俺:漱石の孤独の論考を読ませていただき、なるほど、と感服いたしました。 しかし、しばらく経って考えてみると、漱石は、例えば「こころ」では、(漱石自身の写し身である)「先生」の孤独を描きながらも、鎌倉の海辺での出会いにおける「私」の呑気さの描写も、リアリティーがあります。 つまり、孤独を描いているのはもちろんのことなのですが、世間一般の呑気さを描くことも出来る。 しかし、世間一般の「呑気さ」を理解しながら、「孤独」を描写する、という行為は、単に「孤独」を感じ、描写するよりも、なお一層ツライことだと思われます。 森本先生:「先生」と「私」の対比ーーいわば〈閉じる人〉と〈開く人〉とでも評すれば良いでしょうか、「私」自身が回想手記の中でこのことには気づいているようですーー、特に末尾の「呑気さ」を理解しながら「孤独」を描写する辛さ、には唸らされました。 私の気持ちとしては、「孤独」それ自体というより、「孤独」を代償とせざるを得ない「個我」意識(「上」14章の「自由と独立と己れと充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わってわわなくてはならない」)の方を強調したいのですが、確かにその弊を知るが故に、「轍を踏むな」という言い方で、その生の道程を「私」へ開示するーーつまり、相対化ですね。 しかも、「呑気なー私」のポジションそれ自体は、「先生」ときっかり対峙し、向き合羽もの、というよりは、究極するところ、「先生」という存在の「受け取り手」の域を出ないわけです。 「先生」は「私」に対して、自分の生き方を相対化して乗り越えてゆくことを切望していますが、テクストは、あくまでそれを「先生」側からの「期待」として描くに止まり、「期待」が「私」へどのように反映されるか/され得るか、については案外、寡黙です。 実際、「私」の他者に対して〈開かれた〉在り方ーー小林くんのいう「呑気さ」は、まさに「世間」(的ものの見方)に対して融和的でもあり、ということは、ごく平らかに、「先生」の死後、あのホモソーシャルな世界へ帰還してゆきます。いったんは「奥さん・静」に対して「1:1ー個人 対 個人」として向き合いながら、そこに人妻の媚態を見出し、彼女を「先生・の・奥さん」へと送り返してしまう。つまり典型的な「ホモソーシャル」の成立。そして「中」で故郷と両親を回想する「私」は、故郷との永訣に個の成立を見ようとした「先生」とは対照的に、「先生」への崇敬故に「父」をないがしろにした、若い日に対する悔恨を語っています。 「明治の精神」から自由な、しかし、「明治の精神」が唯一、誇らかに歌い上げた「個我」(自由・独立・己れ)からは後退を示す、青年「私」。 漱石自身の弟子たち次世代に見ていたもの、と、どこか重なるような気がします。 まさに、漱石は、その限界と弊を知悉しながら、どこまでも「先生」なのでしょうね。 そんな「先生」を崇敬といたわりの相半ばするスタンスで回想しつつ「私」が綴る二人の交友と交情は、美しく抒情的で、私などは「下」の「遺書」ーー「先生」と「K」の息づまるような物語よりずっと愛着を感じるのですが、「私」的登場人物は、この『こころ』が最後ですね。 『道草』『明暗』ーー主人公たちは、もはや「個我」への自負もすり減った、孤独の影の濃い中年男性ですが、絶筆『明暗』で漱石が最後に挑んだのが、親友でも青年でもない、「妻」を前に〈開く〉ことは可能か、のテーマだったというのは、実に興味深い話だと、つくづく感じ入るところです。
1. 序論:『それから』に映し出される明治期の近代化 本稿は、夏目漱石の小説『それから』を題材に、日本の近代化がもたらした状況と、それが個人の経験に与えた影響について考察するものである。特に、経済的豊かさが生み出す「自家特有の世界」への耽溺と、それが最終的に経済の論理に絡め取られていく過程、そしてテオドール・W・アドルノが指摘する、社会の合理化と精神世界における非合理への慰めを求める人々の傾向を、作品を通して分析する。 日本の明治時代(1868-1912年)は、長きにわたる鎖国状態を経て、1853年の黒船来航を契機に世界と対峙し、驚くべき速度で西洋の制度や文化を取り入れ、「近代国家」への道を歩んだ画期的な時代である 。この時期には、鉄道、郵便局、小学校、電気、博物館、図書館、銀行、病院、ホテルといった現代の基盤となるインフラや制度が次々と整備された 。政府は「富国強兵」や「殖産興業」といった政策を推進し、工場、兵舎、鉄道駅舎などの建設を奨励した。また、廃藩置県や憲法制定といった統治制度の変更に伴い、官庁舎や裁判所、監獄などが建設され、教育制度の導入は学校や博物館の整備を促した 。 西洋化の影響は日常生活にも深く浸透した。住宅様式においては、外国人居留地を起点に西洋館が普及し、やがて庶民の住宅にも椅子式の生活スタイルが段階的に浸透した 。食文化においても、仏教の影響で長らく禁じられていた肉食が解禁され、西洋列強との競争意識から日本人の体格向上と体力増強が期待された 。洋食は都市部の富裕層を中心に広まり、カレーライスやオムライス、ハヤシライスといった日本独自の洋食が定着した 。大正ロマン期(1912-1926年)には、西洋文化と日本独自の文化が融合し、「モガ」や「モボ」と呼ばれる若者たちが洋装に身を包み、カフェで音楽や映画を楽しむ「自由でおしゃれな空気」が醸成された 。経済面では、明治後期から軽工業が発展し、日露戦争前後には鉄鋼や船舶などの重工業が急速に発展し、日本の近代化を加速させた 。第一次世界大戦期には工業生産が飛躍的に増大し、輸出が輸入を上回る好景気を享受した 。 『それから』(1909年発表)は、夏目漱石の「前期三部作」の二作目にあたり、急速な近代化が進む日本を背景に、個人の欲望と社会規範の...
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