2023年11月18日土曜日

教養のヘーゲル (再掲)

問われるべき問題は いかにしたら、このようにして発達した、 所有権のような 個人の権利の意識が、 社会全体への奉仕と一体になることで、 より理性的で自由な意識へと 陶冶されるかだ、とヘーゲルは考えた。 そして、権利と義務が衝突せず、 私的な利益と公的な利益が 一致するような 人間共同体が形成されるならば、 その共同体のメンバーの幸福を みずからの幸福と感じ、 法や制度に従うことは 自己の欲望の否定ではなく、 自己の理性的な本性の肯定であると 考えるような 市民が生まれると主張したのである。 国家こそ、 このような倫理的共同体における 最高次のものだとヘーゲルは考えた。( 放送大学「政治学へのいざない」211頁より)  ヘーゲルが、 国家と(市民)社会とを区別して 捉えたことが、 国家論の歴史において 画期的な意味を持つことである ということはすでに指摘した通りである。 その 国家と社会の分離の理由として、 ヘーゲルは、 市民社会には、国家のはたすような 真の普遍を支える能力がないから ということをあげる。 そこで、 市民社会の私的利害に対応する だけのものである 「契約」という概念によって、 国家の成立原理を説明する 「社会契約説」に 厳しい批判を浴びせることともなった。 しかし、それだけではないはずである。 というのも、 国家と市民社会の分離の把握ということは、 市民社会が、 相対的にではあっても 国家から独立した存在であることの 指摘でもあるはずだからである。 近代国家においては、 プラトンが掲げた 理想国家におけるのとは異なって、 国家が 個人の職業選択に干渉したりはしないし、 その他の個人の私生活に 干渉したりはしない。 同様に、 国家が 市場原理を廃絶あるいは抑圧する ようなこともない。 そのように、 市民社会が 自分独自の原則にしたがって存在し、 機能していることが 尊重されているということが、 近代における 個人の解放という観点から見て、 重要なことであるはずなのである。 それは、 ヘーゲル流の表現にしたがうならば、 一方では、 近代国家なり、近代社会なりが 「客観的必然性」によって 構成された体制であったとしても、 他方では、 個人の恣意や偶然を媒介として 成り立つにいたった体制 だからだということになる。 (p.103) (中略) 近代国家の原理は、 主観性の原理が みずからを 人格的特殊性の自立的極にまで 完成することを許すと同時に、 この主観性の原理を 実体的統一につれ戻し、 こうして主観性の原理そのもののうちに この統一を保持する という 驚嘆すべき 強さと深さをもつのである。【260節】 (中略) 国家が、 有機体として高度に分節化されるとともに、 組織化されているがゆえに、 個人の選択意志による 決定と行為が保障される。 個人は、 基本的には 自分勝手に自分の人生の方向を決め、 自分の利害関心にしたがって 活動することが許されている。 にもかかわらず、 このシステムのなかで 「実体的統一」へと連れ戻される。 それは強制によるものとは 異なったものであり、 あくまで個人は自己決定の自由を認められて、 恣意にしたがっているにもかかわらず、 知らず知らずのうちに 組織の原理にしたがってしまう という形を取るのである。 また、個人の自律的活動あればこそ、 社会組織の方も活性化され、 システムとして 満足に機能しうる。 こうして、 有機的組織化と個人の自由意志とは 相反するものであるどころか、 相互に補い合うものとされている。 それが、近代国家というものだというのである。 (p.104) 「教養のヘーゲル」佐藤康邦 三元社

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