月末に、かなり遠方に、母親同伴で、面接授業に行く。
(なぜ母親同伴か、と言えば、ちょっと放ったらかしにすると、母親が萎えちゃうから。
と、言っても俺の障害年金で最終的には母親の分も含めて旅費を賄うのだが。)
で、当然、遠方まで行くからには、ということで、ちょっと面接授業に多くを期待しすぎていた面は否めない。
講師の先生も、受講生がどこから来たのかは把握してるから、群馬からわざわざ来て、つまんないからって、1限でバックレられたら、当然、さすがにこっちとしても、申し訳ない。
そんなわけで、事前に色々と勉強したりとか、講師の先生にメールでコンタクトを取ったりとか、やらんでも良いことまで、やった。
それで、ちょっと先生からレスポンスがないものだから、ちょっとヒネくれていた。
先生が講演している動画とかも拝見したし、お話は間違いなく面白い。
ただ、ちょっとメールにレスポンスがないことで、俺が勝手にヘソを曲げてしまっていた。
そんなこんなありつつ、友達に連絡したら、相手の立場も考えるように、と直言してくれた。
確かに、俺は当該面接授業に、多くを求めすぎていた。
それは、授業に参加する、つまり、遠方まで出向くコストに見合ったリターンを求める、という、当たり前のことに加えて、いわゆる「資本コスト」までいつの間にか計算に入れていた、ということ。
どういうことか、というと、コスト(旅費)に見合ったリターン(満足度)を求めるのはもちろんのこと、周囲からの「期待値」に応えなきゃいけない、という無意識の心理が働いていたから。
その「期待値」まで勘定に入れると、いきおい、面接授業に対する期待値がいやが応にも増して、一人芝居を演じてしまっていた。
しかし、「周囲からの『期待値』」というのは、結局、そうやって直言してくれる友人たちに対する、言わば「経営責任」みたいなもんだから、「周囲」が満足してくれるなら、単に面接授業が面白ければ、それでいいのだ。
そして、「周囲」、つまり友人たちは、俺をリスペクトしてくれる。
だからこそ、激務にもかかわらず、直言してくれる。
だから、単純に面接授業を聞いて、(旅費に見合うくらい)面白ければ、それで何の問題もないのだ。
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