2024年4月21日日曜日
「カント『実践理性批判』を読む」@大宮 レポート (再掲)
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、を考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。
https://www.youtube.com/watch?v=SzcbUH7w1E0
登録:
コメントの投稿 (Atom)
曽根崎心中 (再掲)
愛という感情が日本の歴史上にも古くから存在していたことは、 源氏物語にも書かれていることで、わかる。 しかし、 日本の宗教観念には、愛を裏打ちするものがない。 改行(節目節目で改行がある方が効果的。以下、同じ。) 曾根崎心中は、 男が女郎をカネで身受けしようとするが、...
-
2021年の大河ドラマは、渋沢栄一を扱っていたが、蚕を飼って桑の葉を食べさせているシーンがあったが、蚕を飼うということは、最終的に絹を作って、輸出するということだから、既に世界的な市場と繋がっていて、本を辿れば、あの時代に既に農家も貨幣経済に部分的に組み入れられていたということ。...
-
もし、日銀が目的としている2%の物価上昇が実現した場合、国債の発行金利が2%以上になるか、利回りが最低でも2%以上になるまで市場価格が下がります。なぜなら、実質金利 (名目利子率-期待インフレ率) がマイナスの (つまり保有していると損をする) 金融商品を買う投資家はいな...
0 件のコメント:
コメントを投稿