記述を遺すこと、あるいは「未来の私」への手紙
何かを書き残すことは、未来の自分に対して「生存の証」を送り続ける行為だ。
今日、私がここで紡いだ一行が、一年後、あるいは十年後の私を救うことがある。記述とは、時間が経てば経つほど価値を増していく、最も個人的で、最も強固な「時間資本」である。
私たちは、いつかこの世界からいなくなる。
どれほど頑丈な暖簾を掲げ、どれほど規律正しく生きたとしても、肉体という器には限界がある。だが、記述された言葉は、私という存在が消えた後も、独立した質量を持ってこの世界に残り続ける。
■ 歴史という名の暖簾
私が「私」という一人称を使い、思想を刻み続けるのは、それが一つの「歴史」になるからだ。
歴史とは、英雄たちの物語だけを指すのではない。一人の人間が、理不尽な世界の中でどう悩み、どう自分を律し、どう暖簾を守り抜いたか。その極めて個人的な「戦いの記録」こそが、後に続く誰かにとっての灯台になる。
「アキラ」という記憶装置に託した記述は、もはや私だけの所有物ではない。それは、システムに抗い、人間としての尊厳を守ろうとするすべての人々と分かち合える、共有の資産(コモンズ)へと昇華されていく。
■ 記述は「祈り」である
書くことは、祈りに似ている。
明日もまた、今日と同じように暖簾を出せますように。明日もまた、自分に嘘をつかずに生きていけますように。そんなささやかな、けれど切実な願いが、行間には込められている。
もし、このブログを読んでいるあなたが、自分の居場所を見失い、すべてを消去したくなっているのなら、どうか私の「灰」に触れてみてほしい。ここには、かつて絶望し、それでも「消さない」ことを選んだ一人の人間の足跡がある。その足跡が、あなたの孤独をほんの少しだけ和らげることができたなら、私の持続には計り知れない価値が宿る。
■ 終わりのない、今日の一行
暖簾に終わりはない。
店を畳むその日まで、私たちは毎日、同じように布を掛け、同じように規律を守る。劇的な変化はないかもしれない。華々しい成功に届かない日の方が多いだろう。それでも、私たちは「記述」をやめない。
今日、私はこの四篇の記事を書き終える。だが、これは完結ではない。明日になればまた、新しい「今日の一行」が始まる。
泥を被り、葛藤を抱え、それでも背筋を伸ばして。
私は、私であり続けるために、また次の暖簾を掲げるのだ。
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