2024年1月5日金曜日

権力と知 「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 (再掲)

前二千年紀の終わりから 前千年紀の初めの 東地中海のヨーロッパ社会では、 政治権力は いつもある種のタイプの 知の保持者でした。 権力を保持するという 事実によって、 王と王を取り巻く者たちは、 他の社会グループに伝えられない、 あるいは伝えてはならない 知を所有していました。 知と権力とは 正確に対応する、 連関し、重なり合うものだったのです。 権力のない知は ありえませんでした。 そして ある種の特殊な知の所有なしの 政治権力というのも ありえなかったのです。(62ページ) ギリシア社会の起源に、 前五世紀のギリシアの時代の起源に、 つまりは われわれの文明の起源に 到来したのは、 権力であると同時に知でも あったような 政治権力の 大いなる一体性の分解でした。 アッシリアの大帝国に存在した 魔術的―宗教的権力の この一体性を、 東方の文明に浸っていた ギリシアの僭主たちは、 自分たちのために復興しようとし、 またそれを 前六世紀から前五世紀の ソフィストたちが、 金銭で払われる授業という形で 好きなように用いていました。 われわれが立ち会っているのは、 古代ギリシアで 前五、六世紀にわたって 進行した この長い崩壊過程なのです。 そして、 古典期ギリシアが出現するとき ―ソフォクレス (注:「オイディプス王」の作者) はその最初の時代、 孵化の時点を代表しています―、 この社会が 出現するために 消滅しなければならなかったのが、 権力と知の一体性なのです。 このときから、 権力者は無知の人となります。 結局、オイディプスに起こったのは、 知りすぎていて何も知らないということです。 このときから、 オイディプスは 盲目で何も知らない権力者、 そして力余るために 知らない権力者となるのです。(62ページ) 西洋は以後、 真理は政治権力には属さず、 政治権力は盲目で、 真の知とは、神々と接触するときや、 物事を想起するとき、 偉大な永遠の太陽を見つめるとき、 あるいは 起こったことに対して 目を見開くときに、 はじめてひとが 所有するものだという 神話に支配されるようになります。 プラトンとともに 西洋の大いなる神話が始まります。 知と権力とは相容れないという神話です。 知があれば、 それは権力を諦めねばならない、と。 知と学識が 純粋な真理としてあるところには、 政治権力は もはやあってはならないのです。 この大いなる神話は清算されました。 ニーチェが、先に引いた多くのテクストで、 あらゆる知の背後、 あらゆる認識の背後で 問題になっているのは 権力闘争なのだ、 ということをを示しながら、 打ち壊し始めたのは この神話なのです。 政治権力は 知を欠いているのではなく、 権力は 知とともに織り上げられているのです。(63ページ)

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