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11月, 2025の投稿を表示しています

排外主義の帰結

  ナチスドイツと参政党は大差ない スタンレー・ミルグラムの服従実験

彼岸過迄

  私が漱石の小説のなかで、一番読みやすいというか、想像力を掻き立てられるのが、「彼岸過迄」なのですが、あれは、近代資本主義的「都市」の誕生を裏付けるものだと思うのです。 内田隆三先生が「生きられる社会」(新書館)で述べていますが、 「社会という『過剰』な存在を生みだすために、個々の人間は、いつも自己の生存のリスクの最小化を優先するような、どこかで『矮小』に流れる思想を分析しなければならない。たしかに、われわれはこうした過剰と同時に、矮小を生きていることを感じることがある。(13頁)だが、この過剰と矮小とは社会的なものではなく、むしろ社会を偽装する何らかの『共同体』の規制であるとすればどうなのだろうか。(13頁)だが、現代のように巨大な集合態としての社会では、このような共同体のモデルによって社会の構成を考えると、現実にたいしてきわめて抽象的なイメージしか与えられないだろう。(13頁)実際、現代の巨大な社会は共同体のような閉域として思考されうるものではない。それは閉じているように見えても奇妙な無限をはらんでいる。(13頁)貨幣への欲望に媒介される社会性の場は、現代の巨大な都市のなかに立ち現れ、そこに生きる人間の関係を通過していく。(14頁)G・K・チェスタトンによれば、探偵小説はそのような大都市のありようや文化感性ないし詩情を描いてきたのである。(14頁)探偵小説が英米で受け入れられたとき、それはデモクラシーの象徴であるようにいわれたりした。(14頁)だが、実をいうと、もっと別の意味でも探偵小説は民主的なのである。(14頁)だが実際には、大都市がそのような共同体に回収しきれないほど巨大な集合態になったことが探偵小説の成立平面になっているとすればどうなのか。考えねばならないのは共同体化のベクトルではなく、大都市化のベクトルであり、大都市のディスクールとしての探偵小説である。(15頁)探偵小説はふつう大団円における解決に到達する。それが探偵小説の成功であり、あるべき終幕である。それは不安な見えない都市に民主的な監視の共同体という外観が与えられるときであり、同一性にかんする安心感が読者の心に広がるときである。だが現実は小説からずれている。実際には、そのような外観はイデオロギーでしかない。(18頁)探偵小説はむしろその挫折ーそれは読者の望まぬこととしてもであるーにおい...

政治信用と経済政策の伝達

  政治の「信用」と政策の実効性:後期資本主義におけるガバナンスの危機と日本型不信の構造分析 現代の政治経済において、政策の機能と実効性は、何よりも政策主体たる政府に対する国民の「信用(クレディビリティ)」に強く依存する。為政者が、特定の政策論理(例えば、高市政権が掲げるような「責任ある積極財政」の議論など)について、その合理性を専門的なレベルで説得できたとしても、「日経新聞の記事を読めば、それなりに理屈が通る」程度の難解さでは、一般市民の理解の閾値を超えてしまう。政治的信用が崩壊した社会では、このような複雑な論理は、政策効果を無効化するどころか、政治と大衆の間に存在する根深い断絶をさらに深め、悪循環を招く。本報告書は、この政治的信用喪失の構造的な要因を、マクロ経済学のクレディビリティ理論、グローバル化と新自由主義による社会的疎外、そして批判的社会学の視点から包括的に分析する。 序章:信用なき政治の代償 — 政策実効性の基盤としての「信用」 1.1. 政策クレディビリティの政治経済学:信用は政策効果の必要条件である ユーザーが指摘する「政治は信用されてナンボ」という原則は、マクロ経済学におけるクレディビリティ理論の核心である。財政政策や金融政策といったマクロ経済政策の効力は、政策立案者が公約を長期的に維持するという市場参加者や家計の期待形成に強く依存する。この期待が揺らぐ、すなわち政治的信用が欠如する場合、政策は意図せざる逆効果をもたらす可能性が高まる。 例えば、拡張的な財政政策が高く評価されたとしても、政府への信用を欠く場合、国民はこれを一時的な政治的動機に基づく支出と見なすか、あるいは将来的に避けられない増税や高インフレの兆候として捉える。この不信感は、家計に貯蓄の増加や資産の海外への逃避(リカードの等価定理的な反応)を促し、政策が本来意図した消費や投資の増加を相殺してしまう。信用がなければ、財政出動は一時的な景気刺激に終わるか、将来世代に負担を押し付けるものとして受け止められ、長期的な成長の基盤とはなり得ない。 日本の現状は、この政治的信用の崩壊を明確に示している。代議制民主主義の主要な構成要素である「政党」「国会」「政府」を信頼している国民はわずか2割台に過ぎず、6割が信頼できないと回答している 1 。さらに、国民の61.7%は、「政治とカネ」の問題...

純債務残高論の意義と限界 Googleの生成AIが詳細なレポートを作成してくれました。

  日本の公的債務評価における純債務残高論の経済学的整合性分析 I. 序論:日本の財政議論における焦点の変遷と純債務残高論の台頭 日本の公的債務残高は、対国内総生産(GDP)比で国際的に突出した水準にあり、長年にわたり財政健全化に関する議論の硬直化を招いてきた。特に、一般政府総債務残高がGDP比で250%を超える水準にあるという事実は、持続可能性に対する根強い懸念を生じさせている。このような背景のもと、近年、政治的な議論において、総債務残高ではなく「純債務残高」を財政状況の主要指標として捉えるべきだという見解が台頭している。これは、政府の負債のみに着目するのではなく、政府が保有する金融資産を考慮に入れることで、財政の健全性をより現実的に評価しようとする試みである。 純債務残高論は、一見すると、政府の財務状況を企業会計的なバランスシートの観点から包括的に捉えようとする合理的な主張に見える。しかし、公共財政と企業財務の間には、資産の流動性、負債の性質、そしてマクロ経済全体における政府の役割という点で根本的な違いが存在する。本報告書は、この純債務残高論の提示がマクロ経済学的に見ていかなる意義を持つのか、また、その指標が内包する技術的な限界は何であるかを厳密に検証することを目的とする。 本報告書の分析アプローチは、国民経済計算(System of National Accounts: SNA)に基づき、財政のストック(純債務)とフロー(部門別バランス、債務動学)の双方を統合的に扱う。定義の厳密性の検証から始まり、純債務残高の国際的な位置づけを客観的なデータに基づいて確認する。さらに、ストック指標の限界と、財政の持続可能性を決定づけるフロー分析の優位性を検証することで、純債務論が持つ専門的有用性と、それに伴う政策的なリスクを批判的に評価する。純債務残高論は、企業会計のロジックを公共財政に単純に適用しようとする試みであり、企業会計で重視される純資産(資産から負債を引いた額)が重要であるという考え方に基づいている。しかし、政府の資産は、企業のように自由に処分して一般債務の返済に充てることができないという特性(非流動性や目的拘束性)を持つため、総債務を相殺する能力には本質的な限界がある。この点を踏まえ、純債務残高は財政健全化の万能薬ではないという前提のもとで分析を進める。 ...