2024年1月6日土曜日
漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)
質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。
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