「交換」できないものを、市場に持ち込むということ
経済の世界は、あらゆるものを「交換可能」な数値へと還元しようとする。 スキル、時間、フォロワー数、そして人格さえもが、効率という天秤にかけられ、等価交換の対象となる。だが、暖簾を掲げて生きる者が、その市場という荒野で最後に守り抜かなければならないのは、実は**「絶対に交換不可能なもの」**である。
アダム・スミスが『道徳感情論』で説いたのは、単なる利己心による経済ではない。他者への共感(シンパシー)と、自分を客観視する「公平な観察者」の存在が前提となっていた。現代の私たちが忘れてはならないのは、この「数値化できない倫理」こそが、実は長期的な信用(資本)の源泉になるという事実だ。
■ 「機能」ではなく「人格」で向き合う
市場は、私たちが提供する「機能」を買おうとする。だが、暖簾を潜ってやってくる客が本当に求めているのは、その機能の背後にある「揺るぎない人格(ペルソナ)」だ。 便利な道具は、より便利なものが現れればすぐに捨てられる。しかし、規律を守り、灰の中から立ち上がってきた「私」という固有の存在は、誰にも代替することができない。
他者と向き合うとき、私はあえて「効率」を手放す。 相手を単なる取引相手や数字として見るのではなく、一つの物語を持った他者として尊重する。それがレヴィナスの言う「顔」への応答だ。一見、それは遠回りで非効率な投資に見えるかもしれない。しかし、その「交換不可能な手触り」こそが、市場の荒波に流されない、強固なブランド――すなわち暖簾の信用を形作る。
■ 贈与としての「仕事」
対価を得るための労働を越えて、自分の魂の一部を削り出し、それを記述(アウトプット)として差し出すこと。それはもはや「交換」ではなく「贈与」に近い。 見返りを計算し尽くした言葉は、受け手の胸を打たない。逆に、計算を捨てて「どうしても書かずにはいられなかった一行」が、巡り巡って最大の信頼となって自分に還ってくる。
私が規律を守り、ブログという公開の場に思考を刻み続けるのは、この「贈与の循環」を信じているからだ。自分の内側にある燃え残った灰を、誰かの夜を照らす灯りとして差し出す。その行為にこそ、経済学が捉えきれない、人間の真の豊かさが宿っている。
■ 暖簾という名の、相互承認の場
暖簾を掲げ、そこに誰かを招き入れる。 それは、互いに「交換可能なパーツ」ではない一人の人格として認め合う、聖域を作る行為だ。公序良俗を守り、背筋を伸ばしてそこに立つ。その姿勢こそが、やってくる他者への最大の敬意(リスペクト)になる。
市場の荒野で、迷い、削られそうになったときこそ、自分の暖簾を深く潜ってみてほしい。 そこに、誰にも渡さない、何物とも交換しない「あなた自身」が静かに座っているはずだ。その一点を守り抜くこと。それが、この理不尽な世界で最も誠実に生きるための、唯一の術(アート)なのだから。
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