2023年6月1日木曜日
漱石の「個人主義」
俺:「レポート予備」に関する一節、
漱石の個人主義は、 まるで 原子核のように 硬い殻に閉じこもり、 独り 思考実験の檻に 苦しめられているように感じられる。 『それから』における、 代助が 百合の花にむせぶシーンが 象徴するように、 主観と客観の区別から 逃れ、そこに 純粋で平和な「自然」を 見出そうとしながら、 やはり 個人主義を手放せない 漱石は、 孤独な近代人の塑形であるようにも見える。 ジュリア・クリステヴァが論じたように、 近代は 主観と客観の区別の間にある abjectを 抑圧し、ないものとして 見做した社会なのかもしれない。
ですが、確かに、後期三部作だけ読むとそのような印象を受けますが、先生の講義を拝聴し、漱石は個人主義を追求するあまり、こじらせてそんな作風になってしまっただけで、決して女性の心情を無視しているわけでもないし、理解できないわけでもないのではないか、と思い、レポートには認めませんでした。
ただ、後期三部作と、それ以前、また「明暗」との比較対象、関連に関しては興味深いところです。
先生:漱石の「個人」は、『それから』から『門』へと、本能としての「自然」の存在が突きつけられてくるに及んで、確かに後期三部作では、孤独な自閉的様相をどんどん深めてゆきますね。せっかく『門』では、代助の死を以て〈知識人の馴れの果て〉的な「腰弁」宗助を造型しながら、再び「知」を振りかざす高騰的な男性主人公たちが登場してきます。
これに破れが生じるのが、やはり『こころ』における「先生」の死ーー当初よりこれを主題にしながら、「私」なる次世代と「先生」との交流を描いている内に、話がどんどん展開してしまって本題の「先生」へなかなか辿り着かないという事態で、ここから再び卑小ともいえる小市民的主人公が近代社会の日常へと投げ込まれる『道草』『明暗』が生まれてくるのでしょう。
このように考えれば、孤独な個の廃棄までを追及する後期三部作が、そのままホモソーシャル(まさに「男の絆」が構成する「社会的関係」)の分析と悲劇に費やされているのも頷けるような気がします。
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