2023年7月27日木曜日

フーコーと統治 (再掲)

丸山眞男は 「日本の思想」 (岩波新書) で以下のように書いている。 しかしながら 天皇制が 近代日本の思想的 「機軸」 として負った役割は 単に いわゆる國體観念の教化と 浸透という面に 尽くされるのではない。 それは政治構造としても、 また経済・交通・教育・文化を 包含する 社会体制としても、 機構的側面を欠くことはできない。 そうして 近代化が著しく目立つのは 当然にこの側面である。 (・・・) むしろ 問題はどこまでも 制度における精神、制度を つくる精神が、 制度の具体的な 作用のし方と どのように内面的に結びつき、 それが制度自体と制度に たいする人々の考え方を どのように規定しているか、 という、 いわば日本国家の 認識論的構造にある。 これに関し、仲正昌樹は「日本の思想講義」(作品社)において、 つぎのように述べている。 「國體」が 融通無碍だという 言い方をすると、 観念的なもののように 聞こえるが、 そうではなく、 その観念に対応するように、 「経済・交通・教育・文化」の 各領域における 「制度」も 徐々に形成されていった。 「國體」観念を はっきり教義化しないので、 制度との対応関係も 最初のうちは はっきりと 分かりにくかったけど、 国体明徴運動から 国家総動員体制に向かう時期に はっきりしてきて、 目に見える効果を あげるようになった。 ということだ。 後期のフーコー(1926-84)に、 「統治性」という概念がある。 統治のための 機構や制度が、 人々に具体的行動を 取るよう指示したり、 禁止したりするだけでなく、 そうした操作を通して、 人々の振舞い方、 考え方を規定し、 それを当たり前のことに していく作用を 意味する。 人々が 制度によって規定された 振舞い方を 身に付けると、 今度は それが新たな制度形成へと フィードバックしていく わけである。 (P.111~112ページより引用)

0 件のコメント:

コメントを投稿

曽根崎心中 (再掲)

愛という感情が日本の歴史上にも古くから存在していたことは、源氏物語にも書かれていることで、わかる。 しかし、日本の宗教観念には、愛を裏打ちするものがない。 改行(節目節目で改行がある方が効果的。以下、同じ。) 曾根崎心中は、男が女郎をカネで身受けしようとするが、心中する、という悲...