2024年1月24日水曜日
文系ド真ん中。レポートネタ。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、を考察する。
芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、
キリスト教への関心があったことは疑いない。
その上で、
「蜘蛛の糸」を読み解くとき、
天上から地獄へと
救いの糸を垂らすのは
釈尊であるという設定であるが、
ここでは
キリスト教的神であると置き換えたい。
そのほうが構図が簡潔になるからである。
なぜなら、
カント哲学においては、人間は神に対して
アクセスできないが、
神は人間に対してアクセス
できると考えられているからである。
これを前提とした上で、
人間の倫理がいかに成り立ちうるかを
考えたとき、
2つの考え方が可能である。
1つ目は、神の意志や行為は人間には
計り知れないのだから、
人間がどんな行いをしても
神はそれを赦しもするし裁きもする、という
発想である。
2つ目は、やはりそうは言っても、
人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、
人間は神の意志や、その行為の意味を
感じたり考えたりすることが
可能である、という
発想である。
カント哲学においては、
人間の悟性では神の行為や意志を
計り知ることはできないが、
また神の存在を否定することも
不可能である、と
捉えていた。
しかし、これは
神がすべての事象を意のままに決定しうる、
という可能性を含意しており、
ある種の決定論に陥ってしまう。
デービッド・ヒュームの懐疑論は、
因果律を否定することにより、
この決定論に風穴を開けた。
ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。
なぜなら、
すべてが神によって決定されているわけではない以上、
人間が自らの悟性によって
自らの倫理を考える、という
「自由」を
手に入れたからである。
そのうえで、あらためて
「蜘蛛の糸」を
考察してみよう。
神はカンダタに対して
救いの可能性を示したが、
カンダタは
自分の利得のために
他人を犠牲にしたことによって、
神から見放される。
つまり、神から人間には
救いの可能性という点で
アクセスが可能なのだが、
人間(カンダタ)から
神に対しては
自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。
それはなにゆえなのだろうか?
カンダタが善なる行いを
しなかったからだろうか?
しかし、それでは
人間にとって
善とは何かを、人間(カンダタ)が
選択する余地はなく、
すべて神が決定していると
読めてしまう。
これが果たして人間にとって
「自由」といえるだろうか?
カンダタは、自分の救済の可能性のためには、
他人を犠牲にせざるを得なかったのである。
言い換えれば、自らの生命のためには
そうする他なかったのである。
ここから導き出されることは、
人間は「善き生」のためには、
みずからの生命さえも
犠牲にしなかればならない、という
アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。
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