2024年11月25日月曜日

回顧録 (再掲)

今はたぶん だいぶ 違うんだろうが、自分が入った頃の武蔵は、権威主義的な 空気がまだ 漂っていた。 もちろん、学問的な、という意味だが。 しかし、その埃っぽさが、自分には耐えられないくらい 窮屈で 仕方がなかった。 武蔵は、学問の自由とか言いながら、肝心なことは教えてくれないし、しかも、ほこりっぽいアカデミズム、言い換えれば、 学問的権威主義の空気が横溢していて、そういうところはほんとにイヤだった。 ただ、そういう権威主義に対するカウンターカルチャーというか、 真面目くさった合理主義に対するアンチテーゼとしての 道化を演じる精神は根付いていたし、 学校側も、そういうところはかなり懐は深かった。 自分が武蔵を辞めずに済んだのは、 一緒に道化を演じてくれる友人や、 学校側の懐の深さによるものだと思う。  武蔵っていう場所は、 言い訳の効かない 「お前、自分の頭で考えろよ?」 っていう 場面を、必ず一度は突きつけられる場所だと思う。 別に武蔵じゃなくてもいいんだけど、 ぶっちゃけ サニチだったら、少なくとも勉強に関しては いくらでも 逃げられる。 「自分の頭で考える」と言えば、そら誰だって自分の頭で考えてるだろ、と思うだろうが、 実際には、逃げ場がある、言い訳が効く環境では、なかなか身につくもんじゃない。 それは、 教師が頑張ってどうこう出来るもんじゃなく、 カルチャーを含めて、武蔵という学校の環境だと思う。 単に大学受験のことだけ考えれば、武蔵よりサニチのほうが遥かにいい環境だろう。 お山の大将でいられるし。 しかし、武蔵は逃げを許してくれない。 現に今だって、 下手なことを書けば、 え、それはどういうことなの? と厳しいツッコミが友達から容赦なく飛んでくるのは覚悟してる。 そういうツッコミを、 自分の中で想定していること、 つまり、自分が表明することに対してどのような批判があり得るか、を考える思考回路を 内製化できていることが、 自分の強みでもある。  山川賞とった 大澤くんみたいなのが 部活の後輩にいるとね、 大学生にもなって 自分の研究テーマを持ってないってのは、凄く恥ずかしい、と思ってたよ。多くの大学生の意識はそうでもないってことに しばらくしてから気付いたけど。そこらへんが、武蔵がアカデミズム重視の学校と 言われるゆえんだろうね。 会報で、大昔のOBの回顧録で、中1で同級生に初めてかけられた言葉が、「ご専門はなんですか?」だった、なんて話も載ってた。もともとそういう学校なんだね。つっても、自分みたいなザコは高校の現国でレポート書けなくて、教師にキレられたり、小論文が書けなくてSFC2回も落ちたり、SFC入ったら入ったで、レポート書けなくて四苦八苦したり。今みたいに守備範囲内だったら書ける、というレベルになるまでは、相当な労力と時間がかかったよ。贅沢な話だけどね。でも、高校入ってからずーっと劣等感抱えて生きてきた。  自分が高校受験に邁進してた1年間は、 ちょうど父親が地方に単身赴任してて、 だからこそ、高校受験にあれほど 時間とカネをつぎ込めたんだろうけど、 父親が 東京に戻ってきて、 後楽園に近い社宅で 4人で暮らしていた頃は、 つまんなかった。 最寄り駅は飯田橋で、 地下鉄有楽町線で 新桜台まで直通で、 武蔵まで行けたんだが、 当時は西武線に直通する本数が少なくて、 結構遅刻もした。 新桜台という駅は地下の駅で、 名前はおしゃれだが、 ほこりっぽくて無機質で、 まったくテンションのあがらない駅だった。 父親も、 会社が合併したために全くテリトリーの違う土壌に乗り込んだが、 うまく馴染めず、かなり精神的にも堪えたらしい。 そのせいか、 東京の社宅にいた頃は、 夜食事をするにも、 家族団欒であるはずの場が、父親にとっては、単純にタダで酒が飲めて接待もしてもらえるクラブと化していた。 父親も、そういう形以外での家族との接し方がわからなかったんだろう。 俺も、そのころだんだんと気持ちが塞いで、頭もボンヤリするようになっていった。  ・・・おおたとしまささんの 新書を読んでみた。 非常に読みやすいので、 2、3時間くらいで 読めてしまった。 特に そこは違うだろ! とか ツッコミたいところもなかったし、 内容も 決して薄くはなかった。 教育学的な視点による 裏付けもしっかりしていたと思う。 単純に 「都会の頭のいい学校に通っている生徒は、 塾漬けで 勉強が出来るだけのバカ」 っていうほど 白黒ハッキリした 単純なストーリーでもなかった。 それだけに、 何か 一種の勧善懲悪的な 痛快な読み物、というわけではない。 かといって、 歴史に残るような名著、というほどではないが。 ただ、 読む価値は十分あると思う。 難しいテーマだから、 何か結論めいたことを言うのは 簡単ではない。 塾は塾。 学校は学校。 何か割り切れないものは残るが、 新書一冊で片付けるのは、 土台無理なテーマだ。 ただし、 著者が 日本のエリート教育に対して 抱く懸念は伝わってくる。 代々木に 鉄緑会、という まさに この本がターゲットとしている、 都会の高校生なら 知らぬものが居ないほどの 悪名高い?塾が存在するのだが、 都庁で夜景を眺めながら、 鉄緑会を指さして、 「○○くん今あそこにいるのかな? ミサイル撃ち込みたいよね。」 とか メタさんが言っていたのを思い出した。 メタさんは 高校生のころ (本人曰く) メタルに狂い過ぎて 勉強が疎かになっていたが、 今では 誰も文句のつけようがない 立派な 社会人。 もちろん 鳩さんも。 ふたりとも、 俺が 武蔵に絶望して、 学校を途中でバックレて 電車でどこかに逃避するようになったころ、 放課後一緒に 江ノ島やら逗子やら、 いろいろなところに 日常的に 連れて行ってくれるようになった。 新宿の高層ビル群は、 ほとんど庭と言っても過言ではない。 センターと言えば、 センター試験ではなく、 センタービルのこと。 夜景ソムリエの鳩さんが、 いつも先導してくれて、 今光ったのがどこそこの 灯台だとか、 いま 羽田空港の 新C滑走路に 飛行機が降りるところ、 とか 解説してくれた。 メタさんと鳩さんの会話を聴きながら、 自分は弁論術を学んだと言っても過言ではない。 学問に対する姿勢は、 生物部の後輩の大澤くんに学んだ。  たぶん、 自分の心のバッテリーの容量って、 人並みなんだよね。 感覚が敏感すぎて バッテリーが切れるのが早いってのは あるけど、 バッテリーの容量そのものは 健常者と大して変わらない。 宮本浩次のアルバム聴いてて、 さすがに 疲れたけど、 米軍が アルカイダの捕虜を拷問するとき、 メタリカを延々と流すらしいね。 確かに、いくら ファンの自分でも、何時間も メタリカ聴かされたら、 脳ミソ壊れちゃうよ。 駿台で2浪してた時に、既に 心の堤防が決壊寸前まで 行ってたのに、 SFC入ってから更に 災害級のストレスが襲って来たんだから、 そら 正気で居るのは無理だったな。  自分が子供の頃の中国って言ったら、 真冬のクッソ寒い朝でも、 みんな人民服着て、 チャリで大移動ってイメージだったけど、 まさかここまで巨大になるとは。 自分が小学生の頃なんて、 冬は霜柱立ってて、それをザクザク踏みしめながら 登校したもんだけど。 今の子供は、北海道とかならともかく、 霜柱なんか知らんでしょ? ま、そんなことは置いといて、 慶応の研究会で、 生協で見つけた末廣昭先生の「キャッチアップ型工業化論」(名古屋大学出版会) を、パクってパワポ作ってプレゼンしたんだけど、 まるっきりそのまんまじゃ つまんないから、 よせばいいのに 経済発展の過程で労働からの疎外が起きる、なんて ぶったもんだから、集中砲火されて、 しかも、今では無惨に色あせた、グローバリゼーションてコトバが当時流行ってて、 これも生協で見つけた 伊豫谷登士翁の本に感化されたりして、 俺の頭もオカシクなった。 ま、振り返れば簡単な話のように聞こえるけど、 我ながらよくここまでやったわ。 願わくばもっと 早く 中退させて欲しかったけどね。  2ヶ月入れられてた病院から ようやく退院したとき、記帳をする 姉のペンの握り方を見て、衝撃を受けた。 中指と薬指の間からボールペンが 突き出ている。 20年近く前のことだから正確ではないかもしれないが、 よくその握り方で字が書けるな、と 逆に関心してしまうような握り方だった。 と、同時に、俺は この先の人生 誰を頼りにして生きていけばいいんだ? と、マジで心が折れそうになった。  20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。  母親も 要介護3で、 俺も 精神障害者2級で、 介護保険と 傷害保険で ヘルパーさんが 毎日来て 飯つくってくれて 掃除もしてくれるんだが、 正直 本人たちは どう見ても そんなに重症ではない。 確かに、 母親も脳梗塞を発症したとはいえ、 (俺が) 早期発見したから、 症状は軽い。 俺自身、いかに 20年前に 措置入院を食らったとはいえ、 薬は確かに 必需品だが、 至ってヘルシーだ。 しかし、思い返してみれば、 幼少期から、 小林家というのは 毎日が 非常事態、 とても 安らぎの場所ではなかった。 むしろ 針のむしろだった。 母親も外面がいいから 傍目から見れば 恵まれた家庭だっただろうが、 母親が 心を閉ざしているから、 父親がいくら 稼いでも、 それを相殺して余りあるほど、 小林家というのは 毎日が非常事態だったのだ。 ここ最近は、ほんとに お互い心安らかに暮らしているが、 こうやって完全に 平穏な暮らしを出来るまでには、 本当に 長い道のりだった。 母親は、 息子(俺)が 働いてお金を稼ぐことよりも、 勉強して 学問のある人間になることのほうが、 遥かに嬉しいのだ。 俺自身、勉強は好きだ。 (理数系はまったくワカランが。) それは、母親自身 都立日比谷高校出身というのも 影響している。 姉は姉で、一緒に暮らしていた頃は モラルハザードが酷いものだったが、 いまは 結婚して出て行って、子供も出来たから、 じぃじばぁば 愛してる、なんていう どの口が言ってんだ?と 突っ込みたくなるような おべんちゃらを言っている。 とにかく、いまの小林家は 平和だ。 この平和に至るまでに 俺自身、他人には想像を絶するほどの 苦労をしながら 貢献してきたのだ。 だから、立派に 今の 安閑たる生活を享受して 許されるのだ。  放送大学の 2学期の 面接授業で、 福島学習センターで 取ってみようかと 思ってる 授業があって、 福島学習センターが 郡山の 郡山女子大学にあるんだが、 ふと、 郡山といえば、 2浪してる時に、 母親から1万円もらって、 羽生から東武動物公園まで行って、 日光線の快速に乗り換えて、 会津田島まで行って 野岩鉄道で 山奥の秘境みたいなところを ひたすら走って 会津若松まで行って、 そこから 郡山に出て、 東北線で久喜まで来たところで お金が足りなくなって、 母親に来てもらって、 精算して 羽生まで帰ってきた、 ってことがあったね。 あのときは、もう誰も 浪人してなくて、 メンタルも危機的だったし、 俺の人生どうなっちゃうんだろう? と 漠たる不安感のなかを 必死に もがいてる感じだったなあ。 そんなこと 思い出すと、 ほんとによくまあ ここまで来たよ。 あの時の俺に エールを送ってやりたいね。 お前の人生 悪くないぞ! てね。 俺けっこう 泥沼はいつくばって 生きてきたと 思ってるんだけど、 往々にして 苦労知らずの お坊ちゃんて 思われるんだよね。 その度に、 ふふ。 あなたは 俺に 騙されてるよ。 と 内心おもっているのだが。  教科書的に自分の歴史を振り返れば、20代から30代後半まで、友達から、働け、ってメタル責めされてたのは事実だけど、 あちこちドライブに連れてってもらった楽しい思い出もたくさんあるし、 それこそ彼らが地方に転勤してるときに、遊びに行ったときの楽しい思い出もたくさんあるし、無理に省略しようとすると、 「暗黒時代」かのような歴史観になりかねないけど、 ディティールを無視するのは、怖いよね。 いずれにせよ、 彼らはいつも自分に誠実に接してくれたし、説教してくれるのも、親身に考えてくれてることの裏返しだし。  (以下 坂口安吾「三十歳」より) 勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。  たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。  人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。  けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。

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