芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を題材に、人間の行為における善とはなにか、を考察する。
芥川龍之介は、自殺の時点で枕元に聖書を置いていたことが知られており、
キリスト教への関心があったことは疑いない。
その上で、
「蜘蛛の糸」を読み解くとき、
天上から地獄へと
救いの糸を垂らすのは
釈尊であるという設定であるが、
ここでは
キリスト教的神であると置き換えたい。
そのほうが構図が簡潔になるからである。
なぜなら、
カント哲学においては、人間は神に対して
アクセスできないが、
神は人間に対してアクセス
できると考えられているからである。
これを前提とした上で、
人間の倫理がいかに成り立ちうるかを
考えたとき、
2つの考え方が可能である。
1つ目は、神の意志や行為は人間には
計り知れないのだから、
人間がどんな行いをしても
神はそれを赦しもするし裁きもする、という
発想である。
2つ目は、やはりそうは言っても、
人間と神とは完全に切り離された存在ではなく、
人間は神の意志や、その行為の意味を
感じたり考えたりすることが
可能である、という
発想である。
カント哲学においては、
人間の悟性では神の行為や意志を
計り知ることはできないが、
また神の存在を否定することも
不可能である、と
捉えていた。
しかし、これは
神がすべての事象を意のままに決定しうる、
という可能性を含意しており、
ある種の決定論に陥ってしまう。
デービッド・ヒュームの懐疑論は、
因果律を否定することにより、
この決定論に風穴を開けた。
ここでカント哲学は新たな可能性に開かれる。
なぜなら、
すべてが神によって決定されているわけではない以上、
人間が自らの悟性によって
自らの倫理を考える、という
「自由」を
手に入れたからである。
そのうえで、あらためて
「蜘蛛の糸」を
考察してみよう。
神はカンダタに対して
救いの可能性を示したが、
カンダタは
自分の利得のために
他人を犠牲にしたことによって、
神から見放される。
つまり、神から人間には
救いの可能性という点で
アクセスが可能なのだが、
人間(カンダタ)から
神に対しては
自らの救いの可能性を選択する余地がないのである。
それはなにゆえなのだろうか?
カンダタが善なる行いを
しなかったからだろうか?
しかし、それでは
人間にとって
善とは何かを、人間(カンダタ)が
選択する余地はなく、
すべて神が決定していると
読めてしまう。
これが果たして人間にとって
「自由」といえるだろうか?
カンダタは、自分の救済の可能性のためには、
他人を犠牲にせざるを得なかったのである。
言い換えれば、自らの生命のためには
そうする他なかったのである。
ここから導き出されることは、
人間は「善き生」のためには、
みずからの生命さえも
犠牲にしなかればならない、という
アリストテレス的な「善」の考え方であると考えられる。
1. 序論:『それから』に映し出される明治期の近代化 本稿は、夏目漱石の小説『それから』を題材に、日本の近代化がもたらした状況と、それが個人の経験に与えた影響について考察するものである。特に、経済的豊かさが生み出す「自家特有の世界」への耽溺と、それが最終的に経済の論理に絡め取られていく過程、そしてテオドール・W・アドルノが指摘する、社会の合理化と精神世界における非合理への慰めを求める人々の傾向を、作品を通して分析する。 日本の明治時代(1868-1912年)は、長きにわたる鎖国状態を経て、1853年の黒船来航を契機に世界と対峙し、驚くべき速度で西洋の制度や文化を取り入れ、「近代国家」への道を歩んだ画期的な時代である 。この時期には、鉄道、郵便局、小学校、電気、博物館、図書館、銀行、病院、ホテルといった現代の基盤となるインフラや制度が次々と整備された 。政府は「富国強兵」や「殖産興業」といった政策を推進し、工場、兵舎、鉄道駅舎などの建設を奨励した。また、廃藩置県や憲法制定といった統治制度の変更に伴い、官庁舎や裁判所、監獄などが建設され、教育制度の導入は学校や博物館の整備を促した 。 西洋化の影響は日常生活にも深く浸透した。住宅様式においては、外国人居留地を起点に西洋館が普及し、やがて庶民の住宅にも椅子式の生活スタイルが段階的に浸透した 。食文化においても、仏教の影響で長らく禁じられていた肉食が解禁され、西洋列強との競争意識から日本人の体格向上と体力増強が期待された 。洋食は都市部の富裕層を中心に広まり、カレーライスやオムライス、ハヤシライスといった日本独自の洋食が定着した 。大正ロマン期(1912-1926年)には、西洋文化と日本独自の文化が融合し、「モガ」や「モボ」と呼ばれる若者たちが洋装に身を包み、カフェで音楽や映画を楽しむ「自由でおしゃれな空気」が醸成された 。経済面では、明治後期から軽工業が発展し、日露戦争前後には鉄鋼や船舶などの重工業が急速に発展し、日本の近代化を加速させた 。第一次世界大戦期には工業生産が飛躍的に増大し、輸出が輸入を上回る好景気を享受した 。 『それから』(1909年発表)は、夏目漱石の「前期三部作」の二作目にあたり、急速な近代化が進む日本を背景に、個人の欲望と社会規範の...
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