2024年11月28日木曜日
世界史の中の中国文明@さいたま (再掲)
シルクロードの中国で 南北朝対峙の状況から 隋による統一へと 向かっている過程で、 西方でも 大きな動きが現れる。 東ローマは ササン朝を 介在させずに、 シルクロードの利権(特に中国商品) を 掌握するために、 内陸・海洋の バイパスルートの開拓を企図。 ◎内陸ルート→ 当時、 突厥は ササン朝との関係が悪化しており、 東ローマと同盟。 東ローマは、 突厥支配下にあった 遊牧国家ハザール経由での 交易が計画される。 ◎海洋ルート→ 576年の ササン朝のホスロー1世 による イエメン占領によって、 東ローマの インド洋進出は阻まれる。 西突厥は 588~589年の 第一次ペルシア・突厥戦争 で敗北し、 ササン朝の優位は揺るがず。 ⇒しかし、 アラビア半島西岸経由の バイパスルートは依然として 機能しており、 メッカなどの 商業都市が 交易活動によって台頭し、 イスラーム勃興の呼び水となる。 自分なりのまとめ: 東ローマ帝国は、 西突厥と手を組んで、 ササン朝を経由しない、 中国商品を手に入れるルートを開拓した結果、 アラビア半島のメッカなどの 諸都市が台頭し、 イスラームの勃興に繋がった。
宋の時代になると、 江南の開発が進み、 米作が盛んになるとともに、 菜種油が 使われるようになり、 烏龍茶や 肥満に関する 健康書や 日用書が 出回るように なったそうです。 宋の時代には 銅銭が流通し、 日本の 鎌倉幕府との 交流も進み、 交易船の重しとして 銅銭が使われたことから、 日本にも 宋銭(銅銭)が 流通し、 さらに 元(モンゴル帝国)によって 宋が滅ぼされると、 元は 紙幣を強制的に流通させた ために 大量の 銅銭が 鎌倉時代の 日本に 流入したと 言われています。 余談ですが、 米はもともと 温暖な地域が原産なので、 地球温暖化でも 病気の蔓延は別として 基本的に大丈夫です。 新潟、秋田や北海道といった 寒冷な地域で 栽培されている イメージが強いですが、 むしろ 品種改良した結果 冷涼な地域でも 栽培できるようになった、 と 言われています。 東北地方では しばしば 米の 凶作に見舞われましたが、 戦前の昭和で 米の大凶作が 起きて 農民が疲弊しなければ、 戦争は 避けられたのではないか、 という 説もあると 聞いたことがある気がします。
隋帝国、それに続く 唐帝国の時代に 北方で 栄えたのが、 突厥です。 (ちなみに、 突厥は 現在の トルコの 源流とされ、 突厥が 柔然から 独立した年が 現在でも トルコの 建国日とされている そうです。) 唐の時代の 「西遊記」で有名な 玄奘も 陸路で インドを目指しますが、 突厥の長 (可汗) から 歓待を享けています。 陸路で行けた、 ということは、 突厥の支配のおかげで 安全だった、ということです。 隋唐に続く 宋の時代、 北方で 栄えたのが、 契丹族です。 契丹は 英語で キャセイと言いますが、 香港の航空会社 キャセイ航空は これです。 ロシア語では いまでも 中国のことを キャセイと 呼んでいるらしいです。 それくらい 強大な力を誇りました。 英語の辞書で Cathay を 調べれば、 中国のことを指す ことが 確認できます。 さて、 契丹と、南では宋が 栄えた 10世紀、 周辺国家では 次々と あるものが発明 されます。 文字です。 契丹文字もそうですが、 日本でも ひらがな が 発明されています。
北魏は 漢民族の文化と 同化しようと、 名前を 漢民族風にしたりと、 いわゆる 漢化政策を 行います。 これは 特に 孝文帝の治世に 行われました。 また、 仏教を保護することで、 帝国の 正当性を強調したりしました。 雲崗・大同石窟が有名です。 また、 南の 隋、それに続く唐帝国も、 もはや 純粋な 漢民族帝国ではなく、 北方の騎馬民族の 血が入っています。
項羽と劉邦の 戦いの果に 漢帝国が 成立するわけですが、 現実には それで 終わりではなく、 その後 漢帝国は 北方の 匈奴との 戦乱を経験します。 で、 実のところ、 負けてます。 秦の始皇帝が 築いた 万里の長城で、 北方の騎馬民族は その南には 入ってこれないのかと 自分も 思ってましたが、 そんなことは ありません。 (ちなみに 現在の万里の長城は 主に 明の時代に 修繕されたものです。) 漢帝国は、 匈奴と和睦するために、 皇族を匈奴に 嫁がせていたりします。 それが 後々、 五胡十六国時代といって、 さまざまな 北方民族が 東部ユーラシアで さまざまな 国を建国したときに、 我々は 漢帝国の末裔だ、と 名乗って、 漢を名乗る 国が現れるらしいです。 そして、 その戦乱の中から 鮮卑族拓跋氏が 平原を統一し、 北魏が 建国されます。 こうして、 中国大陸の 北では 北魏、 南では (さまざまな 王朝が栄えた後) 隋帝国が 統一・成立するのが、 南北朝時代です。
魏呉蜀は 知らなくても、 さすがに 孔明は 聞いたこと ある方は 多いと思います。 ただ、 世界史を 勉強すると、 魏晋南北朝時代といって、 呉も蜀もシカト、 魏だけ。 孔明のコの字も出てこない、 しかも 孔明のライバル 司馬懿仲達の子孫が 建国した 晋が出てきて、 それもその後続く 南北朝の動乱と 一緒くたにされてしまうのが 悲しい現実です。 さて、 あの戦乱の時代は、 地球が寒冷化したために、 海水が蒸発せずに、 雨がふらない、 したがって 作物が実らない、 (南米チリ沖に 寒流が流れてて、 砂漠が広がっているのと 同じですね。) という 気候変動が 戦乱の原因という説 が あるそうです。 暑すぎてもダメ、 寒すぎてもダメ なんですね。 失礼しました。
据え膳食わぬは男の恥 (再掲)
20年前、 2003年の大晦日に 館林の 中学の同級生の家に 集まって、 もう 彼ら カラオケとかボーリングじゃ 飽き足りなくなってて、 車の免許も 持ってるから、 太田の 歓楽街に連れてかれて、 オッパブ行くことになって、 しょうがないから 付いてった。 今だに キャバクラすら 行ったことのない俺が。 出されたものは 丁寧に頂戴しないと、ということで、 丁重に いただいたら、 風邪ひいた。 そうだよね。 知らねーオッサンと 間接キスしてるのと 同じだもんね。 人間20年もあれば 成長するな。 他のやつは オッパブのあと ピンサロとか行ったみたいだったが、 俺は 勘弁してもらって、 屋台のドネルケバブ食ってたら、 連中とはぐれて ケータイも彼らの 車の車中に置いたまんまだったから、 しょーがねーから 太田駅まで行って、 始発で羽生帰ろうと思って コンビニで立ち読みして 時間潰してたら、 探しに来てくれた。 やっぱ 俺の考えることは 理解しているらしい。 もっとも、駅前にいなかったら それ以上 探さないとは言ってたが。 今じゃ みんな立派になったよ。 外科医とか物理学者とか消防隊員とか。 フラフラしてんのは 俺ぐらいだね。 でもまあ、中学の同級生と 年末に集まったのは それが 最後になっちゃったな。 (あれ、違ったかな? あんま覚えてない。) たぶん 会っても、話が噛み合わない。 共通の話題といったら 共通の知り合いの話ぐらいしか ネタがないし、 言うまでもなく 自分は 彼らとは 高校違うから。 彼らみんな理系だから、 ド文系の俺の話には 興味ないし、 俺も 理系の専門的な話は まったく わからない。
青空文庫 (再掲)
風と光と二十の私と 坂口安吾 私は放校されたり、落第したり、中学を卒業したのは二十の年であった。十八のとき父が死んで、残されたのは借金だけということが分って、私達は長屋へ住むようになった。お前みたいな学業の嫌いな奴が大学などへ入学しても仕方がなかろう、という周囲の説で、尤もっとも別に大学へ入学するなという命令ではなかったけれども、尤もな話であるから、私は働くことにした。小学校の代用教員になったのである。 私は性来放縦で、人の命令に服すということが性格的にできない。私は幼稚園の時からサボることを覚えたもので、中学の頃は出席日数の半分はサボった。教科書などは学校の机の中へ入れたまま、手ぶらで通学して休んでいたので、休んで映画を見るとか、そんなわけではない。故郷の中学では浜の砂丘の松林にねころんで海と空をボンヤリ眺めていただけで、別段、小説などを読んでいたわけでもない。全然ムダなことをしていたので、これは私の生涯の宿命だ。田舎の中学を追いだされて、東京の不良少年の集る中学へ入学して、そこでも私が欠席の筆頭であったが、やっぱり映画を見に行くなどということは稀で、学校の裏の墓地や雑司ぞうしヶ谷やの墓地の奥の囚人墓地という木立にかこまれた一段歩たんぶほどの草原でねころんでいた。私がここにねころんでいるのはいつものことで、学校をサボる私の仲間はここへ私を探しにきたものだ。Sというそのころ有名なボクサーが同級生で、学校を休んで拳闘のグラブをもってやってきて、この草原で拳闘の練習をしたこともあるが、私は当時から胃が弱くて、胃をやられると一ぺんにノビてしまうので、拳闘はやらなかった。この草原の木の陰は湿地で蛇が多いのでボクサーは蛇をつかまえて売るのだと云って持ち帰ったが、あるとき彼の家へ遊びに行ったら、机のヒキダシへ蛇を飼っていた。ある日、囚人墓地でボクサーが蛇を見つけ、飛びかかってシッポをつかんでぶら下げた。ぶら下げたとたんに蝮まむしと気がついて、彼は急に恐怖のために殺気立って狂ったような真剣さで蛇をクルクルふりまわし始めたが、五分間も唸うなり声ひとつ立てずにふり廻していたものだ。それから蛇を大地へ叩きつけて、頭をふみつぶしたが、冗談じゃないぜ、蝮にかまれて囚人墓地でオダブツなんて笑い話にもならねえ、と呟つぶやきながらこくめいに頭を踏みつぶしていたのを妙に今もはっきり覚えている。 私はこの男にたのまれて飜訳をやったことがある。この男は中学時代から諸方の雑誌へボクシングの雑文を書いていたが、私にボクシング小説の飜訳をさせて「新青年」へのせた。「人心収攬しゅうらん術」というので、これは私の訳したものなのである。原稿料は一枚三円でお前に半分やると云っていたが、その後言を左右にして私に一文もくれなかった。私が後日物を書いて原稿料を貰うようになっても、一流の雑誌でも二円とかせいぜい二円五十銭で、私が三円の稿料を貰ったのは文筆生活十五年ぐらいの後のことであった。純文学というものの稼ぎは中学生の駄文の飜訳に遠く及ばないのである。 私はこの不良少年の中学へ入学してから、漠然と宗教にこがれていた。人の命令に服すことのできない生れつきの私は、自分に命令してそれに服するよろこびが強いのかも知れない。然し非常に漠然たるあこがれで、求道のきびしさにノスタルジイのようなものを感じていたのである。 凡およそ学校の規律に服すことのできない不良中学生が小学校の代用教員になるというのは変な話だが、然し、少年多感の頃は又それなりに夢と抱負はあって、第一、その頃の方が今の私よりも大人であった。私は今では世間なみの挨拶すらろくにできない人間になったが、その頃は節度もあり、たしなみもあり、父兄などともったいぶって教育家然と話をしていたものだ。 今新潟で弁護士の伴純という人が、そのころは「改造」などへ物を書いており、夢想家で、青梅の山奥へ掘立小屋をつくって奥さんと原始生活をしていた。私も後日この小屋をかりて住んだことがあったが、モモンガーなどを弓で落して食っていたので、私が住んだときは小屋の中へ蛇がはいってきて、こまった。この伴氏が私が教員になるとき、こういうことを私に教えてくれた。人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ、というのだ。え、なんですか、と相手にきき耳をたてさせるようにして、先ず相手をひきずるようにしたまえ、と云うのだ。 私の学校の地区に、伴氏の友人で藤田という、両手の指が各々三本ずつという畸形児で鯰なまずばかり書いている風変りな日本画家がいる。一風変った境地をもっているから一度訪ねてごらんなさい、と紹介状をくれたので、訪ねてみたことがある。今日はただ挨拶にきただけだ、いずれゆっくり来るからと私が言うのに、いや、そんなことを云わずに、サイダーがあるから、ぜひ上れという。無理にすすめるので、それでは、と私が上ると、奥さんをよんで、オイ、サイダーを買ってこい、と言うので、これには面喰ったものだ。 ★ 私が代用教員をしたところは、世田ヶ谷の下北沢というところで、その頃は荏原えばら郡と云い、まったくの武蔵野で、私が教員をやめてから、小田急ができて、ひらけたので、そのころは竹藪だらけであった。本校は世田ヶ谷の町役場の隣にあるが、私のはその分校で、教室が三つしかない。学校の前にアワシマサマというお灸きゅうだかの有名な寺があり、学校の横に学用品やパンやアメダマを売る店が一軒ある外は四方はただ広茫かぎりもない田園で、もとよりその頃はバスもない。今、井上友一郎の住んでるあたりがどうもその辺らしい気がするのだが、あんまり変りすぎて、もう見当がつかない。その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹藪と麦畑で、原始林もあった。この原始林をマモリヤマ公園などと称していたが、公園どころか、ただの原始林で、私はここへよく子供をつれて行って遊ばせた。 私は五年生を受持ったが、これが分校の最上級生で、男女混合の七十名ぐらいの組であるが、どうも本校で手に負えないのを分校へ押しつけていたのではないかと思う。七十人のうち、二十人ぐらい、ともかく片仮名で自分の名前だけは書けるが、あとはコンニチハ一つ書くことのできない子供がいる。二十人もいるのだ。このてあいは教室の中で喧嘩けんかばかりしており、兵隊が軍歌を唄って外を通ると、授業中に窓からとびだして見物に行くのがある。この子供は兇暴で、異常児だ。アサリムキミ屋の子供だが、コレラが流行してアサリが売れなくなったとき、俺のアサリがコレラでたまるけえ、とアサリをくって一家中コレラになり、子供が学校へくる道で米汁のような白いものを吐きだした。尤もみんな生命は助かったようである。 本当に可愛いい子供は悪い子供の中にいる。子供はみんな可愛いいものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもっているので、あたたかい思いや郷愁をもっている。こういう子供に無理に頭の痛くなる勉強を強いることはないので、その温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるような性格を育ててやる方がいい。私はそういう主義で、彼等が仮名も書けないことは意にしなかった。田中という牛乳屋の子供は朝晩自分で乳をしぼって、配達していたが、一年落第したそうで、年は外の子供より一つ多い。腕っぷしが強く外の子供をいじめるというので、着任のとき、分教場の主任から特にその子供のことを注意されたが、実は非常にいい子供だ。乳をしぼるところを見せてくれと云って遊びに行ったら躍りあがるように喜んで出てきて、時々人をいじめることもあったが、ドブ掃除だの物の運搬だの力仕事というと自分で引受けて、黙々と一人でやりとげてしまう。先生、オレは字は書けないから叱らないでよ。その代り、力仕事はなんでもするからね、と可愛いいことを云って私にたのんだ。こんな可愛いい子がどうして札つきだと言われるのだか、第一、字が書けないということは咎とがむべきことではない。要は魂の問題だ。落第させるなどとは論外である。 女の子には閉口した。五年生ぐらいになると、もう女で、中には生理的にすら女でないかと思われるのが二人いた。 私は始め学校の近くのこの辺でたった一軒の下宿屋へ住んだが、部屋数がいくつもないので、同宿だ。このへんに海外殖民しょくみんの実習的の学校があって、東北の田舎まるだしの農家出の生徒と同宿したが、奇妙な男で、あたたかい御飯は食べない。子供の時から野良仕事で冷飯ばかり食って育ったので、あたたかい御飯はどうしても食べる気にならないと云って、さましてから食っている。ところが、この下宿の娘が二十四五で、二十貫もありそうな大女だが、これが私に猛烈に惚れて、私の部屋へ遊びにきて、まるでもうウワずって、とりのぼせて、呂律ろれつが廻らないような、顔の造作がくずれて目尻がとけるような、身体がそわそわと、全く落付なく喋しゃべったり、沈黙したり、ニヤニヤ笑ったり、いきなりこの突撃には私も呆気あっけにとられたものだ。そして私の部屋へだけ自分で御飯をたいて、いつもあたたかいのを持ってくるから、同宿の猫舌先生がわが身の宿命を嘆いたものである。この娘の狂恋ぶりには下宿の老夫婦も手の施す術がなく困りきっていた様子であったが、私はそれ以上に困却して、二十日ぐらいで引越した。同宿者があっては勉強ができないから、と云って、引越しの決意を老夫婦に打ち開けると、そのホッとした様子は意外のほどで、又、私への感謝は全く私の予想もしないものだった。だからこの老夫婦はそれ以来常に私を賞揚し口を極めてほめたたえていたそうで、私にとっては思いもよらぬことであったが、ところがここの娘の一人が私の組の生徒で、これが誰よりマセた子だ。親が私をほめるのが心外で、私に面と向って、お父さんやお母さんが先生をとてもほめるから変だという。先生はそんないい人じゃないと言うのだ。こういう女の子供たちは私が男の悪童を可愛がってやるのが心外であり、嫉ねたましいのである。女の子の嫉妬深さというものは二十の私の始めて見た意外であって、この対策にはほとほと困却したものだった。 私が引越したのは分教場の主任の家の二階であった。代田橋にあって、一里余の道だ。けれども分教場の子供達の半数はそれぐらい歩いて通っていて、私が学校へくるまでには生徒が三十人ぐらい一緒になってしまう。私は時に遅刻したが、無理もねえよ、若いんだからな、ゆうべはどこへ泊ってきたかね、などとニヤニヤしながら言うのがいる。みんな家へ帰ると百姓の手伝いをする子供だから、片仮名も書けないけれども、ませていた。 分教場の主任は教師の誰かを下宿させるのが内職の一つで、私の前には本校の長岡という代用教員が泊っていたが、ロシヤ文学の愛好者で、変り者であったが、蛙デンカンという奇妙な持病があって、蛙を見るとテンカンを起す。私のクラスが四年の時はこの先生に教わったのだが、生徒の一人がチョークの箱の中へ蛙を入れておいた。それで先生、教室でヒックリ返って泡を吹いてしまったそうで、あの時はビックリしたよ、と牛乳屋の落第生が言っていた。彼が蛙を入れたのかも知れぬ。お前だろう、入れたのは、と訊いたら、そうでもないよ、とニヤニヤしていた。 この主任は六十ぐらいだが、精力絶倫で、四尺六寸という畸形的な背の低さだが、横にひろがって隆々たる筋骨、鼻髭はなひげで隠しているがミツクチであった。非常な癇癪かんしゃくもちで、だから小心なのであろうが、やたらに当りちらす。小使だの生徒には特別あたりちらすが、学務委員だの村の有力者にはお世辞たらたらで、癇癪を起すと授業を一年受持の老人に押しつけて、有力者の家へ茶のみ話に行ってしまう。学校では彼のいない方を喜ぶので、授業を押しつけられても不平を言わなかった。腹が立つと女房をブン殴ったり蹴とばしたり、あげくに家をとびだして、雑木林や竹藪へはいって、木の幹や竹の木を杖でメチャクチャに殴っている。それはまったく気違いであったが、大変な力で、手が痛くないのか、五分間ぐらいも、エイエイエイ、ヤアヤアヤアと気合をかけて夢中になぐっている。 この節の若者は、とか、青二才が、とか口癖であったが、私は当時まったく超然居士こじで、怒らぬこと、悲しまぬこと、憎まぬこと、喜ばぬこと、つまり行雲流水の如く生きようという心掛であるからビクともしない。尤も私に怒ると転居されて下宿料が上らなくなる怖れがあるから、そういうところは抜目がなくて、私にだけは殆ど当りちらさぬ。先生は全部で五人で、一年の山門老人、二年の福原女先生、三年の石毛女先生、この山門老人が又超然居士で六十五だかで、麻布からワラジをはいて歩いて通ってくる。娘には市内で先生をさせ、結婚したがっているのだそうだが、ドッコイ、許されぬ、もう暫しばらくは家計を助けて貰わねばならぬ、毎日もめているから毎日私達にその話をして、イヤハヤ色気づいてウズウズしておりますよ、アッハッハと言っている。子供が十人ちかいから生活が大変で、毎晩一合の酒に人生を托している。主任は酒をのまない。 小学校の先生には道徳観の奇怪な顛倒がある。つまり教育者というものは人の師たるもので人の批難を受けないよう自戒の生活をしているが、世間一般の人間はそうではなく、したい放題の悪行に耽ふけっているときめてしまって、だから俺達だってこれぐらいはよかろうと悪いことをやる。当人は世間の人はもっと悪いことをしている、俺のやるのは大したことではないと思いこんでいるのだが、実は世間の人にはとてもやれないような悪どい事をやるのである。農村にもこの傾向があって、都会の人間は悪い、彼等は常に悪いことをしている、だから俺たちだって少しぐらいはと考えて、実は都会の人よりも悪どいことを行う。この傾向は宗教家にもある。自主的に思い又行うのでなく他を顧て思い又行うことがすでにいけないのだが、他を顧るのが妄想的なので、なおひどい。先生達が人間世界を悪く汚く解釈妄想しすぎているので、私は驚いたものであった。 私が辞令をもらって始めて本校を訪ねたとき、あなたの勤めるのは分校の方だからと、分校の方に住んでいる女の先生が送ってくれた。これが驚くべき美しい人なのである。こんな美しい女の人はそのときまで私は見たことがなかったので、目がさめるという美しさは実在するものだと思った。二十七の独身の人で、生涯独身で暮す考えだということを人づてにきいたが、何かしっかりした信念があるのか、非常に高貴で、慎しみ深く、親切で、女先生にありがちな中性タイプと違い、女らしい人である。私はひそかに非常にあこがれを寄せたものだ。本校と分校と殆ど交渉がないので、それっきり話を交す機会もなかったが、その後数年間、私はこの人の面影を高貴なものにだきしめていた。 村のある金持、もう相当な年配の男だそうだが、女房が死んでその後釜にこの女の先生を貰いたいという。これを分校の主任にたのんだものだ。何百円とか何千円とかの謝礼という約束の由で、そのときのこの主任の東奔西走、授業をうっちゃらかして馳け廻って、なにしろ御本尊の女先生が全然結婚自体に意志がないので無理な話だ。毎日八ツ当りで、その一二ヶ月というもの、そわそわしたこの男の粗暴というより狂暴にちかい癇癪は大変だった。 私は行雲流水を志していたから、別段女の先生に愛を告白しようとか、結婚したいなどとは考えず、ただその面影を大切なものに抱きしめていたが、この主任の暗躍をきいたときには、美しい人のまぼろしがこんな汚らしい結婚でつぶされてはと大変不安で、行雲流水の建前にも拘かかわらず、主任をひそかに憎んだりした。 石毛先生は憲兵曹長だかの奥さんで、実に冷めたい中性的な人であったが、福原先生はよいオバサンであった。もう三十五六であったろうが、なりふり構わず生徒のために献身するというたちで、教師というよりは保姆ほぼのような天性の人だ。だから独身でも中性的な悪さはなく、高い理想などはなかったが、善良な人であった。例の高貴な先生の親友で、偶像的な尊敬をよせていることも、私には快かった。多くの女先生は嫉妬していたのである。私が先生をやめたとき、お別れするのは辛いが、先生などに終ってはいけない、本当によいことです、と云って、喜んでくれて、お別れの酒宴をひらいてうんとこさ御馳走をこしらえてくれた。私は然し先生で終ることのできない自分の野心が悲しいと思っていた。なぜ身を捧げることが出来ないのだろう? 私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。生徒がいなくなり、外の先生も帰ったあと、私一人だけジッと物思いに耽っている。音といえば柱時計の音だけである。あの喧噪けんそうな校庭に人影も物音もなくなるというのが妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、自分というものがどこかへ無くなったような放心を感じる。私はそうして放心していると、柱時計の陰などから、ヤアと云って私が首をだすような幻想を感じた。ふと気がつくと、オイ、どうした、私の横に私が立っていて、私に話しかけたような気がするのである。私はその朦朧もうろうたる放心の状態が好きで、その代り、私は時々ふとそこに立っている私に話しかけて、どやされることがあった。オイ、満足しすぎちゃいけないぜ、と私を睨むのだ。 「満足はいけないのか」 「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」 「なんのために?」 「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」 本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ。私は夏も冬も同じ洋服を着、本は読み終ると人にやり、余分の所有品は着代えのシャツとフンドシだけで、あるとき私を訪ねてきた父兄の口からあの先生は洋服と同じようにフンドシを壁にぶらさげておくという笑い話がひろまり、へえ、そういうことは人の習慣にないことなのか、と私の方がびっくりしたものだ。フンドシを壁にぶら下げておくのは私の整頓の方法で、私には所蔵という精神がなかったので、押入は無用であった。所蔵していたものといえば高貴な女先生の幻で、私がそのころバイブルを読んだのは、この人の面影から聖母マリヤというものを空想したからであった。然し私は、あこがれてはいたが、恋してはいなかった。恋愛という平衡を失った精神はいささかも感じなかったので、せめて同じこの分校で机を並べて仕事ができたらいいになアと、私の欲する最大のことはそれだけであった。この人の面影は今はもう私の胸にはない。顔も思いだすことができず、姓名すら記憶にないのである。 ★ 私はそのころ太陽というものに生命を感じていた。私はふりそそぐ陽射しの中に無数の光りかがやく泡、エーテルの波を見ることができたものだ。私は青空と光を眺めるだけで、もう幸福であった。麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた。 雨の日は雨の一粒一粒の中にも、嵐の日は狂い叫ぶその音の中にも私はなつかしい命を見つめることができた。樹々の葉にも、鳥にも、虫にも、そしてあの流れる雲にも、私は常に私の心と語り合う親しい命を感じつづけていた。酒を飲まねばならぬ何の理由もなかったので、私は酒を好まなかった。女の先生の幻だけでみたされており、女の肉体も必要ではなかった。夜は疲れて熟睡した。 私と自然との間から次第に距離が失われ、私の感官は自然の感触とその生命によって充たされている。私はそれに直接不安ではなかったが、やっぱり麦畑の丘や原始林の木暗い下を充ちたりて歩いているとき、ふと私に話かける私の姿を木の奥や木の繁みの上や丘の土肌の上に見るのであった。彼等は常に静かであった。言葉も冷静で、やわらかかった。彼等はいつも私にこう話しかける。君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。 だが私は何事によって苦しむべきか知らなかった。私には肉体の慾望も少なかった。苦しむとは、いったい、何が苦しむのだろう。私は不幸を空想した。貧乏、病気、失恋、野心の挫折、老衰、不知、反目、絶望。私は充ち足りているのだ。不幸を手探りしても、その影すらも捉えることはできない。叱責を怖れる悪童の心のせつなさも、私にとってはなつかしい現実であった。不幸とは何物であろうか。 然し私はふと現れて私に話しかける私の影に次第に圧迫されていた。私は娼家へ行ってみようか。そして最も不潔なひどい病気にでもなってみたらいいのだろうか、と考えてみたりした。 私のクラスに鈴木という女の子がいた。この子の姉は実の父と夫婦の関係を結んでいるという隠れもない話であった。そういう家自体の罪悪の暗さは、この子の性格の上にも陰鬱な影となって落ちており、友達と話をしていることすらめったになく、浮々と遊んでいることなどは全くない。いつも片隅にしょんぼりしており、話しかけるとかすかに笑うだけなのである。この子からは肉体が感じられなかった。 私は不幸ということに就て戸惑いするたびに、この十二の陰鬱な娘の姿を思い出した。 石津という娘と、山田という娘がいた。私はこの二人は生理的にももう女ではないのだろうかと時々疑ったものだが、石津の方は色っぽくて私に話しかける時などは媚こびるような色気があったが、そのくせ他の女生徒にくらべると、嫉妬心だの意地の悪さなどは一番すくなく、ただやがて弄もてあそばれるふくよかな肉体だけしかないような気がする。これも余り友達などはない方で、女の子にありがちな、親友と徒党的な垣をつくるようなことが性格的に稀薄なようだ。そのくせ明るくて、いつも笑ってポカンと口をあけて何かを眺めているような顔だった。 山田の方は豆腐屋の子で、然し豆腐屋の実子ではなく、女房の連れ子なのである。その妹と弟は豆腐屋の実子であった。この娘は仮名で名前だけしか書けない一人で、女の子の中で最も腕力が強い。男の子と対等で喧嘩をして、これに勝つ男はすくないので、身体も大きかったが、いつも口をキッと結んで、顔付はむしろ利巧そうに見える。陰性というのとも違う、何か思いつめているようで、明るさがなく、全然友達がない。喋ることに喜びを感じることがないように人と語り合うことがすくなく、それでも沈黙がちに遊戯の中へ加わって極めて野性的にとび廻っている。笑うことなどはなく、面白くもなさそうだが、然し跳ね廻っている姿は他の子供に比べると格段にその描きだす線が大きく荒々しく、まったく野獣のような力がこもっていて、野性がみちていた。そのくせ色気が乏しい。大胆不敵のようだが、実際は、私は他の小さなたわいもない女生徒の方に実はもっと本質的な女自体の不敵さを見出していたもので、嫉妬心だの意地の悪さだの女的なものが少いのである。今は早熟の如くでも、すべてこれらの子供達が大人になったときには、結局この娘の方が最後に女から取り残され、あらゆる同性に敗北するのではないかと私は思った。 この娘の母親がある一夜私を訪ねてきたことがある。この娘の特別の事情、つまり、何人かの妹弟の中でこの娘だけが実子でないために性格がひねくれていることを説明して、父母の方では別に差別はしていないのだから、もっと父に打ちとけるように娘にさとしてくれというのだ。この母親は淫奔な女だという評判で、まったく見るからに淫奔らしい三十そこそこの女であった。いや、ひねくれてはおりません、と私は答えた。ひねくれたように見えるだけです。素直な心と、正しいものをあやまたずに認めてそれを受け入れる立派な素質を持っています。私の説教などは不要です。問題はあなた方の本当の愛情です。私がいちばん心配なのは、あの娘は、人に愛される素質がすくない。女として愛される素質がすくない。ひねくれのせいではないのです。あの娘は人に愛されたことがないのではありませんか。先ず親に、あなた方に愛されたことがないのではありませんか。私に説教してくれなんて、とんでもないお門違いですよ。あなたが、あなたの胸にきいてごらんなさい。 この母親はちっとも表情を表わさずに、私の言葉をとりとめのない漠然たる顔付できいていた。これも仮名で名前しか書けない一人だろうと私は思った。ただ、子供とはあべこべに、徹頭徹尾色っぽく、肉慾的だ。最も女であった。その淫奔な動物性が、娘の野性と共通しているだけだった。娘は大柄であるのに、母親はひどく小柄であった。顔はどちらも美人の部類である。二三分だまっていたが、やがてひどく馴れ馴れしく世間話をして帰って行った。 鈴木と並べて石津と山田を私は思いだす習慣になっていた。この三人の未来には不幸のみが待ち構えているように思われてならない。私は不幸というものを、私自身に就てでなしに、生徒の影の上から先ず見凝みつめはじめていたのだ。その不幸とは愛されないということだ。尊重されないということだ。石津の場合はただオモチャにされ、私はやがて娼婦となって暮している喜怒哀楽の稀薄な、たわいもない肉塊を想像した。私は実際の娼家も娼婦も知らなかったが、まったく小説などから得たものの中で現実を組み立てていたのである。然し私の予感は今でも当っていたように考えている。 石津は貧しい家の娘で、その身体にはいっぱい虱しらみがたかっていた。外の子供がそう云って冷やかす。キリリと怒るような顔になるが、やがて又たわいもない笑い顔になってしまう。善良というよりも愚かという魂が感じられる。読み書きはともかく出来て、中くらいの成績なのだが、人生の行路では、仮名も知らない女よりも処世に疎うとくて、要するに本当の生長がないような愚な魂がのぞけて見えるのだ。そのくせ、ひどく色っぽい。ただ、それだけだ。 私は先生をやめるとき、この娘を女中に譲り受けて連れて行こうかと思った。そうして、やがて自然の結果が二人の肉体を結びつけたら、結婚してもいいと思った。まったくこれは奇妙な妄想であった。私は今でも白痴的な女に妙に惹ひかれるのだが、これがその現実に於ける首はじまりで、私は恋情とか、胸の火だとか、そういうものは自覚せず、極めて冷静に、一人の少女とやがて結婚してもいいと考え耽っていたのである。 私は高貴な女先生の顔はもうその輪郭すらも全く忘れて思い描くよしもないが、この三人の少女の顔は今も生々しく記憶している。石津はオモチャにされ、踏みつけられ、虐しいたげられても、いつもたわいもなく楽天的なような気がするのだが、むろん現実ではそんな筈はない。虱たかりと云われて、やっぱり一瞬はキリリとまなじりを決するので、踏みしだかれて、路上の馬糞のように喘あえいでいる姿も思う。私の予感は当っていて、その後娼家の娼婦に接してみると、こんな風なたわいもない楽天家に屡々しばしばめぐりあったものである。 ★ 私は近頃、誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があるのではないかと考えるようになった。 近頃私のところへ時々訪ねてくる二人の青年がいる。二十二だ。彼等は昔は右翼団体に属していたこちこちの国粋主義者だが、今は人間の本当の生き方ということを考えているようである。この青年達は私の「堕落論」とか「淪落りんらく論」がなんとなく本当の言葉であるようにも感じているらしいが、その激しさについてこれないのである。彼等は何よりも節度を尊んでいる。 やっぱり戦争から帰ってきたばかりの若い詩人と特攻くずれの編輯者がいる。彼等は私の家へ二三日泊り、ガチャガチャ食事をつくってくれたり、そういう彼等には全く戦陣の影がある。まったく野戦の状態で、野放しにされた荒々しい野性が横溢おういつしているのである。然し彼等の魂にはやはり驚くべき節度があって、つまり彼等はみんな高貴な女先生の面影を胸にだきしめているのだ。この連中も二十二だ。彼等には未だ本当の肉体の生活が始まっていない。彼等の精神が肉体自体に苦しめられる年齢の発育まできていないのだろう。この時期の青年は、四十五十の大人よりも、むしろ老成している。彼等の節度は自然のもので、大人達の節度のように強いて歪ゆがめられ、つくりあげられたものではない。あらゆる人間がある期間はカンジダなのだと私は思う。それから堕ちるのだ。ところが、肉体の堕ちると共に、魂の純潔まで多くは失うのではないか。 私は後年ボルテールのカンジダを読んで苦笑したものだが、私が先生をしているとき、不幸と苦しみの漠然たる志向に追われ、その実私には不幸や苦しみを空想的にしか捉えることができない。そのとき私は自分に不幸を与える方法として、娼家へ行くこと、そして最も厭な最も汚らしい病気になっては、と考えたものだ。この思いつきは妙に根強く私の頭に絡からみついていたものである。別に深い意味はない。外に不幸とはどんなものか想像することができなかったせいだろう。 私は教員をしている間、なべて勤める人の処世上の苦痛、つまり上役との衝突とか、いじめられるとか、党派的な摩擦とか、そういうものに苦しめられる機会がなかった。先生の数が五人しかない。党派も有りようがない。それに分教場のことで、主任といっても校長とは違うから、そう責任は感じておらず、第一非常に無責任な、教育事業などに何の情熱もない男だ。自分自身が教室をほったらかして、有力者の縁談などで東奔西走しているから、教育という仕事に就ては誰に向っても一言半句も言うことができないので、私は音楽とソロバンができないから、そういうものをぬきにして勝手な時間表をつくっても文句はいわず、ただ稀れに、有力者の子供を大事にしてくれということだけ、ほのめかした。然し私はそういうことにこだわる必要はなかったので、私は子供をみんな可愛がっていたから、それ以上どうする必要も感じていなかった。 特に主任が私に言ったのは荻原という地主の子供で、この地主は学務委員であった。この子は然し本来よい子供で、時々いたずらをして私に怒られたが、怒られる理由をよく知っているので、私に怒られて許されると却かえって安心するのであった。あるとき、この子供が、先生は僕ばかり叱る、といって泣きだした。そうじゃない。本当は私に甘えている我がままなのだ。へえ、そうかい。俺はお前だけ特別叱るかい。そう云って私が笑いだしたら、すぐ泣きやんで自分も笑いだした。私と子供とのこういうつながりは、主任には分らなかった。 子供は大人と同じように、ずるい。牛乳屋の落第生なども、とてもずるいにはずるいけれども、同時に人のために甘んじて犠牲になるような正しい勇気も一緒に住んでいるので、つまり大人と違うのは、正しい勇気の分量が多いという点だけだ。ずるさは仕方がない。ずるさが悪徳ではないので、同時に存している正しい勇気を失うことがいけないのだと私は思った。 ある放課後、生徒も帰り、先生も帰り、私一人で職員室に朦朧もうろうとしていると、外から窓のガラスをコツコツ叩く者がある。見ると、主任だ。 主任は帰る道に有力者の家へ寄った。すると子供が泣いて帰ってきて、先生に叱られたという。お父さんが学務委員などをして威張っているから、先生が俺を憎むのだ。お父さんの馬鹿野郎、と云って、大変な暴れ方で手がつけられない。いったい、どうして、叱ったのだ、と言うのである。 あいにく私はその日はその子供を叱ってはいないのである。然し子供のやることには必ず裏側に悲しい意味があるので、決して表面の事柄だけで判断してはいけないものだ。そうですか。大したことではないけれど、叱らねばならないことがあったから叱っただけです、じゃ、君、と、主任はいやらしい笑い方をして、君、ちょっと、出掛けて行って釈明してくれ給え。長い物にはまかれろというから、仕方がないさ、ヘッヘ、という。主任はヘッヘという笑い方を屡々つけたす男であった。 「僕は行く必要がないです。先生はお帰りの道順でしょうから、子供に、子供にだけです、ここへ来るように言っていただけませんか」 「そうかい。然し、君、あんまり子供を叱っちゃ、いけないよ」 「ええ、まア、僕の子供のことは僕にまかせておいて下さい」 「そうかい。然し、お手やわらかに頼むよ、有力者の子供は特別にね」 と、その日の主任は虫の居どころのせいか、案外アッサリぴょこぴょこ歩いて行った。私は今まで忘れていたが、彼はほんの少しだがビッコで、ちょっと尻を横っちょへ突きだすようにぴょこぴょこ歩くのである。だが、その足はひどく速い。 まもなく子供はてれて笑いながらやってきて、先生と窓の外からよんで、隠れている。私はよく叱るけれども、この子供が大好きなのである。その親愛はこの子供には良く通じていた。 「どうして親父をこまらしたんだ」 「だって、癪しゃくだもの」 「本当のことを教えろよ。学校から帰る道に、なにか、やったんだろう」 子供の胸にひめられている苦悩懊悩おうのうは、大人と同様に、むしろそれよりもひたむきに、深刻なのである。その原因が幼稚であるといって、苦悩自体の深さを原因の幼稚さで片づけてはいけない。そういう自責や苦悩の深さは七ツの子供も四十の男も変りのあるものではない。 彼は泣きだした。彼は学校の隣の文房具屋で店先の鉛筆を盗んだのである。牛乳屋の落第生におどかされて、たぶん何か、おどかされる弱い尻尾があったのだろう、そういうことは立入ってきいてやらない方がいいようだ、ともかく仕方なしに盗んだのである。お前の名前など言わずに鉛筆の代金は払っておいてやるから心配するなと云うと、喜んで帰って行った。その数日後、誰もいないのを見すましてソッと教員室へやってきて、二三十銭の金をとりだして、先生、払ってくれた? とききにきた。 牛乳屋の落第生は悪いことがバレて叱られそうな気配が近づいているのを察しると、ひどくマメマメしく働きだすのである。掃除当番などを自分で引受けて、ガラスなどまでセッセと拭いたり、先生、便所がいっぱいだからくんでやろうか、そんなことできるのか、俺は働くことはなんでもできるよ、そうか、汲んだものをどこへ持ってくのだ、裏の川へ流しちゃうよ、無茶言うな、ザッとこういうあんばいなのである。その時もマメマメしくやりだしたので、私はおかしくて仕方がない。 私が彼の方へ歩いて行くと、彼はにわかに後じさりして、 「先生、叱っちゃ、いや」 彼は真剣に耳を押えて目をとじてしまった。 「ああ、叱らない」 「かんべんしてくれる」 「かんべんしてやる。これからは人をそそのかして物を盗ませたりしちゃいけないよ。どうしても悪いことをせずにいられなかったら、人を使わずに、自分一人でやれ。善いことも悪いことも自分一人でやるんだ」 彼はいつもウンウンと云って、きいているのである。 こういう職業は、もし、たとえば少年達へのお説教というものを、自分自身の生き方として考えるなら、とても空虚で、つづけられるものではない。そのころは、然し私は自信をもっていたものだ。今はとてもこんな風に子供にお説教などはできない。あの頃の私はまったく自然というものの感触に溺れ、太陽の讃歌のようなものが常に魂から唄われ流れでていた。私は臆面もなく老成しきって、そういう老成の実際の空虚というものを、さとらずにいた。さとらずに、いられたのである。 私が教員をやめるときは、ずいぶん迷った。なぜ、やめなければならないのか。私は仏教を勉強して、坊主になろうと思ったのだが、それは「さとり」というものへのあこがれ、その求道のための厳しさに対する郷愁めくものへのあこがれであった。教員という生活に同じものが生かされぬ筈はない。私はそう思ったので、さとりへのあこがれなどというけれども、所詮名誉慾というものがあってのことで、私はそういう自分の卑しさを嘆いたものであった。私は一向希望に燃えていなかった。私のあこがれは「世を捨てる」という形態の上にあったので、そして内心は世を捨てることが不安であり、正しい希望を抛棄している自覚と不安、悔恨と絶望をすでに感じつづけていたのである。まだ足りない。何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に、捨てるというヤケクソの志向が実は青春の跫音あしおとのひとつにすぎないことを、やっぱり感じつづけていた。私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そういう正しい希望へのてんからの諦めが、底に働いていたこともあったろう。 教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。 底本:「坂口安吾全集4」ちくま文庫、筑摩書房 1990(平成2)年3月27日第1刷発行 底本の親本:「いづこへ」真光社 1947(昭和22)年5月15日発行 初出:「文芸 第四巻第一号(新春号)」 1947(昭和22)年1月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下に限って、大振りにつくっています。 「その一二ヶ月というもの」 入力:砂場清隆 校正:伊藤時也 2005年12月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
ビジネスと経済学@茨城大学 (再掲)
小山台高校の生徒が、シンドラー社製のエレベーターに挟まれて死亡した事件があったけど、あれは、マンションの管理組合がメンテナンス代をケチって、他の業者に委託したのが発端らしい。 あんまり詳しく書くと、面倒なことになりそうだから、これくらいにしとくけど、シンドラー社製のエレベーターに欠陥があったというより、エレベーター本体の価格は低く抑えて、メンテナンス代で儲ける仕組みが災いしたのかも。 本体価格を低く抑えて、付属品などで儲ける商品の典型が、プリンター。 プリンター本体の価格は低く抑えて、インク代で儲けてる。 しかし、ここにもシンドラー社製エレベーターと同じ構造があって、高いインク代に目をつけて、第三者企業が代替インクを低価格で販売し始めて、それに対してプリンター会社が対抗策を講じたりとか。 とにかく、二日間で面白い話がたくさん聞けました。
2024年11月26日火曜日
曽根崎心中 (再掲)
愛という感情が日本の歴史上にも古くから存在していたことは、
源氏物語にも書かれていることで、わかる。
しかし、
日本の宗教観念には、愛を裏打ちするものがない。
改行(節目節目で改行がある方が効果的。以下、同じ。)
曾根崎心中は、
男が女郎をカネで身受けしようとするが、心中する、という悲劇である。
物語上で
彼らが
悲劇的な最期を遂げざるを得ないのは、
男が、女郎を身受けすれば、
男は
商人として
大阪から追放される
運命にあったからでもある。
貴穀賎金という言葉があるように、
江戸時代の日本では、
カネは汚いものという観念があった。
見方によっては、
曾根崎心中において示されたのは、
カネと愛は両立しえない、
もし純愛を遂げようとすれば、
命を犠牲にせざるを得ない、
という
当時の観念を表現していたとも言える。
六部殺しの伝承のように、
カネには罪に穢されているいる、
という感覚もあるだろう。
曾根崎心中は、
むしろ、カネという原罪を担保に、
愛を成就させようとする
文学的効果があると言えるかもしれない。
改行
尾崎豊の歌に「僕が僕であるために」という楽曲があるが、
現代日本においては、
男は、曾根崎心中の男のように、
社会に抗いながらも、純愛を遂げられない。
この箇所、なかなかシャープです(以下、黄色マーカーは同じ意)。
「僕が僕であるために、勝ち続けなければならない」
のに、
女に対しては、
非自発的に別れを告げなければならない。
「非自発的」は語としてこなれない。
「意思とは別に」ぐらいのニュアンスかな?
夏目漱石の
「それから」の代助が百合の香りにむせぶシーンのように、
純愛を遂げようとすれば、
それは
理性を放擲せざるを得ないような、不可能な冒険なのだ。
それは、
漱石という作家の文脈では、
日本人はイエを存続させるために、
純粋な異性愛を犠牲にしなければならない、
という明白な義務と、
近代の西洋的ラヴという観念が、齟齬をきたしているのである。
「こころ」においては、
「先生」は、
妻をめぐって、
非自発的に友人を殺してしまった、
という原罪を設定することで、
純粋な異性愛に漸近しようと試みる。
しかし、
その試みは、
「先生」は、
その友人の死という残虐劇を、
明治という時代に殉死する、
というように、
国家への忠誠心にすり替えてしまう。
改行
現代日本という社会においては、
愛は成就しないものなのだろうか?
尾崎以降、
ありとあらゆる純愛の歌が唄われてきたが、
結局
むき出しの愛は
破綻せざるを得ないことを、
社会そのものが証明しているのではないだろうか?
尾崎が愛を謳いながらも、
成就できないのは、
現代日本社会の特質なのだろうか?
その姿は、
社会の中での生存場所を犠牲にする代わりに、
自らの命を犠牲にした
曾根崎心中の男と似てはいるが、
そこに純愛は成就されない。
なぜなら、
「僕が僕であるために、勝ち続けなけれならない」
からである。
たとえ異性愛に殉死しても、
それは社会に敗北しているからである。
曾根崎心中の男女のように、
純愛に殉死することで、社会に勝っていない。
その意味で、
江戸時代と現代日本は、
やはり異なる社会ということになるだろう。
改行
「三島は紛うことなく
戦後社会の外部に立とうとした。
だが、
戦後社会は
自分の外部があることを許容しない。
この拒否は
生の哲学という
全面的な肯定の所作において
行われているため
ほとんど意識されない。
どんな精神のかたちにせよ、
それが
生命の形式であるかぎり
ー
体制派も、
全共闘運動もふくめて
ー
戦後的な生の哲学は
それを是認しうるのである。
三島は死に遅れたものとして、
戦後社会とのそのような共犯性、
あるいは
戦後社会の総体性にたいして
潔癖ともいえる反発の意思を
隠そうとしなかった。
三島の精神による抵抗に意味があるとすれば、
それが
生の哲学の軌跡に回収されないことであり、
死を
如実にはらんでいる限りに
おいてであった。
三島は
自分の精神を思想的な形象でみたしたが、
そうした彩りはただ
死の線分に接続する限りにおいて
のみ
精神の形象でありえたにすぎなかった。」
(395ページ)
国土論 内田隆三 筑摩書房
平成天皇夫妻の結婚が体現した、
愛の成就のカタチは、
性愛に基づく核家族という
生のあり方を提示したが、
それは、
三島のように
自らの命を
死の線分に接続し続けることによってしか、
社会の外部に立てないことをも呈示した。
尾崎豊もまた、
悲劇的な死という形象によってのみ、
社会に「勝った」のである。
各節、それぞれクライマックスに当る主張はなかなかシャープで、
黄色マーカーで徴をつけた通りです。
レポートに底流しているのは、
近代の精神革命とも言われる
「性愛に基づく核家族」
に
「愛の成就を見る」発想(幻想)が、
「前近代」から「近代」を大きく画し、
そして誠に皮肉なことに、
この近代的な発想の転換こそが
超越的な
「愛」
を決定的に不可能にしてしまった、
とでもいった時代観、
と拝察しますが、
なかなか鋭く、また的を射ていると思います。
逆に、
この文脈をより積極的に前景化させながら
細かい読みを埋め込んでゆく、
といった手法をとれば、
もっと効果的かな、とも。
上記の感想に基づきながら、
気付いた点など、箇条書き風にコメントしておきます。
◆「曾根崎心中」およびこれに象徴される
<江戸の恋>; 「金銭 vs. 愛」という前に、
まずは
「金銭=欲望=性」の公式を前提とすべきか、と。
「お初」は遊女で、まさに「金」に買われる=「性」
を
売るのがその境涯。
その上に、
「徳兵衛」は
主人に返すつもりの大金を友情にほだされて、
そっくり貸した友人に、
返済してもらえないばかりか
貸した事実まで無いことにされて、
男も立たず、身も立たず…。
性的身体を金銭に拘束された女と、
金銭で
面目失墜へ追い込まれた男と。
現世にあっては、
ドン詰りまで追い詰められてしまった
男女が
「生命」を犠牲に、
命で贖ったのが
「あの世・彼岸」
における「(純)愛」の成就。
近世には
男女の間柄に「愛」という
<観念>
を
想定する発想は
未だないわけですが、
逆に、
生命を代償に、
現世を断ち切ったところに、
(現世に対する)
超越性が発生する、というわけです。
現世が
<金銭と性>
――
欲望的なものに汚されていればいるほど、
それを切断したところに
開ける超越的世界は美しい。
◆漱石に代表される「近代(西欧)」発祥の「ラブ」
レポートにあったように、
近代という時代は、
「性愛」に基づく
「夫婦家族」
を
社会の最小単位に設定するわけですが、
男女関係の紐帯として
きわめて精神的(観念的)な
「(恋)愛」を発見する(創造する)。
所謂
「性愛(性的快楽)―生殖―ラブ」の「三位一体幻想」です。
そもそも社会的役割としての「生殖」や
本能に根差した肉体的「性愛」と、
神の前に披瀝し得るような崇高な
(=肉欲を抑制した)
「(純)愛」
とは原理的にも背馳しているわけですが、
これが「三位一体」足り得る
――
というのが
近代のロマンチックな理想として成立する
(故にこのような純愛は
「ロマンチックラブ――幻想としての愛」
と呼ばれる)。
漱石はある意味、純情かつ理想主義的に
これを夢見、同時にその仕掛け
(幻想性)
に気付き、
葛藤し続けた作家。
その代表作が
小林君の挙げた
『それから』と『こころ』で、
共に、
信奉していたはずの「純愛」が
幻想にしかすぎないことが露わになり、
傷つきながら
破綻へ向かって
突き進んでゆく物語です。
『それから』も『こころ』も、
唯一の人と決めた
女性への愛が、
実は同じく
彼女を愛する同性の親友への
嫉妬や競争心に媒介されていたことに
気付いてゆく物語。
だから
『こころ』では、
小林君が見事に指摘したように、
すでに自殺を以て<不在>になってしまっている
<無二の親友
=
強大な恋の競争相手>
に対して贖罪意識を持ち続けることで、
二者関係だけでは成り立ちようもない
「純愛」を仮構し続けるわけです。
『それから』では、ラストで、まさに「官能」
――
肉体の力を借りながら、
もはや純愛とは言い切れない愛を瞬時、
成立させます。
作中、
その前段階で生じているのは、
「西洋的ラブ」と「家」との対立ではなく
(その意味で、
漱石は自然主義作家たちに比べて、
そもそも「家」からは自由。
存在しようもない
異性愛を存在させようとして苦しんでいる)、
「西洋的ラブ」なるものがまさに
「観念」にすぎない虚妄ではないか、
と疑い、逡巡し始めている。
代助は
ふと
「永遠の愛」なるものを思い浮かべ、
それこそまさに
「三千代」
だと思いながら、
彼の脳裡をよぎるのは、
次のような実に醒めた疑念です。
彼は肉体と精神に於て美の類別を認める男であった。
…あらゆる美の種類に接触して、
そのたび毎に、
甲から乙に気を移し、
乙から丙に心を動かさぬものは、
感受性に乏しい無鑑賞家であると断定した。
… その真理から出立して、
都会的生活を送る凡ての男女は、
両性間の引力に於て、
悉く随縁臨機に、
測りがたき変化を受けつつあるとの
結論に到着した。
…代助は渝らざる愛を、
今の世に口にするおのを
偽善家の第一位に置いた。
(12章)
つまり、
「家」から自由な「個」としての
――
人それぞれの嗜好=意思に基づく愛、
なるものは、嗜好であるが故に、永遠ではない、
一人の女への強い嗜好などというものは、
一体、
どれだけの期間継続し得るものなのだろう
(賞味期限)。
すでに
「ロマンチックラブ」は観念の上で自壊し始めています…。
◆「曾根崎 vs. 尾崎」――<外部>の喪失;
2作品の対比は、鮮やかでした。
命を絶つ、という形で
<社会>を出ることの出来た
お初・徳兵衛が超越性を獲得する姿に対して、
「勝たねばならない」
という当為を
みずからに課さねばならない現代人は
<社会>
の中に閉ざされている。
内田氏の三島論が利いています。
内田氏が指摘するように
「戦後」
は、
ますますそうなのでしょうが、
<近代>という時代そのもの、
近代国家そのものが
<外部>
の喪失を
不可避にしているのかもしれません。
ことほどさように、
恋愛の<三位一体>とは、
そして
その基底を成すプロテスタンティズムは、
まさに現世主義
――
超越性を内包していた近代以前の「愛」を脱色化し、
世俗の地平へひきずりおろした
(崇高な愛・純愛、とは名付けてみても、
性欲・生殖と合体した愛は、
まさになまぐさい地上性そのものです)、
とは、
ドニ・ド・ルージュモンの名言です
(『愛について』平凡社文庫)。
2024年11月25日月曜日
妄想卒論その7 (再掲)
「ウォール街を占拠せよ」
を
合言葉に
米国で
反格差のデモが広がったのは
2011年。
怒りが新興国に伝播し、
米国では
富の集中がさらに進んだ。
米国の
所得10%の人々が得た
所得は
21年に全体の46%に達した。
40年で11ポイント高まり、
並んだのが
1920年前後。
そのころ吹き荒れた
革命運動の恐怖は
今も
資本家の脳裏に焼き付く。
私有財産を奪う
究極の反格差運動ともいえる共産主義。
17年の
ロシア革命の2年後に
国際的な労働者組織である
第3インターナショナルが誕生し、
反資本主義の機運が
世界で勢いを増した。
19世紀のグローバリゼーションは
当時のロシアにも
急速な
経済成長をもたらした。
しかし
人口の大半を占める
農民や労働者に恩恵はとどかず、
格差のひずみが生じる。
さらに
日露戦争や第一次世界大戦で困窮した。
1917年、レーニンが率いる群衆が蜂起。
内戦を経て
22年にソ連が建国されると、
富の集中度は
20%強まで下がった。
1921年には
「半封建、半植民地」
脱却を
掲げる
中国共産党が発足。
スペインやフランス、日本でも
20年代に共産党が結党した。
そして現代。
怒りの
受け皿になっているのが
ポピュリズムだ。
21世紀の世界も
分断をあおる
ポピュリズムに脅かされている。
米国のトランプ前大統領や
ハンガリーのオルバン首相は
国際協調に
背を向ける姿勢で
世論の支持を集める。
なぜ
人々は
刹那的な主張と政策に
なびくのか。
世界価値観調査で
「他者(周囲)を信頼できるか」
の問いに
北欧諸国は
6〜7割がイエスと答えた。
北欧より
富が偏る
米国や日本で
イエスは4割を切る。
(以下 「遊びの社会学」井上俊 世界思想社より)
私たちはしばしば、
合理的判断によって
ではなく、
直観や好き嫌いによって
信・不信を決める。
だが、
信用とは
本来そうしたものではないのか。
客観的ないし
合理的な
裏づけをこえて
存在しうるところに、
信用の信用たるゆえんがある。
そして
信用が
そのようなものであるかぎり、
信用には
常に
リスクがともなう。
信じるからこそ裏切られ、
信じるからこそ欺かれる。
それゆえ、
裏切りや詐欺の存在は、
ある意味で、
私たちが
人を信じる能力を
もっていることの証明である。
(略) しかしむろん、
欺かれ裏切られる側からいえば、
信用にともなう
リスクは
できるだけ少ないほうが
望ましい。
とくに、
資本主義が発達して、
血縁や地縁のきずなに結ばれた
共同体がくずれ、
広い世界で
見知らぬ人びとと
接触し関係をとり結ぶ機会が
増えてくると、
リスクはますます大きくなるので、
リスク軽減の必要性が高まる。
そこで、
一方では〈契約〉というものが発達し、
他方では
信用の〈合理化〉が進む。
(略) リスク軽減の
もうひとつの方向は、
信用の〈合理化〉としてあらわれる。
信用の合理化とは、
直観とか好悪の感情といった
主観的・非合理的なものに頼らず、
より
客観的・合理的な
基準で
信用を測ろうとする傾向のことである。
こうして、
財産や社会的地位という
基準が
重視されるようになる。
つまり、
個人的基準から社会的基準へと
重点が
移動するのである。
信用は、
個人の人格に
かかわるものというより、
その人の
所有物や社会的属性に
かかわるものとなり、
そのかぎりにおいて
合理化され客観化される。
(略) しかし、
資本主義の高度化にともなって
信用経済が発展し、
〈キャッシュレス時代〉
などという
キャッチフレーズが普及する
世の中になってくると、
とくに
経済生活の領域で、
信用を
合理的・客観的に
計測する
必要性は
ますます高まってくる。
その結果、
信用の〈合理化〉はさらに進み、
さまざまの指標を組み合わせて
信用を
量的に算定する方式が発達する。
と同時に、
そのようにして
算定された
〈信用〉
こそが、
まさしく
その人の信用に
ほかならないのだという
一種の逆転がおこる。
p.90~93
「エリートに対する
人々の違和感の広がり、
すなわち
エリートと大衆の
『断絶』こそが、
ポピュリズム政党の出現と
その躍進を可能とする。
ポピュリズム政党は、
既成政治を
既得権にまみれた
一部の人々の
占有物として描き、
これに
『特権』
と
無縁の市民を対置し、
その声を代表する
存在として
自らを提示するからである。」
(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「二十世紀末以降
進んできた、
産業構造の
転換と経済のグローバル化は、
一方では
多国籍企業やIT企業、金融サービス業などの
発展を促し、
グローバル都市に
大企業や
高所得者が
集中する結果をもたらした。
他方で
経済のサービス化、ソフト化は、
規制緩和政策とあいまって
『柔軟な労働力』
としての
パートタイム労働や
派遣労働などの
不安定雇用を増大させており、
低成長時代における
長期失業者の出現とあわせ、
『新しい下層階級』
(野田昇吾)
を
生み出している。」
(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
富が集中するほど
他者への信頼が下がり、
「フェアネス(公正さ)指数」
(日経新聞作成)
が低くなる。
同時に
ポピュリズムの
場当たり政策に
翻弄されやすくなる。
「国際都市ロンドンに集う
グローバル・エリートの対極に位置し、
主要政党や労組から
『置き去り』
にされた人々と、
アメリカの
東海岸や西海岸の都市部に
本拠を置く
政治経済エリートや
有力メディアから、
突き放された人々。
労働党や民主党といった、
労働者保護を重視する
はずの政党が
グローバル化や
ヨーロッパ統合の
推進者と化し、
既成政党への失望が
広がるなかで、
既存の政治を
正面から批判し、
自国優先を打ち出して
EUやTPP,NAFTAなど
国際的な枠組みを否定する
急進的な主張が、
強く支持されたといえる。」
(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
人々の不満を
あおるだけで解を示せないのがポピュリズム。
不満のはけ口を
外に求めた愚かさは
ナチスドイツの例を
振り返っても明らかだ。
第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 (放送大学「現代の国際政治」第5回よりまとめ)
グローバリゼーションによって、世界の富の大きさは拡大したが、分配に著しい偏りが生じたことは、論を俟たない。 日本においても、新自由主義的な政策の結果、正規、非正規の格差など、目に見えて格差が生じている。
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より
そのような中で、
経済的に恵まれない層は、
ワーキングプアとも言われる状況のなかで、
自らの
アイデンティティーを脅かされる環境に置かれている。
エーリッヒ・フロムの論考を参考にして
考えれば、
旧来の中間層が、
自分たちより
下に見ていた貧困層と同じ境遇に
置かれるのは屈辱であるし、
生活も苦しくなってくると、
ドイツの場合は、
プロテスタンティズムのマゾ的心性が、
ナチズムの
サディスティックな
プロパガンダとの親和性により、
まるで
サド=マゾ関係を結んだ結果、
強力な
全体主義社会が生まれた。
日本ではどうだろうか?
過剰な同調圧力が
日本人の間には
存在することは、
ほぼ共通認識だが、
それは、安倍のような強力な
リーダーシップへの隷従や、
そうでなければ、
社会から強要される
画一性への服従となって、
負のエネルギーが現れる。
そこで追究されるのが、
特に民族としての
「本来性」という側面だ。
本来性という隠語は、現代生活の疎外を否定するというよりはむしろ、この疎外のいっそう狡猾な現われにほかならないのである。(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが
後期資本主義における
物象化という側面を
持っているとすれば、
グローバリゼーションによる
均質化、画一化が
進行するにつれ、
反動として
民族の本来性といった
民族主義的、右翼的、排外主義的な
傾向が現れるのは、
日本に限ったことでは
ないのかもしれない。
むしろ、
アドルノの言明を素直に読めば、
資本主義が
高度に発展して、
物象化が進み、
疎外が深刻になるほど、
本来性というものを
追求するのは
不可避の傾向だ、とさえ言える。
さらには、
資本主義社会が浸透し、
人間が、
計量的理性の画一性に
さらされるほど、
人々は、
自分と他人とは違う、
というアイデンティティーを、
理性を超えた領域に
求めるようになる。
社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上
その
関数に貶めれられるように
なればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である
絶対的支配なるものを
ともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの
属性である
絶対的支配なるものを
ともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである」
という言葉が
何を表しているか、
自分の考えでは、
「社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上
その関数に
貶めれられるように
なればなるほど」、
(疑似)宗教のように、
この世の全体を
精神的な色彩で説明し、
現実生活では
一個の歯車でしかない自分が、
それとは
独立した
精神世界のヒエラルキーに
組み込まれ、
そのヒエラルキーの階層を
登っていくことに、
救いを感じるようになる、
という感覚だろうか。
「デモクラシーという
品のよいパーティに出現した、
ポピュリズムという泥酔客。
パーティ客の多くは、
この泥酔客を
歓迎しないだろう。
ましてや
手を取って、
ディナーへと導こうとは
しないだろう。
しかし
ポピュリズムの出現を通じて、
現代のデモクラシーというパーティは、
その
抱える本質的な矛盾を
あらわにした
とはいえないだろうか。
そして
困ったような表情を浮かべつつも、
内心では
泥酔客の重大な指摘に
密かにうなづいている客は、
実は多いのではないか。」
(「ポピュリズムとは何か」中公新書より)
「魔の山」トーマス・マン 岩波文庫 下巻 末尾より (再掲)
さようなら、ハンス・カストルプ、人生の誠実な厄介息子よ! 君の物語はおわり、私たちはそれを語りおわった。 短かすぎも長すぎもしない物語、錬金術的な物語であった。 (略) 私たちは、この物語がすすむにつれて、 君に教育者らしい愛情を感じはじめたことを 否定しない。 (略) ごきげんようー 君が生きているにしても、倒れているにしても! 君の行手は暗く、 君が巻き込まれている血なまぐさい乱舞は まだ 何年もつづくだろうが、 私たちは、君が無事で戻ることは おぼつかないのではないかと 考えている。 (略) 君の単純さを複雑にしてくれた肉体と精神との冒険で、 君は肉体の世界ではほとんど経験できないことを、 精神の世界で経験することができた。 (略) 死と肉体の放縦とのなかから、 愛の夢がほのぼのと誕生する瞬間を経験した。 世界の死の乱舞のなかからも、 まわりの雨まじりの夕空を焦がしている 陰惨なヒステリックな焔のなかからも、 いつか愛が誕生するだろうか? (おわり)
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
ユーミンとシルクロード (再掲)
2021年の大河ドラマは、渋沢栄一を扱っていたが、蚕を飼って桑の葉を食べさせているシーンがあったが、蚕を飼うということは、最終的に絹を作って、輸出するということだから、既に世界的な市場と繋がっていて、本を辿れば、あの時代に既に農家も貨幣経済に部分的に組み入れられていたということ。 つまり、生活するのにカネが必要になるということ。 それ以前は、綿花を作っていた。その時代は、塩と綿の苗だけはカネで買ったけれど、それ以外はカネを使わなかった。 つまり、養蚕業が日本の原風景というイメージは、違う。 綿花を作っていた頃は、綿を作って、紡績業者に委託して織物にしてもらって、それを藍染にしていた。 桐生などが代表的だが、綿花を紡績する織機産業が日本のプロト工業化の役割を担った。 大河の描写では、渋沢家は養蚕と藍染を両方やっていた。 横浜が開港して、八王子との間に交通が整備されると、山梨や長野からの絹が八王子に集積され、横浜港から世界に輸出され、第二次大戦まで、日本の外貨獲得の最大の資金源となり、横浜と八王子を結ぶラインは、シルクロードと呼ばれた。 戦後は、横浜からの舶来文化の流入で、在日米軍への、音楽などの文化的サービスが生まれ、花街も賑わった。 八王子を代表するシンガーソングライターに、松任谷由実がいるが、彼女も、八王子の絹呉服店に生まれ、子供のころから、米軍関係者に歌を披露していたそうだ。
不胎化されたレポートその7 (再掲)
第7節:このように、現代社会においては、人間は高度資本主義下にあって、寄る辺なきアトムとして生きている。アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。しかし、理論的苛烈さは時として危険な政治信条に結びつく。現実的には、やはり徹底的に合理化され尽くしたように見える日本社会においては、「詐欺」の可能性が「管理された世界」を脱−構築する可能性を秘めている。このことを荻野昌弘の論を援用して敷衍してみたい。
不胎化されたレポートその12 (再掲)
第12節:では、なぜ人は都市での生活に憧れるのだろうか?それは、都市という空間が「見られることの不安」にさらされる空間だからではないだろうか。「見られることの不安」が、そこに暮らす人々を、より洗練された身振り、服装、趣味、言葉遣い、教養を身につけるように強いるのである。村落共同体では、個々人の社会的役割や上下関係は固定化されており、個人というものが際立った特徴のあるものとして認識されていない。それは安定しつつも、退屈な日常である。ここで、「見られること」が、人の「顔」を創り上げること、あるいは「顔」は他者からの視線抜きには成立すらしないことを現象学的に考察する。 ルソーは疎外論の 元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」 と 「社会的仮面を被ったワタシ」 の分離という 中学生が本能的に 感じるようなことに 言及していたそうである。 ここで、いわゆる 『キャラ』 について考えてみよう。 サークルの飲み会で、 場にあわせて ドンチャン騒ぎを やることに倦み果てて、 トイレに逃げ込んだときに 自分の顔を鏡でみるのは 一種のホラーである。 鏡に映る、グダグダに なって油断して仮面を 剥がしかけてしまった 見知らぬ自分。 それを自分だと思えず 一瞬見遣る鏡の前の男。 男は鏡に映る男が 自分であることに驚き、 鏡の中の男が同時に驚く。 その刹那両方の視線がカチあう。 俺は鏡を見ていて、 その俺を見ている鏡の中に 俺がいて、 それをまた俺が見ている・・・ という視線の 無限遡行が起こって、 自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような 思考実験からは、 <顔>について われわれが持っている イメージとは違う <顔>の性質を 垣間見ることが 出来るのではないか。 そもそも、 自分の顔は自分が一番よく知っている と誰もが思っているが、 鷲田清一によれば、 「われわれは 自分の顔から 遠く隔てられている」 (「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22) という。 それは、 「われわれは 他人の顔を思い描くこと なしに、 そのひとについて 思いをめぐらすことは できないが、 他方で、他人が それを眺めつつ <わたし>について 思いをめぐらす その顔を、 よりによって当のわたしは じかに見ることができない。」 (P.22)からだ。 言い換えれば、 「わたしはわたし(の顔)を 見つめる他者の顔、 他者の視線を通じてしか 自分の顔に 近づけないということである。」 (P.56)ゆえに、 「われわれは目の前にある 他者の顔を 『読む』ことによって、 いまの自分の顔の様態を 想像するわけである。 その意味では 他者は文字どおり <わたし>の鏡なのである。 他者の<顔>の上に 何かを読み取る、 あるいは「だれか」を読み取る、 そういう視覚の構造を 折り返したところに <わたし>が想像的に 措定されるのであるから、 <わたし>と他者とは それぞれ自己へといたるために たがいにその存在を 交叉させねば ならないのであり、 他者の<顔>を 読むことを覚えねば ならないのである。」(P.56) そして、 「こうした自己と他者の 存在の根源的交叉(キアスム)と その反転を可能にするのが、 解釈の共同的な構造である。 ともに同じ意味の枠を なぞっているという、 その解釈の共同性のみに 支えられているような 共謀関係に <わたし>の存在は 依拠しているわけである。 他者の<顔>、 わたしたちはそれを 通して自己の可視的な イメージを形成するの だとすれば、 <顔>の上にこそ 共同性が映しだされている ことになる。」(P.56) こう考えると、 「ひととひととの差異を しるしづける<顔>は、 皮肉にも、 世界について、あるいは自分たち についての 解釈のコードを 共有するものたちの あいだではじめて その具体的な意味を 得てくるような現象 だということがわかる。」(P.58) これはまさに、 サークルなどで各々が 被っている<キャラ>に まさしく当てはまる のではないか。 サークルという場においては、 暗黙の解釈コードを 共有しているかどうかを 試し試され、確認し合っており、 そのコードを理解できないもの、 理解しようとしないものは 排除される。 その意味では <キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。 視線の交錯の上に 成り立つ 「規律」に反するものを “排除”する構造は、 <キャラ>を媒介として成り立つ、 目には見えない 一望監視装置と言えるだろう。このように、人間の「顔」は、他者の視線の交錯と、それを我々が想像することにより成り立ちうることが示された。都市という空間においては、「見られること」の過剰とも言える意識が、そこに住む人をより高度で洗練されたカルチャーへと誘うのである。さらに言えば、「見られることの不安」、言い換えれば「視線」抜きでは、都市的個人さえも産まれないのである。
不胎化されたレポートその2 (再掲)
第2節:カントは、言わずもがな18世紀の啓蒙思想家である。彼は、自然界に法則が存在するのと同様に、人間にとっても道徳法則があるはずだ、と考えた。その内容を極めて簡潔に述べると、人が何か行いをしようとするとき、他の全員が自分と同じ行動を取ったとして、仮にそれを受け入れられる、あるいはそういう社会を容認出来るならば、その行為を行ってもいいが、そうでなければ、その行為を行うべきではない、というものである。また、彼は、仮言命法の危険性も指摘している。仮言命法とは、例えば「美味しいプレッツェルを食べたければ、南ドイツに行け。」といった、現代の日本に住む我々が常識的に行っている思考回路である。これの何が問題なのだろうか?しかし、この一見無害な発想には、人間の自由を奪う危険性が潜んでいる。例えば、昨今は理系偏重の風潮があり、就職のことも考えて、なるべく理系の大学、学部を選ぶ傾向が受験生やその保護者に見て取れる。この一見ありがちな行動はしかし、連鎖する。将来不安、就職への不安から、理系の大学、学部を選好するようになると、その方面の進学に強い高校、ひいては中学を選ぶ、ということになり、特に首都圏では、そのような中学に合格するために、小学生のうちから塾通いを始める、という結果になりうる。果たして、これが自由な生き方と言えるだろうか?これは、まさに仮言命法の発想が、いかに現代日本人を不自由にしているか、ということを示している。また、私達は、基本的に何かに縛られて、言い方を変えれば「依存して」生きている。例えば、組織、カネ、家族、地位、恋人など、挙げればキリがない。そして、これらの存在を守ることが当然であり、むしろそうすることが義務であるかのような社会通念が存在する。もちろんこれらをすべて否定するつもりはない。しかし、往々にして、これらの存在への「依存」は、やはり我々を不自由にする。こう考えると、現代日本に暮らす我々が、いかに窮屈な存在であるか、ということが見て取れる。カントの発想は、人間にも道徳法則があり、各人は自身の道徳的行いを「自ら考え、自ら選択する」ことが出来ると考えた。これは極めて強力な自由論である。この意味において、カントの道徳哲学の発想は、我々が自由に生きるとはどういうことか、を考える時、非常に強力な武器となる。また、トマス・ホッブズが予言したように、現代の資本主義社会において、人は疑似殺し合いを演じている。つまり、絶えず他人を先んじよう、出し抜こう、という脅迫観念に囚われている。そのような社会において、カントの、自らの道徳的行いを自ら考えて決断していい、という自由論は、極めて強力な理論である。
回顧録 (再掲)
今はたぶん だいぶ 違うんだろうが、自分が入った頃の武蔵は、権威主義的な 空気がまだ 漂っていた。 もちろん、学問的な、という意味だが。 しかし、その埃っぽさが、自分には耐えられないくらい 窮屈で 仕方がなかった。 武蔵は、学問の自由とか言いながら、肝心なことは教えてくれないし、しかも、ほこりっぽいアカデミズム、言い換えれば、 学問的権威主義の空気が横溢していて、そういうところはほんとにイヤだった。 ただ、そういう権威主義に対するカウンターカルチャーというか、 真面目くさった合理主義に対するアンチテーゼとしての 道化を演じる精神は根付いていたし、 学校側も、そういうところはかなり懐は深かった。 自分が武蔵を辞めずに済んだのは、 一緒に道化を演じてくれる友人や、 学校側の懐の深さによるものだと思う。 武蔵っていう場所は、 言い訳の効かない 「お前、自分の頭で考えろよ?」 っていう 場面を、必ず一度は突きつけられる場所だと思う。 別に武蔵じゃなくてもいいんだけど、 ぶっちゃけ サニチだったら、少なくとも勉強に関しては いくらでも 逃げられる。 「自分の頭で考える」と言えば、そら誰だって自分の頭で考えてるだろ、と思うだろうが、 実際には、逃げ場がある、言い訳が効く環境では、なかなか身につくもんじゃない。 それは、 教師が頑張ってどうこう出来るもんじゃなく、 カルチャーを含めて、武蔵という学校の環境だと思う。 単に大学受験のことだけ考えれば、武蔵よりサニチのほうが遥かにいい環境だろう。 お山の大将でいられるし。 しかし、武蔵は逃げを許してくれない。 現に今だって、 下手なことを書けば、 え、それはどういうことなの? と厳しいツッコミが友達から容赦なく飛んでくるのは覚悟してる。 そういうツッコミを、 自分の中で想定していること、 つまり、自分が表明することに対してどのような批判があり得るか、を考える思考回路を 内製化できていることが、 自分の強みでもある。 山川賞とった 大澤くんみたいなのが 部活の後輩にいるとね、 大学生にもなって 自分の研究テーマを持ってないってのは、凄く恥ずかしい、と思ってたよ。多くの大学生の意識はそうでもないってことに しばらくしてから気付いたけど。そこらへんが、武蔵がアカデミズム重視の学校と 言われるゆえんだろうね。 会報で、大昔のOBの回顧録で、中1で同級生に初めてかけられた言葉が、「ご専門はなんですか?」だった、なんて話も載ってた。もともとそういう学校なんだね。つっても、自分みたいなザコは高校の現国でレポート書けなくて、教師にキレられたり、小論文が書けなくてSFC2回も落ちたり、SFC入ったら入ったで、レポート書けなくて四苦八苦したり。今みたいに守備範囲内だったら書ける、というレベルになるまでは、相当な労力と時間がかかったよ。贅沢な話だけどね。でも、高校入ってからずーっと劣等感抱えて生きてきた。 自分が高校受験に邁進してた1年間は、 ちょうど父親が地方に単身赴任してて、 だからこそ、高校受験にあれほど 時間とカネをつぎ込めたんだろうけど、 父親が 東京に戻ってきて、 後楽園に近い社宅で 4人で暮らしていた頃は、 つまんなかった。 最寄り駅は飯田橋で、 地下鉄有楽町線で 新桜台まで直通で、 武蔵まで行けたんだが、 当時は西武線に直通する本数が少なくて、 結構遅刻もした。 新桜台という駅は地下の駅で、 名前はおしゃれだが、 ほこりっぽくて無機質で、 まったくテンションのあがらない駅だった。 父親も、 会社が合併したために全くテリトリーの違う土壌に乗り込んだが、 うまく馴染めず、かなり精神的にも堪えたらしい。 そのせいか、 東京の社宅にいた頃は、 夜食事をするにも、 家族団欒であるはずの場が、父親にとっては、単純にタダで酒が飲めて接待もしてもらえるクラブと化していた。 父親も、そういう形以外での家族との接し方がわからなかったんだろう。 俺も、そのころだんだんと気持ちが塞いで、頭もボンヤリするようになっていった。 ・・・おおたとしまささんの 新書を読んでみた。 非常に読みやすいので、 2、3時間くらいで 読めてしまった。 特に そこは違うだろ! とか ツッコミたいところもなかったし、 内容も 決して薄くはなかった。 教育学的な視点による 裏付けもしっかりしていたと思う。 単純に 「都会の頭のいい学校に通っている生徒は、 塾漬けで 勉強が出来るだけのバカ」 っていうほど 白黒ハッキリした 単純なストーリーでもなかった。 それだけに、 何か 一種の勧善懲悪的な 痛快な読み物、というわけではない。 かといって、 歴史に残るような名著、というほどではないが。 ただ、 読む価値は十分あると思う。 難しいテーマだから、 何か結論めいたことを言うのは 簡単ではない。 塾は塾。 学校は学校。 何か割り切れないものは残るが、 新書一冊で片付けるのは、 土台無理なテーマだ。 ただし、 著者が 日本のエリート教育に対して 抱く懸念は伝わってくる。 代々木に 鉄緑会、という まさに この本がターゲットとしている、 都会の高校生なら 知らぬものが居ないほどの 悪名高い?塾が存在するのだが、 都庁で夜景を眺めながら、 鉄緑会を指さして、 「○○くん今あそこにいるのかな? ミサイル撃ち込みたいよね。」 とか メタさんが言っていたのを思い出した。 メタさんは 高校生のころ (本人曰く) メタルに狂い過ぎて 勉強が疎かになっていたが、 今では 誰も文句のつけようがない 立派な 社会人。 もちろん 鳩さんも。 ふたりとも、 俺が 武蔵に絶望して、 学校を途中でバックレて 電車でどこかに逃避するようになったころ、 放課後一緒に 江ノ島やら逗子やら、 いろいろなところに 日常的に 連れて行ってくれるようになった。 新宿の高層ビル群は、 ほとんど庭と言っても過言ではない。 センターと言えば、 センター試験ではなく、 センタービルのこと。 夜景ソムリエの鳩さんが、 いつも先導してくれて、 今光ったのがどこそこの 灯台だとか、 いま 羽田空港の 新C滑走路に 飛行機が降りるところ、 とか 解説してくれた。 メタさんと鳩さんの会話を聴きながら、 自分は弁論術を学んだと言っても過言ではない。 学問に対する姿勢は、 生物部の後輩の大澤くんに学んだ。 たぶん、 自分の心のバッテリーの容量って、 人並みなんだよね。 感覚が敏感すぎて バッテリーが切れるのが早いってのは あるけど、 バッテリーの容量そのものは 健常者と大して変わらない。 宮本浩次のアルバム聴いてて、 さすがに 疲れたけど、 米軍が アルカイダの捕虜を拷問するとき、 メタリカを延々と流すらしいね。 確かに、いくら ファンの自分でも、何時間も メタリカ聴かされたら、 脳ミソ壊れちゃうよ。 駿台で2浪してた時に、既に 心の堤防が決壊寸前まで 行ってたのに、 SFC入ってから更に 災害級のストレスが襲って来たんだから、 そら 正気で居るのは無理だったな。 自分が子供の頃の中国って言ったら、 真冬のクッソ寒い朝でも、 みんな人民服着て、 チャリで大移動ってイメージだったけど、 まさかここまで巨大になるとは。 自分が小学生の頃なんて、 冬は霜柱立ってて、それをザクザク踏みしめながら 登校したもんだけど。 今の子供は、北海道とかならともかく、 霜柱なんか知らんでしょ? ま、そんなことは置いといて、 慶応の研究会で、 生協で見つけた末廣昭先生の「キャッチアップ型工業化論」(名古屋大学出版会) を、パクってパワポ作ってプレゼンしたんだけど、 まるっきりそのまんまじゃ つまんないから、 よせばいいのに 経済発展の過程で労働からの疎外が起きる、なんて ぶったもんだから、集中砲火されて、 しかも、今では無惨に色あせた、グローバリゼーションてコトバが当時流行ってて、 これも生協で見つけた 伊豫谷登士翁の本に感化されたりして、 俺の頭もオカシクなった。 ま、振り返れば簡単な話のように聞こえるけど、 我ながらよくここまでやったわ。 願わくばもっと 早く 中退させて欲しかったけどね。 2ヶ月入れられてた病院から ようやく退院したとき、記帳をする 姉のペンの握り方を見て、衝撃を受けた。 中指と薬指の間からボールペンが 突き出ている。 20年近く前のことだから正確ではないかもしれないが、 よくその握り方で字が書けるな、と 逆に関心してしまうような握り方だった。 と、同時に、俺は この先の人生 誰を頼りにして生きていけばいいんだ? と、マジで心が折れそうになった。 20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。 母親も 要介護3で、 俺も 精神障害者2級で、 介護保険と 傷害保険で ヘルパーさんが 毎日来て 飯つくってくれて 掃除もしてくれるんだが、 正直 本人たちは どう見ても そんなに重症ではない。 確かに、 母親も脳梗塞を発症したとはいえ、 (俺が) 早期発見したから、 症状は軽い。 俺自身、いかに 20年前に 措置入院を食らったとはいえ、 薬は確かに 必需品だが、 至ってヘルシーだ。 しかし、思い返してみれば、 幼少期から、 小林家というのは 毎日が 非常事態、 とても 安らぎの場所ではなかった。 むしろ 針のむしろだった。 母親も外面がいいから 傍目から見れば 恵まれた家庭だっただろうが、 母親が 心を閉ざしているから、 父親がいくら 稼いでも、 それを相殺して余りあるほど、 小林家というのは 毎日が非常事態だったのだ。 ここ最近は、ほんとに お互い心安らかに暮らしているが、 こうやって完全に 平穏な暮らしを出来るまでには、 本当に 長い道のりだった。 母親は、 息子(俺)が 働いてお金を稼ぐことよりも、 勉強して 学問のある人間になることのほうが、 遥かに嬉しいのだ。 俺自身、勉強は好きだ。 (理数系はまったくワカランが。) それは、母親自身 都立日比谷高校出身というのも 影響している。 姉は姉で、一緒に暮らしていた頃は モラルハザードが酷いものだったが、 いまは 結婚して出て行って、子供も出来たから、 じぃじばぁば 愛してる、なんていう どの口が言ってんだ?と 突っ込みたくなるような おべんちゃらを言っている。 とにかく、いまの小林家は 平和だ。 この平和に至るまでに 俺自身、他人には想像を絶するほどの 苦労をしながら 貢献してきたのだ。 だから、立派に 今の 安閑たる生活を享受して 許されるのだ。 放送大学の 2学期の 面接授業で、 福島学習センターで 取ってみようかと 思ってる 授業があって、 福島学習センターが 郡山の 郡山女子大学にあるんだが、 ふと、 郡山といえば、 2浪してる時に、 母親から1万円もらって、 羽生から東武動物公園まで行って、 日光線の快速に乗り換えて、 会津田島まで行って 野岩鉄道で 山奥の秘境みたいなところを ひたすら走って 会津若松まで行って、 そこから 郡山に出て、 東北線で久喜まで来たところで お金が足りなくなって、 母親に来てもらって、 精算して 羽生まで帰ってきた、 ってことがあったね。 あのときは、もう誰も 浪人してなくて、 メンタルも危機的だったし、 俺の人生どうなっちゃうんだろう? と 漠たる不安感のなかを 必死に もがいてる感じだったなあ。 そんなこと 思い出すと、 ほんとによくまあ ここまで来たよ。 あの時の俺に エールを送ってやりたいね。 お前の人生 悪くないぞ! てね。 俺けっこう 泥沼はいつくばって 生きてきたと 思ってるんだけど、 往々にして 苦労知らずの お坊ちゃんて 思われるんだよね。 その度に、 ふふ。 あなたは 俺に 騙されてるよ。 と 内心おもっているのだが。 教科書的に自分の歴史を振り返れば、20代から30代後半まで、友達から、働け、ってメタル責めされてたのは事実だけど、 あちこちドライブに連れてってもらった楽しい思い出もたくさんあるし、 それこそ彼らが地方に転勤してるときに、遊びに行ったときの楽しい思い出もたくさんあるし、無理に省略しようとすると、 「暗黒時代」かのような歴史観になりかねないけど、 ディティールを無視するのは、怖いよね。 いずれにせよ、 彼らはいつも自分に誠実に接してくれたし、説教してくれるのも、親身に考えてくれてることの裏返しだし。 (以下 坂口安吾「三十歳」より) 勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。 たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。 人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。 けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。
不胎化されたレポートその9 (再掲)
第9節:以上を踏まえながら、アリストテレスの倫理学を構造主義との対比で取り上げる。私の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたと感じられる。 自分は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! という 肩書きでは 良くも悪くも通用しなくなってきている。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思われるが、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。
妄想卒論その11 (再掲)
確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。
日常生活とつながる「行政法」@郡山女子大学 レポート (再掲)
行政法の概念に、「行政指導」と呼ばれるものが存在する。行政は、本来「行政行為」と呼ばれる、命令する主体としての行政と、名宛人の市民との主体・客体関係がハッキリしている手段で運営されるべきものだが、「行政指導」という、極めて日本的な、主体・客体関係が不明瞭な手段が、行政の運営上横行している。もっとも、行政指導それ自体が問題なのではなく、行政指導が、本来強制力を伴わないものであるはずなのに、従わなければ往々にして市民が制裁を加えられることが、常態化しているという現実がある。また、それに留まらず、行政指導が医療のあり方に絶大な影響を与えている。どういうことか。日本の医療制度において、ある一定の地域に、十分な病床数が確保されている場合、新規に医療業者が参入しようとするとき、保険適用が受けられず、自由診療で開業せざるを得ない、という現実が、行政指導によって正当化されている。これは明らかに既存の病院の権益を守り、新規参入者を不当に排除している。問題はこれに留まらない。特に精神医療において、1950年代にフランスで画期的な抗精神病薬が開発され、欧米先進国では病床数が減っていったにも関わらず、日本では逆に病床数が増えた。これは、戦後、精神病患者を建前上しっかり治療しようとの方針から、精神病院の数が増えたからである。そこで、戦後、精神病院が増設される際、一定の範囲で病床数を確保してしまえば、地域の患者を独占できてしまう、という経済的合理性によって、精神病院が往々にして大規模化したことが推測される。言わずもがな、これは行政指導によって、いったん多くの病床数を確保してしまえば、新規参入者を排除できることが、精神病院の大規模化を促したと容易に考えられる。そして、元厚生労働大臣が、戦後日本の医療制度を構築した武見太郎の息子である武見敬三である現実では、これが改められる可能性は極めて低い。
無聊を託つ (再掲)
暇だな・・・
暇なら働きゃいいじゃん、
母親も、
何も言わず
一人で郵便局行けるほどに回復したし。
しかし、
俺が暇だから働く、
となれば、
母親はどうなる?
俺より暇じゃないのか?
暇だってそれなりに苦痛であることを
理由に、働こうかな、なんて言ってる息子が、
母親を放置していいんだろうか。
ん?でも俺って、実はそれなりに体力ついてきたんじゃないか?
連日エキサイトしてるのに、それなりに朝早く起きられるし。
睡眠の質もいいし。
ところで、最近また世間のマインドがデフレの方向に向かってる気がする。
テレビとかでも、いかに食事などを安く済ませるか、という内容が散見される。
母親も、飯尾和樹がワンコインで賢く食費を浮かせてて、偉いと言っている。
円安と資源価格高騰による
コストプッシュ・インフレの影響と、
それでも企業の価格転嫁が進まずで、
結局、名目賃金が上がったとしても、
実質賃金が目減りしているから、
当然と言えば当然なんだけど、
そもそも
期待インフレ率を上げて、実質金利を下げることにより、消費を喚起することが
インタゲの主眼目のはずだったのに、
これじゃ本末転倒じゃないか。
ただのスタグフレーション。
黒田日銀は、日本経済を永久凍結させる気か?
見方によっては、富の分配の偏りは、消費の低迷によって
国全体を貧しくする、ということも言えるだろう。
そもそも、少子高齢化が進めば、
老人の支出が減るのは当たり前だし、
働く世代だって、将来の社会保障が不安だったら、
消費を控えるのは当然だろう。
それは小手先のナントカノミクスでどうこうなるものではない。
政府はNISAを恒久化するなどで、なんとかマネーを投資に持っていこうと必死なようだが。
デフレマインドで唯一いいこと?があるとすれば、
家計が現預金を貯め込むことで、
結果的に日本国債を買い支える構図が維持されていることだろう。
尤も、その結果、政府に対する財政出動を要請する声が強まり、
財政の規律が緩むことは目に見えているが。
目下、日本でもインフレ率(CPIかどうかまでは知らない)が3%に達しているそうだが、
フィッシャー効果の想定する合理的な消費者像からすれば、
物価が上昇すれば、その見返りに名目金利が上がるはずで、
日本では日銀により名目金利が抑え込まれている以上、
その埋め合わせを、株なり海外資産への投資なりで行うはずだが、
日本の家計はそこまで合理的ではなく、
現預金を貯め込む、という方向に進んだようだ。
それはそれでいいだろう。
緩慢な死を迎えるだけだ。
経常収支ことはじめ (再掲)
質問: 今般の衆議院選挙の結果を受けて、安倍政権の経済政策が信任され、結果、日銀が緩和を継続すれば、世界経済への流動性供給の源であり続けることになり、特に、金利上昇の影響を受けやすいアジアの新興市場に日本発の流動性が流れ込むだろうという指摘もあります。 ここで、松原隆一郎先生は、「経常収支と金融収支は一致する」と書いておられるわけですが、実際に物(ブツ)が輸出入される、という実物経済と、例えば日銀が金融緩和で世界にマネーを垂れ流して世界の利上げ傾向に逆行する、という国際金融の話を、同じ土俵で括るのが適切なのか、という疑問が生じました。 回答:経常収支は一国で実物取引が完結せず輸出入に差があることを表現する項目です。日本のようにそれが黒字である(輸出が輸入よりも大きい)のは商品が外国に売れて、外国に競り勝って良いことのように見えるかもしれませんが、別の見方をすれば国内で買われず売れ残ったものを外国に引き取ってもらったとも言えます。国内では生産しカネが所得として分配されていて購買力となっているのに全額使われなかったのですから、その分は貯蓄となっています。つまり実物を純輸出しているとは、同時に国内で使われなかった貯蓄も海外で使わねばならないことを意味しているのです。こちらが金融収支なので、「経常収支と金融収支が一致する」のは同じことの裏表に過ぎません。 そこでご質問は、「日銀が国債を直接引き受けたりして金融緩和し続けている。このことは経常収支・金融収支とどう関係があるのか?」ということになろうかと思われます。けれども日銀はバランスシートというストックのやりとりをしており経常収支・金融収支はフローのやりとりなので、概念としては次元が異なります(「スピード」と「距離」に相当)。すなわち、金融収支はフローであり、日銀の金融緩和はストックなので、同じ水準では扱えないのです(スピードに距離を足すことはできない)。 しかしストックとフローにも影響関係はあるのではないかという考え方も確かにあり、そもそも一国内に限ってそれを金融資産の需給(ストック)と財の需給(フロー)が金利で結ばれるという考え方を示したのがケインズの『雇用・利子・貨幣の一般理論』でした。とすればその国際経済版が成り立つのかは重要な問題ではあります。この論点は多くの研究者が気になるようで、奥田宏司「経常収支,財政収支の基本的な把握」www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.26-2/09_Okuda.pdf が論じています。参考にしてください。 https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
アドルノはまだ生きている (再掲)
グローバリゼーションによって、
世界の富の大きさは拡大したが、
分配に著しい偏りが生じたことは、
論を俟たない。
日本においても、
新自由主義的な政策の結果、
正規、非正規の格差など、
目に見えて格差が生じている。
そのような中で、
経済的に恵まれない層は、
ワーキングプアとも言われる状況のなかで、
自らのアイデンティティーを
脅かされる環境に置かれている。
エーリッヒ・フロムの論考を
参考にして考えれば、
旧来の中間層が、
自分たちより下に見ていた
貧困層と同じ境遇に
置かれるのは屈辱であるし、
生活も苦しくなってくると、
ドイツの場合は、
プロテスタンティズムの
マゾ的心性が、
ナチズムのサディスティックな
プロパガンダとの親和性により、
まるで
サド=マゾ関係を結んだ結果、
強力な全体主義社会が生まれた。
日本ではどうだろうか?
過剰な同調圧力が
日本人の間には存在することは、
ほぼ共通認識だが、
それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、
そうでなければ、
社会から強要される
画一性への服従となって、
負のエネルギーが現れる。
そこで追究されるのが、
特に民族としての「本来性」という側面だ。
本来性という隠語は、
現代生活の疎外を否定する
というよりは
むしろ、
この疎外の
いっそう狡猾な現われに
ほかならないのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ)
グローバリゼーションが
後期資本主義における
物象化という側面を
持っているとすれば、
グローバリゼーションによる
均質化、画一化が進行するにつれ、
反動として
民族の本来性といった民族主義的、
右翼的、排外主義的な傾向が
現れるのは、
日本に限ったことではないのかもしれない。
むしろ、
アドルノの言明を素直に読めば、
資本主義が高度に発展して、
物象化が進み、
疎外が深刻になるほど、
本来性というものを
追求するのは不可避の傾向だ、
とさえ言える。
さらには、
資本主義社会が浸透し、
人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、
人々は、
自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、
理性を超えた領域に
求めるようになる。
社会全体が体系化され、
諸個人が事実上
その関数に
貶めれられるように
なればなるほど、
それだけ
人間そのものが
精神のおかげで創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである。
(「アドルノ」岩波現代文庫98ページ)
「それだけ
人間そのものが
精神のおかげで
創造的なものの属性である
絶対的支配なるものをともなった原理として
高められることに、
慰めを
もとめるようになるのである」
という言葉が
何を表しているか、
自分の考えでは、
「社会全体が体系化され、
諸個人が
事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、
(疑似)宗教のように、
この世の全体を
精神的な色彩で説明し、
現実生活では
一個の歯車でしかない自分が、
それとは
独立した
精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、
その
ヒエラルキーの階層を登っていくことに、
救いを感じるようになる、
という感じだろうか。
まるでオウム真理教のようだ。
ジョン・デューイの政治思想 (再掲)
貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244)
旬報社 (再掲)
1990年代以降、企業のグローバル展開が加速していくのに合わせて、国内では非正規雇用への切り替えや賃金の削減など、生産コスト抑制が強まりました。大企業はグローバル展開と国内での労働条件引き下げにより、利潤を増加させてきたのです。しかし、その増加した利潤は再びグローバル投資(国内外のM&Aを含む)に振り向けられます。そして、グローバル競争を背景にした規制緩和によって、M&Aが増加していきますが、これによって株主配分に重点を置いた利益処分が強まり、所得格差の拡大が生じています。また、国内の生産コスト抑制により、内需が縮小していきますが、これは企業に対してさらなるグローバル展開へと駆り立てます。 このように、現代日本経済は国内経済の衰退とグローバル企業の利潤拡大を生み出していく構造になっているのです。1990年代以降、景気拡大や企業収益の増大にも関わらず、賃金の上昇や労働条件の改善につながらないという問題を冒頭で指摘しましたが、このような日本経済の構造に要因があるのです。 新版図説「経済の論点」旬報社 p.129より つまり、日本の内需の縮小と労働市場の貧困化は、企業の海外進出と表裏一体であり、その見返りとしての、海外からの利子・配当などの、いわゆる第一次所得収支の恩恵として現れる。 https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX
文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)
質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。 フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。 「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。
2024年11月17日日曜日
帰宅
滋賀大学名誉教授の
三ッ石郁夫先生の
「経済思想を経済史から考える」@龍谷大学
瀬田キャンパス
で
受講してきました。
とても
素晴らしい内容で、
今までの
自分の研究成果を
ぶつかり稽古で
三ッ石先生の
胸を借りるつもりで
思いっきりぶつかって来ました。
見事
受け止めてくださり、
この20年が
すべて
報われる思いです。
ありがとうございました。
2024年11月12日火曜日
政策割り当ての原理 インタゲと増税はワンセット (再掲)
質問:
中央銀行は
民間に供給される
通貨量をコントロールしながら
物価の安定を実現させる、
とありますが、
アベノミクスの第一の矢である
2%物価上昇目標では、
インフレを起こすことにより、
デフレ脱却はもちろんのこと、
インフレによって
財政再建を
同時に目指すとしていますが、
これは
「政策割り当ての原理」
に反してはいないでしょうか?
あるいは、
新古典派経済学では
「政策割り当ての原理」は
成立しないのでしょうか?
回答:
オランダの経済学者で1969年にノーベル経済学賞を受賞したティンバーゲンは、
「n個の政策目標を実現するためには、
n個の政策手段が必要である」
という
有名な定理を唱えています。
すなわち、
「政策割当の原理」です。
したがって、
「インフレ」と「財政再建」の
2つの政策目標を実現するためには、
2つの政策手段が必要となります。
本来、
中央銀行の政策目標は物価の安定ですが、
アベノミクスの第一の矢は
2%の物価上昇が
政策目標でした。
本来の金融政策の目標
(物価の安定)
と異なるため
黒田日銀総裁は
「異次元の金融政策」
という言葉を使ったのです。
この
インフレ・ターゲットを掲げるシナリオは、
物価上昇によって
企業利潤が増加すると
法人税の増収、
また、
それに伴った
賃金の上昇による所得税の増収、
すなわち
直接税の自然増収が
財政再建に繋がる
シナリオを描いていたのです。
このシナリオどおりに進めば、
もう一つの政策目標である
「財政再建」
の目標に繋がります。
ただ、
経済成長なきインフレは
国民の生活レベルを
引き下げることになります。
したがって、
アベノミクスの第二の矢である
積極的な財政支出による
経済成長が重要になってくるため
「財政再建」
が先送りになってしまいます。
それゆえに、
「財政再建」
の政策目標の一環として
消費税の引上げが
考えられています。
このように、
「政策割当の原理」は
成立しています。
2024年11月2日土曜日
不胎化されたレポートその10 (再掲)
第10節:日本の<近代化>における状況について、夏目漱石の小説『それから』を題材にして考察する。経済が豊かになると、自家特有の世界に耽溺する余裕が産まれつつも、最終的には経済の論理に絡め取られていく。テオドール・W・アドルノによれば、社会が理性によって徹底的に合理化されるほど、人々は逆に精神世界での非合理的なヒエラルキーに慰めを求めるようになるのである。「それから」の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる三千代は、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。このように、夏目漱石は、経済の合理性の論理と、自家特有の世界との板挟みに遭いながらも、理性を放棄し、主観と客観との区別の放棄への道は採らずに、理性的な近代的個人に拘るのである。
漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)
質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。
動画へのフィードバックを森本先生より頂戴しました。(備忘録) (再掲)
後期資本主義批判をアドルノから荻野先生の社会学、ゲーテを経て漱石まで展開した動画を有り難う。 アドルノの後期資本主義批判はしばしば読ませてもらっていたところですが、今回は荻野氏の「詐欺」論へ連接させることで、論がひときわ具体性を増し、鮮やかな像を結んだように思います。 不確定性に賭ける「詐欺師」とは、計量と数値化を旨とする近代合理主義社会の、いわば虚をつく存在。資本主義社会の到達点ともいえる「管理社会」への批判的メタファーなのですね。 それが足を置く場は、まさに資本主義社会の「市場」の余白とでも表すべき領域。とすれば、小林くん講話の後半部のキーワードともいうべき「自然」が、まさに商品の等価交換から成り立つ「市場」の〈外部〉であることときれいに響き合っていることに、つくづく感心しました。 そして、近代作家とは、まさにその〈疎外〉感を以て、同じく近代が周縁化してしまった〈自然〉へ魅かれ、耽溺する者であるわけですね。 日本近代の場合、より〈自然〉に親和的なのが自然主義作家で、これをまさに〈じねん〉にみられるような概念化への苦闘を経ることで、欲望的な世界から帰還してくるのが漱石、ということになるでしょうか。「ファウスト」こそ詐欺師では、との小林くんの呟きにクスリとしながらつい頷いてもいるのですが、その葛藤が〈魂の救済〉なるもので終結するのは、やはりなんといってもキリスト教文化圏ならではの展開でしょう。かの有名な「疾風怒濤」期に端的に現れるゲーテの自然観(近代的「自然」の発見)は、日本の場合、漱石よりも、北村透谷を経た自然主義文学への影響の方が大きそうです。 いささか余談ですが、ゲーテも、漱石も、そしてほとんどすべての男性・近代作家の描く異性愛の対象ーー〈女性〉もまた〈近代〉が周縁化した存在なので、なるほどテクストというものは論理的かつ時代精神をおのずから反映したものだ、と改めてつくづく納得した次第です。いつものことながら、感謝です。誠に有り難う。 今回、頂戴した小林くん講話にこれまで頂戴している論考から得た知識を総合すれば、資本主義-市民社会がもたらす疎外、物象化に対する苦悩という名の徹底的相対化、これこそが漱石の文明批評の基盤であることが、まさに鮮明に図式化されて見えてくる感じです。 今回は「ブログのハッシュタグ参照」とのことで、アドルノとの関係への言及は省略されていましたが、ここから展開してゆくのが、何度か拝見させてもらった、アドルノを援用した小林くんの「それから」論ですね。主客分離から生じる疎外を批判し、人間の自然および身体の抑圧を論じながら、原初的まどろみへの回帰は徹底的に封じたアドルノの論理展開が、何と代助の解読に有効であるか、は、つねづね痛感するところです。
遠い記憶、そして今 (再掲)
今はたぶん だいぶ 違うんだろうが、自分が入った頃の武蔵は、権威主義的な 空気がまだ 漂っていた。 もちろん、学問的な、という意味だが。 しかし、その埃っぽさが、自分には耐えられないくらい 窮屈で 仕方がなかった。
武蔵は、学問の自由とか言いながら、肝心なことは教えてくれないし、しかも、ほこりっぽいアカデミズム、言い換えれば、 学問的権威主義の空気が横溢していて、そういうところはほんとにイヤだった。 ただ、そういう権威主義に対するカウンターカルチャーというか、 真面目くさった合理主義に対するアンチテーゼとしての 道化を演じる精神は根付いていたし、 学校側も、そういうところはかなり懐は深かった。 自分が武蔵を辞めずに済んだのは、 一緒に道化を演じてくれる友人や、 学校側の懐の深さによるものだと思う。
武蔵っていう場所は、 言い訳の効かない 「お前、自分の頭で考えろよ?」 っていう 場面を、必ず一度は突きつけられる場所だと思う。 別に武蔵じゃなくてもいいんだけど、 ぶっちゃけ サニチだったら、少なくとも勉強に関しては いくらでも 逃げられる。 「自分の頭で考える」と言えば、そら誰だって自分の頭で考えてるだろ、と思うだろうが、 実際には、逃げ場がある、言い訳が効く環境では、なかなか身につくもんじゃない。 それは、 教師が頑張ってどうこう出来るもんじゃなく、 カルチャーを含めて、武蔵という学校の環境だと思う。 単に大学受験のことだけ考えれば、武蔵よりサニチのほうが遥かにいい環境だろう。 お山の大将でいられるし。 しかし、武蔵は逃げを許してくれない。 現に今だって、 下手なことを書けば、 え、それはどういうことなの? と厳しいツッコミが友達から容赦なく飛んでくるのは覚悟してる。 そういうツッコミを、 自分の中で想定していること、 つまり、自分が表明することに対してどのような批判があり得るか、を考える思考回路を 内製化できていることが、 自分の強みでもある。
山川賞とった 大澤くんみたいなのが 部活の後輩にいるとね、 大学生にもなって 自分の研究テーマを持ってないってのは、凄く恥ずかしい、と思ってたよ。多くの大学生の意識はそうでもないってことに しばらくしてから気付いたけど。そこらへんが、武蔵がアカデミズム重視の学校と
言われるゆえんだろうね。
会報で、大昔のOBの回顧録で、中1で同級生に初めてかけられた言葉が、「ご専門はなんですか?」だった、なんて話も載ってた。もともとそういう学校なんだね。つっても、自分みたいなザコは高校の現国でレポート書けなくて、教師にキレられたり、小論文が書けなくてSFC2回も落ちたり、SFC入ったら入ったで、レポート書けなくて四苦八苦したり。今みたいに守備範囲内だったら書ける、というレベルになるまでは、相当な労力と時間がかかったよ。贅沢な話だけどね。でも、高校入ってからずーっと劣等感抱えて生きてきた。
自分が高校受験に邁進してた1年間は、 ちょうど父親が地方に単身赴任してて、 だからこそ、高校受験にあれほど 時間とカネをつぎ込めたんだろうけど、 父親が 東京に戻ってきて、 後楽園に近い社宅で 4人で暮らしていた頃は、 つまんなかった。 最寄り駅は飯田橋で、 地下鉄有楽町線で 新桜台まで直通で、 武蔵まで行けたんだが、 当時は西武線に直通する本数が少なくて、 結構遅刻もした。 新桜台という駅は地下の駅で、 名前はおしゃれだが、 ほこりっぽくて無機質で、 まったくテンションのあがらない駅だった。 父親も、 会社が合併したために全くテリトリーの違う土壌に乗り込んだが、 うまく馴染めず、かなり精神的にも堪えたらしい。 そのせいか、 東京の社宅にいた頃は、 夜食事をするにも、 家族団欒であるはずの場が、父親にとっては、単純にタダで酒が飲めて接待もしてもらえるクラブと化していた。 父親も、そういう形以外での家族との接し方がわからなかったんだろう。 俺も、そのころだんだんと気持ちが塞いで、頭もボンヤリするようになっていった。
・・・おおたとしまささんの 新書を読んでみた。 非常に読みやすいので、 2、3時間くらいで 読めてしまった。 特に そこは違うだろ! とか ツッコミたいところもなかったし、 内容も 決して薄くはなかった。 教育学的な視点による 裏付けもしっかりしていたと思う。 単純に 「都会の頭のいい学校に通っている生徒は、 塾漬けで 勉強が出来るだけのバカ」 っていうほど 白黒ハッキリした 単純なストーリーでもなかった。 それだけに、 何か 一種の勧善懲悪的な 痛快な読み物、というわけではない。 かといって、 歴史に残るような名著、というほどではないが。 ただ、 読む価値は十分あると思う。 難しいテーマだから、 何か結論めいたことを言うのは 簡単ではない。 塾は塾。 学校は学校。 何か割り切れないものは残るが、 新書一冊で片付けるのは、 土台無理なテーマだ。 ただし、 著者が 日本のエリート教育に対して 抱く懸念は伝わってくる。 代々木に 鉄緑会、という まさに この本がターゲットとしている、 都会の高校生なら 知らぬものが居ないほどの 悪名高い?塾が存在するのだが、 都庁で夜景を眺めながら、 鉄緑会を指さして、 「○○くん今あそこにいるのかな? ミサイル撃ち込みたいよね。」 とか メタさんが言っていたのを思い出した。 メタさんは 高校生のころ (本人曰く) メタルに狂い過ぎて 勉強が疎かになっていたが、 今では 誰も文句のつけようがない 立派な 社会人。 もちろん 鳩さんも。 ふたりとも、 俺が 武蔵に絶望して、 学校を途中でバックレて 電車でどこかに逃避するようになったころ、 放課後一緒に 江ノ島やら逗子やら、 いろいろなところに 日常的に 連れて行ってくれるようになった。 新宿の高層ビル群は、 ほとんど庭と言っても過言ではない。 センターと言えば、 センター試験ではなく、 センタービルのこと。 夜景ソムリエの鳩さんが、 いつも先導してくれて、 今光ったのがどこそこの 灯台だとか、 いま 羽田空港の 新C滑走路に 飛行機が降りるところ、 とか 解説してくれた。 メタさんと鳩さんの会話を聴きながら、 自分は弁論術を学んだと言っても過言ではない。 学問に対する姿勢は、 生物部の後輩の大澤くんに学んだ。
たぶん、 自分の心のバッテリーの容量って、 人並みなんだよね。 感覚が敏感すぎて バッテリーが切れるのが早いってのは あるけど、 バッテリーの容量そのものは 健常者と大して変わらない。 宮本浩次のアルバム聴いてて、 さすがに 疲れたけど、 米軍が アルカイダの捕虜を拷問するとき、 メタリカを延々と流すらしいね。 確かに、いくら ファンの自分でも、何時間も メタリカ聴かされたら、 脳ミソ壊れちゃうよ。 駿台で2浪してた時に、既に 心の堤防が決壊寸前まで 行ってたのに、 SFC入ってから更に 災害級のストレスが襲って来たんだから、 そら 正気で居るのは無理だったな。
自分が子供の頃の中国って言ったら、 真冬のクッソ寒い朝でも、 みんな人民服着て、 チャリで大移動ってイメージだったけど、 まさかここまで巨大になるとは。 自分が小学生の頃なんて、 冬は霜柱立ってて、それをザクザク踏みしめながら 登校したもんだけど。 今の子供は、北海道とかならともかく、 霜柱なんか知らんでしょ? ま、そんなことは置いといて、 慶応の研究会で、 生協で見つけた末廣昭先生の「キャッチアップ型工業化論」(名古屋大学出版会) を、パクってパワポ作ってプレゼンしたんだけど、 まるっきりそのまんまじゃ つまんないから、 よせばいいのに 経済発展の過程で労働からの疎外が起きる、なんて ぶったもんだから、集中砲火されて、 しかも、今では無惨に色あせた、グローバリゼーションてコトバが当時流行ってて、 これも生協で見つけた 伊豫谷登士翁の本に感化されたりして、 俺の頭もオカシクなった。 ま、振り返れば簡単な話のように聞こえるけど、 我ながらよくここまでやったわ。
願わくばもっと 早く 中退させて欲しかったけどね。
2ヶ月入れられてた病院から
ようやく退院したとき、記帳をする
姉のペンの握り方を見て、衝撃を受けた。
中指と薬指の間からボールペンが 突き出ている。
20年近く前のことだから正確ではないかもしれないが、
よくその握り方で字が書けるな、と
逆に関心してしまうような握り方だった。
と、同時に、俺は
この先の人生
誰を頼りにして生きていけばいいんだ?
と、マジで心が折れそうになった。
20年前 東戸塚の 日向台っていう 精神病院に 2ヶ月 いたんだが、 名前の通り 日当たりのいい ところで、 要するに 暑かった。 心因性多飲症で 今でも 日々 大量の お茶だの 冷水だのが 必要な自分には、 冷水さえ 滅多に飲めないのは 苦痛だった。 だいたい 5月から7月の間 だったと思うが、 暑いのに 冷水さえ飲めず、 もちろん空調も効かない。 たまに 作業療法の時間があり、 旧い建物の一室で ビーズの編み物を作ったり したんだが、飽きて 薄暗い ソファーベッドに寝転んで、 俺は こんなところに居て この先の人生は 一体どうなるんだろう?と 漠たる、 漠たるとしか 言いようのない 感覚に侵されていた。 今年はそれから 20年てことで 放送大学のほうも 親から資金援助してもらって 岡山に10連泊したりなんかして、 贅沢させてもらっているが、 これは 無意識なのか、 急に 気力・体力の衰えを 感じる。 お金がなけりゃ 生きていけないのは 現代人の宿命だが、 母親が亡くなったら どう 生きていけばいい? 別に 病気だって治ったわけじゃない。 当然 薬だって 必要だ。 我ながらよく頑張ったとは 思うが、 正直 お金を稼ぐのは 不得手だ。 そもそも、そこまで 要求するのは いくらなんでも 酷なんじゃないか? かといって 自殺する気はサラサラないし。 人生100年時代? バカいうんじゃないよ。 40ちょい 生きるだけで これだけ大変なのに、 100年も生きろだと? 単純に 体の調子が 悪いだけなのかも知れないが、 なんだか 急に 疲れた。 若いうちは 気力だけは凄かったから どうにかなったが、 その 肝心の気力が 涸れつつある。
母親も 要介護3で、 俺も 精神障害者2級で、 介護保険と 傷害保険で ヘルパーさんが 毎日来て 飯つくってくれて 掃除もしてくれるんだが、 正直 本人たちは どう見ても そんなに重症ではない。 確かに、 母親も脳梗塞を発症したとはいえ、 (俺が) 早期発見したから、 症状は軽い。 俺自身、いかに 20年前に 措置入院を食らったとはいえ、 薬は確かに 必需品だが、 至ってヘルシーだ。 しかし、思い返してみれば、 幼少期から、 小林家というのは 毎日が 非常事態、 とても 安らぎの場所ではなかった。 むしろ 針のむしろだった。 母親も外面がいいから 傍目から見れば 恵まれた家庭だっただろうが、 母親が 心を閉ざしているから、 父親がいくら 稼いでも、 それを相殺して余りあるほど、 小林家というのは 毎日が非常事態だったのだ。 ここ最近は、ほんとに お互い心安らかに暮らしているが、 こうやって完全に 平穏な暮らしを出来るまでには、 本当に 長い道のりだった。 母親は、 息子(俺)が 働いてお金を稼ぐことよりも、 勉強して 学問のある人間になることのほうが、 遥かに嬉しいのだ。 俺自身、勉強は好きだ。 (理数系はまったくワカランが。) それは、母親自身 都立日比谷高校出身というのも 影響している。 姉は姉で、一緒に暮らしていた頃は モラルハザードが酷いものだったが、 いまは 結婚して出て行って、子供も出来たから、 じぃじばぁば 愛してる、なんていう どの口が言ってんだ?と 突っ込みたくなるような おべんちゃらを言っている。 とにかく、いまの小林家は 平和だ。 この平和に至るまでに 俺自身、他人には想像を絶するほどの 苦労をしながら 貢献してきたのだ。 だから、立派に 今の 安閑たる生活を享受して 許されるのだ。
放送大学の 2学期の 面接授業で、 福島学習センターで 取ってみようかと 思ってる 授業があって、 福島学習センターが 郡山の 郡山女子大学にあるんだが、 ふと、 郡山といえば、 2浪してる時に、 母親から1万円もらって、 羽生から東武動物公園まで行って、 日光線の快速に乗り換えて、 会津田島まで行って 野岩鉄道で 山奥の秘境みたいなところを ひたすら走って 会津若松まで行って、 そこから 郡山に出て、 東北線で久喜まで来たところで お金が足りなくなって、 母親に来てもらって、 精算して 羽生まで帰ってきた、 ってことがあったね。 あのときは、もう誰も 浪人してなくて、 メンタルも危機的だったし、 俺の人生どうなっちゃうんだろう? と 漠たる不安感のなかを 必死に もがいてる感じだったなあ。 そんなこと 思い出すと、 ほんとによくまあ ここまで来たよ。 あの時の俺に エールを送ってやりたいね。 お前の人生 悪くないぞ! てね。 俺けっこう 泥沼はいつくばって 生きてきたと 思ってるんだけど、 往々にして 苦労知らずの お坊ちゃんて 思われるんだよね。 その度に、 ふふ。 あなたは 俺に 騙されてるよ。 と 内心おもっているのだが。
教科書的に自分の歴史を振り返れば、20代から30代後半まで、友達から、働け、ってメタル責めされてたのは事実だけど、 あちこちドライブに連れてってもらった楽しい思い出もたくさんあるし、 それこそ彼らが地方に転勤してるときに、遊びに行ったときの楽しい思い出もたくさんあるし、無理に省略しようとすると、
「暗黒時代」かのような歴史観になりかねないけど、
ディティールを無視するのは、怖いよね。
いずれにせよ、 彼らはいつも自分に誠実に接してくれたし、説教してくれるのも、親身に考えてくれてることの裏返しだし。
(以下 坂口安吾「三十歳」より)
勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。 たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。 人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。 けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。
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