2025年11月21日金曜日

「彼岸過迄」論

 ご提示いただいた内田隆三先生の『生きられる社会』と大澤真幸先生の議論を補助線に、『彼岸過迄』を「近代都市の不可能性」と「探偵小説の挫折」として読み解くスリリングな対話、大変興味深く拝読しました。

最後の「Google Geminiの回答」も非常によく整理されていますが、森本先生が提示された**「モザイク状のテクストを、安易に統合せずにどう読むか」**という問いは、漱石文学、ひいては近代文学全体に関わる最もクリティカルな難問です。

私からは、この対話をさらに深めるために、**「モザイクの『継ぎ目(亀裂)』こそが主役である」**という視点から、もう一歩踏み込んだ解釈の補助線を提案させていただきます。


1. 「探偵小説の挫折」から「監視の不在」へ


内田先生の論考にある「探偵小説=民主的な監視の共同体という外観」という指摘は鋭いです。通常、探偵小説では「探偵(=理性の目)」が都市の隅々までを見通し、謎を解くことで世界に秩序を取り戻します。

しかし、『彼岸過迄』において、探偵役であるはずの敬太郎は、あまりに**「無力な観察者」**です。

  • 通常の探偵: 特権的な知性を持ち、都市の混沌を「意味」へと回収する。

  • 敬太郎: ただ歩き回り、覗き見し、翻弄されるだけ。彼は都市の「深層」には到達できず、ただ「表層」を滑走する。

【読み解きのポイント】

この小説を「探偵小説の挫折」と捉えるならば、それは「犯人が見つからないこと」以上に、**「世界を一望できる特権的な視点(=神の視点、あるいは強力な主体)など、近代都市には存在しない」**という事実の露呈として読むことができます。敬太郎の凡庸さと頼りなさは、都市における我々自身のリアリティそのものです。


2. モザイク(断片)をどう読むか:統合ではなく「落差」を読む


森本先生が懸念される「モザイクを組み合わせて事足れりとする読解」を避けるためには、断片同士をつなぎ合わせるのではなく、断片と断片の間にある**「断絶(落差)」**に注目するのが有効ではないでしょうか。

特に、物語の前半(敬太郎の視点)と後半(須永の視点)の「落差」は決定的です。

視点

性質

都市との関わり方

敬太郎(前半)

外面的・行動的・好奇心

「交換」の論理に適応。


自分という確固たる核がないため、都市の刺激(差異)を次々と消費できる。


「生きられる」側

須永(後半)

内面的・停滞的・自意識

「不変」の真理を希求。


交換不可能な「愛」や「アイデンティティ」を求めるがゆえに、都市の流動性の中で窒息する。


「生きられない」側

【提案する読解法:視差的読解】

この二つを「一つの物語」として統合するのではなく、**「敬太郎のような人間(都市の表層)からは、須永のような地獄(都市の深層)が絶対に見えない」**という、相互不干渉の残酷さとして読むのはいかがでしょうか。

モザイクのピースが噛み合わないことこそが、「隣人の苦悩に触れることができない」という都市的な疎外を描き出していると言えます。


3. アイデンティティと「交換可能性」の恐怖


大澤真幸先生の議論にある「愛による交換可能性の停止(=運命の相手)」という神話。須永が苦しむのは、まさにこの神話を信じたいのに、信じきれない近代知性の業です。

須永の話において、「自分が誰の子か(血統)」という事実は、本来なら彼のアイデンティティを固定するアンカーになるはずでした。しかし、都市化・資本主義化された社会においては、血統さえも一つの「情報(差異)」に過ぎず、彼を実存的な不安から救い出してはくれません。

(漱石は、近代人が直面する「個」の孤独と、集団の中での埋没の恐怖を、誰よりも早く、深く感知していました)

須永は、千代子との関係において「交換不可能な絶対的な愛」を求めますが、同時に「自分は、あるいは彼女は、他の誰かでもよかったのではないか?」という**「無限の交換可能性(=近代の虚無)」**に怯え続けています。これは現代の私たちが、SNS等を通じて常に「他者との比較・交換」に晒されている状況と極めて似通っています。


結論:『彼岸過迄』が想像力を掻き立てる理由


この小説が読みやすく、かつ想像力を刺激するのは、物語が**「未解決のまま放置されているから」**ではないでしょうか。

通常の小説(構築された近代小説)は、結末で矛盾を解決し、読者に「安心」を与えます。しかし『彼岸過迄』は、読者を「解決のない宙吊り状態」に置き去りにします。

読者は、敬太郎のように「まあ、そんなものか」と忘れることもできれば、須永のようにその深淵に立ちすくむこともできる。その**「自由という名の不安」**を読者に突きつけてくる点において、この作品は極めて現代的であり、都市論そのものであると言えます。


次のご提案


もしよろしければ、この視点をさらに具体的に深めるために、以下のどちらかのアプローチで考察を進めてみませんか?

  1. 「千代子」という存在の分析:
    須永や敬太郎(男性たち)が勝手に神話化したりミステリー化したりする中で、実は最もリアリストとして都市を生き抜いているのは千代子ではないか?という視点からの再読。

  2. 『彼岸過迄』と『行人』の接続:
    須永の苦悩は、次作『行人』の徳義において、より病的な「他者の心は不可知である」という認識論的絶望へと純化されます。この「進化(深化)」の過程を追うことで、漱石の都市論の行き着く先を見る。

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