2023年9月5日火曜日
大君のモナルキ (再掲)
以下
『世界の名著45 ブルクハルト』
(中央公論社 1966年)
所収「イタリア・ルネサンス文化」より。
歴代の教皇とホーエンシュタウフェン家との戦いは、
ついにイタリアを、
他の西欧諸国とは
もっとも重要な諸点において
異なるような、
一つの政治状態の中に取り残した。
フランス、スペイン、イギリスにおいては、
封建制度は、
その寿命が切れたのち、
必然的に
君主制の統一国家の中に
倒れるような性質のものであり、
ドイツにおいては、
それはすくなくとも
帝国の統一
を
外面的に保持する助けになったが、
イタリアは
その制度から
ほとんど完全に抜け出していた。
14世紀の皇帝たちは、
もっとも有利な場合でも、
もはや最高権者としてではなく、
既存の勢力の
首長や補強者に
なるかもしれない者
として迎えられ、
尊重されていた。
しかし教皇権は、
もろもろの道具立てや支柱
を
そなえているため、
将来起ころうとする
どんな統一でも
妨げるだけの力は
もっていたが、
みずからの統一を作り出すことはできなかった。
その両者のあいだには、
数々の政治的な形物
―もろもろの都市と専制君主―
が、一部はすでに存在し、
一部は新たに勃興したが、
その存在は
純然たる事実に基づいていた。
(*)それらにおいて、
近代のヨーロッパ的国家精神は、
はじめて自由に、
それ自身の衝動にゆだねられたように見える。
(p.64)
(*)においてブルクハルトは、
「支配者と、それに付随するもの
を
いっしょにして、
lo statoと呼ぶ。
そしてこの名称はやがて不当にも、
一つの領土全体を意味することになる。」
と注釈を付けている。
以下、
篠原一
『ヨーロッパの政治―歴史政治学試論』
(東京大学出版会1986年)
より。
しかし政治史的にみた場合、
16世紀が
中世の構造に与えた
最大のイムパクトは、
国家形成=中央機構という現象であろう。
この国家はのち、
市民革命の発生とともに
生まれた
国民国家と同一のものではなく、
国王を中心とした
中央機構の成立を
意味するにすぎないが、
中世の世界と比較した場合、
ともかく
国としてのアイデンティティが
成立した点で大きな意味をもっている。
では、
一般的にいって
それはどのような構造を有していたであろうか。
(p.31)
まず第一に、
そこでは国王が恒常的に
自己に従属する
官僚集団をもつようになった。
官僚を採用するためには
国王は
それだけの収入をもっていなければならないが、
しかし
ひとたび官僚制を導入すれば、
国家機構が成立することによって、
国民から効率的に租税を徴収する
ことができるのみでなく、
さらに16世紀のフランスのように、
国債を発行するだけの力をもちうるようになった。
第二に、
常設の軍隊が創設され、
国家が武力を独占した。
当時の軍隊は主として傭兵からなり、
この物理的強制力は、
農村の叛乱に対する
対抗力としての
国家の効用
を
具現化するものであったが、
同時にそれは、
国家機構を維持するための
租税の徴収のためにも
欠くことのできない存在であった。
第三に、
このようにして成立した国家は、
自己の正当性を主張するために、
そのイデオロギーを創出した。
(p.32)
丸山眞男は「日本の思想」(岩波新書)で以下のように書いている。
しかしながら
天皇制が
近代日本の思想的「機軸」として負った
役割は
単にいわゆる國體観念の教化
と
浸透という面に尽くされるのではない。
それは政治構造としても、
また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、
機構的側面を欠くことはできない。
そうして近代化が著しく目立つのは当然にこの側面である。
(・・・)
むしろ問題は
どこまでも制度における精神、制度をつくる精神が、
制度の具体的な作用のし方
と
どのように内面的に結びつき、
それが制度自体と制度にたいする
人々の考え方をどのように規定しているか、
という、
いわば日本国家の認識論的構造にある。
これに関し、
仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、つぎのように述べている。
「國體」が融通無碍だという言い方をすると、
観念的なもののように聞こえるが、
そうではなく、その観念に対応するように、
「経済・交通・教育・文化」の
各領域における「制度」も徐々に形成されていった。
「國體」観念をはっきり教義化しないので、
制度との対応関係も
最初のうちは
はっきりと分かりにくかったけれど、
国体明徴運動から国家総動員体制に向かう時期にはっきりしてきて、
目に見える効果をあげるようになった。
ということだ。
後期のフーコー(1926-84)に、
「統治性」という概念がある。
統治のための機構や制度が、
人々に具体的行動を取るよう指示したり、
禁止したりするだけでなく、
そうした操作を通して、
人々の振舞い方、考え方を規定し、
それを当たり前のことにしていく作用を意味する。
人々が制度によって規定された振舞い方を身に付けると、
今度はそれが新たな制度形成へとフィードバックしていくわけである。
(P.111~112ページより引用)
このように、
国家は、支配者とそれに付随するもの、
つまり国王と官僚制による
徴税のシステムとしてスタートした。
つまり、
国民は政府によって作られるのである。
大久保利通は、
天皇の勅命が天下万民ご尤もと思われてこそ勅命である、
という趣旨の言葉を述べたが、
小野修三先生は、
「大君のモナルキ」において次のように記す。
「大名同盟論」とは異なる「大君之モナルキ」が
どのような政治制度なのかは、
同書簡では説明されていないが、
同じ慶應2年に出版された
『西洋事情初篇巻之一』の備考の個所で
福沢は
「立君の政治に二様の区別あり」との説明を行っている。
すなわち、「立君独裁」と「立君定律」である。
後者は福沢も
「コンスティテューショナル・モナルキ」
とルビを振っているように、
今日言う立憲君主制のことであった。
それは
「国に二王なしと雖も
一定の国律ありて
君の権威を抑制する者」
であり、
「現今欧羅巴の諸国此制度
を
用ゆるもの多し」、と。
モナルキには立憲独裁の場合もあるわけだが、
独裁によって「文明開化」が進むとは考えられない以上、
福沢の言う「大君のモナルキ」とは、
当時の立君定律、
今日の立憲君主制のことだったと言えよう。
これは、
法治主義を前提とした政治制度であり、
封建契約の頂上に位置し、
「王命を以て国内に号令する」
大君であっても
憲法による拘束を受け、
その限りにおいて
人治主義
(大名同士カジリヤイ)
たる封建制度を打破するものであった。
立憲制においては、
地方行政が法に基づいて
運営されることが肝心である。
以下、一木喜徳郎・大森鐘一著『市町村制史稿』(明治40年)より。
地方村制は
当時帝国の状況において
行わるべき程度において
自治
(ゼルプストフェルワルツング)
と分権
(デツェントラリザチヲン)
の二原則を行わんとせるものにして
しかも
初めより
にわかに完備なる立法を望む
べからざるをもって
まずその端緒をなさんとするにあり
この二原則
を
実行せんとするには
その地方の共同団体なるものは
国家の分子にして
しかして自らを特別の組織を有し定限の職権を有し
一個人と同一の権利
すなわち法人たるの権を有し
且これが
理事者たる機関
を
存するものたらざるべからず
その機関は共同団体の組織
を
整理するところの法律に
依って生じ
その共同団体は
この機関によりて
国体自己の意思
を
発表し
且
施工し得るものなり
故に
財産を所有し
これを授受売買し
他人と契約して
権利を領得し義務を負担し
また
その区域内においては
主裁権を以て
自らこれを統括するものなり
要するに
共同団体なるものは
行政上便宜のために設けたる区画
にあらずして
国家と
雖も
これを侵し能わざる
ところの権力
を
有するものとす
然れども
一方より論するときは
共同団体は国家の隷属にして
その主裁権に服従し
国家を賛助して
その任務を
遂行せしめざるべからず
(p.34)
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