綿花は庶民の日常衣料の原材料として国内需要が安定しており、その市場は長距離の広域市場を通じて流通する高額商品というよりも、地域完結型の経済サイクルの一部として機能していました 1

綿花の栽培と加工は、しばしば農家の女性労働力に依存する家内工業の形態をとり、自家消費や地域の在郷市場での現物交換、限定的な売買を通じて流通しました 1。労働力の多くは家族労働や地域社会の相互扶助(結)によって賄われていたため、生産コストの多くが非貨幣的な交換によって処理されていました 1。この構造は、外部市場の変動に対する耐性が高いという利点を持つ一方で、外部からの競争圧力がないため、生産性向上や技術革新へのインセンティブが低く、開国後の国際競争に対する「適応力」を欠いた構造的限界を内包していました 1

2.2. 貨幣利用の実態と金融の未成熟性:「人間関係資本」に基づく信用

綿花経済下では、農村の商業化は進んでいたものの、その再生産過程全体における貨幣決済の比率は限定的でした。農家が現金支出を必要とするのは、遠隔地から運ばれる特殊な商品(塩や鉄)や、農業に必要な特定の原材料(綿の苗、染料など)の購入に限られていたという事実は、農村における貨幣浸透の深度が浅かったことを正確に反映しています 1

労働報酬が現金で支払われることは稀であり、生活必需品も現物交換や自家生産に大きく依存していました 1。したがって、この第一次的な貨幣経済の深度は浅く、農家が国際市場の変動や国内価格の変動リスクに直接晒される機会が少ないことと裏腹の関係にありました 1。貨幣流通が限定的であったため、信用取引も地域内の個人間の信頼(人間関係資本)に基づくものが主であり、広域的な金融システムは未発達な状態に留まっていました 1。信用が個人間の信頼に依存していたため、信用リスクの評価が地域内に限定され、大量生産や長距離・高額取引に必要な近代的な商業信用(換金性の高い資産担保)の発展が阻害されていたといえます。

2.3. プロト工業化の遺産:在来技術と組織の継承

江戸時代の綿花経済が近代化に遺した重要な遺産の一つは、在来織物産地におけるプロト工業化の萌芽です 1。桐生などの特定の地域では、綿織物や絹綿交織物の生産において、問屋が原材料を供給し、製品を買い上げる問屋制家内工業が確立されていました 1

この商業的な組織化と、それに伴う技術的熟練度の蓄積は、単なる農業生産の域を超えた初期の産業集積地の形成を示しました 1。綿花経済自体は開国ショックによって破壊されましたが、この過程で培われた技術的熟練度、商業的な信用ネットワーク、および組織的な生産管理能力は、高収益の生糸産業を支えるインフラとして活用されました。これは、構造転換がゼロからの出発ではなく、既存の社会的・経済的インフラを再利用する形で進行したことを示しており、桐生が柔軟に輸出主導型の絹織物産業へと構造転換を達成するための決定的な基盤となりました 1

III. 開国ショックと産業淘汰:グローバル市場への組み込み

3.1. プッシュ要因:外国産綿花・綿製品の流入と国産綿花産業への致命的打撃

1858年の日米修好通商条約締結以降、国際市場に統合された日本にもたらされた最初の衝撃は、綿花産業の衰退でした。開港後、海外、特にイギリスやインドから輸入される安価で大量の綿花や綿製品が日本の市場に流入しました 1

国産綿花生産は、国際的な生産性や流通コストに比べて劣っていたため、この国際競争に太刀打ちできませんでした。安価な綿花流入の結果、綿花栽培の収益性が急激に低下し、他の作物(特に養蚕のための桑)に比べて非合理になりました 1。安価な輸入綿は、日本の経済構造を根本から変える「強力な資源再配分のシグナル」となり、地域の慣行や伝統的な作物選択を一気に上書きしました。農家は収益性の低い綿花栽培を迅速に放棄し、桑などへ転換せざるを得ない状況が生まれました 1

3.2. プル要因:国際市場における生糸の勃興と特異な優位性の獲得

綿花産業が国際競争によって打撃を受ける一方で、日本の生糸輸出は開国直後から著しい増大を見せました 1。生糸の輸出は量および価額において木綿製品の増産をはるかに凌いでいたことが確認されています 1

この爆発的な生糸需要は、国内の潜在的な技術力に加えて、当時の国際情勢、特にヨーロッパでの蚕病(微粒子病など)の蔓延という国際的な供給ショックによってもたらされました 1。ヨーロッパの製糸業者が供給源を失う中、日本の高品質な生糸と蚕種(蚕の卵)が国際市場で異常なほどの高値で取引されることになりました 1。生糸は、国産綿花産業の衰退によって生じた経済的ダメージを相殺し、当時の日本にとって最も重要な外貨獲得手段となり、国家財政の安定化に大きく貢献しました 1。この現象は、日本が国際市場の特定のニッチ(絹という高付加価値商品)において、供給ショックを背景に一時的あるいは構造的な比較優位を獲得した結果であると評価されます。国際競争が非効率な資源配置を是正し、効率的な配置(養蚕)へと強制的に移行させた結果です。

3.3. 生産地帯の劇的な転換と資源の再配分

開国後の生糸需要の増大は、国内の生産地帯に劇的な地理的シフトを引き起こしました 1。特に東北を中心とする繭生産地帯では、顕著な生糸増産が図られ、これまで棉花生産に従事していた地域が、自然条件の相対的な適性を考慮し、養蚕業へ転換していきました 1

この迅速な産業シフトは、当時の日本の農家が、国境を越えた比較優位の論理に基づいて、土地利用や労働配分に関する合理的な経済判断を下していたことを示しています 1。安価な輸入綿というプッシュ要因によって収益性の低い作物を捨て、高価な輸出用生糸というプル要因へ資源を集中させる行動は、農村経済がローカルな経済観念の枠組みを超え、グローバルな価格シグナルに直接連動する体制に組み込まれたことを示す決定的な証拠です 1。これは、国家規模での資源最適化と近代化への必須ステップでした。

IV. 養蚕業の構造的特性と農村金融の深化

4.1. 生糸生産の資本集約度と高額取引の構造的必要性

養蚕業への転換が、綿花経済時代と比較して、農村における貨幣経済の浸透を決定的に加速させました。生糸は販売額が綿花に比べて圧倒的に高額であり、取引の単価が大きいという特徴を持ちます 1。このような高額取引を効率的かつ安全に行うためには、現物を大量に輸送・交換するよりも、標準化された決済手段である貨幣、およびそれに基づく信用取引が必須となりました 1

さらに、養蚕業は綿花栽培と比較して、初期投資と運転資金の必要性が高い産業でした。桑畑の造成には長期的な土地投資が必要であり、繁忙期の労働力(給桑作業など)の確保には、しばしば現金を対価とした外部からの雇い入れが求められました 1。これらの要因により、養蚕農家は現金支出が劇的に増加し、生産コスト構造自体が現金決済に依存するようになりました。この高い運転資金需要が、農村における資金調達(借入)の必要性を高め、信用取引の制度化を不可避にしました。

4.2. 農家のリスク構造の変化と外部信用システムへの依存

生糸価格は国際市場の変動に直接晒されるため、養蚕農家は価格下落リスクや病害リスクを抱えることになり、従来の綿花農家よりも遥かに大きな経済的リスクに直面しました 1。これらのハイリスクに対応するため、農家は現金をプールするか、あるいは信用(借金や担保)に頼らざるを得なくなりました 1

問屋や仲買人からの前貸し(プローダー)が一般化し、農村部における信用供与が、従来の地域内互助の枠を超え、輸出信用システムに組み込まれました 1。従来の信用が地域内の対人関係(人間関係資本)に基づいており、リスクが地域内で分散されていた綿花時代に対し、生糸時代は、信用が生産物(繭/生糸)の将来価値に基づいて設定され、リスクが国際市場の価格変動に依存するようになりました 1。この信用取引の深化は、農村の信用構造を伝統的な「人間関係担保」から、近代的な「実物資産・市場価値担保」へと移行させ、近代金融システムが農村に浸透し機能するための前提条件となりました 1

4.3. 貨幣経済の深度(Monetary Deepening)の質的変化

養蚕農家は、生産した繭の大部分を市場販売に回す必要がありました(商品化率の向上)1。生糸から得られる高額な収入は、農家の生活水準向上や、農業機械・肥料などの再投資に向けられましたが、これらの支出項目においても貨幣による決済が基本となりました 1

綿花経済時代は、生活物資の多くが現物交換や自家生産で賄われ、貨幣決済の比率は限定的でしたが、養蚕業が主流となることで、農家の経済行動は完全に市場メカニズムに統合されました 1。これは、経済史において「貨幣経済の深度(Monetary Deepening)」が急進的に進んだことを意味します。つまり、生活必需品だけでなく、生産活動そのものが現金収入と現金支出に依存するようになり、農村経済は従来の自給自足的な経済モデルを崩壊させ、貨幣と信用に基づいた経済活動が不可避的に浸透していきました 1

以下の比較表は、綿花から生糸への移行が、市場、価値密度、資本集約度、貨幣決済、信用形態の全ての側面で、経済活動の性質そのものを根本的に変化させたことを示しています 1

Table 3.1: 綿花経済と生糸経済の比較:農村の経済構造への影響

項目

江戸時代後期 綿花経済

明治初期 生糸経済(養蚕業)

主な市場

ローカル市場、自家消費

国際市場(輸出主導)

生産物の価値密度

低い(嵩張る、重い)

非常に高い(軽くて高価)

初期投資・運転資金

低い、家族労働・現物交換で賄われる部分大

高い(桑畑造成、賃金労働力)、現金支出が必須

貨幣決済の頻度・比率

低い(特定の原材料購入などに限定)

非常に高い(生産財、生活財、賃金、国際決済)

主な信用形態

地域内の相互扶助、現物担保

生糸を担保とした商業信用、近代金融への依存

V. 絹の価値の変遷:準貨幣機能から近代金融の担保へ

5.1. 江戸期の貨幣流通の制約と高額決済手段としての絹:「準貨幣」としての交換・貯蔵機能

江戸時代の貨幣流通は、特に地域間取引や農村部において、幕府発行の公式な正貨(金銀銭)の流通量が必ずしも潤沢ではなく、高額な決済や長期間の価値の貯蔵には困難が伴いました 1。特に地域間での金銀比価の違いが商業活動の障害となることもありました。

この貨幣流通のギャップを埋めるための「価値の貯蔵手段」や「高額交換手段」として、生糸や絹織物が利用されました 1。絹は、価値密度が非常に高く、持ち運びや貯蔵が容易であり、腐食の心配がないという点で、米や他の農作物と比べて圧倒的に優れた特性を持っていました。その高い換金性が全国的に保証されていたため、実質的に高流動性資産として認識されており、高額な借金の返済や、土地や家屋などの高価な資産購入の際の現物決済として利用された事例が確認されています 1。これは、貨幣が不足している状況下でも、市場で常に高換金性が保証される標準化された商品(絹)を利用することで、高度な商業的信用取引を維持しようとする市場の知恵が存在していたことを示しています。

5.2. 明治期:生糸の「第一級の担保資産」への変質

明治期に入り、生糸の輸出ブームが起こり、近代的な金融システムが徐々に整備されると、絹の経済的役割は変化しました 1。絹は、国内での限定的な「準貨幣」としての役割から、国際市場で即座に高額な外貨に交換できる**「第一級の担保資産」**へと変質しました 1

国内の金融システムが整備され、近代的な銀行や信用機構が輸出業者や問屋に対して、生糸を担保とした信用供与(輸出ファイナンス)を行う体制へと進化しました 1。輸出業者が国際市場から信用を得るためには、確実な担保が必要であり、生糸は農村の信用(農家の生産能力と繭の品質)を、横浜の国際信用へと変換する「信用のブリッジ」として機能しました。生糸は、日本の資本蓄積のプロセスを物理的、金融的に支える中心的な担保資産としての役割を担い続けました 1

5.3. 輸出決済システムにおける生糸の役割:横浜正金銀行と取立為替手形

玉置紀夫氏の「日本金融史」からの引用が示すように、生糸や茶の輸出決済は、近代的な金融メカニズムを通じて行われました 1。輸出業者はまず、船荷証券をつけた取立為替手形を正金銀行に呈示します。正金銀行は政府より借り受けた紙幣をもってこの手形を買い取り(割引)、輸出業者に迅速な流動性を提供しました 1

正金銀行は、手形と船荷証券を仕向地の出張員へ送り、出張員は代価(ポンド、ドル、正価)を回収し、その情報を横浜本店へ電送します 1。最後に、正金銀行は、この回収した正価または外貨を、政府から借り受けた紙幣の代価として返済しました 1

この決済スキームは、実物資産(生糸)の担保力を利用して国内紙幣を裏付ける、極めて洗練された信用創造と資本回転の仕組みでした。輸出活動を通じて国際市場で獲得した正貨や外貨が政府に還流することで、多様な種類の通貨を、国際決済という単一の近代的な金融メカニズムを通じて一本化する過程が進行し、明治政府発行の紙幣の国際的な信用力を実質的に裏付ける形となり、日本の金融システムの近代化と安定化に不可欠な役割を果たしました。

VI. グローバル市場接続のための物流インフラと地域資本の興亡

6.1. 輸出経路の確立:八王子をハブとする生糸集積機能

生糸が日本の最重要輸出品となるにつれて、その輸送経路の確保が経済発展の生命線となりました。八王子は、信州(長野)や甲州(山梨)といった主要な繭生産地帯と関東地方を結ぶ交通の要衝であり、急速に生糸の集積地として発展しました 1

安政6年(1859年)に横浜港が開港されると、旧来の浜街道が、関東周辺や多摩地域の生糸を横浜へ直接送るための動脈として活用されました 1。この経路は、高付加価値商品である生糸を欧米へ大量に輸出するためのインフラとなり、第二次大戦まで日本の外貨獲得の最大の資金源を支えることとなりました 1

6.2. 「浜街道」(絹の道)の経済的役割と「遣水商人」の繁栄

浜街道(後に研究者によって「絹の道」と名付けられた)は、高付加価値商品の輸送インフラとして高頻度で機能しました 1。生糸は馬や人力によって八王子から南下し、「遣水峠」を越えて横浜港へと運ばれました 1

この高額商品の輸送を組織化し、信用を供与できた特定の商人集団に資本が集中しました。特に八王子市「遣水」地区の商人は、この生糸輸送を仲買として担い、大きな利益を上げ、「遣水商人」として地域商業資本を集中させました 1。彼らは単なる運送業者ではなく、生糸の物理的な移動を保証し、輸送中のリスクを引き受け、仲買人や問屋、農家間の前貸しを円滑にする初期の金融仲介機能をも兼ね備えていました。輸送ルート上には、文政・天保年間の頃に成立した町田の六斎市など、既存の在郷市場の商業基盤が存在しており、生糸輸送は既存の商業インフラを最大限に活用しつつ、その規模を劇的に拡大させたのです 1

6.3. 地理的制約と輸送システムの変革:鉄道開通による優位性の終焉

浜街道は、遣水峠を越えるなど地形的な制約があり、輸送コストが高く、天候や治安の影響を受けやすいという、初期のグローバル市場接続における物流の脆弱性を抱えていました 1

この繁栄は長くは続かず、鉄道(特に横浜線)の開通などにより、「遣水商人」たちの優位性に終焉が告げられました 1。鉄道は生糸の輸送コストを劇的に下げ、輸送の信頼性を高め、物流プロセスを標準化しました 1。これにより、高コストな馬輸送に依存していた特定商人集団の優位性は奪われ、「脱集中化」が促されました。浜街道と遣水商人の事例は、近代化初期における物流インフラの効率性が、地域資本の興亡を決定づける要因となり、技術革新が地理的な制約を一気に克服したことを示しています 1

以下の表は、絹の道の歴史的変遷と、それが地域に与えた経済的影響の変遷を示しています 1

Table 5.1: 八王子—横浜「絹の道」の歴史的変遷と経済的機能


時期

道の名称

経済的機能

地域への影響

1859年(安政6年)以降

浜街道

関東周辺生糸の集積・横浜港への直接輸送路。外貨獲得の動脈。

「遣水商人」の繁栄と地域商業資本の集中 1

1889年(横浜線開業)以降

絹の道(古道化)

輸送路としての機能を喪失し、歴史的・文化的な意義へ移行。

地域経済における商人の優位性の終焉 1

VII. 絹産業が日本の近代化と資本蓄積に果たした貢献

7.1. プロト工業化の継承と技術革新:桐生・福井の多様な発展戦略

生糸(繭)生産の爆発的な増加は、その後の絹織物産業の近代化を強力に後押ししました。江戸時代に問屋制家内工業の経験(プロト工業化の遺産)を持っていた桐生は、その技術的熟練度と強固な商業ネットワークを継承し、輸出市場の要求に対応するため、西洋式の染色技術やジャカード織機などの新技術導入に柔軟に適応しました 1。桐生が近代日本の産業発展における成功例とされるのは、プロト工業化の遺産を、グローバル市場と新技術の圧力下で巧みに適応させた点にあります 1

日本の主要な絹織物産地である西陣、桐生、福井は、それぞれ異なる発展経路を描きました 1。西陣は伝統的な高度な分業体制を維持し、国内の高級呉服市場に特化しました。一方、桐生は輸出向け製品の多様化に注力し、福井は薄地の羽二重などの輸出向け生地に特化することで低コスト・大量生産型のモデルを追求しました 1。これらの多様性は、労働慣行や問屋の組織力といった地域ごとの「制度的枠組み」の違いが、グローバル経済への対応能力を決定づけたことを示唆しています。

7.2. 官営模範工場と民間資本:製糸業による初期工業化の牽引

製糸業は、官営模範工場である富岡製糸場に代表されるように、初期の近代的な工場制機械工業の導入を促し、後の軽工業・重工業化のための技術的および資本的な基礎を築きました 1。製糸業における近代的な労働管理と技術習得の経験は、後の産業分野への人的資源の供給源ともなりました。

絹産業は、農村の労働集約的な養蚕(原材料生産)と、近代的な工場制(加工)が併存する「二重構造」を通じて進行しました 1。この二重構造は、農村の余剰労働力(特に女性)を工場労働力として効率的に吸収するメカニズムを提供し、初期の低賃金による資本蓄積を可能にしたという、日本の初期工業化の特性を決定づけました。

7.3. 絹産業がもたらした外貨と財政基盤の強化:自立的近代化の礎

絹産業によって稼得された膨大な外貨は、明治政府が財政基盤を固め、軍事・インフラ整備などの近代化政策を推進するための重要な資本源となりました 1。国際決済メカニズムの確立(V.5.3節)も合わせ、絹産業は日本の近代化を財政面から支える決定的な貢献を果たしました。

グローバル経済史の視点から見ると、日本の絹産業の発展は、非西洋国が国際市場の需要に自主的に対応しつつ、欧米列強による植民地化を免れ、自力で工業化を達成した稀有な事例として位置づけられています 1。国際貿易による産業転換が、国家の自立的な発展にどのように貢献しうるかを示す決定的に重要な証拠となっています 1

VIII. 結論:近代化の決定的な推進力としての生糸経済

8.1. 貨幣経済浸透の加速と構造的転換の総括

本報告書の分析は、幕末の開国によって安価な外国綿が流入し国産綿花産業が打撃を受ける中、生糸の輸出ブームが日本経済を救済したという経済史的事実を再確認しました 1。そして、この生糸産業こそが、日本の農村経済を不可逆的に国際市場と貨幣経済に組み入れた決定的な要因であったと結論付けられます。

綿花経済時代は、ローカル市場を中心とした部分的な商業化と、限定的な貨幣利用に特徴づけられていました。対照的に、養蚕業は、高額な資本投下、国際価格の変動リスク、および輸出品質を担保するための信用取引を前提とし、農家の行動原理と生活の隅々にまで貨幣決済の必要性を浸透させました 1。生糸ブームは、綿花経済の限定的な商業化とは比較にならないレベルで、経済システムの深度(Monetary Deepening)を質的に変えたのです 1。渋沢栄一が伝統的な在来産業と国際市場に対応できる高収益産業を兼業していたという事実は、グローバル市場での収益を上げつつ、伝統的な流通・信用ネットワークの安定性を保持するという、当時の合理的な多角化経営戦略のモデルを示しています 1

8.2. 絹産業の歴史的役割と最終的な見解

絹産業が果たした歴史的役割は、二重の意義を持ちます。第一に、絹産業は、外貨獲得源として明治初期の財政基盤を強固にし、国家が近代化のための資本を確保する上で決定的な貢献をしました 1。第二に、高流動性資産としての絹の価値(準貨幣から国際担保資産への変質)は、農村の貨幣経済化と信用取引の深化を促し、近代的な金融・流通機構の確立という強固な土台を築きました 1

したがって、日本の農村の経済構造を論じる際、綿花経済の時代はプロト工業化の遺産として重要ですが、生糸輸出時代こそが、農村をグローバルな資本主義経済の論理に本格的に接続し、日本の近代化の進路を決定づけた出発点であったと評価されます 1。養蚕業が日本の貨幣経済化を加速させ、世界市場への接続を決定づけたという論点は、経済史的事実、地理的インフラ(横浜—八王子「絹の道」)1、および農村金融の構造的変化によって強力に裏付けられる、日本の近代化における不可欠な側面です。

引用文献

  1. 日本金融史.docx

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