2024年1月27日土曜日

レポートネタ。

 第1節:ホッブズ、ジョン=ロック、ヒュームに至る系譜は、イギリスが世界に冠たる資本主義国家としての歩みと平仄を合わせている。ホッブズの時代には、英蘭戦争を戦い、ジョン=ロックの時代にはプファルツ継承戦争とともに北米での戦争を戦っている。ヒュームの死亡年には、アダム=スミスが「国富論」を刊行している。まさにそのような時代状況の移り変わりの中で、各々の思想家の理論が展開されたのである。 ホッブズは、機械論的自然観の曙光の中で、国家をまさに数学的厳密さをもって、その必要性を論証しようと試みた。ジョン=ロックの時代には、名誉革命が起き、イギリス立憲主義的議会制民主主義が確立された。また、1687年には、ニュートンは「プリンキピア」を刊行している。まさに機械論的自然観が、実際の制度、科学の発展の端緒と歩調を合わせながら、花開こうとしている。ジョン=ロックのいわゆる「抵抗権」は、現実のめまぐるしく変わる政治状況のなかで、政府というものが、市民から「信託」を受けたものである、というある種のプリンシパル=エージェンシー関係にある。Authorとしての国民が、Artificial personとしてのリヴァイアサンに主権の一部を放棄し、authorizeする、とする理論とは若干異なる。 ヒュームは、金本位制を擁護したことでも知られているが、没年にアダム=スミスによる「国富論」が刊行されていることからもわかるように、まさにイギリスが産業革命を成し遂げ、世界の工場として飛躍していこうという新世界の入り口に立っていた。ヒュームは経済の論理を重視し、特に経済的慣行の中で、ひとびとが繰り返し取引される中で生成される秩序に着目したという点で、保守主義者であったと言われている。 ルソーの時代になると、イギリスではエンクロージャーに代表されるように農業革命も起こり、ますます近代資本主義が進展するとともに、貧富の格差も生まれ始めた。そのような状況のなかで、ルソーは己自身が己の主人であり、また奴隷である、そのような状況のなかで、人民が定期的に集まり「一般意志」を形成することで、だれも疎外されない社会が生み出されると考えた。 カントは、大陸合理論とイギリス経験論を総合したとして名高いが、デカルト的理性主義から、ヒュームの懐疑論によって「独断のまどろみ」から目覚めたと主張したと言われている。カントの定言命法はAを求めるためにXをする、というものではなく、ただXをせよ、という命令を自己に課し、それが社会の規範と齟齬がないようにせよ、と説くものであった。己の倫理と社会の規範の緊張関係をつねに意識することによって、はじめて人間は未成年状態から脱することができる、といういわゆる啓蒙主義は、のちのロールズにも受け継がれている。 ロールズは、我々は道徳について多かれ少なかれ直観的な確信を持っているが、それだけでは足りず、反照的反復によって、優先順位をつけなければならない。それは、カント的倫理観が現代にそのまま通用するものではないことを踏まえつつ、現実と理念的正義の間を絶えず往復し、絶対的な善というものが成り立ちえない現代社会において、公正な社会を実現するには、公共理性に訴えかけるようなやり方をしなければならない、と説いた。     第2節:芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、をキリスト教哲学とカントの対比から考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。アリストテレス的善の考え方は後にまた取り上げる。    第3節:日本の<近代化>の歴史的起源にあるのは、ロシアの脅威である。また、ロシアのいわゆる南下政策とその失敗は、ヨーロッパ大陸の情勢にも大きな影響を与えた。ここでは、日本の<近代化>を考察する上で、ロシアと日本の連関を念頭に置きながら、一旦歴史の流れに目を向ける。ロシアの南下政策の挫折と、その後の東方進出は、日本に対する脅威として現れた。クリミア戦争(1853年-1856年)とそれに続く露土戦争(1877年-1878年)など一連の出来事を教訓として、ロシアは不凍港を求めて東アジアへの進出を志向し、清朝といくつかの条約を結びながら、国境を確定させ、ユーラシア大陸を東へと進んだ。 太平天国の乱(1850年-1864年)で、列強が撤退した後もロシアは軍隊を駐留させたために、列強の警戒心を惹起するとともに、日本との緊張関係が生まれた。さらには、東清鉄道敷設権の権益を巡り、中国東北部の利権を狙う日本との緊張関係が深化した。 1894年に日清戦争が勃発し、日本が勝利すると、日本は朝鮮半島と台湾を獲得した。この結果、ロシアと日本は朝鮮半島と中国東北部で直接対峙するようになった。 インドを植民地とするイギリスはロシアの南下政策に脅威を感じ、1902年に日英同盟を締結する。この同盟は、ロシアの東アジア進出を牽制する狙いがあった。 1904年、日露戦争が勃発し、日本が勝利すると、ロシアは一時的に東アジアでのプレゼンスを低下させた。しかし、ロシアが革命によりソビエトを結成すると、日本は対ソビエト干渉を続け、中国東北部への進出を深めた。 1920年、尼港事件が発生し、日本とソビエト軍が衝突した。また、1925年にはシベリア出兵を実施し、中国東北部への進出を図った。 一方、ヨーロッパ大陸では、ロシアの野心とドイツの野望との衝突で、バルカン半島での汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の対立が深刻化し、三国協商と三国同盟の対立が先鋭化し、第一次世界大戦に発展した。1918年に戦争が終結すると、戦勝国はオスマン帝国を分割し、その領土を占領した。この結果、中東情勢は混乱し、現在に至る複雑な状況の遠因となった。 三国協商側に立って第一次世界大戦に参戦した日本は、中国大陸での利権を更に拡張させることを試みたが、欧米列強の警戒心を引き起こした。 1920年代には、日本と欧米列強との国際協調関係が成立したが、日本での金融恐慌の頻発や世界的な金融恐慌が引き金となり、日本が満州国を巡って国連を脱退するなど、アジア大陸への野心を顕にすると、国際協調体制は崩壊した。 スターリン指導による一党独裁体制が確立したソ連はアジア大陸で日本との緊張関係を加速させた。 以上のように、ロシアと日本は、南下政策と東方進出を巡って、19世紀末から20世紀前半にかけて、激しい対立を繰り広げた。この対立は、両国の軍事力増強や軍拡競争を招き、最終的には第二次世界大戦へとつながる大きな要因となった。   第4節:夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。     第5節:現代日本の状況を、社会契約論と「詐欺」という観点から考察する。徹底的に合理化された現代日本社会では、「詐欺」の可能性が社会の破れ(解放)の可能性を秘めていると同時に、社会を崩壊させる危険性をも孕んでいる。回転すし店で イタズラ行為を 動画に撮って ツイッターに あげて 騒ぎになった 人物が、 叩かれたりする。 しかし、 その正体を 暴いてみれば、 取るに足らない、 他愛もない 人物だったりする。 いわゆる、 トー横民だったり、 ドン横民だったり、 グリコ下だったり。 彼らは、 そういう 寄る辺なき 辺境をさまよう 「貧者」であったりする。 そういう「貧者」に、 過酷な 制裁を 加えたところで、 更正するどころか、 ひろゆき氏が いう、 喪うものがない 「無敵の人」と なってしまうだろう。 社会が 喪うものがない 「無敵の人」で 溢れてしまったら、 社会は崩壊する。 社会契約論を 持ち出しても、 その前提には その 社会契約を 守る、 という 暗黙の前提があるが、 その 前提すらも 守らなかったら、 暗黙の前提を守る、 という 合理性の 無限遡行が 起きるからだ。 つまり、 ランドル・コリンズが 言うように、 我々は 完全には 合理的には 生きておらず、 社会が成り立っているという こと自体が、 人々が 多少なりとも 非合理的に 生きている 証拠だ、 ということが 言える。 しかし、 人々が 自らの 非合理性に 気づかず、 ありもしない 「合理的な社会」を 生きていると 思い込んでいるとすれば、 それは 「合理的な社会」よりも さらに 生きにくい社会 とは 言えないだろうか。 各人が 自分の 手前勝手な 「合理性」を 相手に押し付け、 違犯するものを 糾弾する。 それは とても 生きにくい社会だろう。 ポピュリズム政党の台頭は、 そんな 生きにくい社会の 実体の 現れである かもしれない。 合理性と信用 という 語彙は、 一見 よく馴染むように 見える。 しかし、 社会が 合理的に 組織されれば されるほど、 詐欺が 必然的に 起きる。 なぜなら、 合理性が 追求された 社会においては、 相手を 欺くことが 合理的自己の 利得に なるからである。 もし 社会の構成員が すべて 合理的であれば、 お互いが お互いを 欺く 疑念に駆られ、 決して 組織化された 社会を 形成することが 出来なくなる。 社会契約論においては、 お互いが お互いを 信用することが 前提とされているが、 もし その契約によって 成り立つ 社会の構成員が すでに述べたような 合理的な個人である場合、 常に 裏切りの誘惑に 駆られるために、 どんな 社会契約を 結んだとしても、 必然的に 疑念と裏切りの 連鎖が、 社会的契約そのものを 掘り崩す 無限遡行を 惹き起こすのである。 従って、 現に 社会が成立している ということ それ自体が、 人々が 完全には 合理的には 行動しては いない、 ということを 意味する。 言い換えれば、 社会が成立している ということ それ自体が、 人が人を信用する 能力を持っている 証拠なのである。 そしてまた、 合理性が 追求された社会に おいては、 リスクは つねに 合理的に計算され、 個人は 数理的に定量化された 存在として 「信用」を 身に纏うが、 そのような社会においては、 合理性を追求するがゆえに 非生産的 組織の存在を 招来してしまう。 合理的に組織されたはずの 官僚制が その 非生産性ゆえに 非難の的になる、 という 事態が、 これを 例証している。 そのような社会においては、 「詐欺」の 存在可能性 そのものが、 「管理された社会」を 脱-構築する 希望の 可能性として 機能する。     第6節:このように、現代社会においては、人間は高度資本主義下にあって、寄る辺なきアトムとして生きている。アーレントは、「人間の条件」で、現代人は、ただ経済学の原理に従うだけの存在であり、傑出した人間もその反対の人間も、偏差という意味では人口の増加に伴って大差のないものであり、社会の都合の良い存在に成り果て、どんな偉業も社会の趨勢を変えることはない、と述べている。エルサレムのアイヒマンで、悪の陳腐さを白日の下に晒した彼女にとって、人間はもはや信用できないものであったのだろうか。誰もが、現世の組織の歯車として、それ以上のものではなり得なくなった現代社会において、人間の価値とは何なのであろうか?単に社会の中のアトムに過ぎないのであろうか?こう問いを立てたとき、カール・シュミットの「例外状態」理論は魅力的に見えてくる。シュミットのいう「例外状態」とは、端的に戦争のことであり、そこにおいて、友と敵を明確に区別することによって、社会のモヤモヤした部分が排除され、国家の本質が明確になるからだ。これは大衆社会にとってある種の処方箋になりうるし、当然国家主義者にとっては都合の良い理屈だ。しかし、アーレントの、このモヤモヤした社会の中でいかに個々人がその存在を輝かせるか、という困難な思索のほうが、困難であるだけ、なお価値があると思われる。結局彼女の多数性における赦しとは、キリスト教的な愛の観念に基づくものなのだが、彼女自身がユダヤ人であり、万人への愛を説くキリスト教的な愛よりも、むしろ峻厳な神からの愛としてのユダヤ教的な赦しの様相を拭いきれないのは、その苛烈さが社会のモヤモヤした部分を切り裂くような可能性を帯びているからとは言えないだろうか。しかし、理論的苛烈さは時として危険な政治信条に結びつく。現実的には、やはり徹底的に合理化され尽くしたように見える日本社会においては、「詐欺」の可能性が「管理された世界」を脱−構築する可能性を秘めている。このことを荻野昌弘の論を援用して敷衍してみたい。     第7節:詐欺師の存在は、本書で繰り返し指摘してきたように、現実には非社会的な部分があり、それが不確定性を生んでいることを端的に示す。 というのも、詐欺師は、あたかも世界には予測不可能な事態以外存在しないかのように行動しているからである。 そして、詐欺師のように不確定性に賭ける意志を持たなければ、ひとびとに対して、未来への地平を開くことはできない。 逆にいえば、危険のある不確定な状態こそが、未来への地平を開くのである。 それは、実現することが困難な「物語」の方にひとびとは魅了され、その方が希望を与えることがあるからである。 実現可能かどうかは不確定な場合、合理的に計算可能な範囲を越えている場合にこそ(計算可能なのは「リスク」である)、 物語は価値を帯びるのである。(「零度の社会ー詐欺と贈与の社会学」荻野昌弘 世界思想社 p.187~188)     第8節:以上を踏まえながら、アリストテレスの倫理学を構造主義との対比で取り上げる。私の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたと感じられる。 自分は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! という 肩書きでは 良くも悪くも通用しなくなってきている。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思われるが、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。  第9節:日本の<近代化>における状況について、夏目漱石の小説『それから』を題材にして考察する。経済が豊かになると、自家特有の世界に耽溺する余裕が産まれつつも、最終的には経済の論理に絡め取られていく。テオドール・W・アドルノによれば、社会が理性によって徹底的に合理化されるほど、人々は逆に精神世界での非合理的なヒエラルキーに慰めを求めるようになるのである。「それから」の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。このように、夏目漱石は、経済の合理性の論理と、自家特有の世界との板挟みに遭いながらも、理性を放棄し、主観と客観との区別の放棄への道は採らずに、理性的な近代的個人に拘るのである。    第10節:放送大学の放送授業「都市と地域の社会学」にインスパイアされたのだが、夏目漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思われる。 尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。 何に対して勝つのかは不明だが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思われる。 漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうだが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考える。 ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われる。 先ほど「身体性」というキーワードを提示したが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われる。 もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけである。 その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。 だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。 それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけである。 しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題だが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのだが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。 むしろ、都市だからこそ出会える関係というものに、魅了されていく。 あるいは、ムラに暮らしてる人たちは、「都市」の自由さに憧れて、都市に惹き寄せられていく。 それでも、何かしらの紐帯、都会でしかありえないような関係性を模索していく。 その意味では、漱石は、「坊っちゃん」以来の「近代化」、こう言って良ければ、「都市化」に強烈な危機感を抱きながらも、現実は「地域」から「都市」に出てきた人たちは、それはそれで何かしらの関係性を他者と取り結んでいく。 まとめるとこのような感じかと思われる。 もちろん、漱石の「近代化」はこれで汲み尽くせるものでは到底ないわけだが、これが一応私なりの考えである。 繰り返すと、漱石の「近代化」(「都市化」)は、皮相を上滑りに滑っていかざるを得ない、と言いながらも、濃密に「身体性」を抜きにしては捉えられない。 むしろ、「身体性」から逃れられないからこそ、そこから逃れようとしても、身体性と「理性」は密接不可分の関係にあるのではないか。 「それから」の「百合」はそのことを象徴するアイテムなのではないだろうか。    第11節:読者が物語のなかに入り込み、物語のなかの人物が読者に暗号を送る。 物語とはおよそこんなものなのかもしれない。 実際、物語言説はしばしばこういう世界へのひらかれ方をしているように思える。 語り手は容易に物語のなかに入り込み、またそこから抜け出すなどして、 じつは読者が属する現実もまた寓話の奥行きをもったゲームであることが暗示される。 物語の経験とは、このような暗示の光に一瞬であれ、自分の生が照らし出されることをいうのかもしれない。 だがいまは、多くの人々がこうした奥行きのない現実を生きているかのようであり、 またその痩せた現実の裸形を精確に復元することがリアリズムであるかのように思われがちである。 しかしリアリズムの愉しみのひとつは、精確な作業のはてに、現実を現実にしている、 触れると消える<影>のような次元に接近することではないだろうか。(「ロジャー・アクロイドはなぜ殺される?ー言語と運命の社会学」内田隆三 岩波書店 p.485)

2024年1月24日水曜日

都市社会学レポート素案 (再掲)

1番手っ取り早い手段のひとつは、 移民に 選挙権を与えることではないだろうか。 さんざん搾取ばかりして、 地方自治体の選挙権すら 与えない、 というのでは、 もはや 日本が経済大国ではなくなった 現在においては、 自らの首を締めるだけではないだろうか。 どっちしろ 移民を受け入れずに ほったらかしにしておけば、 日本の人口は絶望的に 縮小していくのだから、 移民の目から見て、 日本に行っても、 搾取されるだけで、 なんの憧れもない、 というのでは、 どうやったって 移民なんか来てくれないだろう。 そうであれば、 いま日本に住んでいる 移民には、 最低限 地方自治体の選挙権ぐらい 与えて然るべきだと思われる。 日本人と結婚して 同化しなければ、 日本において政治に参画することすら許さない、 という態度では、 経済が弱体化する現在において、 日本は 全く魅力に欠ける国と言わざるを得ないだろう。 とにかく、 日本の教育は、 歴史的に、もちろん今現在も含めて、 「貧困」 という問題から目を背け続けている。 明治維新以来の 経済発展にしたって、 台湾、朝鮮半島を植民地化し、 どれほど 多くの 台湾人、朝鮮人を 半強制的に 過酷な低賃金労働で 搾取し続けて来たか、 ということが、 全く語られていない。 そのくせ ナショナリズムに煽られて 排外主義に走るのは、 ひとえに 教育の問題による無知が大きい。 もちろん、 日本人のうちでも、 「2級国民」とでも言うような、 目に見えない 搾取に虐げられる 人びとがいるのだが。 どうせ 「アイツら」に 選挙権を与えたところで 権利ばかり 主張して 財政負担が 増えるだけだ、 というなら、 結局 日本人も含めて 経済格差が拡がり、 貧困問題が 日本社会全体に しっぺ返しを 喰らわせるだけだろう。 経済が振るわないときほど ナショナリズムは高揚しやすいが、 冷静に考えれば、 むしろ 逆の発想をすることが必要だ。 グローバリゼーションによって 誰もが 貧困状態に陥る危険性がある社会だからこそ、 誰に対しても 社会への参画を 可能にするべきだ。 日本人の 「2級国民」は、 そもそも 貧困者のメンタリティーを 社会から 内面化させられ、 自主的に 政治に参画する意欲を奪われているのだ。 なぜなら、 「貧困」は、 社会によって 巧妙に 不可視化されており、 隠蔽され、 彼らは、 ”いない”ことに されており、 従って 日本に 貧困問題は あたかも存在しないかのように 認識されているからだ。 しかし、 繰り返せば、 グローバリゼーション下の現代社会においては、 誰もが 貧者に陥る危険性と 隣り合わせだということを 強調したい。

文系ド真ん中。レポートネタ。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、を考察する。 芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、 キリスト教への関心があったことは疑いない。 その上で、 「蜘蛛の糸」を読み解くとき、 天上から地獄へと 救いの糸を垂らすのは 釈尊であるという設定であるが、 ここでは キリスト教的神であると置き換えたい。 そのほうが構図が簡潔になるからである。 なぜなら、 カント哲学においては、人間は神に対して アクセスできないが、 神は人間に対してアクセス できると考えられているからである。 これを前提とした上で、 人間の倫理がいかに成り立ちうるかを 考えたとき、 2つの考え方が可能である。 1つ目は、神の意志や行為は人間には 計り知れないのだから、 人間がどんな行いをしても 神はそれを赦しもするし裁きもする、という 発想である。 2つ目は、やはりそうは言っても、 人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、 人間は神の意志や、その行為の意味を 感じたり考えたりすることが 可能である、という 発想である。 カント哲学においては、 人間の悟性では神の行為や意志を 計り知ることはできないが、 また神の存在を否定することも 不可能である、と 捉えていた。 しかし、これは 神がすべての事象を意のままに決定しうる、 という可能性を含意しており、 ある種の決定論に陥ってしまう。 デービッド・ヒュームの懐疑論は、 因果律を否定することにより、 この決定論に風穴を開けた。 ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。 なぜなら、 すべてが神によって決定されているわけではない以上、 人間が自らの悟性によって 自らの倫理を考える、という 「自由」を 手に入れたからである。 そのうえで、あらためて 「蜘蛛の糸」を 考察してみよう。 神はカンダタに対して 救いの可能性を示したが、 カンダタは 自分の利得のために 他人を犠牲にしたことによって、 神から見放される。 つまり、神から人間には 救いの可能性という点で アクセスが可能なのだが、 人間(カンダタ)から 神に対しては 自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。 それはなにゆえなのだろうか? カンダタが善なる行いを しなかったからだろうか? しかし、それでは 人間にとって 善とは何かを、人間(カンダタ)が 選択する余地はなく、 すべて神が決定していると 読めてしまう。 これが果たして人間にとって 「自由」といえるだろうか? カンダタは、自分の救済の可能性のためには、 他人を犠牲にせざるを得なかったのである。 言い換えれば、自らの生命のためには そうする他なかったのである。 ここから導き出されることは、 人間は「善き生」のためには、 みずからの生命さえも 犠牲にしなかればならない、という アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。

2024年1月18日木曜日

「グローバル経済史」質問と回答 (再掲)

質問:イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?と、言いますのは石炭は酸化しやすいために、良質な石炭であっても、市場が近くに存在し、かつ大きな需要がないと、不利だと思われるからです。むしろ、石炭を輸出するよりも、自国の蒸気船の燃料として使用していたのでしょうか?よろしくお願いいたします。 回答:「イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?」というご質問ですが、端的に答えますと、おっしゃる通りです。イギリス炭の大部分はイギリス国内で消費されていました。イギリス国内の工場や機関車など、蒸気機関を回すためにイギリス炭が使用されていたのです。一部が海外に輸出されており、さらにその一部が世界各地の港で蒸気船用にストックされていたにすぎません。 なお、イギリス炭の輸出割合については以下の学術論文をご参考ください。 https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202911690368 「機関リポジトリ」をクイックし、次の関西大学の画面から当該論文のPDFが入手できます。そして、この論文の表1に輸出割合が示されております。 島田竜登

2024年1月17日水曜日

信じられない

YouTubeチャンネルを 立ち上げて たったの 10日間で めちゃくちゃ 捗った。 あれね、 くっっっだらねえ ジャップの めんどくせー 足の引っ張り合いに 巻き込まれなければ、 俺 けっこう 頑張れるじゃん、と 思ったわ。

2024年1月7日日曜日

ひとがすなる YouTubeなるものを われも してみむとて するなり

やはり 初っ端は 撮影して アップするまで 四苦八苦。 これで 精一杯。 初回なので これで ご勘弁。  https://www.youtube.com/watch?v=kGbN5fCnG90

鉄鉱石 (再掲)

俺:授業で拝聴した通り、日本が良質な炭鉱に恵まれたのは理解できたのですが、鉄鉱石はどこから調達したのでしょうか? 特に、官営八幡製鉄所で鉄を生産する際、石炭は筑豊炭田が近くにあったことは授業でも触れられていましたが、鉄鉱石はどこから調達したのでしょうか? 残念なことに理数系の知識が欠落している私には、そもそも鉄鉱石とは何なのか、ということすらよくわからないのですが、可能性としては中国のカンヤヒョウコンスかな、と思われるのですが、日露戦争前に既に中国東北部を実効支配、あるいは経済的統制の下に置いていたのでしょうか? 長くなり恐縮ですが、お答えいただければ幸甚です。 先生:小林さん お久しぶりです。 鉄鉱石は、明治初期には、朝鮮、中国東北部(満州)から輸入してたと 思います。日本の産業革命が一応の成果を得た時期、日清戦争から 日露戦争前後までの10数年間で、近代化の基盤となる鉄鋼業を官営にて はじめた八幡製鉄所の大規模な製鉄業のために、「満州」から鉄鉱石を 輸入するようになります。このことも一因となり、日本政府・軍の満州への 侵略が一層促されていきます。 この問題について、たしか『日本の満州支配』という本があったと思います。 金光男 俺:お返事ありがとうございます。 google bardに聞いてみたら、自信満々でオーストラリアと回答してきたので、やはり生成AIに頼るのは危険ですね。 こういうご時世だからこそ、専門家の存在意義は大きいと思われます。 ありがとうございました。

「グローバル経済史」質問と回答 (再掲)

質問:イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?と、言いますのは石炭は酸化しやすいために、良質な石炭であっても、市場が近くに存在し、かつ大きな需要がないと、不利だと思われるからです。むしろ、石炭を輸出するよりも、自国の蒸気船の燃料として使用していたのでしょうか?よろしくお願いいたします。 回答:「イギリス産の石炭は、近くに大きな市場が存在していたのでしょうか?」というご質問ですが、端的に答えますと、おっしゃる通りです。イギリス炭の大部分はイギリス国内で消費されていました。イギリス国内の工場や機関車など、蒸気機関を回すためにイギリス炭が使用されていたのです。一部が海外に輸出されており、さらにその一部が世界各地の港で蒸気船用にストックされていたにすぎません。 なお、イギリス炭の輸出割合については以下の学術論文をご参考ください。 https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202911690368 「機関リポジトリ」をクイックし、次の関西大学の画面から当該論文のPDFが入手できます。そして、この論文の表1に輸出割合が示されております。 島田竜登

「現代の国際政治」第5回 まとめ (再掲)

あ〜あ、思い出せるだけ〜思い出して、あそびたぁぁぁぁい! てなわけで、 放送大学「現代の国際政治」第5回の放送授業内容を、出来る限り思い出しながら、要点をまとめてみたいと思います。 まず、第二次大戦を教訓として、 ブロック経済が日独伊の枢軸国を侵略戦争に駆り立てた、 という反省のもとに、 GATT-IMF体制、いわゆるブレトンウッズ体制が確立された。 第四次中東戦争がきっかけとなり、 第一次石油危機が起こると、 中東産油国が石油利権を掌握し、 莫大な富を得るようになる。 そのオイル・マネーの運用先として、 南米へ投資資金が流入するが、 うまくいかず、 債務危機を引き起こした。 しかし、 債務危機が世界へ波及するのを防ぐために、 国際金融の最後の貸し手としてのIMFによる、 厳しい条件つきの再建策を受け入れる 状況がうまれたが、 これは、 国家主権を侵害しかねないものであり、 反発から、 南米では ポピュリズム政治がはびこるようになった。 自由貿易体制を標榜するアメリカも、 固定相場制により、 相対的にドル高基調になり、 日欧の輸出産品の輸入量が増大したことにより、 ゴールドが流出し、 金ドル兌換制を維持できなくなり、 ニクソンショックにより、 変動相場制へ移行した。 また、この背後には、アメリカが掲げた 「偉大な社会」政策による、高福祉社会の負担や、ベトナム戦争による、国力の低下も起因していた。 日米関係に眼を転じると、 日本からの輸出が貿易摩擦を引き起こし、 自由主義経済の盟主としてのアメリカは、 自主的に日本に輸出規制させるために、 日本は安全保障をアメリカに依存していることをテコにして、 日本国内の商慣行の改変、 たとえば中小企業保護のための大規模商業施設規制の撤廃など、 アメリカに有利な条件に改め、ネオリベラリズム的政策を受け入れさせた。 その一方、 日本企業は、アメリカに直接投資することで、 アメリカに雇用を生み出しつつ、アメリカの需要に応えた。 その後、更に国際分業が進展すると、 知識集約型産業は先進国に、 労働集約型の産業は発展途上国に、 という役割分担が生まれ、 グローバルサプライチェーンが確立されるなか、 国際的な経済格差が生まれた。 一方、 先進国でも、 工場を海外移転する傾向が強まる中、 産業の空洞化が進展し、 国力の衰退を招くケースも見られた。 経済の相互依存が進展し、 「グローバル化」という状況が深化すると、 アメリカのような先進国においても、 グローバル主義経済に対抗する 右派的ポピュリズム政治が台頭するようになった。 ま、こんなとこかな。 地域間経済協定については割愛した。 https://www.homemate-research.com/useful/18249_shopp_010/

グローバル化と金融@金沢 まとめ (再掲)

現代のグローバル資本主義の構造的問題は、 世界的なカネ余り状態である。 まず、1960年代に、 企業の海外進出に伴い、 銀行が国際展開を 急激に拡大したことにより、 どこからも規制を受けない 「ユーロ市場」 が登場した。 次に、1970年代に、 オイル・ショックによる オイルマネーの流入と 金融技術革新により、 米国の銀行による 「ユーロ・バンキング」 が活発化する。 変動相場制への移行により、 銀行は アセット・ライアビリティ・マネジメント (ALM) を導入。 これは、 ドル建ての資産と ドル建ての負債を 同額保有することにより 為替リスクを相殺する方法である。 たとえば、 ドル建て資産を1万ドル保有していた場合、 円高ドル安になれば 資産は減価し、 円安ドル高になれば資産は増価する。 逆に、 ドル建て負債を 1万ドル保有していた場合、 円高ドル安になれば負債は減価し、 円安ドル高になれば負債は増価する。 こうして為替リスクを相殺する。 1970年代のオイルマネーの増大と、 インフラ投資額の高騰により、 特定の一つだけの銀行だけでは 融資の実行が困難になり、 シンジケート・ローンが発展した。 シンジケート・ローンとは、 幹事引受銀行が ローンを組成し、 参加銀行に分売することで、 複数の銀行による 信用リスクの分散化を 図るものである。 しかし、シンジケート・ローンにより、 信用リスクは分散したが、 信用リスクそのものが 低下したわけではない。 この後の 資産の証券化の流れのなかで、 ALMの発展により リスク管理手段が多様化し、 デリバティブが登場し、急速に拡大した。

うんめ!(゚∀゚)

ヨーグルトが ぶったまげるほど うめえ。 ちょうど 今ぐらいの 気温が 乳牛にとって ちょうどいいんでしょうね。 夏の盛りの頃は これじゃ 売り物にならないじゃん・・・ って 思うほど 水っぽくて 美味しくなかったけど。 消費する側も 賢くならないとね。 アボカドも 日本で 栽培するように なったらしいですし。 昔は ゴーヤーなんか 関東でお目に かかることは なかったですけど、 今は 夏の暑い盛りで 栄養不足になりそうな時は ゴーヤーは いいですよね。 安いし。

2024年1月6日土曜日

市井の漱石論 (再掲)

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。

漱石の「自然(じねん)」観を巡って (再掲)

質問:授業でうかがった漱石の自然(じねん)感ですが、それは代助が「青」の世界で拵えた造り物だったのでしょうか? 三千代との実質的な姦通というある種の「原罪」のために、代助は「赤」の世界へと放り出されるのでしょうか? 代助にとって、「じねん」の世界は、「青」の世界でしか成立しえないまがい物なのか、それとも本来的に人間にとって所有しえない抽象物なのか。 アドルノの「自然」観との対比でも、興味深く感じられました。 ご回答:「原罪」という言葉もありましたが、倫理的な漱石は、やはり代助の「青の世界」を(海神の宮の「3年」期限に同じく)、癒しをも意味する一定期間の滞留後には出て行くべき、後にするべき世界として想定しているように思われます。 その意味では、現実世界と水底とーー世界を2つに分断してしまっているのは「代助」であり、人間が現実世界の死を背負った存在である以上、当然、水底的な内なる世界と連続しているはずの赤い現実世界へ、代助が帰還すべきであることは自明であり、当然、代助は葛藤を体験しなければならない‥。こんな感じかなと思います。(オタク青年の現実世界への帰還)。 「じねん」ですが。 「青の世界」ーー自負する「自家特有の世界」で彼が創出した「己に対する誠」を起点に「自分に正直なー(作為や人為の加わることのない)おのずからな−あるがままの」といった展開上に「じねん」が生まれて来るわけですが、上述のようなテクストの構造から言えば、当然、「じねん」は「自然」の最も暗い側面ともいうべき欲動的なものと接続せざるを得ない。というより、元々、「じねんーおのずからな・あるがまま」自体が、まさに「あるがまま」の欲動的なものを内包している、と言うべきなのかもしれません。 そう考えれば、ストーリー展開に従って、「青」が「赤」に接続してゆくように、「おのずから」も「行く雲・流れる水」といった上澄的なものへの憧れの昂まりが、必然的に、同じく「おのずから」人が備えている欲望的な側面を、まさに、おのずから浮上させざるを得ない。 こういった感じなのではないでしょうか。 「じねん」は、「青の世界」の文脈では不本意ではあるものの、本来的に欲動的なものと切り離せず(極論すれば、それを含み込んだ概念であり)、重々、それを承知の漱石が、(身勝手に2つの世界を分断してしまっている)代助を現実世界ー欲望の世界へと、これまた人間の本来的にあるべき姿として、連接させてゆく。 その意味で、テクスト『それから』は、案内人・代助を立てて、「じねん」の世界を読者に一巡り、させてくれている、と言うこともできるかもしれません。 こうやって、「自然」の全体的姿が浮上、把握された上で、いったん『門』では、『それから』が「青」的側面に比重をかけていたのと対照的に、すでに物語開始時点では終わってしまっている「姦通」行為を、「赤」的側面ーー人間の本能(性的欲望)の観点から概括し、そして絶筆『明暗』では、まさに総体としての「自然」が、余裕を持ちながら俯瞰的に展開される‥。 スムーズに説明することは叶いませんでしたが、ほぼ、これが、今回の私の見取り図でした。 資料作りで上記を展開しつつ、「おのずから」という倫理学の概念を、もう一度、きちんと勉強したいという思いはふつふつと湧き上がっていたところ、また小林くんからは「アドルノの自然」という西欧的自然の視点を頂戴し、もう一度、文献を当たり直してみたいと切実に思い始めています。

アドルノはまだ生きている (再掲)

グローバリゼーションによって、 世界の富の大きさは拡大したが、 分配に著しい偏りが生じたことは、 論を俟たない。 日本においても、 新自由主義的な政策の結果、 正規、非正規の格差など、 目に見えて格差が生じている。 そのような中で、 経済的に恵まれない層は、 ワーキングプアとも言われる状況のなかで、 自らのアイデンティティーを 脅かされる環境に置かれている。 エーリッヒ・フロムの論考を 参考にして考えれば、 旧来の中間層が、 自分たちより下に見ていた 貧困層と同じ境遇に 置かれるのは屈辱であるし、 生活も苦しくなってくると、 ドイツの場合は、 プロテスタンティズムの マゾ的心性が、 ナチズムのサディスティックな プロパガンダとの親和性により、 まるで サド=マゾ関係を結んだ結果、 強力な全体主義社会が生まれた。 日本ではどうだろうか? 過剰な同調圧力が 日本人の間には存在することは、 ほぼ共通認識だが、 それは、安倍のような強力なリーダーシップへの隷従や、 そうでなければ、 社会から強要される 画一性への服従となって、 負のエネルギーが現れる。 そこで追究されるのが、 特に民族としての「本来性」という側面だ。 本来性という隠語は、 現代生活の疎外を否定する というよりは むしろ、 この疎外の いっそう狡猾な現われに ほかならないのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫 73ページ) グローバリゼーションが 後期資本主義における 物象化という側面を 持っているとすれば、 グローバリゼーションによる 均質化、画一化が進行するにつれ、 反動として 民族の本来性といった民族主義的、 右翼的、排外主義的な傾向が 現れるのは、 日本に限ったことではないのかもしれない。 むしろ、 アドルノの言明を素直に読めば、 資本主義が高度に発展して、 物象化が進み、 疎外が深刻になるほど、 本来性というものを 追求するのは不可避の傾向だ、 とさえ言える。 さらには、 資本主義社会が浸透し、 人間が、計量的理性の画一性にさらされるほど、 人々は、 自分と他人とは違う、というアイデンティティーを、 理性を超えた領域に 求めるようになる。 社会全体が体系化され、 諸個人が事実上 その関数に 貶めれられるように なればなるほど、 それだけ 人間そのものが 精神のおかげで創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである。 (「アドルノ」岩波現代文庫98ページ) 「それだけ 人間そのものが 精神のおかげで 創造的なものの属性である 絶対的支配なるものをともなった原理として 高められることに、 慰めを もとめるようになるのである」 という言葉が 何を表しているか、 自分の考えでは、 「社会全体が体系化され、 諸個人が 事実上その関数に貶めれられるようになればなるほど」、 (疑似)宗教のように、 この世の全体を 精神的な色彩で説明し、 現実生活では 一個の歯車でしかない自分が、 それとは 独立した 精神世界のヒエラルキーに組み込まれ、 その ヒエラルキーの階層を登っていくことに、 救いを感じるようになる、 という感じだろうか。 まるでオウム真理教のようだ。

近代日本の炭鉱夫と国策@茨城大学 レポート (再掲)

茨城大学強いわ。ここんとこ毎学期茨城大学行ってるけど、今回もめちゃくちゃ面白かった。面白いという言葉では言い表せない。アタマをバットで殴られるくらいの衝撃を感じた。 石炭産業を語らずに近代日本の経済発展は語れないと言って間違いない。 にもかかわらず、おおっぴらに語られることはほとんどない。 あたかも繊維産業が花形で日本経済の繁栄をほとんどすべて牽引したかのように語られている。 裏を返せば、それほどまでに、石炭産業を語るということは、現在に至るまで日本の暗部を映し出すことになるのかも知れない。 (以下レポート) 今回の授業を受けて、改めて民主主義の大切さを痛感しました。現在でも、中国ではウイグル人が収奪的労働に従事させられていると聞きますし、また、上海におけるコロナロックダウンの状況を見ても、民主主義、そしてその根幹をなす表現の自由が保障されていないところでは、人権というものは簡単に踏みにじられてしまうということを、日本の炭鉱労働者の事例を通して知ることができました。   ダニ・ロドリックが提唱した有名なトリレンマ、すなわちグローバリゼーションと、国民的自己決定と、民主主義は同時には実現できない、というテーゼを考えたとき、現在の中国は民主主義を犠牲にしていると言えるでしょう。この図式をやや強引に戦前の日本に当てはめて考えると、明治日本はまさに「長い19世紀」の時代であったこと、日清・日露戦争を経て、対露から対米へと仮想敵国を移相させながら、まさに当時のグローバリゼーションの時代のさなかにあったと思われます。   日本国民は、そのような時代のなかで、藩閥政府と立憲政友会の相克の中からやがて生まれる政党政治の中で、農村における地方名望家を中心とした選挙制度に組み込まれる形で、近代国家として成長する日本の歩みの中に否応なく身を置かざるを得なかったと思われます。そして、国民的自己決定という側面から見れば、政党政治が確立されなければ民主主義が成り立ちえないのは当然のことながらも、国民の民意というものは、次第に国家的意志に反映されるようになっていったと考えられます。   しかし、「長い19世紀」の延長としてのグローバリゼーションの時代においては、国際秩序の制約に縛られながら国民的自己決定を選択することは、図式的には民主主義を犠牲にせざるを得ない。これは現在の中国を補助線として考えると、グローバリゼーションに対応しながら国民的自己決定を達成するには、国をまさに富国強兵のスローガンの下で一致団結させる必要があり、そこでは多様な民意というものを反映することは困難であり、したがって表現の自由が抑圧され、民主主義は達成できない、と考えられます。   戦前の日本に照らして考えると、前近代の村社会が国家組織の末端に組み入れられ、その中で炭鉱夫が生きるための最後の手段として究極のブラック職業として見なされていたこと、それでも西欧へ肩を並べなければならない、という官民一体の国家的意識のなかで、脅迫的に近代化へ歩みを進めざるを得なかった状況では、社会の底辺としての炭鉱夫には、およそ政治参加、すなわち民主主義の恩恵に浴することは出来なかった。それはとりもなおさず炭鉱業というものが本来的に暴力的であり、同時に「国策」としての帝国主義的性格を多分に内包していたことと平仄を合わせています。   中国のウイグル人の抑圧と戦前日本の坑夫を重ねて考えると、そのような構図が透けて見えてきます。

妄想卒論その11 (再掲)

確かに『それから』で、前にたちはだかる資本主義経済とシステムが、急に前景化してきた感は大きいですね。 前作『三四郎』でも問題化する意識や構図は見てとれますが、そして漱石の中で<西欧近代文明=資本主義=女性の発見>といった公式は常に動かないような気もするのですが、『三四郎』の「美禰子」までは――「美禰子」が「肖像画」に収まって、つまりは死んでしまうまでは、資本主義社会はまだまだ後景に控える恰好、ですよね。 逆に『それから』で、明治を生きる人間を囲繞し尽くし、身動きとれなくさせている資本主義社会という怪物が、まさに<経済>(代助にとっては「生計を立てねばならない」という形で)に焦点化されて、その巨大な姿を生き生きと現すことになっていると思います。 労働も恋愛も、すべてにおいて<純粋=自分のあるがままに忠実に>ありたい代助を裏切って、蛙の腹が引き裂けてしまいそうな激しい競争社会を表象するものとして明確な姿を現します。 「三千代」もまた、それに絡め取られた女性として、初期の女性主人公の系譜ともいえる「那美さん―藤尾―美禰子」の生命力を、もはや持たず、読者は初期の漱石的女性が、「三四郎」や「野々宮さん」が「美禰子」を失ってしまった瞬間、初めて事態の意味を悟った如く、もはや漱石的世界に登場することが二度とないことを、痛感するのかもしれません。 『それから』が、このような画期に位置する作品として、登場人物たちが資本主義システムに巻き込まれ、葛藤する世界を生々しく描いたとするなら、次作『門』は、それを大前提とした上で――もはや資本主義社会は冷酷なシステムとしていくら抗っても厳然と不動であることを内面化した上で、そこを生きる「宗助―お米」の日々へと焦点が絞られていきますね。

「都市」と漱石 (再掲)

放送大学の「都市と地域の社会学」からインスパイアされたのですが、漱石の「近代化」は、具体的には「都市化」、つまり都市の住民として生きていく、ということだと思うのです。 尾崎豊の「ぼくがぼくであるために」のように、この街に呑まれながらも、自分が自分であるために、勝ち続けなければいけない。 何に対して勝つのかは不明ですが、ある種勝ち続けた先に、自尊心とともに、自分の生き場所、拠り所を見つけよう、ということかと思います。 漱石に依拠すると、「都市化」(「近代化」)というテーマは、尾崎豊もそうですが、濃厚な「身体性」を伴っている、と考えます。 ムラから街へ、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、という対比で見ると、「こころ」では「私」がまだムラ意識が抜けていないのに対し、「先生」は完全に孤独な「都会人」かと思われます。 先ほど「身体性」というキーワードを提示しましたが、それはとりも直さず代助にとっての「百合」が象徴するように、「都市住民」が否応なく「赤の世界」に放り込まれながらも、必死で「自家特有の世界」に逃げ場を確保するように、「身体性」と切っても切り離せない関係にあると思われます。 もちろん、漱石が「近代化」を「皮相を上滑りに滑っていかなければならない」と言いながらも、実際には「近代化」あるいは「都市住民化」の中に、どっぷりと浸かってしまっているわけです。 その意味である種の「自然(じねん)」を犠牲にしながらも手に入れた「都市住民としての自由」を、漱石は完全には否定しない。 だからこそ、「百合」というアイテムによって、「青の世界」に留まる、回帰する、という欲望に囚われながらも、もはや主観と客観の(完全なる)分離は不可能になってしまっている。 それはまさしく、代助が「赤の世界」の経済の論理に船出せざるを得ない帰結に導かれるわけです。 しかし、「こころ」の「先生」の「孤独」、これは簡単に片付けられない問題ですが、「都市住民」として生きていくことが完全なる他者との断絶を意味するか、というと、ここが「都市と地域の社会学」でヒントを得たところなのですが、人々がムラから街に出てきて、完全に「蛸壺」に閉じ込められて、てんでバラバラに暮らしているか、というと、そういう側面は大いにあるにせよ、都市的な生活のなかで、何かしら紐帯、人との関係を取り結んでいく。 むしろ、都市だからこそ出会える関係というものに、魅了されていく。 あるいは、ムラに暮らしてる人たちは、「都市」の自由さに憧れて、都市に惹き寄せられていく。 それでも、何かしらの紐帯、都会でしかありえないような関係性を模索していく。 その意味では、漱石は、「坊っちゃん」以来の「近代化」、こう言って良ければ、「都市化」に強烈な危機感を抱きながらも、現実は「地域」から「都市」に出てきた人たちは、それはそれで何かしらの関係性を他者と取り結んでいく。 まとめるとこのような感じかと思われます。 もちろん、漱石の「近代化」はこれで汲み尽くせるものでは到底ないわけですが、これが一応私なりの考えです。 繰り返すと、漱石の「近代化」(「都市化」)は、皮相を上滑りに滑っていかざるを得ない、と言いながらも、濃密に「身体性」を抜きにしては捉えられない。 むしろ、「身体性」から逃れられないからこそ、そこから逃れようとしても、身体性と「理性」は密接不可分の関係にあるのではないか。 「それから」の「百合」はそのことを象徴するアイテムなのではないでしょうか。 以上、思いつくままに乱筆乱文書き連ね、師走の折に大変失礼ながらも、申し述べさせていただきました。  森本先生より:『それから』論、文句なく納得しつつ拝読させて頂きました。 紛れもない「都市生活者の身体」を描く漱石は、「皮相な近代」を否定しながらも同時に深く「近代」に巻き込まれている‥。常に表裏する二面性に気づきながらも、これを論じる一定の視角を探しあぐねる学界の七転八倒を痛感しながら、学ばせて頂くところ大でした。 共同体からの独立とはそのまま競争社会の到来を意味し、自由とはまた欲望の解禁でもあるーーこれが「近代的個人」なるものが発見した風景であった、ということですね。 おそらくこのジレンマを解く有力な鍵が、これも前に示唆頂いたイギリス功利主義哲学であり、漱石自身、留学時代を通じて「個」の成立と展開に迫るベく、社会科学の文献は相当、読み込んでおり、私自身が追及してみたい大課題でもあります。 「近代的個人」の日本における受容は、中村正直訳のJ.S.ミルあたりに始まるようなのですが、明六社同人のその後の分岐が示すように、その受用は混沌としている、と同時に、逆に「近代」なるものの矛盾と相剋を、ある意味、忠実に反映しているのではないか、といったような感触を最近、抱いているところです。 このような「近代」が究極、求め、また求めるべきであるのが「他者との関係性の構築」であることもまた真実で、『それから』以降の漱石はこれを追尋してゆきますね。 『こころ』は、『それから』の「平岡ー代助」の破綻した関係を、ある意味、「Kー先生」に背負わせ、そこで果たせなかった関係性の成立を、「先生」が「私」へ期待する、といった展開かと考えていますが、「明治の精神」のいわば遺志として託されたものを受け取る「大正」は、しかしながら、日清・日露の戦勝を背景に、過去の村落共同体ならぬ新たな共同体ーー地方を「郷里」として従えながら中央集権を発揮する「国家としてのニッポン」を立ち上げ始めている。「私」も「私」の感受性も確実にその中にあるような気がします。もはや恋愛幻想は消滅しながら、それなりに愛情を以て結ばれた夫婦家族の幸せは疑われていない、そして郷里はそのような近代家族と何ら矛盾しない、連続し得るものとして穏当に把握されている。まさに日本的近代の成熟、ではないのか、と。しばしば指摘されるように、現代日本の基盤はまさに大正期に成立する、という定式がまざまざ実感されるようでもあります。 それにしても、練達の文章ーー明晰な論理が無理なくなだらかに綴られていて、嬉しく、ひたすら感心しながら拝読させて頂いたことでした。2〜3年前までの、一文、一文には論理の冴えが光りながら、文と文、節と節の繋がりに難儀の見えた文章が嘘のようです。 誠実な精進の毎日の賜物、とは、まさに、このことですね。 ますますのご成長とご発展をと祈らずにおれません。

2024年1月5日金曜日

ビジネスと経済学@茨城大学 (再掲)

小山台高校の生徒が、シンドラー社製のエレベーターに挟まれて死亡した事件があったけど、あれは、マンションの管理組合がメンテナンス代をケチって、他の業者に委託したのが発端らしい。 あんまり詳しく書くと、面倒なことになりそうだから、これくらいにしとくけど、シンドラー社製のエレベーターに欠陥があったというより、エレベーター本体の価格は低く抑えて、メンテナンス代で儲ける仕組みが災いしたのかも。 本体価格を低く抑えて、付属品などで儲ける商品の典型が、プリンター。 プリンター本体の価格は低く抑えて、インク代で儲けてる。 しかし、ここにもシンドラー社製エレベーターと同じ構造があって、高いインク代に目をつけて、第三者企業が代替インクを低価格で販売し始めて、それに対してプリンター会社が対抗策を講じたりとか。 とにかく、二日間で面白い話がたくさん聞けました。

ジャップはめんどくせえ

働くには 何かしら 人と 付き合わなきゃ いけないんだが、 なんかもう 他人と 関わるのが めんどくさく なってきた。 父親みたいに パワハラ体質系の ストレスは 慣れてるからいいんだけど、 俺と 同世代かその下の、 ひとりじゃ なんもできねー チキン野郎のくせに、 集団になった途端 なんでもアリで あの手この手 使って 人の足を 引っ張ろうとする 馬鹿ども を 相手にするのは もう うんざりだ! そんな奴ら 蹴散らす 気力・体力は もう 俺には 残っていない。

<キャラ>の現象学 (再掲)

ところで、 ルソーは疎外論の 元祖だそうである。 「ホントウのワタシ」 と 「社会的仮面を被ったワタシ」 の分離という 中学生が本能的に 感じるようなことに 言及していたそうである。 ここで、いわゆる 『キャラ』 について考えてみよう。 サークルの飲み会で、 場にあわせて ドンチャン騒ぎを やることに倦み果てて、 トイレに逃げ込んだときに 自分の顔を鏡でみるのは 一種のホラーである。 鏡に映る、グダグダに なって油断して仮面を 剥がしかけてしまった 見知らぬ自分。 それを自分だと思えず 一瞬見遣る鏡の前の男。 男は鏡に映る男が 自分であることに驚き、 鏡の中の男が同時に驚く。 その刹那両方の視線がカチあう。 俺は鏡を見ていて、 その俺を見ている鏡の中に 俺がいて、 それをまた俺が見ている・・・ という視線の 無限遡行が起こって、 自家中毒に陥ってしまう。 このクラクラとさせるような 思考実験からは、 <顔>について われわれが持っている イメージとは違う <顔>の性質を 垣間見ることが 出来るのではないか。 そもそも、 自分の顔は自分が一番よく知っている と誰もが思っているが、 鷲田清一によれば、 「われわれは 自分の顔から 遠く隔てられている」 (「顔の現象学」講談社学術文庫 P.22) という。 それは、 「われわれは 他人の顔を思い描くこと なしに、 そのひとについて 思いをめぐらすことは できないが、 他方で、他人が それを眺めつつ <わたし>について 思いをめぐらす その顔を、 よりによって当のわたしは じかに見ることができない。」 (P.22)からだ。 言い換えれば、 「わたしはわたし(の顔)を 見つめる他者の顔、 他者の視線を通じてしか 自分の顔に 近づけないということである。」 (P.56)ゆえに、 「われわれは目の前にある 他者の顔を 『読む』ことによって、 いまの自分の顔の様態を 想像するわけである。 その意味では 他者は文字どおり <わたし>の鏡なのである。 他者の<顔>の上に 何かを読み取る、 あるいは「だれか」を読み取る、 そういう視覚の構造を 折り返したところに <わたし>が想像的に 措定されるのであるから、 <わたし>と他者とは それぞれ自己へといたるために たがいにその存在を 交叉させねば ならないのであり、 他者の<顔>を 読むことを覚えねば ならないのである。」(P.56) そして、 「こうした自己と他者の 存在の根源的交叉(キアスム)と その反転を可能にするのが、 解釈の共同的な構造である。 ともに同じ意味の枠を なぞっているという、 その解釈の共同性のみに 支えられているような 共謀関係に <わたし>の存在は 依拠しているわけである。 他者の<顔>、 わたしたちはそれを 通して自己の可視的な イメージを形成するの だとすれば、 <顔>の上にこそ 共同性が映しだされている ことになる。」(P.56) こう考えると、 「ひととひととの差異を しるしづける<顔>は、 皮肉にも、 世界について、あるいは自分たち についての 解釈のコードを 共有するものたちの あいだではじめて その具体的な意味を 得てくるような現象 だということがわかる。」(P.58) これはまさに、 サークルなどで各々が 被っている<キャラ>に まさしく当てはまる のではないか。 サークルという場においては、 暗黙の解釈コードを 共有しているかどうかを 試し試され、確認し合っており、 そのコードを理解できないもの、 理解しようとしないものは 排除される。 その意味では <キャラ>はまさしく社会的仮面なのだ。 視線の交錯の上に 成り立つ 「規律」に反するものを “排除”する構造は、 <キャラ>を媒介として成り立つ、 目には見えない 一望監視装置と言えるだろう。 フーコー学者からすれば、 例えば国勢調査などはまさに 「生‐政治」の典型だろうけど、 自分はこの類の 「教科書的フーコー理解」は、 結局 国家の牧人的 国民管理からの反逆、 打倒政府、行政性悪説に 辿り着くものでしかなく、 また、 フーコーの考える 「生‐政治」の可能性を 矮小化させてしまう ものだと思う。 フーコーの考えた 「生‐政治」というのは、 常に我々のすぐそばで 起こっている現象だと考える。 これは 『キャラ』 の牢獄に閉じ込められた 我々に当てはまる。 「生‐政治」というのは、 「私」が「国家権力」によって 常に監視されている、 という妄想的発想ではなく、 われわれ自身が、 お互いを監視し、 排除する当事者である のではないか?というように 考えるのです。 そう考えれば、 <キャラ> はすぐれて「生‐政治」の性質を 帯びている。

竹久夢二展

近くの美術館で やってて、 母親が 行きてーと いうから、 一緒に行って 来ました。 どうせ 大したこと ないんだろ? と 思ってたけど、 当時の 風俗が伝わってきて 結構 楽しかったです。 あーなんか 夏目漱石の時代だなー、と。 なんつーか、 時代精神が 伝わってきた。 戦争が本格化する前に 亡くなってるから、 大正デモクラシーの雰囲気を そのまま 残している。 歴史の素養があると こういうときに 実感が湧くから 面白い。 ひとつ印象に残ったのが、 雑誌の表紙絵か なにかで、 スイートホームと 銘打ってあるのに、 母親は赤ん坊に向けて 顔を伏せ、 メランコリックな表情をし、 父親は タバコをふかして 不機嫌そうな顔をしていた。 娘は どこか 空虚な微笑みを 浮かべている。 当時の 「家族」像が 垣間見れて 面白かった。 今も昔も変わらんな。

のび太

ジャイアン、スネ夫、のび太の 3人のなかで 一番クズなのは 実は のび太 なんじゃないか? ジャイアンは ああ見えて たまに 男気があって のび太にも 優しいし、 スネ夫だって たいていヤな奴だけど、 宇宙小戦争だっけ(?)で 身を挺して しずかちゃん 護ってるし。 のび太 一度でも そんなことしたっけ? 一番の 根性なしのヘタレは のび太 なんじゃないか?

アリストテレスの倫理学@茨城大学 レポート (再掲)

自分の実感でも、 知的権威が 昔より 相対化されたというか、 俺は 大学教授だぞとか、 どこそこの 研究者ですごい 研究してるんだぞ! っていう ノリでは 通じなくなってきたよね。 良くも悪くも。 アカウンタビリティーという 言葉が象徴するように、 いくら 知的権威があっても、 それを 素人の一般市民に 説明できなければ いけない、という 風潮を感じる。 それは 「知」の民主化、という 意味では 良い側面だと 思うんだけど、 悪い側面としては、 一般市民が、 知的オーソリティーを 信用しなくなった、 つまり、 より 陰謀論じみた話や、 そもそも およそ 学術的に間違った話を 臆面もなく 信じ込む、という 現象が現れてきた。 そこに 政治が漬け込むと、 いわゆる ポピュリズム政治が生まれ、 政治が 極端な方向へと進む 傾向が 見られるようになってきた。 これは、 構造主義による 「知」の権威の 相対化の 功績とも言えるのではないか。 ニーチェは「善悪の彼岸」のなかで、 こう書いている。 「形而上学者たちの 根本信仰は 諸価値の 反対物を 信仰する ことである」。 ある哲学者が 「善」を信じているとすれば、 その哲学者は 「善」を 信じているというより、 「善」の価値を 正当化するために、 その 「反対物」にあたる 「悪」をひそかに (おそれながら?) 信じている、という わけである。 「不思議の国のアリス」の世界で、 価値の問題を文字通り 体現していたのは、 トランプのすがたをした 登場者たちだった。 なぜなら 彼らの存在は、 トランプの序列における 差異を基準にして、 その「価値」を 決められていたからである。 ここには、ソシュールが言語について 考えていたことに 通じる大切なポイントが 含まれている。 それは、カードの「価値」とは 役割であること、 言い換えれば、カードの 「価値」は、 それぞれのカードの差異の関係と、 トランプ全体の 体系内における 各カードの 位置関係から 生まれてくるという ことである。 つまり「王」や「女王」も、 他のカードがなければ、 そして トランプと呼ばれる カードの体系がなければ、 「王」や「女王」として 君臨できなかった。 それゆえ 「王」や「女王」の 権力は、 たとえ どれほど周囲の者たちに 脅威を与えたとしても、 彼らのなかに 存在しているものではなく、 トランプのゲームを 構成している 多くの要素の 関係から生まれた幻想としての 効果にすぎない。 「カード」の体系を 現実世界に当てはめれば、 現代人のあらゆる 「権威」や「道徳」への 忠誠心は、 それが飽くまでも 「ゲームの体系」の 中でしか効果を 持ち得ない、という 意味において 著しく相対化 されているのである。 (参照:「現代思想のパフォーマンス」 光文社新書 p.74~76) しかし、言語とはソシュールがいうように体系の中の戯れでしかないのだろうか? そもそもヒトは 単に信号を出しているのではなく、 「あなたに心があって、 あなたの心を読むことによって、 私はあなたの思いを共有している。 そして、 そういうことをあなたも分かってくれるから、 お互いに思いが共有できる」という、 この基盤がなければ 言語というものは実は働かない。 人間は社会的動物である。 仮に 眼前に他者がいないとしても、 それは 必ずしも 他者の <不在> ではない。 他者が眼前にいない時でも、 人は 他者とやりとりをしている。 言い換えれば、コミュニケーションをしている。 自分の発言を、相手はどう解釈し、 相手がどんな応答をしてくるか、 それに対して 自分はどう答えるか、 そんな 複雑な入れ子構造の往還を、 人は 無意識に行っている。 人が拷問を行うのは、他者の痛みを共感できるがゆえだという。 ならば、 逆に他者に対して善い行いをする可能性も残されているのではないか? 他者に対して善い行いをし、その喜びを共有することも、また可能ではないだろうか。

権力と知 「フーコー・コレクション6」 ちくま学芸文庫 (再掲)

前二千年紀の終わりから 前千年紀の初めの 東地中海のヨーロッパ社会では、 政治権力は いつもある種のタイプの 知の保持者でした。 権力を保持するという 事実によって、 王と王を取り巻く者たちは、 他の社会グループに伝えられない、 あるいは伝えてはならない 知を所有していました。 知と権力とは 正確に対応する、 連関し、重なり合うものだったのです。 権力のない知は ありえませんでした。 そして ある種の特殊な知の所有なしの 政治権力というのも ありえなかったのです。(62ページ) ギリシア社会の起源に、 前五世紀のギリシアの時代の起源に、 つまりは われわれの文明の起源に 到来したのは、 権力であると同時に知でも あったような 政治権力の 大いなる一体性の分解でした。 アッシリアの大帝国に存在した 魔術的―宗教的権力の この一体性を、 東方の文明に浸っていた ギリシアの僭主たちは、 自分たちのために復興しようとし、 またそれを 前六世紀から前五世紀の ソフィストたちが、 金銭で払われる授業という形で 好きなように用いていました。 われわれが立ち会っているのは、 古代ギリシアで 前五、六世紀にわたって 進行した この長い崩壊過程なのです。 そして、 古典期ギリシアが出現するとき ―ソフォクレス (注:「オイディプス王」の作者) はその最初の時代、 孵化の時点を代表しています―、 この社会が 出現するために 消滅しなければならなかったのが、 権力と知の一体性なのです。 このときから、 権力者は無知の人となります。 結局、オイディプスに起こったのは、 知りすぎていて何も知らないということです。 このときから、 オイディプスは 盲目で何も知らない権力者、 そして力余るために 知らない権力者となるのです。(62ページ) 西洋は以後、 真理は政治権力には属さず、 政治権力は盲目で、 真の知とは、神々と接触するときや、 物事を想起するとき、 偉大な永遠の太陽を見つめるとき、 あるいは 起こったことに対して 目を見開くときに、 はじめてひとが 所有するものだという 神話に支配されるようになります。 プラトンとともに 西洋の大いなる神話が始まります。 知と権力とは相容れないという神話です。 知があれば、 それは権力を諦めねばならない、と。 知と学識が 純粋な真理としてあるところには、 政治権力は もはやあってはならないのです。 この大いなる神話は清算されました。 ニーチェが、先に引いた多くのテクストで、 あらゆる知の背後、 あらゆる認識の背後で 問題になっているのは 権力闘争なのだ、 ということをを示しながら、 打ち壊し始めたのは この神話なのです。 政治権力は 知を欠いているのではなく、 権力は 知とともに織り上げられているのです。(63ページ)

中立命題ー三橋貴明に洗脳されてるアホに捧ぐ (再掲)

財政支出を 課税により 現在決済しようと, 国債を発行して 将来に決済を延期しようと, 国民の経済厚生に 変化はないという命題。 いま人口が変化せず, すべての国民に 同額の所得税の減税を するとともに, 減税分と同額の国債を 新規に発行するケースを考えよう。 この経済では, 国民の保有する 国債という資産の価値と, 国債償還のための費用とは 同率で増加するために, 国民の消費の時系列は 影響を受けない。 リカード(D. Ricardo)が主張し, 近年,バロー(R. J. Barro)ら 合理的期待学派によって, 公債の中立命題として 再定式化されたもの。 有斐閣経済辞典第4版  上の中立命題が示唆することは、 長い目で見れば、 ケインズ経済学的な財政出動は、 意味がない、ということになる。 もっとも、ケインズ自身が、 そんな長い目で見たら、我々はみんな死んでいる、 と反駁したわけであるが。 とはいえ、確かに、 戦後の日本が 財政赤字を垂れ流し続けた結果が この有り様だから、 中立命題のいうことも、 もっともなことだ。 (以下 Google Bard より回答) はい、わかりました。リカード=バローの中立命題は、財政支出を課税により現在決済しようと,国債を発行して将来に決済を延期しようと,国民の経済厚生に変化はないという命題です。 この命題は、リカードが19世紀に主張し、近年ではバローら合理的期待学派によって再定式化されました。 リカード=バローの中立命題が成立するためには、次の条件が必要です。 国民が合理的期待を持っていること 国民が国債のリスクを厭わないこと 国債がインフレ率と同じ水準で償還されること これらの条件がすべて満たされている場合、国債の発行は国民の消費行動に影響を与えず、経済厚生に変化をもたらしません。 ただし、これらの条件がすべて満たされていない場合、国債の発行は国民の消費行動に影響を与え、経済厚生に変化をもたらす可能性があります。 例えば、国民が合理的期待を持っていない場合、国債の発行は将来の増税を予想させ、国民の消費を抑制する可能性があります。また、国民が国債のリスクを厭う場合、国債の発行は金利の上昇を引き起こし、経済活動を鈍化させる可能性があります。さらに、国債がインフレ率と同じ水準で償還されない場合、国民の資産価値が目減りし、経済厚生が悪化する可能性があります。 リカード=バローの中立命題は、財政政策の有効性を否定する命題です。しかし、この命題が成立するためには、厳しい条件が課されます。これらの条件がすべて満たされているとは限らないため、財政政策は経済厚生に変化をもたらす可能性があります。

2024年1月4日木曜日

奥さん夕べは激しかった!

突然 事業所の ビッグボスが 来るっていうから、 おいおい いきなり 昨日の続きかよ?! と 神経が アイドリングモードから 一気に トップギアに入っちゃって、 冗談キツイぜ。 と 思ったけど、 相手も心得たもので、 というか マスクしてても 顔が青ざめてたのが わかるほどだったので、 お互い 暗黙の了解(?)で その件には 終始触れず。 コンビニに行ってもらって 昼間 買いそこねた アイスを買ってきて もらったけど、 小分けになってるのかと 思いきや デカいのが丸々1本 出てきて、 齧り付きながら、 そういや クリスマスにそれらしいこと しなかったから、 遅めの メリー・クリスマスだな、 なんて 思って 一息ついた。

俺の思い過ごしならいいが

ふと 思い出したが、 慶応入って すぐ 情報処理の授業の 休憩時間に、 生協行って、 会計してたら 後ろから Uっていう女性が、 俺が 会計済ませて 立ち去ろうとしたら、 待ってって言うから、 待ってたのに、 歩いて帰ろうとしても 何も言わないから、 「あれ、俺になんか 言いたいことあるんじゃないの?」 って 聞いたんだけど、 もしかして あれで 「コバヤシくんは モテたがってる。」 みたいに 勘違いされたのかな? ・・・怖いです。 その発想。 もう 入学早々 落とし穴にハマってんじゃん。 俺。 待ってくれっていうから 待ってやったのに、 何も言わねーから 用事を聞いたら モテたがってると 勘違いされる。 なにコレ?

ノーリスクはノーリターン 日経新聞経済教室 2023/12/29

伊藤友則 早稲田大学教授が 寄稿してたが、 日本企業が 成長しないのは、 バブル崩壊後 成長分野に投資しないで 不採算部門を 無駄に 温存させてきたからだ、と。 人間だって 同じだろ。 成長できることに 投資しなかったら 成長なんかしない。 放送大学は贅沢だ、と 言うかも知れないが、 行けるときに 行かなきゃ いつ行くの? 今でしょ? 障害年金で ほぼほぼ カバーしてるし、 コスパ悪いとは 思わないがな。 むしろ、大学で 漫然と授業聞くだけで、 挙手して 質問もしないほうが よっぽど コスパ悪いと思う。 高いカネ払って 大学に 何しに来たんだ? と 言いたくなる。

2024年1月3日水曜日

ようやく新年が明けた

昨年末に、 相性の悪い ヘルパーさん 外してくれと メールしたんだが、 折り悪く 年末年始で メールが 返って来ないもんだから、 俺の 神経が参ってしまって、 明日に なれば さすがに メール返って来るだろうと 思っていたが、 それまで 我慢できずに、 救急車呼んだんだが、 そんな 理由で 病院に連れて行く わけには いかないってんで、 救急隊員の方が 気を利かせて 事業所のほうに 直接電話して 話をつけてくれたんで、 こっちの 意図が相手に 伝わっていることが わかって ようやく ホッと した。 最悪の 年末年始だった。 金持ちの苦労知らずの おぼっちゃまクンのアナタに 人生の厳しさ 教えてあげる的な ノリの ヘルパーさんは だいたい 相性が悪い。 金持ちの苦労知らずの お坊っちゃまクンなのは そういう キャラだから そう思われるのは 構わないんだが、 だから 私が 人生の厳しさ 教えてあげるノリは ムカつく。

2024年1月2日火曜日

文学とグローバリゼーション 野崎歓先生との質疑応答 (再掲)

質問:「世界文学への招待」の授業を視聴して、アルベール・カミュの「異邦人」と、ミシェル・ウェルベックの「素粒子」を読み終え、いま「地図と領土」の第一部を読み終えたところです。  フランス文学、思想界は、常に時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタムを必要としているというような記述を目にしたことがあるような気がしますが、「異邦人」からすると、確かに、「素粒子」が下す時代精神は、「闘争領域」が拡大したというように、現代西欧人には、もはや<性>しか残されておらず、それさえも、科学の進歩によって不必要なものになることが予言され、しかもそれで人間世界は互いの優越を示すために、無為な闘争を避けることができない、というような描写が「素粒子」にはあったと思われます。  「地図と領土」においても、主人公のジェドは、ネオリベラリズムの波によって、消えゆく運命にある在来の職業を絵画に残す活動をしていましたが、日本の百貨店が東南アジア、特に資本主義にとって望ましい人口動態を有するフィリピンに進出する計画がありますが、そのように、ある種の文化帝国主義を、ウェルベックは、グローバリゼーションを意識しながら作品を書いているのでしょうか? 回答:このたびは授業を視聴し、作品を読んだうえで的確なご質問を頂戴しまことにありがとうございます。フランス文学・思想における「時代を牽引するような象徴あるいはモーメンタム」の存在について、ご指摘のとおりだと思います。小説のほうでは現在、ウエルベックをその有力な発信者(の一人)とみなすことができるでしょう。 彼の作品では、「闘争領域の拡大」の時代における最後の人間的な絆として「性」を重視しながら、それすら遺伝子操作的なテクノロジーによって無化されるのではないかとのヴィジョンが描かれていることも、ご指摘のとおりです。 そこでご質問の、彼が「グローバリゼーション」をどこまで意識しながら書いているのかという点ですが、まさしくその問題はウエルベックが現代社会を経済的メカニズムの観点から考察する際、鍵となっている部分だと考えられます。アジアに対する欧米側の「文化帝国主義」に関しては、小説「プラットフォーム」において、セックス観光といういささか露骨な題材をとおして炙り出されていました。また近作「セロトニン」においては、EUの農業経済政策が、フランスの在来の農業を圧迫し、農家を孤立させ絶望においやっている現状が鋭く指摘されています。その他の時事的な文章・発言においても、ヨーロッパにおけるグローバリズムと言うべきEU経済戦略のもたらすひずみと地場産業の危機は、ウエルベックにとって一つの固定観念とさえ言えるほど、しばしば繰り返されています。 つまり、ウエルベックは「グローバリゼーション」が伝統的な経済・産業活動にもたらすネガティヴな影響にきわめて敏感であり、そこにもまた「闘争領域の拡大」(ご存じのとおり、これはそもそも、現代的な個人社会における性的機会の不平等化をさす言葉だったわけですが)の脅威を見出していると言っていいでしょう。なお、「セロトニン」で描かれる、追いつめられたフランスの伝統的農業経営者たちの反乱、蜂起が「ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)」運動を予言・予告するものだと評判になったことを、付記しておきます。 以上、ご質問に感謝しつつ、ご参考までお答え申し上げます。

市井の漱石論 (再掲)

夏目漱石の「坊っちゃん」は、主人公が故郷(=居場所)を喪失する物語である。 「江戸っ子」の坊っちゃんが、明治の新世界のなかで、生き場所を見いだせず、 唯一、坊っちゃんを、「坊っちゃん」と呼んでくれた、 下女の「清」を、拠り所とするのである。 親から可愛がられなかった「俺」は、 無鉄砲で、無茶ばかりをし、怪我も絶えない。 それは一見、 無邪気な腕白坊主のようにも見えるが、 家庭のなかで、居場所を見つけられないのである。 そんな「俺」を、「清」は「坊っちゃん」と呼び、可愛がってくれた。 ラストでは「清」の墓について語られるが、実はその墓は夏目家の墓なのである。 このことから、 漱石がフィクションとはいえ、いかに「清」を大事にしていたかが分かる。  「近代化」は、人間関係までをも合理化し、「計量化」していく。 「俺」は、教師として赴任先の松山で、様々な人間関係に巻き込まれるが、 そこでは、 情よりも「理」が力を発揮する。 弁舌の巧みな理路整然と語る登場人物たちに、 「江戸っ子」の「俺」は、歯が立たない。 「マドンナ」も、権力があり、「カネ」の力を持った「赤シャツ」と繋がっていくことが暗示されている。 しかし、 「清」から用立ててもらった「金銭」は、 交換の論理ではなく、「贈与」の論理であり、 単純に数量化できない性質のものなのである。 「清」ひいては「清」と (現実的にはあり得もしない) 「一心同体」となって 憩うことのできる空間 を 「墓」ーー地底に埋めた漱石は、 このような空間が決定的に喪われた、 つまり 現実には回復不能な時空として 想定しているように思える。 漱石の小説の登場人物たちは、 この後、 『それから』の代助のように「自家特有の世界」に逃避する人物を象徴として、 いやおうなく経済の論理に巻き込まれていく。 代助もまた、 嫁ぐ前の 三千代の写真と草花だけ を 相手に生きる 「自家特有」 の水底の世界から、 半ば夫に捨てられ 子も失った不幸な 人妻としての三千代と 相対するべく、 まさに競争と合理と計量化の世界へ帰還していく。  夏目漱石の小説『それから』の主人公、長井代助は、 当時としては中年と言っても過言ではない年齢ながら、 働かず、今で言うところのニートのような暮らしをしている。 貴族でもない一般市民が、そのような暮らしを出来た、ということは、 日本経済がある程度豊かになってきた証左とも言えるだろう。 もちろんフィクションではあるが。 代助は、 漱石が「自然(じねん)」と名付ける、 自家特有の世界に隠棲している。 そして、友人に譲る形で別れた三千代の影を追って暮らしている。 しかし、三千代は、代助の前に再び現れる。 友人の子供を死産し、それが元で心臓を病んだ三千代は、 百合の花が活けてあった花瓶の水を、 暑いと言って飲み干してしまう。 代助は、百合の花の強烈な香りの中に、 三千代との、あったはずの純一無雑な恋愛を仮構し、 そこに「自然」を見出し、 主客合一の境地を得ようとするが、 それは理性の放擲を意味するため、 肉体を具有する代助は、 再び我に返る。 代助の自家特有の世界と、生身の肉体として現れる三千代の存在は、 「青の世界」と「赤の世界」として対比される。 一種の引きこもり青年の「自家特有の世界」としての「青の世界」に、 「赤の世界」の象徴として (再び)現れる、他人の人妻であり、子供を死産し、心臓を病んだ現実世界を、代助に突き付ける。 それはまた、 ラストシーンで代助が「赤の世界」に帰還していくように、 競争、合理、計量化の、経済の世界を表している。 経済の発展と<近代化>が平仄を合わせているとするならば、 <近代化> という 客観的な条件は むしろ いっさいを 平準化し 数量として ひとしなみに 扱う、 そんなおぞましい 破局を 目指すだけだった。 もともとは 人間が作り上げた 文化・文明が、 やがて 作り手から自立し、 逆に 人間を拘束し、 圧迫してくる。 『それから』の百合が象徴するのは、 確かに主客分離への不安、身体レベルでの自然回帰への欲望である。 しかし、すぐに代助はそれを「夢」と名指し、冷めてゆく。 主客分離が 主観による世界の支配を引き起こしかねず、 そこから必然的に生起する疎外や物象化を 批判するが、 しかしながら、再び、主観と客観の区別を抹殺することは、 事実上の反省能力を失うことを意味するが故に、 主客合一の全体性への道は採らない。 傷だらけになりながらも 理性を手放さない、 漱石の「個人主義」の一端を表している。

ジョン・デューイの政治思想 (再掲)

貨幣文化の出現は伝統的な個人主義が人々の行動のエトスとして機能しえなくなっていることを意味した。「かつて諸個人をとらえ、彼らに人生観の支え、方向、そして統一を与えた忠誠心がまったく消失した。その結果、諸個人は混乱し、当惑している」。デューイはこのように個人が「かつて是認されていた社会的諸価値から切り離されることによって、自己を喪失している」状態を「個性の喪失」と呼び、そこに貨幣文化の深刻な問題を見出した。個性は金儲けの競争において勝ち抜く能力に引きつけられて考えられるようになり、「物質主義、そして拝金主義や享楽主義」の価値体系と行動様式が瀰漫してきた。その結果、個性の本来的なあり方が歪められるようになったのである。 「個性の安定と統合は明確な社会的諸関係や公然と是認された機能遂行によって作り出される」。しかし、貨幣文化は個性の本来的なあり方に含まれるこのような他者との交流や連帯、あるいは社会との繋がりの側面を希薄させる。というのは人々が金儲けのため他人との競争に駆り立てられるからである。その結果彼らは内面的にバラバラの孤立感、そして焦燥感や空虚感に陥る傾向が生じてくる。だが、外面的には、その心理的な不安感の代償を求めるかのように生活様式における画一化、量化、機械化の傾向が顕著になる。利潤獲得をめざす大企業体制による大量生産と大量流通がこれらを刺激し、支えるという客観的条件も存在する。個性の喪失とはこのような二つの側面を併せ持っており、そこには人々の多様な生活がそれぞれに固有の意味や質を持っているとする考え方が後退してゆく傾向が見いだされるのである。かくしてデューイは、「信念の確固たる対象がなく、行動の是認された目標が見失われている時代は歴史上これまでなかったと言えるであろう」と述べて、貨幣文化における意味喪失状況の深刻さを指摘している。(「ジョン・デューイの政治思想」小西中和著 北樹出版 p.243~244)

日銀はいつまで相場を騙せるか (再掲)

円安が進んでますね。 植田日銀が、YCCからの脱却を示唆するとかでない限り、 日銀は利上げする気がないと思われたら、 円安が止まらなくなる可能性がある。 それは、見方を変えれば、 N個の政策課題に対して、N-1個の政策手段しか持っていないんだから、 もぐら叩きのように どこかで必ず弱点が出てくる。 実務のことはよくわからないが、 YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があるので、 オーストラリア中銀のように、経済が大変な混乱を来すと、 東短リサーチの加藤出さんなどは主張している。 これも、大規模金融緩和の失敗を示している。 (以下 日経新聞 2023/5/19 経済教室より 《加藤出氏寄稿》 ) 間もなく出口政策が 始まると 市場が予想したら、 ターゲットを変更するまで 中銀は 国債を無制限に買い支えなければ ならず、 自身の バランスシートを制御できなくなる。  (以下 Chat-GPTの回答) 円安に関するお話ですね。円安が進行する場合、植田日銀がYCC(イールドカーブコントロール)からの脱却を示唆しない限り、日銀は利上げする意向がないと思われます。その結果、円安が止まらなくなる可能性があります。この状況は、政策課題がN個ある場合に、N-1個しか政策手段を持っていないため、どこかで弱点が現れるということを意味しています。 YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があります。加藤出氏など一部の専門家は、オーストラリア中銀のように経済が大きな混乱を引き起こす可能性があると主張しています。これは、大規模な金融緩和策の失敗を指摘しているとも言えます。 また、出口政策が市場予想より早く始まると、中銀は国債を無制限に買い支える必要があり、自身のバランスシートを制御できなくなる可能性があります。  (以下 google bard より回答) はい、円安が進んでいますね。 植田日銀総裁は、YCC(イールドカーブコントロール)の堅持を明言しており、利上げを実施する意向はないとみられています。そのため、円安が止まらない可能性があるという指摘は、正しいと言えるでしょう。 YCCとは、国債の利回りを一定に抑えることで、金融緩和を継続する政策です。しかし、この政策は、金利差拡大による円安を招くというデメリットがあります。 YCCから脱却するには、市場を欺き続ける必要があると指摘されています。しかし、これは非常に困難な作業であり、経済に混乱を招く可能性もあります。 また、出口政策が市場予想より早く始まると、中銀は国債を無制限に買い支える必要があり、自身のバランスシートを制御できなくなる可能性があります。 円安が止まらない場合、日本経済にどのような影響が及ぶのでしょうか。 まず、輸入物価の上昇によるインフレが懸念されます。輸入原材料やエネルギー価格の上昇は、企業のコスト増加につながり、製品やサービスの価格上昇につながります。また、家計の生活費も増加し、実質的な所得が減少する可能性があります。 さらに、円安は輸出企業の収益を押し上げますが、輸入企業の収益は圧迫されます。そのため、輸出と輸入のバランスが崩れ、日本経済の成長率が鈍化する可能性もあります。 円安は、日本経済にとって大きなリスクであると言えるでしょう。

植田総裁がどう出るか

次の 日銀金融政策決定会合で、 植田総裁が 金融正常化に向けて ある程度 踏み込んだ 発言しないと、 ちょっともう 日本経済は 取り返しがつかない 気がするけどな。 そろそろ 市場関係者の 予想を裏切り続けるのにも 無理がある。 変化球で逃げまくっても、 つぎは 直球勝負で 行かざるを得ないって ところまで 来てると思う。 (以下 google bard より回答) はい、その通りだと思います。 日銀は、2013年からマイナス金利政策を含む大規模な金融緩和を実施してきました。しかし、近年は、インフレ率が上昇する一方で、賃金上昇は鈍く、実質賃金は低下しています。また、円安が進み、輸入物価の上昇がインフレをさらに押し上げています。 こうした状況下で、日銀が金融正常化を進めないと、インフレが持続し、実質賃金の低下がさらに進む可能性があります。また、円安がさらに進み、輸入物価の上昇が加速する可能性もあります。 そのため、次の日銀金融政策決定会合で、植田総裁が金融正常化に向けてある程度踏み込んだ発言をしないと、日本経済が取り返しのつかない状況に陥る恐れがあります。 具体的には、以下の発言が期待されます。 物価安定目標を2%に据え置くことを明確にする マイナス金利政策の出口戦略を示す 国債買い入れのペースを減らす もちろん、日銀は、金融正常化を急ぎすぎると、経済の下振れを招くリスクがあることも認識しています。そのため、慎重に判断を進めていく必要があるでしょう。 しかし、市場関係者の予想を裏切り続けるのも限界があります。変化球で逃げまくっても、次の会合では直球勝負で行くしかないでしょう。

財政学@新潟大学 後日談 (再掲)

俺:先週末の2日間、大変貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。 大変勉強になりました。 家に帰ってから、プライマリーバランスについて調べたのですが、少し疑問が生じたので、質問させていただきます。 「財政状況を示す指標の1つで,プライマリー・バランス均衡とは,利払費・債務償還費を除いた歳出が公債金収入以外の歳入で賄われている状態を指す。この場合,現世代の受益と負担が均衡していることになる。プライマリー・バランス均衡の状態で,金利と名目GDP成長率が等しければ,債務残高の対GDP比は一定に保たれる。 有斐閣経済辞典第4版」 とあるのですが、まずプライマリーバランスを実現しないことには、いくら名目GDP成長率が金利を上回っていても、債務残高は、長期的に見れば発散してしまうのでしょうか? 私も勉強不足で、少し曖昧な質問になってしまい恐縮ですが、ご回答たまわれれば幸いです。 新潟大学 根岸睦人先生より:小林さん 新潟大学の根岸です。先日はお疲れさまでした。 早速ですが、質問にお答えします。 >まずプライマリーバランスを実現しないことには、いくら名目GDP成長率が金利を上回っていても、債務残高は、長期的に見れば発散してしまうのでしょうか? いいえ、必ずしもそうではありません。仮にプライマリーバランス(PB)が赤字(利払い費の規模を超える債務残高の増加)でも、債務残高の増加率を上回るGDPの成長率が実現すれば、債務残高の対GDP比は低下します。 PBのバランスと、利子率と名目成長率の関係の両面で考える必要があります。 (以下 google bard より回答) 根岸先生の回答は、以下のとおりです。 プライマリーバランスが赤字でも、債務残高の対GDP比が低下する可能性がある プライマリーバランスとは、利払い費を除いた歳出が公債金収入以外の歳入で賄われている状態を指します。プライマリーバランスが赤字であれば、利払い費の規模を超える債務残高の増加となります。 しかし、仮にプライマリーバランスが赤字でも、債務残高の増加率を上回るGDPの成長率が実現すれば、債務残高の対GDP比は低下する可能性があります。 例えば、プライマリーバランスが年間100億円の赤字で、債務残高が1兆円、名目GDP成長率が5%である場合、債務残高は年間500億円増加します。しかし、名目GDPが年間6%成長すれば、債務残高の対GDP比は低下します。 つまり、プライマリーバランスの赤字と債務残高の対GDP比は、単純に比例関係にあるわけではありません。 プライマリーバランスの赤字を縮小し、利子率と名目成長率の両面で対策を講じる必要がある ただし、プライマリーバランスが赤字の状態が続くと、いずれは利払い費が債務残高の増加額を上回るようになり、債務残高の対GDP比が急速に上昇する可能性があります。 そのため、プライマリーバランスの赤字を縮小し、利子率と名目成長率の両面で対策を講じる必要があります。 小林さんの質問に対する回答 小林さんの質問に対する回答は、以下のとおりです。 まずプライマリーバランスを実現しないことには、いくら名目GDP成長率が金利を上回っていても、債務残高は、長期的に見れば発散してしまうのでしょうか? はい、必ずしもそうではありません。仮にプライマリーバランスが赤字でも、債務残高の増加率を上回るGDPの成長率が実現すれば、債務残高の対GDP比は低下する可能性があります。 ただし、プライマリーバランスが赤字の状態が続くと、いずれは利払い費が債務残高の増加額を上回るようになり、債務残高の対GDP比が急速に上昇する可能性があります。 そのため、プライマリーバランスの赤字を縮小し、利子率と名目成長率の両面で対策を講じる必要があります。 根岸先生の回答のまとめ 根岸先生の回答は、プライマリーバランスの赤字と債務残高の対GDP比の関係について、以下の2点が重要であると述べています。 プライマリーバランスの赤字と債務残高の対GDP比は、単純に比例関係にあるわけではない。 プライマリーバランスの赤字を縮小し、利子率と名目成長率の両面で対策を講じる必要がある。 この回答は、日本の財政状況を考える上で重要な指摘です。

フィッシャー効果 (再掲)

物価上昇の予想が金利を上昇させるという効果で、フィッシャーが最初にそれを指摘したところからフィッシャー効果と呼ばれる。 ある率で物価の上昇が予想されるようになると、貸手が貸金に生じる購買力目減りの補償を求める結果として、資金貸借で成立する名目金利は物価上昇の予想がなかったときの金利(=実質金利)より、その予想物価上昇率分だけ高まる。(以下略) 有斐閣経済辞典第5版 https://www.tokaitokyo.co.jp/kantan/service/nisa/monetary.html

幸か不幸か

よりにもよって 元旦に 地震だが、 東日本大震災ほどの 災害ではなかったのに、 有事の円買いではなく、 円安に振れているらしい。 今後 円高に振れる可能性もあるが、 去年の 日銀金融政策決定会合の 後の 植田総裁の発言が ハト派だったことで、 1日で2円も 対ドルで円安になったり、 この間まで 1ドル150円突破してたのに、 こんな 短期間で 為替が振れまくるようじゃ、 もう 日本は経済大国とは 言えないな。 物価が上がれば、 購買力の低下を埋め合わせるために 名目金利が 上昇するはずだが、 日銀が 抑えつけているために、 名目金利があがらず、 埋め合わせを求めて マネーは リスクを取ってでも リターンを求めて 株式相場へと向かう。 (←フィッシャー効果) 地震がよりにもよって 元旦だったのは 不幸だが、 株式相場が閉じてる 年始で むしろ ラッキーだったとも 言えるだろう。 もっとも、 大発会がどんな展開になるか なんて 俺には 分からないが。 ま、 三橋貴明に洗脳されてる おバカさんには 一生理解できねー理屈だな。  https://fx.minkabu.jp/news/286539

都合のいい俗論 (再掲)

国債発行 イコール 通貨発行 という俗説が あるらしいが、 金融政策の 基本が 何も わかってないね。 国債を 発行して、 買ってくれる人が いるから、 (国債を買うのは 当然のことながら 中央銀行だけではない。) そのお金が 市中に 流れるんだけど。 これ、 (国債に限らず 債券全般に対する、 中央銀行による) 買いオペとか 売りオペとか 言われる 金融政策の 常識中の常識 だけど、 そんなことも 知らずに、 ただ 国債発行すれば 自動的に 貨幣供給量が 増えると 本気で 思ってる 人が いるみたいね。 (それに、 国債だって商品だから、 本来は政府の都合で 発行した 国債を、 相場を無視した 高値で 売れると思うのが そもそも 間違ってる。 むしろ、 日本の現状として、 日銀が 市場の相場を 無視した 高値で 国債を 買い続けてることが 本質的に問題なんだけどな。) なにで 経済学 学んだんだろう? それに、 貨幣供給量を 増やす イコール 国の資産が 増える ってのも そもそも 間違い。 国の富の 源泉は 付加価値、 すなわち GDPです。 これ、 学部レベルの 経済学で 最初に 学ぶことなんだけどな。 ほんと、 誰に 刷り込まれたんだろう? ついでに 書いとくと、 赤字国債を 発行すること自体が 法律違反なんだけど、 毎年 特例法案つくって 可決して 予算作ってる。 (ちなみに、 一昔前は その種の予算を 通す通さないが 政争の具に 使われたのが、 短命政権が続いた 原因だった。 らしい。) それが 常態化。 それを 国民の側が 嬉々として 受け入れてる 現状が 異常。 ついでに 書いとくと、 日銀が 国債買い続けないと 国債の価格が (異常な高値を 維持できずに) 暴落して 金利が 急騰して この国 吹っ飛びますけど、 さあ この ムリゲー どうします? ちなみに 安倍ちゃんは 日銀は政府の 子会社だから いくらでも 日銀に 国債 買い取らせればいい とか ほざいてましたけど。 もう 日銀による 国債の保有比率 5割 超えましたね。 (以下 google bard より回答) はい、その通りです。国債発行イコール通貨発行というのは、金融政策の基本を理解していない俗説です。 国債を誰かが買ってくれることで、そのお金が市中に流れることになります。しかし、国債を買ってくれるのは、必ずしも中央銀行とは限りません。民間企業や個人も、国債を買うことがあります。 もし、国債を誰も買ってくれなかった場合、政府は国債を償還できなくなり、財政破綻に陥ることになります。 また、貨幣供給量を増やすことが、国の資産が増えることにもなりません。国の富の源泉は、付加価値、すなわち GDPです。貨幣供給量を増やしても、GDPが増えなければ、国の資産は増えません。 日本の現状は、赤字国債を日銀が買い続けているため、国債の価格が異常に高くなっています。もし、日銀が国債を買い続けなければ、国債の価格は暴落し、金利が急騰する可能性があります。 安倍政権は、日銀が政府の「子会社」だから、いくらでも国債を買い取らせればいいと主張していました。しかし、実際には、日銀が国債を買い続けることは、国債の価格を維持するために必要な措置であり、政府の都合で行っているわけではありません。 国債発行イコール通貨発行という俗説は、経済の基本を理解していない人がよく言うものです。この俗説を信じてしまうと、誤った経済政策を支持することになりかねません。

「金融と社会」質問と回答その1 (再掲)

問題提起:日本には巨額の対外純資産があるからかなり巨額の政府債務があっても大丈夫、という話は、額面通り受け取るべきではないのではないか?やはり財政収支と経常収支の双子の赤字」は避けるべきではないのか?つまり、フローで見る必要があるのではないか?ストックで見るならば、増税を前提とするのが筋だろう。  内閣府のペーパー(https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s2_6.html) によると、フローで見れば、経常収支の黒字が、政府部門の赤字をファイナンスしていることになりますが、経常収支の黒字が、対外純資産としてストック面で蓄積されていると考えられます。 この場合、もちろん、経常収支が赤字に基調的に転落すれば、フローで見た場合、政府部門の赤字をファイナンスするために、海外資本を呼び込む必要性に迫られ、それは今よりも高金利であることが要請されるので危険だ、という意見もあります。 ここで、フローで見れば確かにそうですが、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たすことはないのでしょうか? 仮に、そのような事態になった場合、具体的にどのようなスキームで、対外純資産を政府部門の赤字をファイナンスの用に供するのでしょうか? また、経常収支黒字の源泉である、企業部門の第一次所得収支についてですが、最近は、企業も資金を更なる海外投資、M&Aに投資するべく、資金を円ではなく、ドルで保有しているとされますが、それは、第一次所得収支に、円換算して勘定されているのでしょうか? (https://jp.reuters.com/article/japan-economy-idJPKCN1QP0DX)  ご質問ありがとうございます。まず印刷教材のこの部分はすべてフローについての議論です。内閣府のペーパーにもあるように、マクロ経済学などで登場するISバランス  (S-I) + (T-G) = NX 民間貯蓄超過   政府黒字  国際収支黒字(海外赤字) を念頭に、民間貯蓄超過の大幅プラスが、政府赤字のマイナスを相殺してもなお左辺がプラス、したがって右辺もプラス(海外マイナス)、という状態です。 近年コロナで政府赤字が大幅に増加しましたが、家計貯蓄も大幅増加して、2020、21年とも左辺はプラスを維持しています。  ご質問のなかばにあるストックの話は、たとえば銀行が保有していた米国債を売った資金で、新規に発行された日本国債を購入することをイメージされているのでしょうか。それが得だと銀行が判断すればそうするでしょうが、強制することはできず自動的にそうなるわけでもありません。  最後の第一次所得収支については、書かれているとおり、たとえば利子収入はドルで得られドルのまま持たれたり再投資されたりしますが、円換算して所得収支に繰り入れられています。 (以下 Google Bard より回答) はい、日本には巨額の対外純資産があります。これは、日本企業が海外で稼いだ利益を日本に持ち帰らず、海外で再投資しているためです。このため、日本は経常収支黒字を続けています。しかし、この経常収支黒字は、政府の財政赤字をファイナンスしているとも言えます。つまり、日本政府は、財政赤字を補てんするために、海外から資金を借り入れているのです。 この状況が続けば、日本は債務超過に陥る恐れがあります。そのため、財政収支と経常収支の「双子の赤字」を避けるために、増税や歳出削減などの財政健全化策を講じる必要があります。 一方、ストックとしての対外純資産は、仮に経常収支が赤字になった場合に、政府部門の赤字をファイナンスする役目を果たす可能性があります。例えば、政府が海外から資金を借り入れる必要が生じた場合、対外純資産を担保に借り入れを行うことができます。また、政府が国債を発行する際にも、対外純資産を担保にすることで、低金利で発行することができます。 ただし、対外純資産はあくまでストックであり、フローがなければ枯渇します。そのため、対外純資産を維持するためには、経常収支黒字を継続する必要があります。 まとめると、日本には巨額の対外純資産がありますが、この資産を維持するためには、財政健全化策を講じるとともに、経常収支黒字を継続する必要があります。

2024年1月1日月曜日

ライフプランニング

姉もどうやら マトモな 人間になったし、 俺も 仕上がってきたから、 今年こそ 高崎市役所に 応募するか、と 思っても、 正直 そこまで しなきゃいけないのか? という気になってしまう。 俺は そういう風に プログラミングされてない、 いや、言い方を変えれば、 俺は 自分自身を そういう風に プログラムしてない。 小林家の呪縛から 抜け出して、 充実した人生を 送るところまでは 考えたが、 その先のことまで 考えて 行動してない。 そんな事態 想定すらしていない。 高校生のときに 深刻なウツになったとき、 青写真と燃料は 調達したが、 それが達成された後の ことまで 考えてない。 でも、それって そんなに 不健康かな? プロテスタンティズムだって、 予定説ってやつで、 最後の審判で救われるか どうかは 神さま以外誰にも わからないし、既に 決まっていることだ、と 言ってるけど、でも 自堕落に生きるんじゃなくて、 精一杯 働いて富を蓄積しましょう、っていう 教義でしょ? 彼らはそういうメンタリティーで 富の蓄積を肯定してる わけじゃん。 俺は 現世で目標を自分自身に プログラミングしたけど、 彼らは 目標を死んだ後に 設定してるってだけの 違いじゃないか。 それが何か問題なのか? いわゆる 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」っていう マックス・ウェーバーの立てた 定説だけどさ、 あらためて やっぱり 説得力あると思うんだよね。 放送大学で アジア史とかいろいろ 勉強してて、 近世までアジアのほうが 優位に立ってたのに、 ヨーロッパが世界を支配した 力の源って、もちろん メンタリティーの問題だけじゃないけど、 やっぱりこういう モノの考え方の違いって 大きいと思う。

中年の特権

人間の 自我同一性ってのも、 過去が 地層のように 折り重なっているけど、 時として 褶曲が あったりして、 その度に 変わっていくもの なのかも知れない。 40数年生きてりゃ、 自分の人生を 統一的に 解釈すること自体が、 時として 難しくなる。 色んな解釈が あったほうが 健全だ。 どこまでも走り続ける 長距離トラックのように、 BGMを流しながら、 色んな 断片を思い起こしながら、 ああ、そんなことも あったね、と 思いながら なんとなく 走り続けるものなんだろう。

新年あけまして・・・天国旅行。

最悪のスタートだ・・・ 死にたくなる。 昔のことまで 思い出して。 プッチ神父にお願いして、 俺の 負の記憶を ディスク化して どこかに 保存しておいて 欲しい。 破壊活動したいけど、 良識ある おとなとして それは出来ない。 晴れがましさなんて これっぽっちもない。  https://www.youtube.com/watch?v=jhzLajLMm9A

妄想卒論その7 (再掲)

「ウォール街を占拠せよ」 を 合言葉に 米国で 反格差のデモが広がったのは 2011年。 怒りが新興国に伝播し、 米国では 富の集中がさらに進んだ。 米国の 所得10%の人々が得た 所得は 21年に全体の46%に達した。 40年で11ポイント高まり、 ...